白雪姫
梅吉の部屋で簡易テーブルを囲み、三人はケーキを食べた。
狭いわけでも無いが、広いわけでも無いので、肘を突き合いながら、フォークを持つことになる。
その度に、口にケーキを含んだまま、三人は互いに目を合わせ、クスクス笑い合った。
ケーキを食べ終わると、お皿とカップを重ね除け、梅吉のノートパソコンを開き、三人で白雪のPVを見出した。
二人より数センチ背が低い梅吉を、真ん中に挟んで、末恵と武仁がパソコンの画面を覗いた。
両側から肩を肩で押され、身を縮める梅吉。
白雪はPVの中で、白いエレキギターを片手に一人で歌っていた。
歌っているが、歌声の音量は小さく編集されていた。
白雪が画面の中で立ち止まる。
すると、解説が渋めの男性の声で流れた。
―白雪は一年前ほどからブレイクしている、十代二十代の若者に人気のアーティストだ。
「俺は知らなかったけどな。」
解説にちゃちゃを入れる梅吉の腕を、静かにしてと、末恵が肘で突いた。
―その透き通るような歌声と、切なくもクールで凛とした、孤高の狼を思わせる歌声が、個々の心に響く。
彼女の声は『ホワイトボイス』と言う、特殊な”ゆらぎ”を持っている。
その歌声のゆらぎは、特殊なリラックス効果を放っている。
繊細で柔らかな彼女の歌声に、聞いた人間は無抵抗なほどリラックスした状態になるのだ。
「報道陣の人たちは、本当に無抵抗になっていたけどね。」
今度は梅吉が自分の肘で、喋り出した末恵の腕を突いた。
間々あって、肘で突き合う二人。
武仁は二人を直視しないものの、目を窄めた。
解説が終ると、白雪の歌声とメロディーの音量が、徐々に上がって来た。
それに気が付いた、梅吉も末恵も突き合うのを止め、両膝に両手をついて、画面の中を凝視した。
深い雪の森の中を、白雪がギター片手に彷徨っていた。
「寒そう」
「今時期見ると、涼しくて調度いいね。」
梅吉の端的な意見に、結女子がフォローを入れた。
白雪の声は、景色の白さに連動し、透き通るような、凛とした声だった。
しかたないとか、そういうものとか
繰り返される物語に
何時も違和感を感じてる
語られないその中に
何だか何かを感じるから
破り捨てたページみたいに
決して消してはしまえない
そこにあったと言う何かを
どんなに丁寧に破ったとして
どんなに知らん顔をしたとして
決して消してはしまえない
確かに残る違和感を
ねぇ、私だけなの?
違和感を感じたままじゃ
そのままじゃいられない
そんな我儘は私だけなの?
誰かのために生きてみたいけど
自分のためにしか生きられない
だけども人のためとかいて
偽と読むと豪語する学者を
擁護したくはないの
私が自由に話せるのは歌の中でだけ
だからずっと一人歌い続けてる
誰の共感も得られずに
その寒さに凍え、呼吸すら出来ずに
耐えきれず、朽ち果てるまで
PVの映像は、最後に白雪が歩いた雪の上の足跡に、更に雪が積り、残像さへ消えていくという、何とも物悲しいものだった。
「何かクールって言うより、寂しいな。」
「そう綺麗じゃない?」
梅吉の言葉に、また末恵が意見を被せた。
「俺は何か変な感じだ。」
梅吉はまた端的に言う。
「どうして?」
「どうしても。」
「んん~。」
二人のやり取りを聞いていた武仁が、急に声を上げた。
こめかみに手を当て、目を閉じている。
二人の視線に顔を上げ喋り出した。
「梅吉は多分きっと、PVの解説と、自分の感じた白雪さんの印象が違っていて、ちぐはぐな違和感を受けたんじゃないかな?歌の中の寂しさや切なさが、本人の本質と、少し異なっていて、いびつに美化されてるようで、違和感をきっと、感じたんじゃかな?」
「加藤君は哲学者見たいな話し方をするんだね。」
末恵が率直に驚いた。
「よくわかん無いけど、タケの言った感じだと思う。」
「いや、分かんないのに、思うんかい。」
末恵は梅吉の頭にチョップした。
「それで、どうしてテレビに彼女が映っていて、二人は驚いたの?」
話しが脇道にそれても、しっかり本題に戻る事を忘れない、しっかりものの武仁。
「正確には映っていたからじゃないんだ。白雪さんがね、「どいてください」って言った、直後に報道陣の人たち、本当にどいたでしょ?」
武仁は首を縦に振った。
しかし、末恵はそこまで説明して、急に恥ずかしがって唇を窄めてしまう。
「その時、”気”が俺と末恵には見えたんだ。青白い霧みたいなヤツだった。普通の人には見えないよ。あれは、実像の無い、霊的なものだから。」
二人に挟まれていた梅吉が、末恵に代わって口を開いた。
末恵が梅吉の横でおろおろしていた。
末恵は霊的なモノが、分かる人、分からない人の予測を立てることが出来、その予測は、ほぼほぼ9割当たっている。
頑固に隠しでもしない限り、末恵が霊的に特異なものを見逃す事は無い。
その末恵から見て、武仁は霊的な面では、ごく一般的な人間だった。
「加藤君に話しちゃって良いの?」
両拳を胸にあてがいながら、ぼそぼそと小さな声で、末恵が梅吉の耳元で言った。
(そんな小声だしたって、この距離じゃ何言ってるか分かんだろうが。)
梅吉は末恵の阿保な行動に、眉毛と瞼が下がる。
「大丈夫だよ。コイツ、そういう力は無いけど、変な化け物と関わっちゃったから。」
梅吉が右側に振り向いて武仁の顔を見ると、武仁は苦笑いし、首を縦に振った。
「ふーーん…。」
末恵は何処から突っ込んだら良いか分からず、ただ目を点にしたいた。
武仁が床に後ろ手をつき、距離を取ってから、二人に質問を投げかけた。
「ねぇさっき言ってた”気”って何?二人には、どんな力があるの?」
梅吉と末恵は押し黙った。
正直それを知らない人に向って、自分の力が何かと問われれば、自分達も何となく分かっているつもりになっているだけで、『これこれこうです』と説明するのは難しい気がした。
「「う~ん…。う~ん…。」」
梅吉と末恵が腕をくみながら、唸った。
ある程度考えあぐねてから、末恵が口を開く。
「私のお母さんの受け売りだけどそもそも”気”って言うのはね、私達の身体に流れている、実体のないエネルギー何だ。それは主に身体に宿っている”霊魂”から流れている霊気を意味するの。例えば”元気”も”衛気”も眼には見えないけど、確かに存在しているモノでしょ?見えないけど、確かに存在している、生命に関わる力を気っていうんじゃ無いかな?」
末恵の説明を武仁は頷きながら聞いた。
梅吉は聞いていて、途中で頭がこんがらがって来ていた。
立ち上がり、自分のベットに突っ伏した。
「じゃあ、幽霊も生命に関わる存在なの?」
武仁が思いついたように聞いた。
「悪霊は生者を脅かす事で、生命に関わっているよね。それは生に対して、まだ執着があるからじゃない?」
「末恵は、物心ついた頃からそういうのが見えたんだと。」
梅吉が自分のベットで伸びをしながら言った。
硬い話しになると、身体が硬くなってしまうのだ。
「何でなの?」
武仁が末恵の顔を見た。
「うーーん。親が整骨院をやっていてね、色んな人を、昔から見ていたせいだと思うよ。凄く酷い疲れ方してるお客様には、淀んだ、靄みたいな気が、纏わりついてるんだ。」
「へぇそれが末恵さんの言う”邪気”何だね。」
武仁が頷いて納得するので、末恵は微笑んだ。
「…学校では言わないでね?」
「言わないよ。オカルト集団に勧誘されちゃう。」
「あははっ」
軽やかに笑う末恵に、武仁が口をあけたまま顔を緩ませた。
その肩を梅吉が無言でベットの上から、足先で突いた。
「質問ばっかで悪いけどさ、じゃあ”邪気”って何なのかな?」
武仁は梅吉が自分に伸ばして来た片足を、両腕で引っ張りながら聞いた。
梅吉はベットの上でじたばたしている。
不自然な方向に足を曲げられていた。
「う~ん。これは私なりの答えになっちゃうんだけどね…。」
しっかり前置きしてから説明したいという、困った顔の末恵に、武仁は真顔でいた。
一方梅吉は、両足先を武仁の両手に取られ、足の裏を親指でくすぐられ、げらげら笑っていた。
「梅吉、唱川さんが話してくれてるんだろ?」
「いや、お前がその手を話せや!」
末恵はその二人の阿保なやり取りを見てから、また説明し始めた。
「”気”って言う実体のない力の『老廃物』かな?」
末恵はそう言い切ってから、また照れ臭そうに笑い、首を傾げた。
「「へぇぇ」」
梅吉と武仁の声が重なった。
梅吉と武仁は目を合わせてから、間々あって無言で頷き合った。
PVを見ていたパソコンに、”邪気”と入力し、調べた。
邪気と検索すると、次なような検索結果が出て来た。
一、すなおでない、ねじけた気持・性質。わるぎ。他者を害そうとする気持ち。
二、人の身に病気を起こすと信じられた悪い気。
三、物の怪。
と、いうように書いてあった。
「悪い気も、最初はただの”気”だったの。でも気を使った後、ちゃんと気を緩めない事で、自分の中に、邪魔な老廃物として溜まっちゃうんだって。それで、古くなって腐っちゃうの。」
「「ふぅうううん。」」
末恵の説明に梅吉と武仁の声が重なった。
「タケ何か、全く素直じゃないから、邪気だらけじゃん。」
梅吉が武仁に言った。
「お前もな。」
武仁が梅吉に言った。
「老廃物が、全く身体に溜まっていない人がいないように、全く邪気の無い人間もいないよ。」
梅吉と武仁のやり取りに、末恵が手をふりながらフォローを入れた。
「なぁ、どうすれば、邪気は消えるんだ?」
今度は梅吉が末恵に質問した。
「ちゃんと感謝して労って、手放す事かな?」
それを聞くと、途端に梅吉は、今朝自分が末恵のベットで、お腹を撫でて貰っていた事を思い出した。
思わずその場に立ち上がる梅吉。
そして真顔のまま部屋を速足で飛び回り、自分のベットに勢いよくダイブし、仰向けになってから、顔に枕を押し付け、叫び声を抑え込んだ。
枕の下の顔は赤くなっていた。
「「…。」」
梅吉の奇行の一部始終を見てから、末恵と武仁は再度会話を始めた。
「ウメちゃんはね、邪気の一種『言霊のトゲ』が、昔から視覚化して見えたんだって。それは言霊が邪気を含んで結晶化したもの、何だ。
「へぇ」
武仁が肘をついたまま声を上げた。
「ウメちゃんは見えるだけじゃなくて、その『言霊のトゲ』を、吸い取って消化する事も出来るんだよ。」
武仁はそれを聞くと、梅吉のベットに片肘をついた。
「出来るからって、あんまりやらないでね」
武仁がベットの上の梅吉に釘を射した。
昨日、梅吉が呉服屋の亭主の背中に刺さったトゲを、自分の唇で吸い取るのを、武仁は見ていた。
「うぉ!今何か胸に刺された。」
梅吉がふざけて、手で胸を押さえる。
「言霊のトゲは実体の無いものだし、ある程度は皮膚や胃腸で吸収できるから、大丈夫何だけど、梅ちゃんは自分から拾ってきちゃうからな。」
今度は結女子がベットに片肘をついて、梅吉に言葉を投げかけた。
梅吉は両耳を押さえ、ベットの上でごろんごろんと左右に身体を揺らした。
「それって、昨日呉服屋の亭主から、吸い取っていたやつか?あれは僕にも見えていたよね?」
武仁がベットの端に腰かけ、梅吉の顔から枕を取り上げた。
「そうそう、おかしいんだ、何か味もずっと不味かったし、食べたらずっと、腹がびりびりするし、鋭い小骨が腹で踊ってるみたいだった。」
「何よそれ。」
梅吉が斜め下に、顔を下げると、末恵の怒った顔があった。
末恵の目尻と眉尻が、外側に向ってつり上がっていた。
梅吉は昨晩、両厳の呉服屋であった事を、末恵に包み隠さず、話さざるおえなくなった。
「全く、今朝急にうちに来たかと思えば、そんな事があったの?ちゃんと私にも話してよね。」
末恵は腰に手を当て顔を顰めていた。
「唱川さん、ごめんね。彼氏を変な事件にまきこんじゃって。」
ぴりぴりした空気に耐えられず、すまなそうな顔で末恵の機嫌を取ろうとする、しっかり者の武仁。
「大丈夫、ウメちゃんは彼氏じゃなくて、弟分に大分近い、子分だから。」
「何じゃそりゃ!」
「ウメちゃんお座り。」
ベットの上でまた立ち上がった梅吉を、末恵が一言で諫めた。
ベットの上に正座する梅吉。
そのベットの下で末恵はふと、何かを思いだし、天井を見上げた。
「そっか、じゃあ、この前ニュースに流れていた、青い光の玉みたいなのは、本当の悪霊なんだね。」
「しかも、胎児の遺体を使ってるから、実体もある。ニュースではパソコンの画面を行き交いしてた。それに俺が食べたトゲも、電気みたいにぴりぴりしてた。」
「そうだったね。」
末恵も梅吉のお腹に手をあてながら、普段の邪気にはない、違和感を感じていたようだ。
「そう言えば、結女子にも見えてたな。」
「え、昨日は結女子さんもいたの?」
「…いや、その『結女子さん』に僕は会った事無いけど、昨晩の事件の現場に居合わせた人間は、現場の呉服屋の亭主と俺と、梅吉だけだよ。」
行き成り一人称が俺になる武仁。
顔が真顔である。
「いや、そうじゃ無くて…。あっ。」
やばい。と、思った頃には、ベットの上で座り込む梅吉に対し、口を一文字にした末恵と武仁が、無言の圧を発していた。
二人の全身から発せられる重力は、互いに相乗効果を引き起こし、やんちゃで逃げ足の早い梅吉さえも拘束しえたのだった。
(くっ、これが”気”ってやつか!)
梅吉は生きた人間二人から、金縛りに合っていた。
「…ねぇ、そう言えばさ、この前白太が突然吠えて、犬が沢山集まって来たよね。それで偶然誘拐犯の人が見つかって…。」
「ああ、その犬の映像ネットに上がってバズってたよな。」
二人は言い終わると、また無言で梅吉の顔を凝視した。
「そんなに見つめちゃ嫌!」
梅吉は結女子と捜索した事件の事を、二人に話さざるおえなくなった。
かくかくしかじか、まるさんかくしかく、これこれこういうわけで、どういうことが、こういうふうにございましたと、梅吉が包み隠さず説明し終わる頃には、とうに夕方になっていた。
夏はまだ日が高く空はまだ明るいが、夕焼けチャイムが聞えた。
「そっか、結女子さんも、加藤君も大変だったんだね。」
つい先日、結女子と一緒に田中宅で素麺を食べた末恵は、しょんぼり肩を落とした。
「その恵さんのお友達だった人には、透明なトゲが刺さっていたんだんね。」
「それは、確かに結女子にも見えていたんだ。」
梅吉は自分の手の中を見た。
梅吉が遺体からトゲの一本を抜いた時の傷後が、小さく残っている。
血は派手に出たが、傷自体は小さかったようだ。
トゲを遺体から梅吉が抜いた瞬間、確かに結女子は、血の滴る自分の手と、手に掴まれた透明なトゲを凝視していた。
「実体のある『言霊のトゲ』だったんだね。」
武仁が遠い目で、確信的な言い方をした。
三人が同時に顔を伏せ、考え込んだ。
『ぴろぴろりん、ぴろぴろりん』
突然、携帯の着信音が、三人の沈黙を破った。
武仁が自分の携帯をぽけっとから取り出す。
病院から武仁の母が目覚めたと、連絡が入ったのだ。
「母さんが意識を戻したんだ。俺、病院に行かないと。」
そういってから武仁は、勢いよく大きく息を吸い込んで、声を出さないようにそれを吐き出した。
それには確かな邪気が籠っていた。
そのまま、梅吉の部屋を出て階段を降りる武仁。
その背中を、梅吉と末恵は無言で追った。
「帰るのかい?」
クマと結女子が居間から顔を出した。
「はい、御馳走様でした。」
武仁は丁寧に頭を下げた。
「タケ、病院に行くんだって。」
頭の後ろで手を組んだ梅吉が言った。
武仁がその顔を頭を下げたまま、振り向いて覗いた。
「どこの病院だい?」
クマが武仁に尋ねた。
「…海原病院です。」
「車を出そうか?」
武仁は目を見開いた。
クマは相変らず、抑揚の無い表情を浮かべている。
「えっと…」
武仁は言葉に詰まった。
「海原病院でしょ?あそこ、駅から離れてるのよ?言った事ある?」
今度は結女子が武仁に尋ねた。
「無いです。」
「調度、ホームセンターにも、行きたかったし、一緒に行こう。」
(嘘だ。)
と、梅吉には分かった。
今ホームセンターに、わざわざ買いに行くようなモノなんてない。
「俺も、ホームセンター行きたい!」
「私も!」
梅吉と末恵は笑顔で言った。
「…じゃあ、お願いします。」
武仁は煮え切らない顔のまま、頭をかきながら、クマに会釈した。
海原病院は、百年前から並々区に残る古い病院だ。
最寄り駅の賀屋ヶ谷駅から、徒歩二十分以上かかるのは、その駅が出来る前から、街道沿いにこの病院があったためだ。
なので、車の方が辿り着き安い。
着いた病院は、百年の歴史を感じさせる、趣深い木造建築だった。
木造の為、横に長く、コの字型になっており、大きな囲われた空間になっていた。
病院の中に入ると、天井が低いためか、中は薄暗く、湿ってるようだった。
古い建築のせいか、照明が限られている。
末恵は思わず梅吉と武仁の服の裾を後ろから掴んだ。
「あれ?結女子じゃない?」
「千歳先輩!?」
結女子の名前を呼んだのは、結女子の前の会社の先輩だった。
以前、ビュッフェ形式のレストランで、女装した梅吉が結女子にはち会ってしまった際、結女子が一緒にいた人物だ。
「どうしたの、こんなとこで?」
「あっちょっと、お見舞いの、付き添いで…、先輩は?」
「私はお腹の子の検査で。」
「え?妊娠されたんですか?おめでとうございます。」
結女子は胸の前でガッツポーズをし、心底嬉しそうに微笑んだ。
「…うん、何か問題が合ったら下さなきゃいけないけどね。今日は妊娠の確認だけ。」
結女子の顔が青ざめた。
その場の空気も、一瞬で白く凍てついた。
(公共の場で、しかも梅吉君たちの前で、何ていう事言うんだこの人は。)
結女子の先輩は結女子の気持ちを知ってか、知らずか、そのままその場に立ち続け、去る気配が無かった。
結女子はその様子を見て、溜息をついてから、クマに振り返った。
「クマさん、私ちょっと先輩とお話してきますね。」
「…わかった。」
クマは結女子と結女子の先輩に軽く会釈すると、三人を連れて武仁母が居るであろう、病室に向った。
武仁の母のいる病室は、病院の正面玄関から一番離れた場所だった。
報道の事もあり、病院側が配慮してくれたのかも知れない。
名前を出すのは控えられ、病室の外の壁には、偽名が張り出されていた。
流石に武仁の母の病室には、武仁1人で入った良いと言う事で、クマと、梅吉と末恵は外の廊下で待機する事にした。
がらがらと音を立て、病室の戸を開が開く。
武仁が病室の中に入ると、窓の外を見ていた武仁の母が、振り向いた。
「武仁…」
「お母さん、大丈夫?」
武仁の母はやつれた顔で、唇を噛み締めた。
「どうせ、あんたも私の自業自得だって、思ってるんでしょ?」
武仁はびくりと身を震わしてから、その場に立ち尽くした。
「あんたってホント、そういうところ、お父さんそっくりよ。自分の意見は全く言わない。全く対等に私と関わろうとしない。そうやって、無視して私を馬鹿にしている。」
武仁はただ押し黙っていた。
「冷たくて、無感情で、まるで心が無いのよ!」
武仁は肩を落とし、項垂れた。
その顔に涙は無く、ただ絶望していた。
(こういう母のヒステリーの当て馬になるのは、何も今日が初めてではない。)
そう思案し、武仁は思考で感情を押し殺そうと、下唇を噛み締めた。
「…はぁ、本当に何にも言わないのね。」
わざとらしい溜息だった。
何故それが、わざとらしいかなんて分からない。
しかし、どうしてわざわざやって来た息子に、悪態をつくのか?
どうして、武仁なのか?
どうして母は今ここにいない、武仁の父の話しをしたのか?
それらはいったい何故なのか?
どうして、どうして、何故なのか?
武仁は自分の母親の前に立ったまま、むしむしして熱いとか、部屋が暗いとか、そういう五感が重い思考で鈍って、感覚がどんどん濁っていくのを感じていた。
自分自身がその感情の渦に落ちていく。
もう、抵抗一つせずに本当にその渦の底に落ちてしまえば、もう何も感じずに済むのかもしれない。
そう感じる程、武仁はただただ棒立ちになった。
「武仁のかあちゃんて、毒親だな。」
ふいに、梅吉の声がした。
なんせ、百年モノの古い病院だ。
武仁と武仁の母のやり取りは、外の廊下に丸聞こえだったのだ。
武仁の母親は、他人に聞かれていたと分かると、急にあわあわ慌てふためいた。
「…じゃあ、俺、友達待たせてるから。」
武仁はそういうと、母の居る病室を出た。
廊下に出ると、梅吉がクマにホールドロックされ、口を押さえられていた。
一生懸命暴れているが、強固なクマにか敵わない。
その二人の様子を見ていた末恵は、武仁が病室から出てくると、振り向き、下手くそな愛想笑いをした。
クマは無事に武仁が病室から出て来たのを確認すると、何も言わずに踵を返し、廊下の端に向って歩いた。
末恵も、武仁も、何も言わずその後に続いた。
口を押さえられたまま、クマに抱きかかえられている梅吉の藻掻く声だけが、日が暮れ、更に静けさをました古い病棟の空気の中に、小さく響いていた。
クマは病院正面受付の手前までくると、梅吉を解放し、床に下した。
「俺は、ちょっと病院に用があるから、3人で先に帰れるよな?」
「…わかった。」
梅吉はまたホールドロックされると困るので、その場は大人しく了承した。
クマが立ち去ってから、梅吉と末恵は武仁に目を向けた。
「武仁君大丈び?」
何時の間にか、下の名前で呼んでいる。しかも「大丈夫」と言えずに「大丈び」と言ってしまった末恵。
しかし本人は気がついていない。
武仁が心配で胸の前で手を組んで、オロオロしている。
梅吉は気が付いていたが、今は末恵に突っ込む気分ではない。
武仁は一瞬だけ、二人に視線を向け、また正面を向いた。
「まぁ、それでも…」
言い淀む武仁の横に、梅吉と末恵は、真面目な顔で武仁の側に隣立った。
「…あの母親がいなきゃ、俺は生まれなかっただろう?」
梅吉は武仁の言葉に呆気にとられてから、顔を悲し気に歪ませた。
「…帰ろっか!」
末恵が明るい調子で言った。
語尾の「か」の音を、ふざけるように誇張して発音していた。
3人は一度顔を見合わせると、誰からとも無く、歩き出した。
「あれ、あの人?」
末恵は受付付近の、自販機の前にいた人物を見て、立ち止まった。
「どうした?」
梅吉が末恵の顔を下から覗き込んだ。
「白雪さんじゃない?」
「何で分かんの?」
「姿勢や体つきがそうだった。」
梅吉も、こっそり遠めから、身を屈め、末恵の目先の人物を探した。
黒づくめの格好をした人物が目に入る。
短髪で、帽子を深く被っている為分かりにくいが、帽子からはみ出た後頭部から見えた髪色が白かった。
黒い服の上からだとわかり辛いが、体つきも、締まった筋肉をしている。
何かしら職業で鍛えている人の身体だ。
軸の太い姿勢と、靴のかかと部分から覗き見えた、踝の周りの形から、そうだと分かる。
「ちょっと、後付けてみようか?」
二人の前に歩み出ていた梅吉が、振り返りながら言った。
「やめろよ、失礼だろ?」
武仁が生真面目に注意した。
「タケは良い子すぎんだよ。たまに悪い事しない、真っ当に生きられないぜ?」
梅吉は、武仁に身体正面になり、両手を広げ、わざわざ悪びれて見せる。
「…てめぇ」
武仁が一番低い声を出した。
梅吉は笑顔のまま固まった。
末恵は仕方なさそうに溜息を付く。
梅吉は、耐えられず、その場から逃げた。
「あっ、ちょっと、ウメちゃん…。」
そのまま、歌手の白雪と思わしき目標人物を追う梅吉。
末恵も仕方なさそうに、梅吉について行く。
また更に仕方なさそうに、武仁がその二人の後を追った。
こうして三人仲良く、目標人物の追ったのだった。
黒づくめの人物は、エレベーターに向った。
「受付を通らなかったね。」
末恵が梅吉と武仁に言った。
三人は建物の柱の影から、目標人物がエレベーターに乗るのを見ていた。
調度その時、3人の横を、十人程の白衣を来た人達がエレベーターに向った。
3人は目配せしてから、その白衣の影に紛れながら、一緒にエレベーターに乗った。
エレベーターに入ると、目標人物はエレベーターボタンの一歩手前に立っていた。
エレベーターの中は、業務用と兼用な為、一人暮らしの1K程の広さだった。
エレベーターは上に向って行った。
病院側の医者から、患者、お見舞いと思わしき人、様々な人がまた乗っては、また降りて行った。
途中梅吉は末恵と武仁に目配せし、エレベーター内の端に、置かれたままになっていた、大きな台車の裏に身を隠した。
台車にはカバーがかかっていた。
中身は患者用のベットのようだ。
(あれ?降りないぞ?)
目標人物は最上階の4階まで来ても、エレベーターを降りなかった。
受付のある一階から乗ったと言うのに。
何の為に、エレベーターに乗ったんだろうか?
台車の端から、顔をだし過ぎる梅吉の肩を、末恵が突いた。
梅吉は大人しくまた台車に隠れた。
梅吉は隠れて見えなかったが、目標人物の黒づくめの人は、不可思議な行動を取っていた。
黒づくめの人はエレベーターが一番上の四階まで着いき、他の人が降りるのを確認すると、エレベーターボタン下の手のひらサイズの、四角い蓋を開いたのだ。
そして、自分の胸元につけたチェーンを指先で手繰り寄せると、その先に着いていた、円錐状の銀の金具を取り出した。
その銀の金具の先を、開けた蓋の中に差し込む。
エレベーターは閉まると、高い機械音を発してから、急降下していった。
梅吉達が、台車の影から、エレベーター上部を見る。
階を表示するデジタルライトが、一階を通り越し、B1、B2と表示していった。
エレベーターが着地した先はB6階。
着地音とともに、エレベーターが止まり、開いた。
梅吉は台車の影から、黒づくめの目標人物がエレベーターの外へ出るのを見ると、扉が閉まる前に、足早に外へ出た。
武仁と末恵も梅吉に続いて外へ出る。
梅吉達の目先に円形闘技場のように、丸く、広い場所があった。
その円筒形の下へ、黒づくめの目標人物が、降りていく。
梅吉達がその背中を追い、円筒形の端に近づくと、その下には、青いチューリップ畑が、ところ狭しと咲いていた。