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トウトウトゲドロボウ 泥棒スキルで英雄になれ! ~秘め物語~  作者: 等々力 白米(とどろき しらべい)
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親指姫

 暑い暑い夏の日、蝉が世話しなく鳴いていた。

 そんな暑い中、梅吉は、半袖短パンで庭に出ていた。

 縁側から、竹の筒が引かれ、水が流れている。

 そこには、クマと結女子(ゆめこ)末恵(まつえ)と、白太の姿もあった。

 みんなで流し素麺を食べていた。

 クマが縁側から庭に竹橋かけた。筒を横に割った状態の竹を通り、ゆるゆると素麺が流れてくる。

「やった取れた!」

 橋を掲げ喜ぶ梅吉を、結女子は微笑んで見ていた。

「次、ミニトマト行くぞ。」

 竹筒を下るミニトマトは、コロコロ回転し、勢いづいて外へ飛び出てしまった。

「あっ」

 と、末恵が言ったのと同時に、庭の外にいた青年がミニトマトをキャッチした。

「あの、クマ先輩、ご無沙汰しています。」

 団欒に突然現れたのは、20代後半程の青年だった。少し女々しいくらい優し気な顔だった。

「こんにちは先原颯斗です。」

 青年は人受けしそうな表情で挨拶した。

 清潔感のある、細マッチョの登場に、結女子と末恵が目を見開き、嬉々としている。

 そんな女性陣二人を、梅吉は目を半開きにして、横目で見ていた。



 クマは訪れた青年と話しをする為、昼食の流し素麺から席を外した。

 仕方がないので、残された三人は交代で素麺を流して食べた。

「あの人何だろうね。」

 梅吉が素麵を流しながら言った。

「さあね、ミニトマト拾ってくれたし、悪い人じゃないわよ。」

 突然何の前触れも、連絡もなく訪れた青年だったが、梅吉に跳んできたミニトマトを返す姿は穏やかだった。

 結女子はただ穏やかに微笑んだ。

「馬鹿野郎!」

 衝撃音と共に、クマの怒鳴り声が聞こえた。

 殺人鬼を前にしても冷静であったクマが、怒りを露わにした。

 三人は心底驚いた。急いでクマの部屋まで走る。

「絶対に手を切って来い、分かったな。」

 襖の向こうから青年がしゃくりあげて泣く声が聞こえた。

「でも、あの人それを言うと、俺の会社にチクるって、」

 クマのため息が響いて、障子を挟んだ梅吉達の方まで、空気が重くなった。

「クマ、どうしたの?何があったの?」

 障子を閉じたまま梅吉が問いかけたが、クマは大丈夫だと返事をした。

 暫くして青年は帰っていった。

 青年が帰った後、何があったのか再度梅吉はクマに尋ねた。

 勿論、梅が聞いたところで答えるクマでは無い。

 きっと青年のプライベートに関わる事なのだろう。

 もともと表面では感情の起伏の分かりづらいクマだが、確かな情の深さを根に持っている。

 それは身近な人間で無いと分からないかも知れないが。

 クマは自身の性格上、愚痴などは吐かない。

 それから数日間、機嫌が良くないのが周りには感じ取れた。

 本人は我慢しているのだろうが、如何せんその我慢をしている風体が、酷く周りの空気に影響する。

 クマが自分の感情を自分の内側に隠そうとすれば、するほど、それはピリピリとした威圧感となって周りに伝わるのだ。

 クマは優しい。義理堅い。

 誰かを傷つけるくらいなら、自分が傷ついていようと思う。だから他人に心を余り打ち明けない。

 その癖、相手の為ならば、相手に嫌われたとしても、しっかり間違っている事は、間違っていると叱ってくれる。

 例え、それで怨まれたとしても。

 先刻訪れた青年も、そんなクマを信頼して、田中家へ来たに違いなかった。

 どうすれば良いだろうと、梅吉と結女子は悩んだ。

 結女子は素麺パーティの後から、ちょくちょく家に訪れては、タッパーに詰めた、おかずのおすそ分けをくれる。

  勿論、鹿島の家からは、結女子と梅吉の指紋が検出された。

 鹿島も勿論、自分の部屋に不法侵入された事を、警察に伝えている。

 しかし、それらの事実をクマは無理やり『偶然』でねじ伏せた。

 結女子は梅吉といる時に、偶然、疾走した友人のマンション近くまで来て、「もしかしたら、ひょっこり帰ってきたりしていないだろうか。」と考え友人の部屋の階まで上がった。そして間違えて、隣の鹿島の部屋のドアに手をかけたところ、偶然、鍵が開いていた。疾走した友人の部屋だと、勘違いしたまま入った結女子は、部屋に入り、偶然、友人の遺体を見つけてしまった。

 と言う形で伝えてある。

「どうかんがえても、無理やりすぎる。」

 しかし、事件の翌日、結女子に電話を入れ、田中家に事情聴取に訪れた警察に、有無を言わさぬ威圧感で、その場を制した。

 こうして晴れて三人は、口裏を合わせた共犯者になったのだった。

 そうこうして、必死に結女子と梅吉を守ってくれたクマだが、事件後、梅吉と結女子を積極的に指導するでも無く、責めるでもなく、至って普通に接してくれた。

 やってしまった事よりも、クマを怒らせた事に関して、心底怯えていた梅吉と結女子だったが、次第にクマの存在に安心と信頼を覚えるようになった。

「クマといると、こんな俺でも、真っ当に生きたいと願ってしまう。」

 そういう、梅吉の表情に結女子はただ苦笑いした。

「じゃあ、私図書館に行ってくるから、またね。あんまりクマさんの機嫌が悪かったら、うちに来ても良いわよ?」

 結女子はそう言うと、手を振って去って行った。


 梅吉はその後も、クマの機嫌を取るにはどうしたものかと、考えあぐねながら、日課のランニング後、感田川沿いを歩いた。

「君さ、この前女装していただろ。」

 突然話しかけて来たのは梅と同い年くらいであろう、眼鏡のひょろ長い少年だった。

(175はあるな、羨ましい。)

 梅吉に話をかけて来た少年の体格を見るに、多分体育会系ではない。

 なのに、背が高い。

 それが、梅吉には歯がゆかった。

 梅吉は運動神経に優れながら、栄養も欠かさず取っているというのに、中々背は伸びないのだ。

 努力しても得られないものがある。

 一方で、努力せずに何かを得ている人間がいる。

 どうしようもないが、この世は理不尽だ。

 声をかけて来た少年は、梅吉の気持ちもつゆ知らず、自宅の鉄格子越しに、梅吉の顔を除いている。

「何か様なわけ?」

 角の立つ物言いで梅吉は返した。

「そう、殺気立つなよ。ただ君にお願いしたい事があるんだ。」

「お願い?」

 表情の読み辛い眼鏡の青年の眼を、梅は凝視した。

 レンズ越しで分かりづらいが、目から敵意は無い。

 ただ10代にしては物静かで、冷たい印象さえ受ける。

「お前、幾つだよ。」

「15歳、高一だよ。」

「何だ、俺と同じ年じゃん。名前は?」

「加藤 武仁(たけひと)

梅吉は武仁を上から下までじっくり見て、またその顔を覗き込んだ。

「3000円以内で何でも奢るからさ、大型デパートに付き合ってくんない?」

「何だ、そんなことで良いのか?」

「正し、またこの前みたいな女装をしてくれる?」

 間々あって、梅吉は自分が硬直し石化状態になっていた事に気が付いた。

「悪い、俺別にホモじゃないんだ、確かに女装した俺は、それなりの美少女だった…。でも必要があったから、あんな格好をしただけで、決してそういう趣味がある訳では無くて…」

「いや、僕も別にホモじゃないよ。」

 彼は、梅吉に何の抑揚も無く突っ込み、事の次第を説明した。

 

 翌日二人は仲良くそろってデパートに向った。

 物の溢れる、便利な都内に住んでいるというのに、武仁は梅吉を連れて、電車で都下にくだった。

 下町育ちの梅吉には、珍しい緑の多い景色が電車が走る程に増える。

 武仁が下りたのはベットタウンとして充実した南多磨境だった。

 二人は駅から少し歩いた処にあるアウトレットパークに向かう。

 主に家族が休日に遊びに来やすい場所になっていて、レンガ道が美しい。

 子どもの遊べるキッズスペースは、ぐるりとショッピングモールの建物に囲まれており、  何処からでも様子が見れるようになっている。

「武君、梅にはどれが似合うと、思う?」

 梅吉は手近なレディース物の服屋のマネキンたちを指さして、水色のワンピースを翻しながら武仁に微笑んだ。

「用があるのはそっちじゃないから。」

武仁はロングのウィッグに白地のリボンまで付け、可愛くお洒落した梅吉を、冷たくあしらう。

 勿論それらは、梅吉の所有物ではない。ワンピースは武仁の母の私物で、若い頃のモノだから、勝手に出してきてもバレないだろうと言う事だった。

 カツラとリボンは昔学芸会で使ったものらしい。

「酷い。今日は二人の初デートなのに。ぷん、ぷん。」

「何、ぶりっ子の真似してんだ。」

 梅吉の悪乗りに、武仁の目は更に冷ややかになった。

「こっちだ。」

 武仁に連行されて辿り着いた店は、如何にもファンシーな玩具ショップだった。それも小さい女の子用の玩具の。

 ショップ全体が『童話に出てくる森の中の小さなお家』をイメージしているらしい。

 可愛い赤い屋根と作り物の木の柱や壁、中は若い女の子で溢れかえっていた。

「何だ、お前、そういう趣味があったのか?」

「違うよ。皆には内緒で妹にプレゼントを買いたいんだ。」

「成程、これでは一人で来れないもんな。女の下着屋に一人で入るくらいの恐怖だ。」

 梅吉は店先で仁王立ちになりながら一人納得していた。

「いや、ちゃんと女の子に見えるんだから、そのたち方やめろよ。」

「うふ」

 武仁の文句にここぞとばかりに、梅吉は膝をかがめ、両手をあごの下で繋いで、上半身をかしげて見せた。

「げふ」武仁は噴いた。

「ほら、武ちゃん!さっさと中に入るわよ!」 

 梅吉は目的の商品も分かっていないのに、自分から店に入っていった。

 武仁は梅吉の勢いに釣られる様に店に入る。

「ああ、これだ梅吉君はどれが良いと思う?」

 店内に入ると、目的のモノを見つけたらしく武仁は指さした。

 パックされたお人形の服で『当店限定』と書かれている。

「限定って言っても、そんなの今ならネットで買えるだろ。」

 梅吉は言った。

「そうなんだけどね。パソコンで親に履歴を見られる可能性があるんだ。このことは秘密にしておきたいからね。」

「履歴何て、消せば良いじゃん?」

履歴を消したとしても、僕はクレジットを持ってないから、振込書の郵送を待つことになる。その郵送を家族に見られてもやっぱバレてしまう。1人でここへ買い物に来ることも考えたんだけど、恥ずかしいし、少ない確率だけど、知合いに出くわす危険性を考慮したんだ。」

 武仁は恥ずかしいと言うわりには、淡々と説明した。

「そうか、何かごちゃごちゃした事はわかんねぇけど、この俺を彼女役に選ぶお前は、見る目のある奴だ!」

 梅吉はワンピース姿で仁王立ちして腕を組んだ。

「断じて彼女にした覚えは無いぞ。」

 武仁は梅吉に冷静に突っ込みを入れつつ人形の服を選んだ。

 限定商品は3種類しかなく、デザインもさほど変わらないが、武仁の目は真剣だ。

 確かにこの様子を知合いに見られたら恥ずかしいかもしれない。

 梅吉は、嘘を付いている人間が本能的に分かる、どうやら武仁は嘘を付いていない。

 妹に人形の服をプレゼントしたいと言うのは本当のようだ。

 淡々とした武仁の喋り方には抑揚が感じられないが、梅吉の質問に、細かい説明を入れながら答えるところを見ると、彼は基本的に誠実なのだろうと推測した。

「妹さんの人形はどんなやつなんだ?」

 少し真面目になって一緒に選ぼうと、梅吉も人形の服が並ぶ場所に屈んだ。

 二頭身の人形の服が、パッケージに入って並んでいる。

「うわっ!こんなおやゆび姫サイズの服が、一万円もすんのかよ!」

「しー!しー!」

 思わず叫ぶほど声が出てしまった梅吉を武仁が止める。

 周りを見ると他のお客たちが驚いて梅吉を見返していた。

 「やだー、梅子びっくりしちゃったぁ。」

 梅吉は必死で女の子のふりを今更ながらして見せた。

 手のひらほども無いサイズの服の高額な値段。

 まだ内心動揺していた梅吉はこれを本気で買うのかと、武仁の真意を疑った。

 きっと価格についても事前に知ってたわけであろう、真剣に選んでいる武仁を横目で見る。と、武仁はしゃがみ込んで、両手にパッケージされた商品を抱えながら、ただ目の前を見つめていた。

「武仁?」

 武仁が放心しているように見えて、梅吉は声をかけた。

「ああごめん。そうだな、どんな人形だったかわ忘れちゃった。」

 嘘だ。と、梅吉は気が付いた。

 どうして今嘘が必要なのか分からなかったが、悪意はなさそうなので、それ以上詮索するのは止めた。

「そっか、そうだな、サイズはこれなんだろう、だったらやっぱお姫様は白のドレスが良いわよね。うふ。」

 また梅吉がわざと女の子っぽくふざけた調子で話す。その時武仁は梅吉の前で初めて声を出して笑った。


 二人はその後、モール街にあるビュッフェ形式のレストランで昼食を取ることにした。

「あれ、あれは。梅吉君?」

 偶然女装した梅吉と見知らぬ少年が一緒にいるのを目撃したのは結女子だった。

 そう、武仁が懸念した『少ない確率』は梅吉の身に起ったのだ。

 自分の斜め前方に楽し気に談笑しながら席に着いた梅吉に結女子は驚いた。

「結女子、どうかした?」

「あ、いいえ。」

 今日は前にいた会社の先輩とランチの約束で、その場に居合わせた結女子だった。

「それでね、うちの旦那ったら自分の店では料理するのに、うちでは洗い物一つやんないのよ。私が見つけた物件で自分の店を持てたって言うのにね。」

 結女子は先輩の話に笑顔で頷きながら、梅吉の事が気になってしょうがなかった。

 梅吉は完璧に女の子に見える。

 (と、するとやはりあれはデート何だろうか?)

 てっきり梅吉は末恵を思っているのだとばかり信じていた結女子の考えが揺らぐ。

 梅吉は中性的な顔をしているし、男の子にモテても違和感が無い。

 寧ろ、元気っ子で、愛嬌があり背が低い梅吉を可愛いと思う同性愛者がいたとして可笑しくない。

 梅吉と一緒の男の子が席に着くと、男の子の方の携帯が鳴った。

 それを遠くからガン見している結女子。

「悪い、梅。先に料理取ってきてくれ。僕連絡しなきゃ。」

 梅吉が案内された席を立って料理に向かうのが見えた。

『いまだわ!』

「千歳先輩、私もう一回料理取って来ますね。」

結女子は距離を図りながら梅吉に近づいた。

梅吉は嬉々として料理の山を取り皿に作っていた。

 ピザをピザの上に重ね、ミルフィーユのようにしている。

 更にそこに揚げ物を乗せ、ポテトサラダを乗せ、あれこれてんこ盛りにして喜んでいた。

 いつもの梅吉と別段変わらない様子に、結女子はマカロニをよそう彼の横にさりげなくたって、その肩に手を置いた。

 振り向いた梅吉が青い顔をした。

 「結女子…。」

「そのワンピ、良く似合ってるわね。」結女子は観音の様に微笑んでいた。

「これは、友達から借りたんだ。」

 梅吉は明らかに狼狽えていた。

「梅吉君。私はあなたにどんな趣味があっても否定しないよ。勿論恋愛に関してもね。」

 切なげな表情で向き合われて、梅吉は絶句した。

「梅、どうしたんだ?」

 携帯の用事が済んだのか、武仁がお皿を持って、梅吉に近づいてきた。

 結女子が梅吉の知人だと気が付き少したじろぐも、彼らしく慇懃に「こんにちは」と言った。

 結女子は梅吉と一緒にいる少年が、悪い男ではないと分かり安堵した。

 「じゃあ、デート楽しんでね。」

 「だから、そうじゃないって!」

 梅吉の訴えも虚しく、結女子はいそいそと待ち人のいる席へ帰っていった。


 その夜、武仁は自分の家の裏庭の、ある一か所を掘り返した。

 目的の位置まで掘り終えると、昼間に梅吉と買いに行った、お姫様の服のパッケージを音を忍ばせながらこっそり開けた。時刻は深夜2時。家や町は寝静まっている。

 武仁が妹に買ったお人形の服のは白地にラメの付いたドレスで、同じ生地のマントとプラスティックのティアラ付き。値札には4980円(税別)とあった。

 武仁はそれを掘り返した穴の底に丁寧に置いた。そして掘り返した土を優しくかけていく。

「こんな事しか出来なくて、ごめんな。」掘り返した土を全てかけ終えると、そっとその上に手を置き呟いた。



 新月は物事の始まりを意味する。

 太陽と月が同じ場所で重なったその日から、月満ちる満月に向かって、目的を果たしていく。

 その女の子の妖精は夏の新月に生まれた。

 地中で目覚め、自分にあてがわれたであろう白いドレスを身に纏う。

 そして星空を眺めた。青い羽が天を舞う波に呼応する。

 すると、自分とよく似た男の子妖精が現れた。

 葉っぱを服代わりに身に纏った妖精は、女の子の手を取り、宙を舞ってダンスした。

 男の子は母親の母体にいた頃からよく聞いていた歌を口ずさみ、女の子に教えた。

 二つの声が重なり合い、空を舞う。

 きらきら夜に瞬く、青い光。

 二つの影は電線の狭間に、静電気を花火の様に散らし消えた。

 夏の短い夜を、二人の妖精は散歩する。


 新月の翌日。季節は梅雨明けし、毎日の気温は30度を容易に通り越していた。

 基本健康体で元気な梅吉もこの暑さとムシムシした空気に当てられ、これでは外に出ては危ないと、リビングで高校に通うための勉強をしていた。

「一科目でも自分の好きなものを見つければ、きっと学校が楽しくなるわよ。」

 結女子はそう言うと、ここぞとばかりに自分の好きな国語の教科書を勧めてきた。

 昨日デートの現場を押さえられ、今日嬉々として梅吉に会いに来た結女子。

 何時もなら、おかずを渡したら帰るのだが、今日は玄関まで出て来た梅吉が、しんどそうな顔でボールペンを握りしめているのを見ると「勉強教えようか?」と言って、家に上がったのだ。

 すると、自室にいたクマもリビングに顔を出して来た。

 最近はやっと本調子になって来たようで、梅吉が結女子に勉強を教わるのを、何時もの無表情で眺めていた。

「今の内に簿記でも取っとけばいい。」

 やっと、文章問題が一通り終わったところで、クマが言った。

 結女子は自分の好きな今日かばかり勧めてきたが、クマはクマで、実用的なアドバイスばかりしてくる。

 結女子とクマをうんざりした顔の梅吉に向き合って話していると、窓の方からパトカーと救急車のサイレンが聞え来た。

 何となく胸騒ぎがした梅吉は、「野次馬は良くない」と言うクマの制止も聞かづに家を飛び出した。

 パトカーと救急車は感田川が大梅街道に差し掛かる角の一軒家で止まった。

 その一軒家は武仁の家だ。既に人だかりが出来、家の出入口が囲われている。

「奥さんが突然倒れたそうよ。何でも叫び声が聞こえたんですって。」

「まぁ、恐いわ。」

 野次馬の群れからそんな会話が聞えて来た。

『武仁の母親が倒れた?』

「すいません。ここの兄妹は無事何でしょうか?」

 梅吉は焦り気味に普段使わない丁寧語を見知らぬ人に使い、声が少し上ずった。

「あら、ここのお子さんは一人っ子よ。」

「え?」

 梅吉はその瞬間青ざめた。脳が知覚するよりも、体の感覚が何か悪い事が怒っていると恐怖を察知した。

 クマと結女子は梅吉の後を追いかけてきていた。

 人一人分離れた後方から、梅吉が近所の人と話しているのを聞いていた。

 クマは、事件の事を知り、空かさず先原颯斗に電話をかけた。

 「すまん。ちょっとでてくる。」

 結女子に一声かけると、捕まえに来たハズの梅吉をよそに、呼び出し音を鳴らしながら何処かへ行ってしまった。

 クマは気が付かなかったが、聞きなれたクマの声に梅吉は振り返り、クマが何処かへかけて行くのを見ていた。

 残った結女子と目が合う。

 「クマは誰に電話かけてた?」

 梅吉の目が尖る。

 「さぁわからないわ。」

 嘘だ。と、梅吉には分かった。

 結女子は言ってからしまったと口に手を当てた。

 本当はクマの携帯の画面と会話で誰に電話をかけたのか分かっていたのだ。

 梅吉が結女子を上目使いで睨みつけていた。

 結女子は胸がつまり、一歩引く。

 折角最近良好な関係を築いていたのに、小さな亀裂が入ったのを感じた。

 「梅吉君」

 結女子はあたふたしながら名を呼び、戸惑った。

 (違うの、嘘を付きたいんじゃなくて、あなたを巻き込んじゃいけないと思うの。)

 結女子にもクマが何故先原に電話したのかはわからなかったが、事件が起こってるのを見て、取り急ぎ連絡を入れた所を見ると、厄介な事が起こってるのは事実だ。

 クマは以前結女子に、大人の事情で梅吉を振り回したくないと言っていた。

 結女子も一度は梅吉を厄介ごとに巻き込んでしまったが、今は自分もクマと同じ気持ちだ。

 しかし、結女子はあたふたするだけで、何も言葉が出てこなかった。

 大人として落ち着かなければという理性より、梅吉に何かあった時の不安の方が勝って、つい俯いてしまった。

 それを見た梅吉は、二人が知っていることを自分だけ知らされてないような、省かれた思いになった。

(やっぱ、大人は嘘つきだ。)

 そんなすねた思いが、梅吉の胸にふっと沸く。

 「すいません。あなたこの間、近所で発見された水原恵さんのご友人ですよね。」

 沈黙する梅吉と結女子の間に割って入って来たのは、警察の関係者と思わしき、爽やかな笑顔の青年だった。

「あ、はいそうですけど。」

 結女子の歯切れの悪い返事に、青年は可愛らしく首を傾けてほほ笑んだ。

 ((女慣れしてるなぁ。))

 結女子と梅吉は心の中で同じ感想を持った。

 「突然すいません。私刑事課のこういう者でして。ちょっとお伺いしたい事があるのですが、この後30分程宜しいでしょうか?あ、勿論。コーヒー代くらい持ちますよ。」

 手帳開きながら、畳かけて明るく喋る青年刑事。

 ぺらぺら流暢に喋る姿は如何にも世渡り上手な人柄を伺わせる。

 結女子は振り返りながら遠慮がちに梅吉を見た。

「俺はいいから行って来いよ。」

 梅吉はぶっきらぼうに言った。

 結女子は頷くと、嘘くさい程爽やかな青年刑事についていった。

 野次馬の集まる中、一人梅吉は去っていく結女子の背を見ながら棒立ちになっていた。


 一方先原颯斗は、クマからの電話を取り、事件の事を聞くと、逃げるように自宅から飛び出し、自宅マンションビルの屋外階段にへたり込んだ。

 警察が自分の処に事情聴取に来るのを恐れて、人の来ない場所に移っろうとしたのだ。

(あの人と自分とのやり取りが明るみになってしまったら、仕事が続けられなくなる。)

「何で、何で、自分がこんな目に合うんだ。こんな事で俺の人生はダメになるのか?」

 怒りが沸いてきた。向かう先の無い思いに捌け口を探す。

 さっきまで晴れていた筈なのに、空は曇り、今にも雨が降りそうだ。

 (ああ、本当に俺はついていない。)

 階段に座り込み携帯スマホを開くと、ネット上に委名で罵詈雑言を書きなぐった。

『死ね、死ね、死ね、死ね。』

『スポーツクラブでトレーナーに色目使う色ボケババア。』

(自分は悪くない、自分は悪くないんだ。悪いのは既婚の癖に俺と付き合った女の方だ!)

「畜生、死にてぇ。何で俺ばっかこんな目に合うんだ。」

「死にたい?」 

「死にたい?」

 颯斗の頬に何かが飛んできた。

 それは、青い電波のトゲだった。

 次には、血が頬を伝う。

 颯斗が誰でも無い誰かに吐いた文句に、疑問形で返してきたのは、スマホの画面から現れた二人の青い妖精だった。

 トゲは青い妖精の吐いたものだ。 

「ひっ!」

 突然現れた奇怪な生き物は、目は無く何処を見ているのか分からない。お風呂に浸かる様に、画面から半身を出し颯斗に笑いかけている。

「ひゃああああああ!何だあっち行け!」

 颯斗は驚いて携帯を三階ビルの上から投げ捨て、階段を転げ落ちた。

 青い妖精は携帯と一緒に落ちる前に、画面から勢いよく飛び出す。

「「死にたい!死にたい!」」

 青い妖精達は叫びながら口からトゲを吐いた。

颯斗は咄嗟に腕で胴体を庇う、転んだままの颯斗の腕に幾つものトゲが刺さる。

笑う青い妖精は、目も無いのに颯斗の位置が分かるようで、頭上で舞いながら飛んでいた。

「この、化け物!俺が何したって言うんだ!何で俺ばっかり!」

「「化け物!俺が何したって言うんだ!何で俺ばっかり!」」

 叫んだ颯斗の鼻の穴に妖精たちが飛び込み、無理やり身体を押し込んだ。

 すると次には、吸い込まれるように颯斗の体内に吸い込まれる。

 颯斗の口真似をしながら、颯斗の体内に滑り込んでいく。

 そして勢いよく颯斗の肺に入り、中から肺にかぶりついた。

「うああああああああ!」

 颯斗は吐きながら白目をむいて倒れた。

 妖精達は颯斗の背中をすり抜け、宙に浮き出ると、笑いながら天高く舞い上がり、曇り空の雲に潜ってしまった。

 妖精達が消えていった雲から雨粒が落ちる。

 雨は次第に激しくなり土砂降りになった。


 その夜には突然の豪雨も過ぎ去り、綺麗な星空が空に浮かび上がった。

 その夜のうちに加藤武仁の母。加藤裕美と先原颯斗の不倫関係は、警察の調べにより明るみになった。

 警察の会話を近所の人が『偶然』聞いていた。

 そして、それがご近所に広まり、明るみな噂となる。

 武仁は母が不倫をしていたのを知っていた。

 ただ今回の様な形で明るみになってしまい、母を気の毒に思った。

 そして、不倫について警察に聞かれたものの,不倫相手の犯行では無い気がしてならなかった。

 警察が帰った後、武仁は自宅の庭にたった一つだけ、大きな穴が開いてるのを見つけた。

 そこは母が自分が流した子を埋めた場所だった。

 その時、刃傷沙汰以上の恐ろしい事が起こっていると感じ取り、武仁は全身血の気が引いて青くなった。


 颯斗が奇怪な出来事に出くわしていた頃。 

 梅太郎達の自宅の近くの喫茶店で結女子は青年刑事と一緒にいた。

 店内の壁を隔てた奥の席を選んだので、カウンターに話声が聞こえる事は無いだろう。

 平日の喫茶店には、客は数名しかおらず、照明を落とした店内で、コーヒーに合ったジャズが心地よく流れていた。外の雨音と共に穏やかな静寂を演出している。

「突然、連れ出してしまってすいません。私はこういうものです。」

 改めて警察手帳と名刺を出された。名刺の渡し方が丁寧で育ちが良い事を思わせる。

 手渡された名刺には端っこにネギが描いてあった。

「わたくし、九条 智義と、もうします。勿論本名ですよ?」

 きっと、名刺に描かれたネギのイラストに突っ込んで欲しいのだろうな。と、思いながらも、あえて結女子は形式的に名刺をテーブルの端に置き、何も意見を述べなかった。

 目の前の九条刑事は、ちょっぴりがっかりして肩を落としている。

「私に聞きたいこととは何でしょうか?」

 何時もより覇気のある声で結女子は聞いた。

 見目好く、お喋り上手な青年を目の前に、あえて真っ直ぐ背筋を伸ばし、席に腰かけている。

(こういう人は、上手く雰囲気で話を自分の都合の良い方に流すからな。)

 九条刑事は結女子の目を見て、小手先のコミュニケーションでは結女子の警戒心を解けない事を悟ると、愛想笑いを止め、真面目な顔で話し始めた。

「ご存じでしたか?先ほど変な叫び声が聞こえたと通報があって、あんな野次馬が出来ていた、あの家の奥さん。水原 恵さんと同じ音楽事務所に所属していたらしいですよ。まぁ大分昔の事ですけどね。確か、『プリンセス音楽事務所』でしたっけ?」

 愛想笑いが薄れた九条刑事の物言いは、少し小馬鹿にした口調だった。

「私がいる近所で、二件もおかしい事件が続いてるから、私を疑っているんですか?」

 結女子は九条刑事の紆余曲折の有る物言いを、ガン無視して率直に告げた。

 九条刑事は目を見開いて、しばしあっけに取られた。

「…いやあぁ。犯罪行為を行ってるとまでは特定できませんよ?何らかの形で事件に関与されているのでは無いか、わたくしとしては心配してる次第なんです。」

 再び愛想笑いで取りなしながらも、九条は結女子の気の強さに内心少々慌てふためいていた。

 ぱっと見、幸薄そうな結女子を雰囲気に流され安いタイプだと踏んでいたのだ。

 結女子は目を伏せ、膝の上で重ねた両手に力を込めた。

 目を閉じ思考に集中する。

 目の前の初対面の女が突然目を閉じて黙り込んでいるので、何事かと九条刑事は思ったが、今身動きすることは許されないと思えた。

 九条刑事は何とか有益な情報を結女子から得る為に、彼女を自分のペースに持ち込みたいところだった。

 しかし、顔が良くお喋り上手なだけでは、結女子の機嫌は取れないようだった。

 先の事件で怪しげな痕跡を現場に残して起きながら、警察と言うものに圧力を感じている様子もない。

 寧ろ、警察への嫌悪さえ読み取れる。

 友人の疾走直後、相談を持ちかけて来た結女子に警察が彼女が望むほど誠実には、取り合わなかったせいかも知れない。

 鼻から信用されていないなら、雰囲気で相手を流すのは難しい。

 圧力をかけて言う事を聞かせれば、彼女は正面突破で反論してくるだろう。 

 ならば、どうすればいいかと言うと、こういう場合誠実さを示す他ならない。

 相手のペースに合わせて、着実に信頼を得る。

 結局小手先で人を扱う事で得られるモノなんて無いと智義は知りえていた。

 多少で良いから信頼を得て、そして隙を見て、または折を見て情報をお伺いする。

(時間がかかるな。まどろっこしい。)

 九条刑事は薄笑いを浮かべたまま、胸の内でぼやいていた。

 静かな二人の間の空気に反し、窓に打ち付ける雨音が次第に強くなった。

 一分経っただろうかというところで、結女子が目を開けた。

 「私があなたの足になりましょうか?」

 思わぬ申し出に、野心に満ちた眼で九条刑事はにたりと微笑んだ。

 外で雷の音が落ちた。年若いウェイトレスが短く叫ぶのが聞えた。

 彼の整った顔が雷の光で陰る。

「ふふふ」

 猫かぶりの外れたそ表情に、結女子は初めて彼に微笑み返した。


 一方クマは先原颯斗の自宅に着いていた。

 クマの自宅の最寄り駅から6分先の駅で、最寄から歩いて20分。

 クマの走りだと7分で着いた。

 颯斗に電話したのに、突然途切れてしまってから、ずっと応答がない。

 胸騒ぎにせかされてクマが先原マンションに向かうと、マンション裏、外の螺旋階段で颯斗が気絶してるのを発見した。

 急いで階段を登り、駆け寄ると、颯斗は放尿したまま気絶していた。

 クマは自分のかけた電話がそんなに彼を当惑させたのかと、一瞬困惑したが、取り合えずこのままではいけないと思い直し、彼を担いで部屋に向かった。

颯斗のポケットから鍵を拝借し、中へ入り、何も異常が無い事を確認すると、彼を着替えさせ、ベットに横たえてやった。

「熱は無いな。」

 クマはまるで母親がする様に、颯斗のおでこに手を当てた。

 暫くして、颯斗は目を覚ました。

 颯斗は目の前のクマを見ると泣き始めた。

「…あ”。」

「颯斗、何があったんだ?」

「…え”!」

 颯斗は必死でクマに話そうとしたが声が出なかった。

 本人も今気づいたと言う様子で驚いている。

 天井に向って叫んでも空気が体内から漏れる音がするだけだった。

「もういい、もういい!落ち着け。」

 クマに肩を掴まれ颯斗は声を出そうとするのを止めた。

 自分の手を握りしめ悔し気に泣き始めた。

 クマは暫く何もせず、そのまま颯斗のベットの横に座っていた。

「また来る。何かあったら連絡入れろ。」 

 1時間程たってようやく颯斗が落ち着いたところで、クマは立ち上がりそう言った。

 目を真っ赤に腫らした颯斗は二三度強く頷いて答えた。


 クマは帰りがてら、車窓に映る自分を睨み付けた。

(自分が世話をしてやるから、うちの会社に来いと言ったのに何て体たらくだ。)

 クマはもっと事前に自分が声を掛けていればと後悔した。

 クマは颯斗がスポーツクラブの女性の何人かと、デートをしている頃から心配はしていた。

 しかし、恋愛と言うのは本人たちの自由であり、自己責任だ。

 口出しするような事は、してはいけないと思っていた。

 また、クマは以前から颯斗が一部の同性から嫌われる傾向にあるのを知っていたので、少し異性にちやほやされる機会があってもいい様に思えたのだ。

 それがまさか、人妻と関係を持つまでになるとは思っていなかった。

 走って颯斗の家に向った以外、それ程動いてもいないのに、クマは疲労困憊で、背中に見えない重石でも背負ってるように、項垂れていた。

 クマの重苦しい溜息に、周りの乗車客は一瞬飛び上がったり、またはコソコソ話しながらクマを見ていた。

 クマの周りには半径1メートルの空間が出来た。

 電車が目的地へ着くと、やっとクマは胸を撫で下ろし、ホームへ降りた。

 表情は変わらないものの、帰宅を目前にしたクマの足取りは軽くなっていた。

 クマの脳裏にあるのは、梅吉と結女子の笑顔だ。

 ホーム階段へ向う。と、目の前のベンチから男が立ち上がり、まだベンチに座っていた女の手を引いた。

 その女は結女子だった。 

 結女子が見目の良い好青年に手を引かれ、トランクを片手に、車両へ吸い込まれる様に入っていった。

 突然の事にクマの思考が止まってしまった。

 一方結女子はクマがいた事にも気が付かづ、九条刑事といた。

 自分から協力を申し出たものの、半ば強引に今日中に宿泊の用意をし、自分の処へ来るように言われ、少々気負いしていた。

 気負いした手を、お姫様をエスコートするように、引いた九条刑事は至極嬉しそうにしていた。

「良かった、間に合わないかもと、思っていたんです。」

 その「間に合わない」と言うのは、結女子がこの電車に乗れた事を示している訳でない。

 それは、結女子にも分かった。

 可愛い九条刑事の笑顔を睨み付ける結女子。

「お給料はちゃんともらいますからね?」

 微笑み続ける結女子に九条刑事は軽く笑うだけだった。

 クマが家に帰ると誰もいなかった。

 携帯を見ても、梅吉からの連絡は入っていない。

 時刻は20時。普段なら梅吉は夕飯を食べ終えている時間だ。

 クマはメッセージで「何処にいるんだ」と梅吉に送った。

 クマの携帯は梅吉の携帯の位置を確認できるようになっているので、聞く必要は無いのだが。

 ラインで連絡するように打ってから、クマは残り物の冷や飯で簡単にチャーハンをつくり梅吉を待った。

 しかし、一向に連絡は来なかった。

 仕方なくGPSを確認し、梅吉の居所を脳裏で辿る。

 と、辿った先が昼間に事件のあった家である事が分かり、クマは眉間に皺およせた。

 クマは親代わりとして、梅吉を危ない事に巻き込ませたくは無いと思っている。

 特に、警察と関係する事を極力避けさせたかった。

 今後は過去と違った穏やかな人生を少しでも過ごせるように。

 しかし、何故なのか、クマの思いに反するように、夏になってから、梅吉は何処か楽しみながら人様の問題事に首を突っ込んで言っている。

「お前みたいな人間が、一番利用されやすいんだぞ。」

 クマはライン画面に表示された梅吉に向って吐いた。

 その写真はまだ梅吉が施設に居た頃のモノで、撮影者に向って鋭い目つきで向き合い、今にも噛みつきそうな勢いのある顔をしていた。

 その画面を眺めていると、クマの思いに答えるようにスマホが震えた。

『たったら~、たったたぁ~たったら~♪』

 すっとんきょな着信音は以前、梅吉専用で設定したものだ。

「今何処にいるんだ。」

 普段低いクマの声が更に低く響いた。

 携帯越しに思わず肩を震わせる梅吉。

「ご、ご、ご、ごちそうさま。」

「いや、何でだよ。」

 横にいた武仁が思わず梅吉に突っ込んだ。

「いやいや!ごめんなさい!」

 携帯越しのクマの無言の圧に、梅は身を縮こまらせる。

「昼間、パトカーが何台も来ていた家にいいるんだな。」

 間々あってクマが喋った。

 普段聞き慣れているハズのクマの声は、電話越しだと、重く低く、身体を芯から揺るがす。

「いや、友達が心配でさ。」

「だからって、連絡くらいしなさい。」

「何だよ、母ちゃんかよ!」

「お前は、自分の立場が全然わかっていないのか。」

「…。いや分かってる…つもりではあるけど」

 その後、十分程無言電話が続いた。

 クマも梅吉も同じところにはいないものの、携帯を耳にかざしたまま、仁王立ちで静かに苛立っている。

 違う場所にあって、互いを想う思いは同じはずなのに、心が通わない。

 苛立つ梅吉に見かねた武仁が、梅吉の携帯を手から奪い、電話に出た。

「もしもし、すいません!梅吉君の親代わりの方ですよね!?僕、加藤武仁って言います!」

「あ、はいどうも。梅吉の親代わりの田中 球磨です。」

 電話越しの初対面で、いささかまくしたて気味に自己紹介をする武仁。

 大人びた少年にクマは不意を突かれてたじろいだ。

 頭に登っていた血液が急激に下降し、思わずソファに腰かける。

「梅吉君は、僕を心配してきてくれたんです。お恥ずかしいのですが、僕も突然の事で何にも出来なくなってしまっていたところでして、かくかくしかじかで、こんな遅い時間まで梅吉君を足止めする事になってしまい、かくかくしかじかは、角角鹿鹿何です!!」

「…成程、良くわかりました。」

「どういう事!?」

 二人の会話を聞いていた梅吉が突っ込んだ。

「梅吉に変わってもらえますか?」

「はい!」

 武仁は姿勢を正し、梅吉に携帯を返した。

「梅吉」

「はい」

「何時かえるんだ?」

「明日の朝には帰ります。」

「わかった。お休み。」

 梅吉の言葉を待たずにクマは通話を切った。

「凄く良いバリトンボイスで緊張した。」

 武仁が項垂れている梅吉の背中に向って言った。 

 泣き果てて目を赤く腫らしたその顔に、今日初めて笑顔があった。

 「ああ」

 梅吉は自分の携帯画面を眺めたまま答えた。

 その画面はクマから連絡があった際、設定したものだった。

 後ろからその画面を武仁が覗く。

「ヒグマだな。」

 画面のヒグマは川で、牙をむき出しにし、魚を採っていた。

 相撲のシコを踏んでいるポーズで腕を胸の内側に回し上げ、鋭い爪で魚を打ち上げていた。

 魚は反転し、腹に鮮明な3本の赤い傷が刻まれている。

「クマさんて、お前の中でこんなイメージなのか?」

「うん。」

 梅吉はクマを思いながら、暫くそのままその画面を眺めていた。


 その頃、結女子は颯斗の自宅にいた。

 颯斗の自宅は首都の港町に程近い、セレブの街、六本歩にあった。

 戦後数多の大使館がこの地域に儲けられる事で、いち早く発展した繁華街と、ビジネス街は、今も尚、年々洗練されていく。

 常に、この街での名を上げようと起業する飲食店や服飾店を始めとしたサービス産業が後を立たない。

 六本も道を跨いで歩けば「あれ?こんなところに、こんな店あったっけ?」と言う場所が見つかる事から、『六本歩』と言う名が付いた。

 そんなどう考えても、セレブしか住めないような六本歩の物価の高そうな場所に、九条刑事の自宅はあった。

 六本歩の一角のマンションで、16階のその部屋は、リビングが鏡張りで、街が見渡せる様になっていた。

 そこに連れてこられた時点で九条刑事が良いとこのお坊ちゃんなのは結女子にも分かった。

 警察に副業は出来ないし、九条の立ち居振る舞いは、気休めにマナー本を読んで身に着けたモノでなく、生活で得たものに見えたからだ。

 (10代や20代後半の頃なら、イケメンにこういうところに連れて来られたら、私も心底喜んだんだろうな。)

 しかし、今の結女子には、玉の輿に乗るよりも、大切な事があった。

 友人の恵が、何故死んだのか?

 何故、恵が鹿島に剥製にされていたのか?

 その経緯をしっかり知りたいと考えていた。

 結女子の中では事件後も何かが引っかかっていた。

 自分の友人である恵自身にも問題があったにしろ、恵が疾走し真面目に探そうとしなかった音楽事務所等への不信感から、腑に落ちない思いを抱いていた。

 そして、今日九条刑事から、恵と、今朝事件が起こった家の主婦が同じ音楽事務所だと言う事を知った。

 もしも、何かしらの環境が恵を事件に追い込んだなら?

 その深層を結女子は自分が突き止めないといけないと考えた。

 毛の長い白い絨毯の上、本革のソファに座りながら、結女子は携帯画面を見つめて、眉間に皺を作っていた。

「そんな顔してると、皺が後になっちゃうよ。」

 お洒落なグラスに二人分のスパークリングワインをついで来た颯斗が言った。

 相変わらず薄っぺらい愛想笑いをする颯斗に特に反応することなく、結女子は画面を見つめ続ける。

 危険な事に関わるなら、暫く梅吉やクマに関わる事は避けなければいけないと思うと、今朝会ったばかりの二人を尚更恋しく思ったのだ。

 全く反応しない結女子の携帯を颯斗が覗くと、その画面には、赤いリボンを付け、やや生真面目な顔をしたテディベアが写っていた。

「テディベアが好きなの?」

 テディベアの画面は結女子が優しい時のクマをイメージして設定したクマのプロフィール画面だ。

「…あなたには関係ない事です。」

「手を組むんだから、お互いの事を知らないと。」

 もっともな事を言ってくる颯斗を横目でにらんでから、結女子は大きくため息を付いてから、携帯を横に置いた。

「そうですか、なら私も不思議に思っているので聞きたいのですが、随分あなた、羽振りが良いようですね?」

 意味ありげに言う結女子に、口端をあげ颯斗は笑った。

「恥ずかしいけど、僕は良いとこのお坊ちゃんなんだよ。」

 そう思いました。と、言おうとして結女子は辞めておいた。

 本人が自分からその様に言うと言う事は、その様に言われることに、既に慣れているからだ。

 わざわざ言う必要が無かった。

 九条刑事は自分で自分を皮肉った事に何も言ってこない結女子の顔を見て、楽し気に目を細めた。

 結女子の分のグラスをテーブルに置くと、自分の分をたったまま勢いよく飲んで、向かいに座る。

 と、引き出しから、分厚いファイルを出し、結女子の前に広げた。

「これは、『プリンセス事務所』の情報ファイルですか?あなたは細かい事件の大本を釣り上げて手柄が欲しいんですか?」

 あえて冷たく質問した結女子に対し、至極満足そうに颯斗はまた微笑んだ。

「違うんですか?ていうか、何ずっとにやにやしてるんですか?」

「いや、僕って結構見た目が良くて爽やかでしょ?だから僕に対してそんなにつんけんする女性って珍しくて、つい嬉しくなっちゃったんです。」

 本心から言ってる九条刑事。

「マゾですか。」

 結女子は呆れた。

 颯斗はネクタイを緩め、足を組んだ。

「僕はさ、知りたいんだよ。人生を間違えてしまう人間と、立ち上がって強く生きる人間の違いを。」

 颯斗の言葉に結女子はテーブルの上のファイルを、ぺらぺらめくり始めた。

 3ページ程読み進んだところだろうか、結女子の顔が至極険しくなり、終いに音を立ててファイルを閉じた。

「知りたいと言うだけで、相手の心を憶測で断定したり、また学があるだけで他人の事まで知った気になっている人間が、私は好きではありません。」

 結女子は鋭い上目図解で颯斗に告げた。

「ふ~ん。誠実な意見だね。でも、僕の憶測は中々的を得ているし、今後の解決に役立つだろう?あなたみたいに誠実なだけで、一体どのくらいの人を救えるだろうね?」

 結女子に睨み付けられても、酔いが回って顔を赤くした颯斗には効かなかった。

「フィロソフィア」

 楽し気にその言葉を口にした颯斗に、硬い表情だった結女子が目を見開いた。

「『知への愛』僕が唯一信じている宗教さ。」

「あなたに愛はあるの?」

「…どうだかね。」

 結女子の問いに颯斗は顔を歪ませた。

 暫くして、颯斗はそのままソファで寝入ってしまった。

 心底幸せそうに寝入っている。

 「スパークリングワイン一杯でそんなに酔ったりする?」

 寝入った颯斗に呆れながら、結女子は颯斗が出した分厚いファイルをずっと読んでいた。

 その中には亡くなった恵の情報もあった。

「何で、こんなに分かっていて、助けてくれなかったのよ。」

 質問系で責める言葉を吐いたが結女子には答えが分かっていた。

 ファイルの最初のページに書かれていた表題を見返す。

『寂しいという感情から犯罪が生まれる。』

 確かに恵は寂しい女だった。

 そして、結女子はその恵の寂しさに寄り添えなかった自分を責めた。

 数少ないファンに身を売り、所属していた音楽事務所にしがみつき続けた恵。

 それは、一人寂しく新しい場所を探し向かうより、不満を抱えながらも慣れた場所にいる方が、楽だったのだろう。

 恵は狡くて、弱くて、駄目な人間だった。

 しかし、色々思うところはあるモノの、恵は結女子の大切な友人だ。

 それは決して変わらないのだと、結女子は自分に言い聞かせ、徹夜でファイルの内容を頭に叩き込んだ。


 武仁の家から警察が去った1,2時間後、心配した梅吉が彼の家に行くと、本人は当たり前だが、物凄く疲れ果てた顔をしていた。

 覇気がなく、目はどんより垂れ下がり、猫背で小突いただけで床に突っ伏しそうだ。

「大丈夫か?」

 武仁は何も言わなかった。

 ただ擦れた声で「こっち」と言うと、リビングまで通してくれた。

「友達も連絡くれたんだけどさ、返す気しなくて。…色んな奴がいるから。」

 梅吉は武仁が言う、「色んな」の意味を一瞬思案したが、直ぐ止めた。

 自分の行った事が勝手に広がったり、歪められたりする事で、気を揉むのが嫌な気持ちを察したからだ。

「ショックだっただろ?」

 実を言うと梅吉自身は、この手の話は施設や家庭環境の事情により案外慣れっこなんだが、育ちの良さそうな武仁はどんな思いでいるんだろうと心配だった。

 梅吉も年頃の男の子だ。

 珍し気な話しに興味は多少なりとも沸くものだが、その『好奇心』の好奇の目に曝される事が、どれくらいしんどいか、身をもって知っていた。

「母さんが男の人と浮気していること自体は前から知っていたんだ。」

 リビングのソファに寝そべった武仁が、顔にクッションを被せながら言った。

「へぇ」

 声を出した直後、梅吉は感心して、場を弁えず、少し明るい声を思わず出してしまった事に自分で戸惑う。

 武仁はそれには何の反応も見せなかった。 

 既に割り切った武仁のモノ言いと態度に梅吉は感心してしまう。

(武仁と言う奴は、何処から何処まで自分と他人を割り切って考えられるんだろう。)

 こんな時なのに、梅吉は武仁の強さに酷く魅かれた。

「こんな形で周りにバレて可哀想だと思う。」

 嘘ではない。建前でもない。

 武仁が本心から言っていると、梅吉には分かった。

 だからその言葉を聞いて、梅吉は途端に悲しくなった。

 気持ちまでは割り切れないんだと。

 結局親子は、親子でしかない。

 武仁が親に対しても理性的に距離を取っているのかと思いきや、そうでもない事を確信してしまう。 

 理性的に割り切っても、実際心で傷ついている。

 だけど暴れ出して泣き出すことも既に諦めている、そんな武仁に梅吉は何故か苛立ち、両手を握りしめた。

 今回の事件が起こる以前から、武仁はずっと割り切って考えて、我慢するしかなかったんだろうか。

 初めて会った時から大人びているとは思っていたが、武仁のその大人びた横顔は何とも人の心を切なくさせる。

「お前優しすぎないか?」

 傷心の相手にきつい事は言えないものの、何か言わないとと思って出た、梅吉なりの気遣いの言葉だった。

 しかし怒気が混じってしまい、相手は嫌味に感じたかも知れない。

「そう言うんじゃ無いんだよね…。」

 クッションで顔を覆いながら、呟くように話していた武仁が、起き上り目を細め、梅吉に向き直る。

「はぁ?」

「だって仕方ないじゃん?俺がそれを言って、止めたところでまた別の人と浮気していたかも知れないし、父さんは出張を理由に母さんと距離を取ってたし。」

「いい子ぶりやがって。」

 梅吉は大きくため息を付いてソファに横になった。

「いい子では無いだろ。」

 どうにもやり切れない気持ちになり、湧いて来た感情が鉛の様に重い。

 苦しくて俯せて突っ伏した。

 都合のいい子じゃないか。梅吉はそう言おうとして、突っ伏してその言葉を飲み込んだ。

 梅吉が突っ伏したソファは高そうな匂いがした。

 弾力で梅吉の体が数センチ沈み込む程柔らかい。

 腹いせにこの高級なソファをしばし占領しようと、梅吉は心見た。

 そんな梅吉に武仁は苦笑いすると、自分もそのまま隣のソファで寝始めた。






 いつの間にか二人はぐっすり眠ってしまい、梅吉の携帯にクマから連絡が来た頃には、もう夜になっていた。

 クマとの通話でのやり取りの後、梅吉は武仁の為にオムライスをつくった。

「美味しいな、いつでもお嫁さんに行ける味だ。」

 武仁は冗談なのか、本気なのか分からない声音で喋った。

「武君、私と結婚して、養ってくれるの?」

 睡眠をとった事で、ちょっと機嫌の戻った梅吉が、エプロン姿で、両腕を胸の前で揃え、瞳を潤ませる。

「俺まだ結婚する気ないけど、結婚するなら今のご時世は共働きだからな?」

「残念ね、私は最愛の人に養ってもらって、好きな事だけしていたいのよ。」

 リビングに二人の明るい笑い声が響いた。

 武仁も冗談を交わす程度には回復した。

「ねぇテレビつけて良い?」

 横幅3メートルはあるテレビが実はリビングに入った時から気になっていた梅吉。

「良いよ。」

 了承を得ると、梅吉は嬉々としてリモコンを取った。

 最初に映ったのはニュース番組だった。本当はドラマが見たい梅吉だったが、まず武仁の家の事がニュースになって無いか、確認せねばならないと思い、右手に宿る欲望を抑え込んだ。

 リモコンは手放さないものの、欲に走りそうな自分の猿手を左で押さえる。

「お前、ちゃんとニュースとか見るんだな。」

 テレビの前で正座し両手を重ね、急にお行儀の良い姿勢になった梅吉に武仁は言った。

 武仁の言葉にちょっとむっとしながらも、梅吉は普段は退屈に感じるだけの、単調なニュースキャスターの解説に耳を傾けた。

 10分見たところで、これと言って変わり映えするニュースは無いと確認できた。

「このニュースキャスターのクリステルさんて美人だよな。」

「結婚しちゃったけどね。」

 普段ニュースを見ないので、自分の気になる事の方へ目が行く梅吉。

「あんまり知らない俺も、結婚した事知った時はショックだった。」

「ニュースキャスター自身がニュースになるってどんな気分だろうね。」

 こんな時でも梅吉の世間話に、一言一言突っ込んでくれる武仁は、やっぱり律儀なんだろうなと思えた。

 だからといって『やった、深夜のお泊り会だゼ!』等とはしゃぎ出す雰囲気でもない。

 武仁の為にも、もう休んだ方が良いだろうと、梅吉はテレビを消そうとした。

 その時。

 美しいクリステル鬼瓦の横から、一枚の白い紙が差し出された。


「速報です。本日、相次いで、5~10センチの青く発光する謎の物体が、携帯用のスマホや、パソコン画面から現れると言う事件が目撃されています。」

 その後、テレビ画面から目撃者が撮影したであろう映像が流れた。

「妹だ。」

 どこぞのオフィスで白い光が飛び交う映像を見て、武仁がそういった。

 どうしてそんな事が分かるのか、武仁にも分からなかったが、心がそうだと確信していた。

 その後、チャンネルを変え確認すると同じ映像が流れていた。

 武仁は梅吉からリモコンを取ると、目撃者の投稿した映像を録画した。

 再生すると白い光がアップになったところで停止ボタンを押した。

 確かにその青い物体は何かしらの服を着ている。

 それは先日武仁が買った人形用の白いお姫様のワンピースだった。

「俺、行かなきゃ。」

 武仁は立ち上がり、階段を上がっていった。

「行くってどこに?何であれがお前の妹何だよ!」

 梅吉は不機嫌を一ミリも隠さずにその後を追う。

「ただの勘だから上手く説明できないけど、多分あの青い光は、俺の母さんが堕胎した俺の妹で、母さんと浮気相手はアイツに襲われたんだと思う。両厳に、俺の母さんと浮気していた男の実家がある。俺はそこに行ってくる。悪いけど、カギ閉めるから一緒に今家を出てくれる?」

 武仁は自分の部屋に入り、上着を急いで着こむと、足早に階段を降りた。

「あの青い光が何なのかはともかくさ、何でお前が行かなきゃ行けないんだ?」

 梅吉はリビングに放置した自分の荷物を慌てて拾い上げ、武仁を追う。

「…何でだとかそういう事じゃないよ、行きたいから行くんだ。」

「俺も行く。」

 梅吉は不機嫌な顔のまま口を歪めながら言った。

「何で?」

「何でだとかそういう事じゃないよ、行きたいから行くんだ。」

「お前ムカつくな。」

 そう言って笑う武仁の顔が梅吉には男前に見えた。

 それが、同い年なのにと、悔しかった。

 武仁の相変わらず大人びた顔に苛立ちながら、その体を押しのけ、さっさと走り出した。

「急げよ。タクシーなんか使う金無いからな!」

 生暖かい夜道に梅吉の声が響いた。

 武仁より、一メートル先を走る。

 時刻は既に23時半を過ぎている。

 急げば、終電にぎりぎり間に合うだろう。

 未成年が二人、遅い時刻に改札を通り過ぎるのを、窓口にいた駅員は帽子を直すふりをしてそっと見過ごした。



 颯斗の実家父である老舗の呉服屋の亭主先原 熟男(なりお)は、今日店先の締められた玄関に向かって何度も溜息を付いていた。

 今朝は呉服屋が通常営業だったと言うのに、次男坊の仕事先から連絡が来て、電話越しに何度も何度も頭を下げる事になった。


 思えば昔から長男は出来が良く、みんなに慕われる性格なのに対し、弟の次男は適当で、のらりくらりとした性質が強く、見ているだけで腹が立った。

 その姿は全くもって、熟男の父親そっくりだったからだ。

 熟男の父親は自分の妻が働き者なのを良い事に、自分は昼間っから夜まで遊びまわり、店の事は母に任せっきりだった。

 そんな二人を見て育った亭主は、絶対に自分が実権を握るようになったら、父親を家から追い出してやろうと考えていた。


 しかし実際、自分が店の実権を握るようになっても、その思惑は叶わなかった。

 母に父が出ていくなら、自分も出ていくと言われてしまったからだ。

「母さんの為に言ってるのに。アイツのせいで母さんは苦労してきたんじゃないか?」

 母は苦笑いしながら、苛立つ息子に「あんたが結婚して、孫さえつくってくれれば、私達も安心して引っ越せるわ。」と言った。

 確かに自分が結婚し、部屋が足りなくなれば、あの自由気ままな父親なら窮屈に感じ、家を出ていく事を渋らないように思った。

 そんな事を母と話した直ぐ後、熟男に縁談の話が来た。


 商売の裁量があり、意欲に燃え、若く、聡く早熟な亭主に、良い縁談が来るのは自然な事だっただろう。

 その縁談相手は大人しく、また同じく呉服屋の出だった。

 卵顔の一重に、慎ましやかな佇まい。

 淡い色の着物が良く似合う娘だった。

 他にも色っぽい話はあったが、店を一緒にやるなら彼女しかいないと思い結婚した。

 一年目で息子も出来、夫婦仲は上々だった。


 新妻は客への対応も細やかで、誰から見ても出来の良い嫁だった。

 自分の父親とまで仲良く過ごすのは余計な事のように思えたが、注意すれば必要以上の事をしないので、何も心配せず一緒に過ごす事が出来た。

 しかし、その出来の良い嫁は、ある日店の経理を任せていた男と突然出て行ってしまった。

 3歳になったばかりの自分の息子の早正はやまさを置いて。

 理由は分からなかった、問い詰めもしなかったが。

 出て行った。と言う事実だけで、熟男はもう嫁を受け入れられなかった。

 今の嫁はその後、自分の息子の面倒を見てくれた女だった。

 この嫁はたまに店へ出入りするクリーニング屋のアルバイトだった。

 熟男に出会った頃は若くも、仕事が出来るわけでも無かった。

 が、来る度に息子が懐いていたので、父親が勝手に家に上げ、茶菓子を振舞うようになり顔見知りになったのだ。

 そのうち、仕事と子育てで疲れ果ていた熟男と、幾つもの言葉を交わすようになったのだ。

 付き合って1年で籍を入れ、直ぐに次男の颯斗が生まれた。

 颯斗が小学校まで、二人の息子はとても仲が良く、ともにすくすくと育っていた。

 しかし、それを見て亭主は余り良い気持ちにはなれなかった。

 自分が忙しく店を切り盛りしているのに、息子たちが自分の父や母と戯れている姿に酷く心が乾いた。

 「本当の母親を知らない長男を不憫に思うんだ。」

 ある日熟男が息子二人がベットに着いたのを見ながら嫁に言った。

 嫁はただただ熟男の話を、普段と変わらない笑顔で聞いていた。

 そのうち、颯斗が小学校に上がる頃、熟男の父と母はこの家を出て二人で生活すると言い出した。

 やっと自分の思惑通りに物事が動き出した。

 熟男は全てにおいて自分が主導権を握っている様な、年月が流れた。

 このまま、長男が店を引き継いでくれれば何の問題も無く、自分は東塔の老舗の呉服屋を守った功労者として一生涯生きていけるのだと疑わなかった。

 しかし、熟男の知らないところで変化は。以前からあったらしく、それは長男の早正が高校に上がる頃、浮き彫りになった。

 次男の颯斗が突然頭を茶髪に染め、耳にピアスを入れ、その態度も段々とひねくれたものになっていった。


「兄さんは反抗期も無く、真面目で穏やかなのに、どうしてお前はそうなんだ!」


 毎日の様に颯斗を叱ったが、颯斗は何の変化も見せなかった。


 そして中学3年の頃、颯斗が高校に行きたくないと言うものだから、知り合いのコネで相撲部屋に入れてやった。と言うのに、数年後先輩の相撲取りと喧嘩し、追い出されてしまった。

 当時は長男の早正が外国人向けの浴衣を安値で大量生産した事で、かつてない売り上げを出していた。そんな忙しい時に、辛気臭い不貞腐れた次男に家に帰って来て欲しくなかった。

 なので帰って来た時、通帳事金を渡し「自立するまで帰ってくるな。」と告げた。

 そこから数年、音沙汰無しと思ったらこの有様だ。

 あの次男さえいなければ、自分の人生は順風満帆だったと言うのに。

 今日は一日そんな次男を思い、一切の仕事が手に付かなかった。

 今も眠れず、問題を起こした息子に連絡しようかしまいか、携帯を手にまた一つため息を付いている。

 時刻は24時前。

 仕事が手に付かないものの、今日はずっと店先に立っていた熟男。

 もしかしたら、店先に次男が現れるのでないかと、不機嫌顔を隠さないまま、何時間も店先に立っていた。

 風呂に上がった今も、一番お気に入りの浴衣姿で、絞められた店先の玄関で、店の外側に耳をそばだてていた。

 老舗呉服屋の亭主は携帯からメールフォルダを開き、隼人との最後のやり取りを見る。


 そこには「お互い知らないところで、知らない内に死んだ方が良い」と書いてあった。

 今日、何十回目か分からないため息を熟男は吐いた。


「ああああああああ」

 熟男が吐いたため息が携帯にかかると、反応するように音がした。

 聞き覚えの無い、人の声の様な汚い音にスマホを凝視する。

 と、画面の中から二匹の青く光る妖精が現れた。 


 妖精はスマホ画面に手を付き、画面から腰を引き出すと、勢いよく天井に舞い上がった。


「「あああああああああああ」」


 妖精の笑い声が木霊する。


 妖精は顔の側面まである大きな口を引き上げ、背にした木造りの天井と玄関をその身の光で照らしつつ、亭主に笑いかけた。


「ぎゃあああああああああ!」


 思わず、熟男は叫び、逃げ惑った、玄関から逃げたかったが、妖精が真上に飛んでいるので出来なかった。     

 急いで店奥の襖を音を立てて開き、畳の上を走った。


 しかし、妖精は笑いながら鳥の様に宙を飛びかい、熟男の後を追って来る。


 襖を開き、部屋の半分まで走ったところで、二匹の妖精が両脇の襖を派手な音を立てて破りながら熟男を追い立てる。


 3つ目の襖が破られたところで、書院造のお茶室の様な部屋に辿り着くと、熟男は縁側の窓から庭に逃げようとした。


 が、「ぎゃああああああああ!」


 妖精が口から放ったトゲが手に刺さり、熟男は手を負傷してしまう。


 熟男が叫ぶのを見ると、もう一匹の白いドレスを着た妖精があははと笑いながら、相棒の妖精の真似をし、熟男の背中にトゲを吐いた。

「「ああああああああ」」

 二匹の妖精は熟男を眺めながら、楽し気に宙を回転した。

 真っ暗な部屋で青く輝く光が二つ。

 妖精が浮遊する姿は無邪気で幻想的だ。

 妖精が灯す光がぼやけ、鬼火のように見え始める熟男。

 その青白い光が、天井に描かれた百人一首の絵画をところどころ照らし、映し出す。

 熟男は、これが自分の最後に見る景色なのかと、そう思いながら思考を手離そうとした。

 助けを呼びたかったが携帯は玄関先に投げ捨ててしまった。

 出来の良い息子と嫁の名を呼んだが、生憎今は、着物小旅行の企画の為家にはいない。

 のたうち周りながら、血を流す熟男。 

 妖精の光に照らされて映し出される金の天井には、煌びやかな着物をまとった俳人達の顔が浮かび上がった。

 浮かび上がる絵の顔、その一つ一つが、けたたましい妖精の笑い声と重なる。

 自分を上から見下して笑っている様な思いになる。

 「はぁ、はぁ」

 熟男が息を整えていると、青白く輝く妖精が、腕を伸ばせば届きそうなところまでやって来た。




その時。


「やい!化け物!」


 暗かった部屋の照明が点いた。

 仰向けになった熟男が顔を襖へ向けると、見知らぬ少年が二人。背の低い方の少年が妖精に向って怒鳴っていた。


 梅吉が二匹の妖精達に向かって叫ぶと、妖精達が標的を梅吉に変え、トゲを放ってきた。

 梅吉は咄嗟にパーカーを脱ぐと、片手で勢いよく布地を回し、とんできたトゲを受け止める。

 トゲが当たらなかったことに激怒したのか、妖精の一匹が、真っ直ぐ高速で梅吉に向っていった。

 梅吉は何度もかわす。

 が、数度よけてかわし慣れて来た次の瞬間、妖精が動きをカーブさせ、みぞおちに激突してきた。

 ばきん!

「うげぇっ!」

 名バッターの打った玉が、壁に激突したような音が響いた。

「梅吉!」

 武仁が顔を青くして叫んだ。

 しかし、梅吉は目を見開き、持っていたパーカーを妖精に被せ、激突してきた自分の腹に、そのまま抑え込んだ。

 布地の上から両手で暴れる妖精をしっかり押さえ、腹から引きはがし取り押さえる。

 抑えてしまえば、梅吉の両手に収まってしまうくらいの小さな身体。

 武仁の話が正しければ、こいつは元は人間の胎児。

 梅吉はそのまま絞め殺そうかとも思ったが、出来なかった。

 持ったものをそのまま畳に押さえつけ、パーカーを風呂敷代わりにし、妖精の胴体を布地で縛り付け動きを封じた。

「すり抜けられるのは、機器の画面だけ何だな。」

  こんな時でも武仁は冷静に分析をしていた。

 しかし、梅吉が振り返るとその顔は苦悶し、涙が流れてないのが不思議なくらいだった。

「梅吉、腹大丈夫?」

(いや、お前が大丈夫かよ?)

 と、梅吉は言いたかったが、お腹が痛くて、「ぐ」とか、「う」しか言えなかった。

 武仁は表情を変えず、梅吉の腕から風呂敷状になったパーカーをとった。

「プチッ」

 空砲シートが割れるような小さな破裂音がした。

 そうしてパーカーは動かなくなる。

 何が起こったかと言うと、武仁がパーカーの布地の上から中身の妖精を、両手親指を添え、折ったのだ。多分首を。

「あ」

 梅吉は一瞬何が起こったのか分からず、あっけに取られた。

「うわあああああああああああああああ!」

 小さな女の子の泣き声が天井に響いた。

 母親に叱られた時のような、買って欲しかったものを買ってもらえなかったような、恥も外聞もない、幼く甲高い泣き声。

「何で!?何で!?お兄ちゃん私にこのドレスくれたじゃない!何でぇ!何で私の友達に意地悪するのぉおお!何でぇえええ!?」

 甲高く叫びながら必死で自分の感じる理不尽を叫んだ。

 妖精が喋れた事に驚くよりも、泣き叫びながら飛び回る様子が恐ろしかった。

「うああああああああああああああ!!」

 残された妖精はぐるぐる叫びながら飛び交い、そこら中にトゲを吐き散らかした。

 空いていない瞼からボロボロと涙が零れていく。

 「ひいいいいいい!」

 店主であろう、倒れていた初老の男性が頭を抱え蹲る。

 妖精の放ったトゲが畳にも柱にも、天井にも刺さる。

 天井に描かれた美しい百人一首の絵のお姫様の顔がつぶれ、畳は荒れ放題になる。

 梅吉と武仁は廊下側によけた。

「あいつ、喋れんの!?」

「その通りなら、交渉も可能かもしれない。」

 武仁はそっとパーカーの塊を畳に置くと、決心した顔で立ち上がった。

「やっぱ、お前は俺の妹なのか?母さんが庭に埋めたはずなのに、どうして生き返ったんだ!」

 武仁は天井を未だ暴れまわる妖精に叫んだが、妖精は泣き叫ぶばかりで、何の返答もよこさなかった。

「おにいちゃんまで私に酷いことした!お兄ちゃん!お兄ちゃん!オニイチャン!オニイヂャン!」

 嗚咽しながら叫び、さけた口を開いて、妹の妖精は武仁に向ってトゲを吐いた。

 武仁も梅吉がしたように、上着を脱ぎ、棘を受け止めかわそうとした。

 しかし、妹の妖精のトゲは武仁より右斜めに外れる。

 騒がしさが遠のき、沈黙になった。

 「…お兄ちゃん。…お兄ちゃん。」

 妹の妖精は火の玉のようにゆらゆら浮遊しながら、光を瞬かせた。

 間々あって、ゆっくり武仁の元へ降りて来る。

 そして武仁の差し伸べた手に乗ると、深く目を閉じる。

 武仁は手の中で輝く妖精の光を眩しく感じながら、そっとその首元に親指を添えた。

「まっ」

 待って。と梅吉が叫ぶ前に、突然廊下から何かがやって飛んで来た。

 それは、素早く妹の妖精の頭にかじりつくき、武仁の手から奪う。

「あーーーーー!」

 妹の妖精は甲高い声を上げながら食べられた。

 自分より10倍程大きい青い妖精に。

 その妖精は一歳児の赤ん坊程の大きさで、まるでおもちゃをしゃぶるように、妹の妖精の頭にかじりついていた。

 仕草は赤ん坊だが、口が裂けて、妖精の羽が生えた姿は、化け物と言う他無い。

 青い妖精は掛け軸の前で胡坐をかくと、生え揃った歯で、妹の妖精をバリバリ噛み砕きながら食べた。

 まるでふかし菓子でも食べる様に、10秒足らずで食べきった。

 自分で早食いをしといて、名残惜しそうに指を舐めている。

「まったく、お行儀の悪い子だね。」

 暗いままの廊下から声が聞えた。

 「誰だ!?」

 梅吉と武仁が廊下に出ると、玄関側の廊下向こうに、一人の人影と青く瞬く数個の光が見えた。

 瞬く光が人影の周りを飛び交う。

 その青く、青白く浮かび上がる光が、人影をところどころ映し出した。が、パーカーの帽子を深く被っていて、どんな奴なのか全く確認することが出来ない。

「あ!」

 人影に気を取られていた隙に、梅吉のパーカーを一匹の青い妖精に奪われてしまった。

 人影は青い妖精からパーカーを受け取る。

 その口元が妖精の光で一瞬口元が青く照らされた。

 顔立ちからいって梅吉達と同じくらいの雰囲気だ。

「おじゃましました。」

 何処かで聞いたような声だった。

 しかし思い起こす暇もなく、人影は玄関へ走っていく。

「おい!待て!お前は誰だ!?」

「ピノキオとでも言っとこうかな?」

(ふざけんな!)

 と、言おうとして梅吉は咳込んで床に膝を付いた。鎮まりかけたみぞおちの痛みがまた強くなっていた。それどころか、何だか体が全体が熱い。

 梅吉は立ち上がり追いかけようとしたが、その肩を武仁に掴まれた。

「何だよ!何で止めるんだ!?」

「俺は、自分の妹を止めるっていう目的を果たした。それにここまで酷い事になると思わなかった。もう梅吉に怪我をしてほしくない。」

 梅吉は先程からずっと右手でみぞおちを押さえていた。

 妖精に体当たりされてから、まだ吐き気のする痛みが続いていた。 

 もしかしたら骨が折れてるかも知れない。

 しかも時間は既に深夜3時を回っている。

 梅吉は諦めと共に深い溜息を付くと、武仁の手に素直に従い、その胸に自分の頭を預けた。

「君たちは誰なんだい?」

「あんたの息子が浮気した女の人の息子と、その友達。」

 梅吉は即答した。全く何の感慨も無く。

 熟男は気まずそうな顔をしたが、梅吉が疲れ果ててしかめっ面をしていたので、何も言うまいと思った。

 武仁もそんな梅吉を見て苦笑いする。

 そして、梅吉は熟男を畳に座らせると、後ろに立って、刺さっているトゲに、自分の唇を這わせた。

 熟男と武仁が驚く。

 しかし、熟男のは身体から痛みが抜けていき、身体が軽くなるのを感じると、大人しく梅吉のされるがままになった。

 梅吉は唇の先で、熟男の背中から、トゲを取り終わると、携帯で救急車を呼んだ。

 「早く、出よう。僕たちがやったと思われる。」

 武仁は梅吉がトゲについては、その場では何も突っ込まなかった。

「家中に刺さったトゲは自分で何とかして。」

 梅吉は熟男にそう言うと、武仁と共にその場を立ち去った。

 呉服屋を出ると、他の民家がちらほら照明を点けているのが、見えた。

 こちらの様子を伺っている様だ。

 裏の勝手口から出た梅吉と武仁は音をひそめ、足早に両厳駅に向かった。

 まだ、始発が来るまでに一時間以上ある。

 二人はこっそり、両厳駅近くの庭園で時間を潰すことにした。

 其処は昔、大名が住んでいたのであろう、和の設えで敷き詰められた。

 典雅な趣向に思わず厳かな気持ちになる。

 木、水、鳥、魚、石。

 すべての動きある何かが声を潜め、幾重もの静けさがささめき合い、平穏な夜の闇を更に深くしている。

 二人は池の前にヘタレ込んで、大きく息を吐いた。

 暗い中、武仁の顔が携帯のライトで照らされた。

 武仁が手にしているピンクのケースの携帯はきっと母親のものだろう。

 母親が倒れたので、息子の武仁が携帯を持っているというのは、一件普通の事の様に思えたが、梅吉は何だか、違和感を感じた。

「ロックとかかかってないの?」

「前からよくチェックしてたから、大丈夫。」

(何が大丈夫なんだ。)

 開いた口が塞がらないとはこの事だ。

 口を開けたまま自分を見る梅吉にも、武仁は平然とした顔をしていた。

 梅吉は今いる和の庭園と、武仁がとてもよく似ていると思った。

 整っていて、厳かで、静かで落ち着いているのと同時に、奥底に真っ暗で何か恐ろし気な生き物を内側に取り込んでいそうな、そんな雰囲気だ。

 武仁の暗い部分が、どれくらい大きいものか計り知れなくて、梅吉は口を歪めた。

 梅吉が思うより、早く武仁は呉服屋に辿り着いた。

 武仁の母の携帯内に、もともと浮気相手の情報がまとまってファイリングしてあったのだ。

 それも恐いが、その自分の母の携帯を以前からよくチェックしていたという武仁もなかなかの強者である。

「だって、必要以上のお金のやり取り何かあったら大変だろ?」

 梅吉の顔を見て、察すると、シレっと武仁は言った。

「お前、ドライなんだか、粘着質何だかわかんないな。」

 梅吉が真顔でそう言うと、武仁は目を見開いてから、正面の池に向き直り、じっと自分の両手を見つめた。

 きっと、先ほど妖精を潰した感覚が手に残っているのだろう。

「大丈夫か?」

「俺、感情では「可哀想」って思ってても、頭が正解を出していると、その正解を実行しちゃうんだ。俺って、サイコパスかな?」

 梅吉に向き直らずに、手を見つめ続ける。

 自分の手の神経を指先まで確認し、自分を何者なのか問うてるようだ。

「「サイコパス」が何なのか、分かんないけど、お前は俺の事心配してくれたじゃん?」

 梅吉はたどたどしく言葉を探した。

「確かに前から自分の母ちゃんの携帯チェックしたって聞いて「こわっ」て思ったけど、それは、本来いけない事だけど、あの妖精みたいな生き物も可哀想だったけど、けどけどさ」

 梅吉はここで「お前は正しいよ」とか「お前は良い奴だ」と言う言葉を投げかけるのは何か違う気がした。

 言葉が見つからない。あんなに漢字検定の勉強をするのに、色んな字や単語を学んだはずなのに、言葉が見つからなかった。

(今回の事件が起こるまで、武仁はどのくらい苦しんでいたんだろう?)

 そうとは見えない大人びた表情がとても冷たい。

 今も涙一つ浮かべていない。


 きっと人前で無くタイプじゃないと分かっているが、分からない人間は武仁はどんな風に映るんだろう。

 これから武仁はどうするんだろう。

 梅吉は仰向けになって「あー」とも「うー」とも聞き取れないうめき声を上げた。

 仰向けになって見上げた夜空がやけに遠く見えた。

 そのまま、梅吉は思考が停止し、眠ってしまった。


 そのうちだんだん夜が明けて行った。

 最初にトラックの音がした。次に鳥が鳴き始め、ぽちゃんと池で何かが跳ねた。

 幾重にも重なっていた静けさが、一つ一つはだけ、空気が光と音を吸い込んでいく。

 武仁は爆睡する梅吉の傍ら、自分の膝を抱き、身を屈めた。

「よく、こんな硬いとこで寝れるよね。」

 武仁の冷静な口調からは、馬鹿にしているのか、本当に感心しているのか読み取れない。

 時刻は始発5分前。 

 全然休まってない体の節々が痛い。特にまだ腹の溝内が。

 梅吉が自分の腹を押さえつつ起き上がるのを見て、武仁が眉を潜めた。

「痛むの?」

「それは良いんだけど、クマの奴にどう言い訳しようかな…。」

 梅吉が心配するのはクマの心配らしい。

 見るからにやんちゃな梅吉は怪我はよくするタイプだろう。

「まぁ、高価なソファにはしゃいでトランポリン変わりにしていたら、端にぶつけちゃったって言えば?」

「流石に俺も、そこまでガキじゃねぇ!」 

 梅吉は立ち上がり講義すると、足早に庭園をでた。

「一回お前んちでシャワー貸してくれよな!こんなぼろぼろじゃ、何言われるかわかんねぇ。」

 苦笑いする武仁の目元は少し赤く腫れていた。


 梅吉と武仁は地元の東七奈の駅に着くと、同時にお腹の虫を鳴らした。

 調度、丼ものチェーン店の朝メニューが始まっている時間帯だ。

 二人は、カウンターで仲良く並んで朝定食を食べた。

 梅吉が目覚めた時、少し武仁の眼が赤くなっていた気がしたが、既に普段通りのひょうひょうとした表情に戻っている。

 面の皮の厚い武仁を尊敬半分、微妙な気持ち半分で盗み見ながら、梅吉は自分の皿に紅しょうがを欲張ってのせた。

 お腹もいっぱいになり、少し安心した心地で武仁の家に行くと、家の塀の前に数名の人影が見えた。

 その姿を見て梅吉は思わず顔を渋らせた。

 朝だというのに、失礼な事だ。

 数名の人間はマイクや撮影器具を持っていた。

 梅吉はある事無い事噂を流し、懐を肥やしている奴が事の他嫌いだった。

「うちにいこうぜ。」

 梅吉は不機嫌な顔のまま武仁の顔を見た。

 梅吉の家に行くと、冬眠から目覚めたばかりのような不機嫌に目を細めたクマがドアを開けた。

「…お帰り」

「…ただいま」

 怒っているのか、寝不足なのか分からない佇まいで、クマは冬眠明けの熊のように気だるげに立っていた。

「あの…、すいません。僕おじゃましても良いでしょうか?」

 細かったクマの目が数ミリ開いた。

「こいつの家に、ニュースの報道人が来ててさ。」

 梅吉が忌々し気な顔で説明を付け足した。

「…どうぞ」

 クマは少し会釈して武仁を家に上げてくれた。

 身長差が大きいので会釈も頭を下げてるように見えないが、武仁は足素の無いクマに怯えることなく、頭を下げ返し、部屋へ上がった。


 クマは二人を家に通すと、何時ものようにテレビをつけ、ラジオ体操を始めた。

 梅吉も日課になっていたので、一緒に体操を始める。

 武仁も取り合えず一緒に体操を間々あって始める。

 朝から、男三人がラジオ体操をしてる姿は何とも健康的だ。

 テレビの中の講師の

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