小槌姫
「ぐわああああぁぁぁぁ、ごごごごぉぉぐわあああぁぁぁぁ、ごごごごぉぉ!」
時刻は朝の8時を過ぎていた。
怪獣のようなイビキを立て、大の字になり、梅吉のベットを占領する武清だった。
お風呂を出て、梅吉の着替えを借り、着替えるやいなや、床に魂が抜けたように倒れ、寝入ってしまったのだ。
梅吉は深い眠りについてしまった武清をお姫様抱っこすると、自分のベットに横たわらせた。
そのままベットの横にもたれかかりながら、ずっと携帯をいじっている。
自分も寝たかったが、それどころでは無い気がした。
スマホで今朝のニュースについて調べた。
どうやら、武清の母親は、もとアイドルだったらしい。
ニュースで言われているように、実際に枕営業をやっていたかどうかや、愛人が5人いただとかいう話は実際のところは本当か分からないが、ニュースで映った若かりし彼女の姿を見るうちと、自分が比較的に他者より可愛がられる事を、早いうちに自覚していたように見受けられる。
天然ぶって手をふる昔のアイドル姿も、男うけが良さそうだった。
計算してそういうことも出来そうだが、嫉妬されてそういうことを良いふらされそうにも見える。
梅吉は人の嘘を見抜くという特技があるので、ニュースはいささか、尾ひれがついたものだというのを感じ取っていた。
が、問題はニュース事態がどうこうでなく、このニュースで今後、武清がどんなふうに扱われるんだろうか。と、いう事だ。
梅吉としてはそこんとこは、どうもこうもなってほしくない。
そしてまた、気になる事がもう一つあった。
ニュースの情報を芋づる式に引っ張って、調べていくと、武清の母親のいた音楽事務所は『プリンセス事務所』という名前なのが分かった。
確か結女子の亡くなった友人の恵も同じ事務所だったハズだ。
昨日別れてから、まだ一言も言葉を交わしていない結女子を思い起こした。
妙に好青年面の刑事に連れてかれた結女子の、不安げな顔が目に浮かぶ。
その顔を思い出すと、何日も会えていないような錯覚を覚える。
梅吉は数回携帯画面の前で指先を迷わせてから、SNSでメッセージを送った。
数分立たないうちに携帯がなり出す。
梅吉はかかってきたビデオ通話の画面を開いた。
「梅吉君?今何してる?何処にいるの?ご飯食べた?」
携帯越しに見える結女子の顔と声は、明るかった。
質問攻めにされると何時もは煩わしく思うのに、何故だか今は、自然に瞼をふせ、噛みしめてしまう。
「梅吉君?」
「今、家だよ。」
「そっか」
「何で、いきなりビデオ通話?」
「梅吉君の顔が、見たかったから。」
何の含みも無くそういう結女子が苦笑いしている。
まるで、お年頃の息子を扱う母親だ。
梅吉は真顔で携帯に映る結女子の顔を、見つめ返していた。
手短なやり取りで、酷く安心してる自分の胸ぐらを自分で掴む。
大きく息を吐いてから、本題を切り出した。
「『プリンセス事務所』ってさ、結女子の友達の恵さんがいたところだよね?」
結女子が唾を飲み込む。
「今朝のニュース見たの?」
「うん、そりゃーね。」
何だか小さな男の子が母親に向って強がってるような喋り方だ。
結女子はくしゃりと眉を歪めて、先程とは違う部類の苦笑を浮かべた。
「そっか、でも恵とは関係ないよ。」
「まだ、俺、一言も今回の事件と、結女子の友達の事件がっ関係してるなんて言って無いんだけど?」
「あっ」
結女子はしまった。と、いう顔をしていた。
白を切る事も出来ないのに、嘘を見抜ける梅吉に自分から嘘をついて、しかも嘘を嘘と認めてしまった。
結女子は自分のふがいなさに肩を落とす。
そんな結女子を画面越しに、してやったり、と梅吉は眺めていた。
「結女子ってさ、自分で自分の墓穴掘るタイプ?」
「うう、だって、クマさんと、梅吉君をもう危ない事に巻き込まないって約束したの…。」
「つまり、結女子は今、危ない事に突っ込もうとしてんの?」
「ああああああああ…」
再度同じ様に自分で墓穴を掘ってしまう自分に、結女子は絨毯に両腕をついて嘆いた。
梅吉の携帯に結女子のいる部屋の天井が映る。
「結女子、何か知って、」
梅吉が再度質問を重ねようとした時、上半身裸の男が画面に映り、笑った。
梅吉は硬直してしまう。
「結女子さぁん、何やってんのぉ?」
上半身裸の男は濡れた髪をバスタオルで拭きながら結女子に話しかけている。
「ちょっと、何て格好してんですか?あっち言ってくださいよ!」
結女子は床から起き上ると、腕でしっしと男を追い払った。
「え、男といるの?泊だったの?」
「いや、これにはわけがあって…。」
「わけって何だよ?昨日の刑事だよな?」
畳みかけて質問してくる梅吉に、結女子はしどろもどろになる。
後ろめたい事は無いものの、梅吉が何時もより何だか権幕なので結女子はしり込みしてしまった。
ちゃんと説明をしたいのだが、上手く言葉が見当たらない。
刑事の事件調査を手伝う事になった。何て梅吉に教えたら、また事件に巻き込んでしまうかも知れない。
『プリンセス事務所』の事が知られたりすれば、梅吉なら自分から首を突っ込みにくる。
「ううぅん、別にやましい事はないのよ?」
結女子は絨毯に置いた携帯を丁寧に両手で掴み上げ、激しく左右に首をふった。
画面越しの梅吉は、呆れ果てていた。
「それ言っちゃうと、逆に怪しいから。」
(梅吉君を事件に巻き込みたくないダケなのに、何だか浮気の言い訳をしているみたいだわ。)
どんどん冷や汗が出てくる結女子。
「人の嘘が見抜ける梅吉君なら、私が何にも無かったって言うのが、本当だってわかるでしょ?」
「に、してもだよ。何か誤魔化してるし、微妙な気持ちになる。」
梅吉を傷つけたくなくて、試行錯誤しているのに、今もう既に傷つけてしまっているんじゃないかと、結女子は切なくなった。
「…お昼にはピザ持ってそっちに行くからさ、取り合えずクマさんには黙っといてくれる?」
(結局、食べ物で買収した上に、浮気の口封じみたいになってしまった…。)
結女子は幾つになっても器用に立ち回れない自分を、自分で怨む。
「まぁ、本当に何にも無いんなら来ても良いけどさ。」
梅吉のぶっきらぼうな言葉に、結女子はほっと胸を撫で下す。
「ピザはLサイズ三枚でお願いします。」
結女子は画面越しに梅吉の笑顔を恨めし気に見つめ返しながら、通話を切った。
「まぁ、そんなに上手く立ち周れる女だったら、とっくにクマとデキてるな。」
梅吉はぼやくと床に寝そべった。
結女子は何にもなかったと言っていた。
嘘の見抜ける梅吉は、それが嘘でないと分かった。
(みんながそうなら疑心暗鬼何て生まれないのに。)
しかし他の人間なら、あんなシャワー上がりの男がいきなり通話画面に出てきたら、何かあったと思っても仕方あるまい。
「取り合えず、クマには黙っとこう。」
梅吉はそう心に止めといた。
取り合えず、今日のお昼は豪華なピザだ。
梅吉は財布と携帯だけポケットへ入れ、クマに一声かけてから家を出た。
「武仁の奴、昨日から寝て無いんだ。五時間は寝かせてやりてぇ。」
そういう説明だけして、行ってきますと出て行った。
一方その頃、結女子は六本歩の高層ビルの16階で、携帯に向って大きく溜息を付いていた。
「はぁ」
「お風呂入ってきたら?」
バスローブ姿でバスタオルを結女子に渡す九条刑事
「…覗かないで下さいね。」
虚ろな顔で、バスタオルを受け取ると、結女子はお風呂場に向った。
脱衣場で、クマにお昼ピザを持ってお宅にお邪魔する旨を、メッセージで送った。
1分待ったが既読は付かなかった。
結女子の顔が曇る。
まだ、クマと知り合って間もないのに、随分甘えてしまっている。
強制的に事件の口留めを強要された時は、魂が身体から浮き上がりそうに成程恐かったが、その後も自分の身を変わらず案じてくれ、必要以上に言動を管理しようとはしない。
梅吉にも同様にそうしている。
それは、自分達の人間性を信じてくれているからだ。
実際クマ本人に確認したわけでは無いが、少なくとも、結女子や梅吉はそう信じている。
だからクマの側は、厳しくても居心地がいい。
まだ会って間も無いのに、居心地が良く、懐かしい気さえする。
それは、クマがもともと持っているであろう父性がそうさせていた。
そんなクマに秘密を持たないといけない事が、殊更結女子の胸を痛めた。
結女子が服を脱いで3分経っても、やはり既読は付かなかった。
浴室に入ると、黒いテカテカの内装だった。
鏡の前に、テレビでは見た事のないシャンプーリンスが置いてあった。
パッケージから、何となく高級である事は分かる。
本当は身内でも友人でも無い人間の物を借りるのは抵抗があるが、直ぐに出かけないと行けないので、仕方あるまい。
結女子はバスタブにお湯を溜めた。
バスタブ横の窓に敷かれたシャッターの隙間からそっと外を覗く。
昨日、自分の自宅付近では悲惨な事件があったというのに、ここではそれが嘘のように、張れた朝が来て、人々が歩道を歩き、車が行きかっていた。タクシーが多いのは土地柄だろう。
昨晩、結女子は余り良くは眠れなかった。
知合ってばかりの男の部屋に泊ったのだから当然だろう。
結女子は昨晩九条刑事に見せられたファイルの顔と名前を思い起こし、反芻した。
30分くらいして結女子がお風呂から出ると、朝食が出来ていた。
「至れり、つくせりですね。」
そういうわりに、余り嬉しそうで無い結女子である。
「面倒臭い役を引き受けてもらうからね。」
九条刑事は爽やかに笑った。
結女子はやはりどうしてもその笑顔を好意的には受け取れないのだが。
結女子は九条刑事の向かい側に座って朝食を食べた。
「あなたは何時からアイドル系音楽事務所の『プリンセス事務所』とアダルト産業が結託してると、疑っていたんですか?」
「まぁ、取り合えず警察になる前からだよね。」
九条刑事が何の抑揚も無く答えた。
「もし、本当に『プリンセス事務所』が日の目を見ないアイドルにアダルト作品の出演や、薬の受け渡しをさせる事でお金儲けをしているとすれば、それはどういった刑が課されるんでしょうか?」
「さぁ、どうだろうね?ちょっとそこんとこはまだ分かんないよ。何処まで本当の事を吐かせられるかも分かんないし。今までもあそこの内情に踏み込んだ奴はいたんだ。でも「直接の関係はない」って、言い切らたり「個人がした事で、事務所との直接の関係は無い」って押し切られちゃったし。みんな尻尾を掴めた事が無いからさ。僕の前に、直接事務所の人間と知合って、心見た人もいるんだけど、ハニートラップにかかって、警察辞める事になっちゃったよ。」
その時、九条刑事の何時もの愛想笑いが消えた。
プリンセス事務所は、十数年前からアイドル・ミュージシャン育成をしている。
この日和の国では良く知られた芸能プロダクションだ。
この『プリンセス事務所』は『若い才能を育てる』を名目に、駆け出アイドル・ミュージシャンの衣食住・レッスン費の全てをタダにしている。
それを目当てに上京してくる若者は後を絶たない。
しかし、九条刑事の推理では、それらの費用は7割り方が、デビューの出来なかった者たち、または売れなくなった者たちが、アダルト産業に出演する事や、密売の足になる事で賄っているという事だった。
「最近、益々あの事務所羽振りが良くなってさ。表向きの方で、売れっ子が出てきたせいかな。『白雪』って歌手、しってるだろ?デビューして一年でヒットチャート入り。彼女に憧れて、また更に世間知らずな子が、プリンセスの門を叩くんだ。」
「事務所の売り上げ以上の出費が見つかれば、副業の尻尾も掴めそうですが…。」
「そこはやっぱ、調度良い裏帳簿を付けられる、優秀な会計士を雇っているんだよ。」
結女子は九条刑事の目を見たまま、ティーカップに口を付けた。
「嫌な話しですね。」
警察なので仕方ないとは思うが、そんな現実と常に向き合っている九条刑事の顔を見ると、最初薄ら寒く感じた愛想笑いにさえ尊敬した。
辛い現実があっても、笑顔でいると決めた彼の心意気がそこにあるように感じたからだ。
「僕自身は別に正義の味方じゃ無いですよ?」
また愛想笑いを浮かべ直し、九条刑事が言った。
「別に構いません、私も知りたいだけです。死んだ恵が、恵なりに頑張っていたんだって事。私なりに認めてあげられるように。」
九条刑事は目を見開いてから、ふふふと微笑んだ。
「偉そうですか?」
「いいや、一人でも理解者がいれば、その魂は救われると思います。」
「ぺん」
結女子の携帯から既読通知の音がした。
「クマさんだ!」
急いでジーパンのポケットから携帯をだした結女子の顔が、ぱっと明るくなる。
九条刑事はその笑顔を見て、顔を歪め、口の端だけ上げてた。
結女子が九条刑事の自宅で朝食を取っている頃。
梅吉は『かわうそ院』に訪れた。そこは、末恵の家でもある。
梅吉が足を運ぶと、塀と院の間の庭で、末恵が土いじりをしていた。
白太が無心になってはぁはぁいいながら、前足で土を掘り返していた。
穴に新しい肥料を混ぜるのか、末恵の横に、大きな茶色い袋があった。
白太は無我夢中で穴を掘っており、今なら梅吉も飛び掛かられる事は無さそうだ。
「今、空いてるか?」
白太を横目で見ながら、梅吉は末恵に聞いた。
しゃがんでいた末恵は首だけ振り返り、梅吉に気が付くと、にっこり微笑んで答えた。
二人は白太に気付かれないように、一言も声を出さず、こっそり身体を寄せ合い、足早に歩いた。
そして院の裏の勝手口に周る。
「今、院のベットは埋まってるから、私の部屋に行こう。」
末恵は勝手口の前でそう言うと、ドアを開き、台所で麦茶の入った透明な瓶とコップを二つ盆に乗せ、それを梅吉に持たせて壁際の階段を上った。
梅吉は末恵に続く。
末恵が自分の部屋のドアを閉めた。
その音に梅吉が顔をしかめる。
「じゃあ、ここに寝て」
末恵が自分のベットに横になるように促した。
「何で分かったんだ?」
しかめっ面のまま梅吉が言った。
「だって、ウメちゃん、唇が青くなってるよ。」
言われて咄嗟に自分の唇に触れる梅吉。
末恵は盆を机に置くと、置いてあった鏡を手に取り、梅吉に渡した。
渡された鏡の中の自分の顔を見ながら、梅吉は指先でリップを塗るように唇を撫でた。
「胃が弱ると、唇が青くなるんだよ。女の人はよく口紅で隠しちゃうけどね。」
梅吉は鏡を持ったまま突っ立っていた。
「床で良い。」
そう言って、猫柄の敷物が敷かれたフローリングに寝そべろうとした。
「駄目だよ。やりにくい。」
はっきり、きっぱりそういう末恵。
梅吉はその末恵の顔を見ないまま、ぐっと身体に力を入れた。
次には諦め、目を閉じたまま末恵のベットに手を付き、仰向けになった。
その一部始終を仁王立ちで見ていた末恵は、梅吉がベットの上で大人しくなったのを見ると、勝ち誇って口端を上げた。
「よしよし!」
そう嬉し気に言うと、ベットの横に膝立ちになり、梅吉の腹の上に自分の手を添えた。
「今回は何で、トゲを飲み込んじゃったの?」
数十秒梅吉の腹に手を当ててから、末恵が聞いた。
末恵を変な事件に巻き込みたくない梅吉は、言葉に詰まる。
「う~ん…。」
梅吉が答えにくそうにしているので、末恵は翳した手に向い、頭を垂れ目を閉じ、梅吉の抱えている腹の痛みの形を読み取ろうとした。
「何か、びりびりしてる…」
末恵の言葉に梅吉が、びくりと身を震わした。
「もっと、力抜きなよ。」
また末恵が言った。
あんまり力を抜くと、本音が零れそうになるので、そうは出来ない。
あんなこと、こんなことがあって大変だったと愚痴を垂れるだけ垂れ、かっこ悪く泣き出しそうだった。
末恵に優しく、痛んだ腹を撫でられながら、強情に歯を食いしばりながら、梅吉は目を瞑っていた。
末恵の手には、痛みを和らがせる力があった。
そして末恵にも梅吉と同じ様に『言霊のトゲ』が等の邪気が視覚できた。
結局何も答えそうにない梅吉に末恵は溜息を付いた。
膝立ちが辛くなり、ベットの端に腰かけ、梅吉のお腹を撫で続ける。
梅吉は、自分の腹部にお日様が差し込んで来るような暖かさを感じた。
最初しかめていた梅吉の眉が緩むのを、末恵は穏やかに見下ろしていた。
梅吉は目を閉じたまま、一番最初ここへ連れて来られた日の事を思い起こしてた。
田中家に引き取られ、数日経った頃、梅吉は腹痛を覚えた。
なれない環境に置かれ、ストレスを感じたようだった。
施設でも、その以前でも同じ様な事があり、経験から梅吉はほっとけばそのうち治ると思っていた。
しかし、何故だか今回に鍵って腹痛はどんどん日に増し、酷くなった。
ある日そんな梅吉にクマが気が付いた。
ソファに座りながら、唸り声を自分の喉奥に抑え込んでいた梅吉に、無表情で近づいてきて、声をかけて来た。
「お前、どっか悪いのか?」
梅吉は元々痛みに強く、こういう時は母ですら自分の不調に気が付かなかったと言うのに、クマは梅吉の異変に気が付いた。
近づいて来られた時は「何で何時もそんなに不機嫌そうなんだ」と、他の人間のように文句を言うだろうと思っていたのに。クマはそうでは無かった。
梅吉が顔を上げ、目を見開いて驚いたのを、クマは無言で肩を掴み、そのままソファーに身体を横にされた。
クマは、自分の手を梅吉のおでこや、お腹に当てた。
じっと、成すがままになりながら、気恥ずかしく感じる自分自身に梅吉は苛立った。
「嫌だったか?」
すまない。と言う顔で梅吉の顔を見るクマ。
梅吉は何も言わず、顔を背けた。
「近くに良い先生がいるから、行こう。」
クマはそう言い立ち上がった。
「俺、薬苦手だ…。ああいうのって慣れてくると効かなくなるし…。」
「大丈夫だ、行くのは内科じゃなくて、針医者だから。」
「ハリイシャ?」
梅吉は聞き慣れない単語に幼子が言葉を聞き返すように、その単語を繰り返した。
梅吉は気だるい身体を引きずって、かわうそ院に来た。
着た直後の事は余り覚えていない。
既に腹部の痛みで意識が朦朧としていたからだ。
院の先生は、施術室で二、三梅吉に質問をすると、さっさと施術台に横にし、手足と腹部に鍼灸針を打った。
すると、不思議な事に、梅吉は半分意識が眠ったようになった。
「暫くこのままで置いておくからね?」
施術台に横たわる梅吉にそういうと、院の先生は施術室を出た。
それから、数分か、もしかしたら数十分か時が立ったところで、施術室のドアを開く音がした。
ドアを開いたのは末恵だった。
「ねぇ。入ってもいい?」
末恵は何も答えが無いので、ドアノブを摘まみ、隙間から中を覗いた。
すると、首を少しこちらに向けた、仰向けになったままの梅吉と目が合った。
梅吉は末恵に気が付くと、目を逸らし、天井を向いた。
末恵は施術台の端に立った。
「どうして、そんなにお腹に邪気が溜まってるの?」
「ジャキって何だ?」
梅吉が顔を上げ、自分の横に立つ末恵の顔を見た。
しっかり目が合う。
末恵の目はまんまるで、柔らかいくせ毛の先が、照明に照らされ、遠慮がちに発光していた。
(天使みたいだ)
梅吉は思った。
そう自分がらしくない事を思ってしまった事に気が付き、顔を顰めた。
末恵はづかづかと診察室に入ってきておきながら、梅吉が不服そうな顔をすると、途端に不安げに顔を歪め、胸に手を当てた。
「…あのね、邪気っていうのは、ストレスや、ストレスの元になるようなモノだよ。それがあると、身体や心が滞っちゃうんだ。」
末恵の説明に梅吉は眉を上げた。
そして、後ろ手を付き、上半身を少しだけ起き上らせながら、末恵に向き合った。
そして、施術室の壁隣の向こうに聞えないように、小さな声で尋ねた。
「お前、そういうの見えんの?」
梅吉の声が余りに小さいので、末恵は屈んで自分の耳を梅吉の顔へ近づけた。
「見えるよ。小さい頃から。あなたも見えるの?」
末恵は屈んだまま、梅吉の耳元に唇を寄せて答えた。
梅吉が間々あって、口端を上げ笑った。
末恵は梅吉が外に聞えないように声を殺して笑った事で、くぐもった音が彼の咽喉から響くのを、傾けた耳元から聞いていた。
「見えるだけじゃなくて、他人のそれを喰う事だって出来るんだぜ?」
まじかにある得意気な梅吉の真顔に末恵は、自分の瞳孔が開くのを感じた。
末恵は手をもじもじさせてから、先程まで迷っていた事を実行する事にした。
そっと、自分の手を梅吉の腹部に添える。
「なっ」
梅吉は上半身を上げ、末恵の手を退かそうとしたが、上半身にも腕にも針が刺さっているせいか、上手く身体が瞬時に起こせなかった。
末恵が腹部に手を置いたまま目を閉じる。
と、梅吉の腹部でとげとげと動き回っていたモノが、途端に和らぎ、その形を小さくし始めた。
分厚いカーテンが開かれて、いきなり春の日差しが入って来たみたいに、末恵の手は驚くほど温かく、そして優しかった。
「お前、正義の味方のつもりかよ?」
下手をすると気が緩んで泣いてしまいそうで、梅吉はまたしかめっ面をして末恵を睨んだ。
強がっているわりに、身体に力が入らず、施術台にまた仰向っているのに。
「んんん~。そういうつもりは無いんだけどね…。」
末恵は困った顔で笑うだけだった。
そしてまたそのまま、自分の手を梅吉の腹部に置いたまま、そっと目を閉じた。
梅吉も、もうそれ以上何かを言葉にするのを止めた。
すっと辛かったと、ずっと慰めて欲しかったと、どうしようもなくかっこ悪い気持ちが、浮き彫りになって、何かしらの形になりそうで、恐かったから。
ただ、下唇を噛んで、末恵のされるがままになった。
長いようで凄く短いような一時だった。
実際その二人のやり取りは十五分だった。
施術室の壁向こうで、電話の音がし、その会話が途切れると、末恵はさっさと退出したのだ。
末恵が急いで立ち去って、直ぐに先生が来た。
「じゃあ、針を抜いていきますね?」
施術室に戻って来た先生がそう言って仰向けになっている梅吉から針を抜き始めた。
「お腹はよく、痛めるのかな?」
「…はい、小さい頃からちょくちょく。」
梅吉は素直に答えた。
「そっか、君は我慢強いんだろうね。」
梅吉は答えなかった。
「「腹が立つ」というように、お腹は感情を受け止めるところだから、お腹の声をちゃんと聞いてあげてね?」
先生はそう言うと、針を抜いた梅吉の腹部にそっと手を当てた。
(ああ、アイツはこの人の娘なのか。)
その動作一つでそうわかるほど、先生とさっきの女の子の笑顔はよく似ていた。
娘の方がもっとぎこちなく笑うのだが、どちらも根が朗らかな雰囲気を感じる。
梅吉が針の施術を受けている間、クマはずっと受付で待っていた。
外に出るでもなく、待合室でただただまっていたらしい。
クマは表情筋がほぼ機能していないので、一歩下がったとこからその姿を見ると置物のようだ。
「ファーストフード店の前の置物かと思った。」
「ファーストフード店の前の置物はもっとにこやかだろう。」
クマが梅吉の冗談に、真顔のまま言葉を返すので、梅吉は腕を上げて驚いた。
(コイツ、こういうのに乗ってくるタイプなのか)
一緒に過ごして数日。
クマをただただ真面目で堅苦しい男だと思っていた梅吉は、豆鉄砲を食らわされた気分だった。
「先生にお礼は言ったか?」
やはり、基本的には真面目な人間らしい。
その基本から外れなければ、多分必要以上に厳しくされる事はないのだろう。
そのように感じて梅吉は、何だか今日まで必要以上にクマを犬猿していた自分が、恰好悪く思えた。
「先生、ありがとうございました。」
少し照れ臭そうに梅吉は頭を下げた。
「いえいえ、お大事にどうぞ。」
先生はやはり朗らかな笑顔で立っていた。
梅吉が目を開けると、あの日あの時と同じように、瞼を閉じた穏やかな末恵の顔が側にあった。
目を閉じたまま、自分の腹を撫で続けるその顔をそのまま見ていた。
視線に気が付き、末恵も目を開けて、目だけで「なぁに?」と聞いて来た。
「お腹は大事にしないと。食べ物を吸収して、身体を作る事が出来なくちゃ、何時までも身長が伸びないよ?」
末恵のもっともな言葉に、梅吉は苦虫を噛んだような顔になった。
梅吉は片腕で自分の顔を隠したまま、空いた手を末恵の手に重ねた。
末恵の手が梅吉のお腹を撫でるのを止める。
ただ、しばらくそのまま梅吉はそうしていたかった。
しかし、そうしておいてずっと沈黙が続くと、そのうち梅吉自身が焦り出してしまう。
「身長も、そのゴットハンドでどうにかしてもらえませんか?」
片言のような口調で梅吉が冗談交じりにそう言うと、末恵は楽し気に微笑んで、梅吉の腹部にのせていた手を、頭の上に置き換えた。
「大きくなあれ、大きくなあれ」
そう唱えながら、梅吉の頭を撫でた。
まるで、実の姉が弟をあやすように。
梅吉もそのあほらしさに、口端から、笑いが込み上げてしまう。
「ふふふ」
梅吉は目元を隠していた腕で、髪をかきあげた。
そして、自分の頭を撫でていた末恵の手を掴む。
「…今日さ、昼ピザとるんだ。結女子の奢りで、…だからうち来いよ。」
「え、あの綺麗なお姉さん来るの?」
「あと、俺の友達も一人いるんだけど良いかな?」
「良いよ、良いよ。ただピザ食べたいし。」
梅吉は屈託無く笑う末恵を見上げ、そっと重ねた手を引き、ベットから身を起こした。
「あん、あん、あん!」
その時、窓の外から、白太が吠える声がした。
窓を開け庭を見ると、真っ黒になった白太と、3メートル程深く掘られた穴があった。
「「うっわぁ…」」
梅吉と末恵の声が重なる。
一方白太は真っ黒な姿で、嬉しそうに穴の周りを駆けまわっていた。
その姿を、塀に上った黒、白、茶色の猫が並んで眺めている。
「…白太を洗ってから行くね。」
がっくり肩を落とした末恵が言った。
そんな末恵を見ながら、梅吉は何時の間にか離れていた互いの手の感触を名残惜しく思った。
「わかった。ありがとうな。」
梅吉は末恵の顔を見ずに礼を言うと、さっさと部屋から出て、階段を降りた。
「あれ?梅吉君。」
階段下で末恵の母親の、先生に会った。
「オ、オジャマシマシタ。」
「顔真赤よ?大丈夫?」
「大丈夫です!!さようなら!!」
梅吉は慌てながら、頭をさげ、足早に勝手口から出て行った。