眠姫
あおい、あおい、景色が広がる。
太陽パネルの付いた柱に照らされ、まるいアーチの中を、青いチューリップが段々畑になって咲いていた。
円形上の四方向の合間に、水が流れている。
上から下へ音もなく、暗い中を水が流れ、一番底辺の丸井円形上の床下まで流れていた。
白雪は水の流れに沿い、一番下まで降りると、帽子とサングラスを取り、当たりを見上げた。
一面に咲く青いチューリップ畑と、最下部中央に置かれた黒い何か。
白雪はここに来てやっと息を抜ける気がした。
ここでは、自分を隠すための帽子も、サングラスも必要なく、本来の自分でいられるような気がするからだ。
上着も脱いだ白雪は、紺のノースリーブと、黒いタイトなパンツという身軽な姿。
白雪の白髪短髪の髪が小さく揺れる。
普段両目が隠れる程伸ばした前髪を、白雪はかきあげた。
はっきりと見開かれた、凛とした目が現れる。
白雪は手荷物を片手に、中央の黒い何かに大股で歩み寄った。
それは、黒いビロードの布の敷かれた箱のような何かだった。
白雪はその箱のような何かの横に片膝を着き、大切そうにその表面を撫でた。
そして上部にキスをし、その上で肘を着くと、両手を握り、目を閉じた。
何を祈っているんだろうか?
何を感じているんだろうか?
その白雪の後ろ姿を、こっそり柱の影から見ていた梅吉達は、言葉も出い。
暫くして、白雪は徐に立ち上がり、呼吸を整えると、大きく手を広げ、歌を歌い始めた。
細く、引き締まった無駄のない腕は、大鷲の翼のようだ。
古代の円形闘技場のように、下から上へ、円が上へ、上へと膨らんでいく壁の中、白雪の凛とした歌声が、螺旋を描きながら、上昇し、ふるえるよううに響いた。
その声には 祈りが籠っていて、梅吉達がPVで聴いた白雪の歌声とは何処か違っていた。
梅吉達は階段の最上部の柱の影に隠れ、その歌に聞き入っていた。
三人から白雪の顔は見えないが、しっかり心を奪われていた。
今、白雪はどんな顔をしているんだろうと、梅吉たちは身を屈めたまま、前のめりになった。
しかし、その時。
「うわっ!?」
武仁と末恵が前のめりになった事で、二人の前でつま先で屈んでいた梅吉が、躓いて階段を数段転げ落ちた。
「誰かいるの?」
白雪に気が付かれてしまった。
「お、おれ…。」
梅吉は頭を掻きながら立ち上がろうとした。
「何だ、あんたね。」
白雪は梅吉が自分が誰か答えきる前に、そう言って背を向けた。
また黒い箱のような何かの上に腰かけ、それを眺めている。
白雪の姿を見たまま、すっとんきょな顔をする梅吉。
どうやら、白雪は自分と誰かを間違えているようだ。
チューリップの段々畑部分は柱のライトに照らされ、煌々と輝いているが、そうでな部分は、深い暗闇で覆われている。
こんな秘密の地下みたいな場所、関係者以外そうそう入って来ないだろうし、顔見知りの誰かと勘違いしても、勘違いされても可笑しくは無いだろう。
(ラッキー)
梅吉は心で呟きながら、階段の一番下まで歩み出た。
そんなやたら肝の座った梅吉の様子を、柱の影から見守りながら、末恵と武仁は顔を合わせ、呆れた顔をする。
梅吉は一番下まで降りたものの、どうしたら良いか分からず、影の中でもじもじした。
ふいに、白雪が梅吉の方へ振り向いた。
「何よ?」
「お姉さんは、こんなところで何をしているの?」
「何って、妹に会いに来ていたんじゃない。」
白雪は腰かけたまま、腕を組んだ。
「あんたこそ、こんなところで何してんのよ、他の七匹はどうしたの?」
(七匹?)
「うん…、今七匹は散歩中。」
梅吉は勿論、何の事だかさっぱりわからなかったが、ここは適当に話しを合わせておくことにした。
「白雪の姿が見えたから、ついてきちゃった。」
梅吉は歯を出しながら笑った。
言われて面食らった様子の白雪。
(嘘を誤魔化すには、少しの真実を混ぜ合わせる事が秘訣。)
「私の歌なんか、何時も聞いてるじゃない、変な子ね。」
白雪は抑揚の無い声で言うので、照れているのか、白けているのか、いまいちよくわからない。
他人の嘘が見抜ける梅吉から見て、現時点で彼女は、自分に対して何かしらの嘘はついていない。
それは、自分をどっかの誰かと勘違いしているからだろう。
と言う事は、梅吉と背格好の似た誰かと言う事になる。
この暗がりでの人違いなので、どの程度似通った人物かは定かでないが。
「あんたも、随分大きくなったわよね。まるで普通の人間みたい。」
「え?お、おう。」
梅吉には勿論何の事だかさっぱり分からなかった。
「この前、青い妖精がニュースになった後からかな、あんたよく喋るようになった。」
「そうかな?」
「自我が芽生えたみたい。」
白雪が立ち上がり、梅吉に近づこうとした。
「き、っきゃあ…!」
白雪が梅吉に近づこうとした時、階段の一番上で隠れていた末恵が転んで床に手を付いた。
しかし、それは最初梅吉と一緒に隠れていた場所でなく、そこから90度離れた場所だった。
「痛たた…。」
「唱川さん、大丈夫?」
「えへへ、膝立ちが辛くなっちゃって、転んじゃった。」
転んだ末恵の肩に武仁が手を差し伸べた。
「うん、平気ありがとう。」
末恵は武仁が手を差し伸べると、直ぐに立ち上がった。
「あなたたち、誰?」
白雪のが低い声で末恵に向って声を放った。
末恵が前に歩み出て、花壇と花壇の合間に立った。
武仁もその後に続く。
二人の姿が、ライトアップされた青いチューリップと一緒に露になった。
「ご、ごめんなさい、もしかして歌手の白雪さんかと思って後を追ったら、こんなとこに来ちゃって…」
末恵はその場で深々と頭を下げた。
武仁も続いて深々と頭を下げる。
「ごめんなさい。」
白雪は口ごもった。
素直に頭を下げる二人を見上げながら、何か考えあぐねていた。
「いいわ、ここの事は誰にも言ってはいけない決まりなのよ。言ったら罰が当たるからね?」
間々あって、白雪が口を開いた。
「何で罰が当たるんですか?」
末恵は思わず聞き返してしまった。
「ここは、礼拝堂なの、生まれなかった命達の。ここには生まれなかった命の分、青いチューリップが植えてある。」
「チューリップの花言葉が「思いやり」だからですか?」
また末恵が白雪に尋ねた。
白雪は末恵の顔を一瞥した。
「ご、ごめんなさい。」
また頭を下げる末恵。
勝手に忍び込んで来たくせに、ずけずけ質問してしまったと、反省する。
「…そうよ、思いやりがあるなら、しっかり眠らせてあげて。」
白雪は末恵がしょんぼり頭を下げるのを見ると、顔をさげてから、そう言った。
そこには真摯な願いがあるように思った。
「わかりました。」
末恵が答えた。
「…僕も、決してここが公表されるような事はしません。」
武仁も遠慮がちに後から続いて答えた。
「ふっ、あなた大人びてるわね。」
白雪は顔だけ二人に向けて微笑んだ。
そして、上着を持って、階段を俊足で駆け上り、末恵の目の前に立った。
一陣の風が吹き抜けるように、一瞬で自分の目の前に立った白雪に、末恵はあわあわしてしまう。
「これあげる。」
白雪は自分の上着から薄い財布を取り出すと、中からチケットを4枚取り出し、末恵に差し出した。
「わぁ、ありがとうございます。」
末恵は笑顔でチケットを受け取ると、それを自分の胸に宛がい心底嬉しそうに微笑んだ。
その屈託のない笑顔に白雪の口元も緩む。
武仁もめっぽう単純な末恵に苦笑いしている。
白雪は思わず、口元を緩めた。
その顔は普通の女の子の、優しい笑顔だった。
「あんた、二人を送ってあげなさいよ。」
白雪が梅吉にぶっきら棒に言った。
「やだぁ、メンドクサイよ。どうやって送れっていうの?」
梅吉はちょっとワザとらしく駄々をこねた。
「全く、本当に自我が目覚めて来てるのね。普通にエレベーターの一階ボタンを押せば、戻れるでしょ?」
白雪は今度は本当に呆れた顔で梅吉に言った。
(本当に、俺を誰と勘違いしてるんだろ?)
梅吉は思いながら、暗がりの中白雪を見返していた。
「わかったよ。行けば良いんだろ?行けば。」
梅吉はそう言いながら、影の中白雪に背中を向けると、階段をさっさと駆け上り、その先へかけていった。
「お前ら、ついて来いよ!」
梅吉の後を、末恵と武仁は追いかけて行った。
「ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」
末恵と武仁が階段上部に着くと、一度立ち止まり、白雪に手をふった。
「エレベーターの中のモノ、外に出しといてよね!」
白雪は誰かと間違えているだろう、梅吉の背中に声をかけた。
「はい!はい!はい!はい!」
走りながら梅吉は答えた。
歯を食いしばり、両腕を大きく降っていた。
(急げ!急げ!)
梅吉は急いでエレベーターの処まで走ると、何度も一階のボタンを乱暴に叩いた。
「そんなに叩くと壊れちゃうよ。」
梅吉の耳元に屈んで末恵がぼそぼそ声で注意した。
「うっせ!」
突然不意を衝かれ、耳を真赤にする梅吉。
末恵は口を曲げて黙った。
エレベーターが開くと、梅吉は急いで中のカートをエレベーターの外へ出そうとした。
しかし、カートは動かすと、からからからから、ガラスがぶつかり合う音がし、慌てt梅吉は立ち止まった。
その梅吉の両脇に末恵と武仁が立ち、カートの持ち手に並んで手をかけた。
無事、丁寧にカートをエレベーターの脇に置き、三人はエレベーターに飛び乗り、自動ドアが閉じると同時に床に大きく息を吐いた。
「「「はああああああああ~。」」」
エレベーターは通常運航で上に上がっていく。
「末恵大丈び?」
「唱川さん大丈び?」
梅吉と武仁が末恵に言った。
末恵は二人の顔を睨み付けた。
睨み付けてはいるが半分顔が笑っている。
エレベーターの中に笑い声が響いた。
「末恵、さっきわざと転んだだろ?」
エレベーターの外へ出ると、梅吉が末恵に振り返り言った。
「だって、ウメちゃんの嘘がバレちゃうと思ったから。」
もじもじする末恵。
「ねぇ、それよりこれ!三人で行こうね!」
末恵は嬉々としてチケットを掲げた。
末恵の図太さに肩を落とし、半笑いになる梅吉と武仁。
「それより、梅吉あんな嘘ついて大丈夫だったのか?」
武仁が手のひらを広げ、梅吉に尋ねた。
「嘘って言うか、あっちが先に勘違いしてたんだけどな。」
悪びれない梅吉に武仁が呆れた。
「誰と、勘違いしていたんだろうね。」
末恵が、口元に拳を宛がいながら言う。
三人は黙り込んだ。
そうこうしているうちにエレベーターは一階に着いた。
エレベーターが開くと、もう、既に外は暗くなり、薄暗い木製の院内が、更に暗くなっていた。
エレベーターは三人が降りると、さっさと四階へ向ってしまった。
昼間より暗闇が重い。
限られた照明器具の一つが、低い天井の下、宙で異音を発していた。
「さっさと帰ろうぜ。」
梅吉の言葉に末恵と武仁が無言で何度も頷いた。
三人は足早にその場を後にし、受付に向った。
「まぁ、でもチケット貰えたし、生の歌声も聞けて、すっごいラッキーだったね。」
「お前って、ホント呑気だよな…。」
朗らかに笑う末恵に、梅吉が呆れた。
「まぁ、そこが唱川さんの良いとこだよね。」
武仁が二人の間に入り、取りなした。
「ふん」
梅吉は実は末恵が顔を出した瞬間、心底冷や冷やしていた。
それはもう、心臓が口から飛び出るかと思うくらい、彼女に何かあったらどうすれば良いのかと、冷や汗を書いていたのだ。
そんな事をつゆ程も知らず、末恵は武仁と仲良く並び立ち、自分を助け、ちゃっかり白雪にチケットまで貰ってしまったのだ。
そんな彼女の図太さが恨めしい梅吉だった。
感謝の言葉を言う代わりに、恨み言を言ってしまう、そんな思春期な梅吉だった。
一方、円形上の礼拝堂に白雪はまだいた。
今朝あった事を腰かけた、黒い箱のような何かに向って話し終えると、階段を上り、エレベーターの前まで歩いた。
そして梅吉達が外に出したカートに手をかけようとした。
調度その時、エレベーターが着地音と共に開いた。
中から白雪と同じような、小さな黒づくめの人物が現れた。
背はいささか低く、150センチくらいだろうか。
そして、夏だと言うのに、大きな黒いジャンパーを羽織っている。
Sサイズの人がLLサイズの服を来ているみたいになっている。
「ああ、戻って来たのね。」
白雪がその人物に声をかけた。
「…うん。」
間々あって相手は答えた。
「良かった、一人じゃ大変だもの。」
そう言うと、白雪はカートをゆっくり、階段の端に向って押した。
その横に、小さな黒づくめの人物が並び立つ。
二人はカートをエレベーターから一番遠い柱の横に着けると、上に被せた布地を取り、乗せられた簡易ベットを退かせた。
カートの上にはガラス瓶が三段積み重なっていた。
中にはホルマリン漬けの胎児が入っていた。
白雪たちはその瓶を持って各々花壇の前に座り込むと、瓶の中身を丁寧に両手で救い出し、青いチューリップの花弁の中へ入れた。
胎児を青いチューリップに入れ、数秒すると、チューリップが信号のように点滅し、そして何事も無かったように元に戻った。
白雪と、小さな黒づくめの人物は、階段の中段の花壇でその作業を行った。
右から左へ、一つづつ丁寧に、その作業を行った。
全ての胎児を入れ終わると、タオルで手を拭きながら白雪は喋り始めた。
「もう、大分空きのチューリップが無くなったね。」
「…今、生れてくる子より、多いらしいから。」
「そうなんだ。」
白雪はそれを聞いて小さく俯いた。
「…ごめん。」
小さな黒づくめの人物は白雪の顔を見て、はっとし、謝った。
「はは、何であんたが謝んの?」
「…。」
「本当に、自我が育ってきてるね。」
「そうかな?」
「そうだよ。」
「そっか」
二人の笑い声が礼拝堂に響いた。
「それより、こんな処でくらいその上着脱いだら。」
白雪の言葉に一瞬躊躇したものの、言われた相手は上着を脱いだ。
白雪の前に立っていた少年は、まだ十代後半と言ったところ。
白雪は相変らず普段の無表情だったが、その顔をじっくり正面から見ると、彼の頭を優しく撫でた。
そして、何の感慨も無さげに、さっさと階段を駆け降りた。
そして中央の黒い箱のような物に近づくと、クロのビロードの布を勢いよく剥がした。
そこには、ガラスの棺があった。
中には真っ白なプリーツの袖付きのマーメイドラインのドレスを身に纏った、女性が横たわっている。
ガラスの中の女性は、白雪と同じ顔をしていた。
髪は黒髪で長髪だが、その顔かたちは瓜二つ。
「輝夜」
白雪は棺の中で眠る彼女に呼びかけた。
輝夜は白雪の双子の妹だ。
”ある事故”で痛手を負い、ずっとこの地下で眠っている。
「もう少しで、準備が整いそうだよ。」
白雪は妹の寝顔の頬に手を添えるように、ガラスの棺の蓋に手を這わす。
「また、新入りの子が入ったから、一緒に子守唄を歌ってあげようね。」
白雪はそう言うと、輝夜が幼い頃好きだった歌を歌い始めた。
白雪は歌いながら、輝夜と一緒に『プリンセス事務所』に訪れた日の事を思い起こしていた。
今あの頃の事を思い起こしても、本当はどうすれば良かったのか、本当はどうすれば正しかったのかというのは、白雪には分からない。
白雪と輝夜の二人は父子家庭に育った。
物心つくと、もう母親はいなかった。
父は何時も朝早くに仕事に出て、夜遅くに帰って来た。
食事は買い置きのセール品シールの付いた、お弁当だった。
生活費は何時も適当に渡されていた。
祖父母というものにも、親戚というものにもあった事が無かった。
輝夜と白雪は歌うのが好きだった。
昔、父が若い頃使ってたであろうギターを白雪が何時の間にか使える様になった。
二人が年頃になると、父の友人だという男たちが、たまの夜中に遊びに来るようになった。
ある日、中学から白雪と輝夜が帰ると、男たちが自分達の家の前にたむろしているのを見た。
輝夜は意を決し、白雪に言った。
「逃げよう」
こうして二人は、財布を空にして、地方から上京し、『プリンセス事務所』へ来たのだった。
『プリンセス事務所』が若手育成の為に、寮の費用やレッスン費を無料にしている事を、以前にテレビで知っていたからだ。
勿論、その『プリンセス事務所』が実際はどういう場所なのかは、二人は全く知らなかった。
白雪は過去を思い起こしながら、この世の理不尽さを呪った。
理不尽は何処向うだろうか?
理不尽さから生れた邪気は何処へ行くのだろうか?
誰も知らない無の空間へ行くのだろうか?
投げ捨てられた空き缶みたいに、吐き捨てられた罵倒は、見えない何処かへ行って消えてしまうのだろうか?
決してそうでは無いだろう。と、白雪は思った。
理不尽さや、誰かが発した罵倒は、より立場の弱いモノへ、仕返しのする事のない優しい存在へ向う。
それが当たり前だという人もいる。
その人がそういうキャラクターだからと、その人が理不尽な目に合う事を、あたかも社会の理のように捉えている。
誰もがそこに見て見ぬふりをする。
そうやって白雪の双子の輝夜も無視され続け、存在を消されていった。
少なくとも、白雪はそう考えていた。
歌い終わると、白雪は大きく息を吐いた。
「結局、大飢饉や戦争や、大きな天災が世界を襲わない限り、世界は変わらないんだよ。」
独り言というには辛辣な、誰かに語ったとするには独りよがりな、そんな言葉を吐いた。
一方で、白雪がそうこう地下で何かをあれこれしてるうちに、梅吉と武仁と末恵の三人は、病院の受付を通り、既に最寄駅に辿り着いていた。。
病院最寄りの賀屋ヶ谷駅には『がやがやモルジアナ商店街』がある。
沢山のお店が、立ち並び、何時でもがやがや賑わっている賀屋ヶ谷。
梅吉達の住まう七奈区に隣接した、並々区にある庶民の町だ。
モルジアナ商店街は、数十メートルの高い屋根に囲われ、雨の日も傘無しでお買い物が可能。
七夕祭りでつくられた大きな張りぼてが、商店街の上空に吊るされている。
それらは、良く知られるアニメや絵本のキャラクターだったり、動物や時にはお酒の瓶だったりした。
どれも、見上げて笑顔になれる。
「俺、こんなん始めてみた!」
「良かったね!ウメちゃん!」
「タケは見た事あったか?」
梅吉と、末恵が武仁の顔を見た。
張りぼてを見上げた武仁のその顔には、喜びよりも、悲しみが見えた。
武仁の顔を見つめたまま、押し黙る二人。
武仁は幼い頃に母と二人で、賀屋ヶ谷駅の七夕祭りに来た事があったのだ。
武仁は母にひよこ柄の浴衣を着せてもらった。
母も白地に紫陽花の絵の入った浴衣を来ていた。
母が自分に綿あめを買ってくれた時お店の人が「美人なお母さんで良いね!」と、誉めてくれたのを、今でも覚えている。母は手に頬を当てて、嬉しそうに、恥ずかしそうに微笑んでいた。
武仁の思いを知る由もなく、多くの人が行き交い、絶え間なく話し声がする。
がやがや、がやがやと世話しない。
しかし、どこも活気に満ちて見える。
大きな商店街の屋根の下、小さな子どもに、学生、自転車を手押しする主婦や、店前に立つおじさん。談話するマダムたち。仕事帰りのサラリーマン、てんでばらばらな人々が、商店街の活気を一つにしていた。
苦しみも、悲しみも、この世話しない雑踏の中にかき消されて、無かったことに出来そうだ。
武仁はこういう賑やかな場所に包まれていると、先刻見た武仁の母の冷酷さも、一時的なもののように思るのだった。
(今日の事を、手放してしまう事は出来ないだろうか?)
武仁は自分の中で自分に問いかけた。
抱きかかえて行くには思い荷物だ。
捨ててしまえれば良いのにと、武仁本人んも思う。
しかし、あった事は、なかった事には出来ない。
「行くぞ。」
張りぼてを見上げたままの武仁に梅吉が声をかけた。
武仁は優しい。それだけでなく強い。
だけど、それだけでは幸せになれないようだ。
それをよくわかっていて、どうしてこうして、やり切れない気持ちのまま、梅吉は先頭を歩き、人ごみを大股で突っ切って行った。