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トウトウトゲドロボウ 泥棒スキルで英雄になれ! ~秘め物語~  作者: 等々力 白米(とどろき しらべい)
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人魚姫

※妊娠中絶といった内容を含みます。

※実際の場所や人物とは一切関わりありません。

 都雅(とが)東塔(とうとう)。大中小様々な、まるさんかくしかく様々な、個性豊かな、鉄のビルが立ち並ぶ、日和(ひより)の国の首都。

 中でも一際美しいビル達が立ち並ぶのが、中心部の都庁だ。

 鉄の骨と、ガラス細工で施されたビルは、表面に青い空を映し出し、お互い反射しあって七色に輝いている。

 その景色を仰ぎみる事の出来る町。感田川(かんだがわ)が麗らかに流れる町。七奈区何町(ななくなんちょう)東七奈(ひがしななな)

 その感田川沿いで、夏の暑い日、橋の鉄格子に寄り掛かりながら、一人の女が溜息をついていた。

 名前は新稲(にいな) 結女子(ゆめこ)。最近7年勤めた会社を辞め、はれてニートになったばかりの二十七歳独身女性だ。

 都庁に向って流れる感田川。

 その水面には鴨の群れが、何時もいる。

 ビルディングの上まで昇って行った日が、雲間から見え隠れしていた。

 蒸し暑い空気が立ち込める曇り空の下、鴨達が、楽し気に輪をつくり団欒していた。

 と、唐突に破裂音が団欒の輪の中心部へ投げ込まれた。

 水辺の優雅なワルツは突然中断される。

 鴨達は何だ何だと、水面に投げ込まれた物を横目に見ながら、その場から声を上げて逃げていく。

 穏かな団欒は投げ込まれた何かと共に、散らされてしまったのだ。

 川に投げ込まれたのは袋に入った糞だ。

 犬を散歩させてる人間が、いきなり川へ投げ込んだのだ。

 何故わざわざ橋の下の右端で身を寄せあってい、団欒し、戯れている、鴨の輪の中に、それが投下されたのか。

 何故右斜め上から勢いを着け、糞を捨てたのか。

 何故なのか。

 それは他人からは、分からない事だろう。

 もし、わざとだとして、どうしてわざとだと、どうして、誰が何故断定できる。

 決して言い返す言葉も、力も無いであろうカモに、糞を投げつけたと何故断定できる。   

 結女子は遠くからその男の行動を見ていて、大きく溜息を吐いた。

 体重40キロ台の自分の身体が、結女子には、とても重たく感じた。

 結女子は男の姿が、全く見えなくなるくらい遠のいて行くまで、何と無しに、橋の上、肘を付いて眺めていた。

 男は、何の感慨も無く、自分はただ川の横を歩いているだけ、という様子で犬を連れ、結女子の目の先で小さくなっていった。

 男の姿が見えなくなると、結女子は目を深く閉じてから、虚しい思いを胸に抱えたまま、後ろを振り返り、都庁に向かって、川沿いを足早に歩いた。

 虚しい気持ちを振り祓うように。

 しかし、ここのところ、一向に結女子の心は今の天気のように、晴れる事が無いのだ。

 暫く結女子が歩いていると、前方にナメクジくらいの速度で歩いている、老婆が目に留まった。

 余りにその老婆の動きが、よぼよぼとしているので、結女子はもしかしたら、お年寄りが独りで、ボケて徘徊しているんでは無いかと、心配になった。

「こんにちは、いいお天気ですね。」

 結女子は丁寧に話しかけた。

 失礼にならないように。

 わざとらしくならないように。

 老婆が結女子の方に顔を上げ、黒曜の様な大きな黒目で結女子の姿を捉える。

 そして結女子の声ににっこり微笑むと、穏やかに「私は大丈夫よ。」と言った。

 まるで結女子が老婆をボケているのか、心配で話しかけた事を、見抜いているようだった。

「私はね。この人通りの無い朝の時間に、歩行練習をしているのよ。」

 老婆は、はっきりした口調で、丁寧に説明してくれた。

 結女子は何だか老婆に徘徊の疑惑を抱いた自分が恥ずかしくなって、頬を赤らめた。

「ねぇ、知ってる?行方不明になった女の子いたでしょ。あの子、事件の前日まで、この川沿いを毎朝ランニングをしていたわ。」

 そう言い老婆は俯いた。

「毎日コツコツとね」

 そう老婆は小さく地面に向かって呟いてから、また日課である歩行練習を再度始め、その場を去っていった。

 老婆の発言は、やはりボケてると思うにはハッキリした口調だった。

 結女子の脳は、老婆の姿を目で追ったまま、十数秒停止する。

 そして、次には浮かび上がる記憶に、意識を奪われていった。

 まるで『昨日は雨だったわね』と言うくらいの調子で老婆が話した世間話が、結女子のコミュニケーションスキルの許容範囲を、大幅に外れていた。

 近くで、派手な赤い車が大音量でヒップホップを流しながら、走り去っていったが、それにすら、結女子の中に何の反応も生じさせない。

 季節は七月に入り感田川沿いの道を、ところどころ干からびて茶色くなったあじさいが、夏バテ気味に、ぬるい風に煽られ、腑抜けてふらふら揺らめいていた。

 もう、80歳は過ぎているであろう老婆は、他人さまに迷惑をかけない形で努力を続けている。

 杖を頼りに、ヨボヨボ歩く、重たそうな腰を上げて。

 薄手の灰色のワンピースに、赤いスカーフを首基に巻いた出で立ちは、児童文学に出てくる魔法学校の古株教員のようだ。

 川をまたぐ道の、合間合間にある腰丈の手すりを目標に、よりかかっては、またゆっくり歩んでいく。

 結女子は老婆の姿が遠のくにつれ、自分の体の中で悲しみや怒りが交じり合い、細かな細胞がどんどん濁って行くのを感じていた。

 体は気だるく重くなり、セミの声も熱さも、結女子の意識を暗く狭い場所に押し込んでいく。

「大丈夫ですか。」

 通りがかった男性が、立ったまま呆けていた結女子を、気にかけて話しかけてくれた。

 が、結女子は一向に反応がない。

「うわ、このねえちゃん大丈夫?」

 少年の声が、直球な物言いをする。

 感田川沿いの道、棒立ちになったまま、声をかけても無反応で、放心しているような女を見たら、仕方ないかも知れないが。

「お前、失礼だぞ。」

 最初に結女子に話しかけた男性が、少年を叱った。

 結女子のおでこに熊のような、大きくて程よく肉感な手が触れる。

「熱中症ではなさそうだな。」

 結女子が自分の右側を見ると、黒い大きな胴体があった。

 声を掛けてくれた男性は、野球のキャッチャー選手のような、どっしりした体型だった。

 胴の太い安定感ある特徴が声にも表れていた。。

 たっぱのある体つきなので、黒Tシャツのロゴマークが、まるでヒグマの模様に見える。

「こんなところで突っ立っていると、危ないですよ。」

 男性の声は鋭い目に反し、柔らかさを帯びた野太いものだった。

「自転車も通るから。」

 結女子はやっと自分が、通の途中で棒立ちになっていた事に気が付いた

 自分の思考に独り、人目の付くところで溺れていた事が分かると、恥ずかしい。

 結女子は赤くなった頬に、手を添えた。

 取り合えず声をかけてくれた男性の言葉に従い、橋の鉄格子に結女子は身を寄せる。

「すいません、なんか…。」

 思考が現実に戻って来たばかりの結女子は、言葉を濁しながら戸惑っていた。

「なんか?」

 男性が気づかわし気に、結女子の言葉を反復した。

「いえ、何でも無いです。」

 結女子はすごすごと身を縮める。

「そう言うの気になるから、やめてください!」

 男性の横にいた少年が、突然声を張り上げた。

「ご、ごめんなさい。」

 小柄なわりに強気に突っ込んで来る少年に、結女子はたじろいた。

 彼は赤いスポーツウェアを着こなし、如何にも強気な性質を感じさせる。

(これだから体育会系は、づけづけ言ってきてやり辛いな。)

 結女子は内心で愚痴りつつも、心配してくれる人に対して、何も言わないのは失礼かと思い直た。

 そして迷惑にならない程度に、自分の心情を打ち明けることにした。

 結女子の寄り掛かった鉄の橋の下、水面の絶え間ない流れが目に入る。

「一か月前にここら辺で『夢を追う女性シンガー疾走』って言うニュースがあったなって思いだしてて。」

「ああ、ここら辺ですね。」

 驚いてるわけでもないのに、単調にも「ああ」と感動詞を使った成人男性は、無機質な表情の奥に、微々たる情感を捉えさせた。

「その事件の暫らく、警察が見回っていたから、物騒だなって思って、私ここへ来るのが遅くなった時、タクシーに乗ったんです。」

 声を掛けてきた男性は特に何の反応も示してこなかった。結女子は自分の話を聴いてもらっているのに、暑くないだろうか、とか、忙しくないだろうかと、心配が込み上げてきて上手く話せない。

 気が付いたら、しどろもどろになっていた。

「私タクシー運転手の方に、事件の話をふられて「行方不明の方、心配ですね。」って言ったんです。そしたら。」

「そしたら?」疑問形で男性は聴き返してきた。

「「きっとその女、悪いことしてんだよ。」って言われて。」

 結女子の表情は悔し気に歪んだ。

 しかし、直ぐ顔を上げ、ぱっと作り笑いをし。

「それだけ何ですけどね。」

 と、明るく言った。

 男性と少年の表情に特に変化はなく、ただ淡々と結女子の話を聴いてくれている。

 男性は「そうか。」と、ただ一言言った。

 すると突然さっきまで聞こえなくなっていた蝉の声が、結女子の耳に響きだした。

 『そうか。』ただ彼の一言で結女子は自分の思考の世界から、現実に引き戻された。

 一緒にいた少年は横目で彼女を見ながら、彼女の胸のつかえが取れるのを感じ取っていた。

 少年は片手で輪を作り、そこから結女子の体を覗き込んで、体の筋肉が緩んだことを確認する。

 問題が無さそうで、にやりと口端を上げた。

 (まったく、クマは人たらしだよな)

 少年はにやにやしながら、手を頭の後ろで組んだ。

「今度そのおっさんのタクシーに乗ったら、「何でお前にそんな事がわかるんだ!」って言って、タクシーただ乗りしてやれよ。」

 無邪気な声で少年があっけらかんと笑った。

 結女子は少年につられ、眉を上げ笑い返した。

 少年は結女子の笑った顔が思いのほか美しかったので、思わず頭の後ろで組んだ腕をほどき、顔を背けた。

「お前気ぃばっか使ってんのな。」

「こら、梅吉」

 男性が少年を叱咤した。

「すいません。」

 男性は謝罪しながら、大きな手で梅吉の頭を鷲掴みにして、力を入れて押さえつけた。

 少年は両腕を広げ、ばたつかせている。

 無機質な表情だが、やたら義理堅い喋り方をする男性と、やたら直球にモノを言う少年が、結女子には何だか微笑ましく思えた

「いえ、聴いて頂いてありがとうございます。心が軽くなりました。」

 男性は軽く会釈してから、少年を軽くこずいた。

 梅吉と呼ばれた少年は「いってー」と言いながら男性を見返している。

「仲が宜しいんですね。御兄弟ですか?」

「うん俺が『田中 梅吉(うめきち)』この人が『田中 球磨(くま)』ねぇちゃん、もうこんなところで棒立ちになんなよ。変な事件もあったし、ここいらは一人暮らしが多くて、ナンパも多いんだから。今だって声を掛けたのがクマ見たいな堅物や、俺みたいなガキじゃなかったら、超セクハラされてたぜ。」

「そうね、ありがとう。」

 梅吉はにやりと笑うと両手でまた丸をつくり、そこから結女子を上から下まで眺めてみた。

「あんた美人なんだから、何時もそうやって笑ってろよ。」

 梅吉は自分の手をしっかり握りしめ、結女子に向かって、誇らしく掲げて見せた。

 そしてまた兄に叱られる前に、その場を走り去った。

 球磨という名の男性も、慌てて結女子に会釈してから、彼の後を追って行く。

 彼らの姿は一分も経たずに小粒の豆になり、都庁側の高速道路へ向かって消えていった。

「足、早いんだなぁ。」

 結女子の体はいつの間にか軽くなって、次には、先程より少し爽やかな気持ちで、また歩き始めていた。

 すると、昨日から太陽の下で立ち込めていた雲が、風で流れ、日が顔を出した。

 結女子はその後も川の周りを中心に、当たりを散策し続けた。

 日が高くなるにつれ、日射光は攻撃的になった。

 感田川沿いの朝8時。

 人がところどころに現れ始め、川の流れと一緒に歩いている。

 太陽はビル街の頭上に昇り、川のせせらぎは影を深くする。

 感田川の沿いの道は、人一人と人半分の手狭さ。通る人は会釈をしながら、小さくなって道を譲り合う。

 川沿いにも、民家沿いにも、花が植えられている。

 感田川を横にまたぐ橋の手前、他より一層多く花々が植えられた、レンガ造りの家の脇、タンクトップと、幅にゆとりのあるだぶだぶズボンを着た、ふくよかな年配の女性の姿があった。

 女性は屈みこんで、穏やかな手つきで何かを拭いていた。

 それは黒い毛玉の塊で、頭の部分が見えた時、艶やかな黒猫だとわかる。

 野良猫の多くは、本来人が通りすぎただけで、さっさと逃げてしまうものだ。

 が、黒猫は逃げるどころか、その身を女性に委ね、成されるがままに、純白のハンカチで体を拭かれている。心地よさそうに目を閉じ、野生の警戒心など、鼻から持ってないように見える。黒猫の横には、白猫と茶色い猫がお行儀良く並んび、自分が拭かれる順番を大人しく待っていた。

「おはようございます。」 

 結女子は丁寧に挨拶した。

 女性は作業中の体を起こし、目を窄めて答えた。

 その後結女子は、川沿いの逸物神社を訪れた。

 マンション二階分の階段の上、鎮座する社は、林に覆われながらも整備され、掃除が行き届いている。

 神社境内は、野球場ほどの広さ。

 彼女は祭壇の前で賽銭を投げ、手を合わせると、何時もの変わらぬ願い事をした。

「お姉さん。失踪事件は誘拐だって思ってるでしょ?」

 手を合わせていた結女子が、思わずぎょっとして振り向くと、梅吉が後ろに立っていた。

「いえ、私は別に。」

 梅吉の足元には、さっき道で身体を拭かれていた、猫たちがいた。

 梅吉の後ろから、結女子を見上げている。

 結女子は自分を真っ直ぐ見る幾つもの目に、後ずさる。

 梅吉は何だか常人では無い、別の何かのようだった。

 その何かが、何なのかは分からない。

 が、何だか酷く結女子の心をざわつかせた。

 だいたい結女子が神社の階段を上がって来た際、自分以外の足音一つしなかった。

 先ほどの会話といい、すばしっこさといい、結女子は彼の瞬発力や雰囲気や、言葉に出来ない何かに、戸惑いを覚えた。

「ごまかしたって駄目だよ。誘拐した犯人をめった刺しにして、やったことを後悔させてやりたいんだろう。お姉さんタクシー運転手の話をしていた時「ここへ来た時」って言ってたでしょ。「ここへ帰って来た時。」じゃなくて。お姉さん、事件の真相を知りたくてわざわざここに引っ越して来たんじゃないの?さっきの猫達も、疾走した女性がよく魚をやっていたらしいね。猫の世話してるおばさんが言ってたぜ。」

 少年はポケットに手を突っ込みながら、涼し気に笑う。

 結女子は梅吉から距離を取るものの、彼から目が離せなかった。

「私はそこまでのことは考えてないわ。そんな酷いこと考えるなんて発想、私は持ってないもの。」

 結女子は自分の人間性を疑われ、少々憤慨していた。

 しかし、梅吉はそんな彼女の様子を気に留めることなく話し続ける。

「そっかぁ、お姉さんが誘拐犯の目星を付けてるなら、俺手伝おうかと思ったのに、俺なら犯人を捕まえられるよ。」

 150センチ程の身長で、足を大きく開き、腰に手を当てて、威張って立って見せる梅吉。

「ホントなの?」

「ああ、」

「そんなことして、あなたに何のメリットがあるのかしら?」

「俺、英雄になりたいんだよ。」

 屈託のない梅吉の返答に、少々面食らってから結女子は、「遊びじゃないのよ。」と呟いて、梅吉を横切って去って行った。

「ねぇ、待ってよ。」

 鳥居を抜け、梅吉が結女子を追いかけた。

 結女子は無視して、さっさと神社下の石段を足早に降りる。

 すると、唐突にもちのように白い弾力のある物体が、結女子の横をすり抜け、軽快に石段を駆け上がり、梅吉に飛びついた。

「うわ、何だこいつ。」

 梅吉は突然現れたそれをよけようと、しゃがみ込んで、膝を石段に打ち付けてしまう。

 がすん。と、鈍い音がした。

 白い物体はフレンチブルドックだった。

 足の先から、耳の先まで白いその一匹は、梅吉に張り付いて離れなかった。

 梅吉に会えた嬉しさに我を忘れ、尻尾を大げさに振り、梅吉の顔面を全力で舐めている。

 その無邪気な白い犬が突然現れた事で、梅吉を追いかけてきた猫達が、何処かへ散ってしまう。

「あ、ウメちゃん。」

 犬の飼い主らしき少女が石段を駆け上り、梅吉の側へ駆け寄ってきた。

「マツ…、ちゃんとリード掴んどけよ。」

「ごめーん。怪我ない?」

 少女は困り顔でしゃがみ込んで謝った。

「無いよ。」

 梅吉は不貞腐れ気味に言い返した。

 結女子には何だか梅吉の顔が不貞腐れているのでなく、照れているように見えた。

 微笑ましくて、ついはにかんでしまう。

「何かうちの白太は、ウメちゃんの事が大好きなんだよね。」

「大好きだからって、何の了承も無く行き成り押し倒す何て、最低だわ!」

「ごめん、ごめん」

 怒る梅吉に、マツと呼ばれた少女は、しゃがみ込んで、梅吉の前で手を合わせた。

 不意に顔を近づけられ、梅吉は口を紡ぐ。

 白太と呼ばれたフレンチブルドックは、梅吉の座り込んだ、数段下の石段で、悪気なさそうに尻尾を振り、二人のやり取りを眺めていた。

 結女子は階段の下から、数歩離れたところで、梅吉の顔を呆れた顔で見ていた。

 あの膝の打ち方では、膝をすりむいてるはずだ。

 梅吉と話していた少女は、それからそのまま階段を上がり、神社の鳥居を潜っていった。

 少女が去っていってから、結女子は梅吉に声をかけた。

「ちゃんと手当しようね。」

 本当は小さい子どもじゃないのだから、そんな世話を焼かなくても良い気がしたが、結女子はもう少し、この可愛い少年と一緒にいたいと、自分でも気付かづに、心の内で願ったのだ。

 梅吉は声をかけられ何の気兼ねも無く、結女子の隣に並び立った。

 家が近いからと、結女子は自分と一緒に来るように梅吉に促した。

 梅吉はこれぞ不幸中の幸いと、遠慮なく彼女に着いて行く。

 結女子は感田川沿いの、灰色のマンションに入った。

「川沿いの真ん前だね。」

 マンションに入る手前梅吉が言った。

「…ええ。」

 結女子は梅吉に振り向かづ答えた。

 結女子は階段を上り、自分の部屋の前まで来て、ポケットから鍵を取り出す。

 それを見て「ちょっと待って」と梅吉が結女子を静止した。

 梅吉はそういうと、結女子を身体で押しのけ、ポケットから出した三本の鉄の棒を、鍵穴に突っ込んだ。

 ドアノブが軽快に音を耐える。

 結女子が驚いて見ていると、2分も立たない内に鍵の施錠が解かれる音がした。

 梅吉はしたり顔でドアを開き、結女子に笑って見せた。

「あなた、どうしてそんなピッキングが出来るの?」

「じいちゃんが錠前屋だったんだ。」

 梅吉が平然と答える。

 結女子は魂消ていた。

 祖父が錠前屋だからといって、そうやすやすとピッキングが出来るはずもない。

 彼の技は天性の技術者の持つ、潜在的な勘の良さも影響してると思われる。

 梅吉はこれまで結女子が会って来た、大多数の凡庸な人間とは感覚が違うのだろう。

「やっぱり、あなたに犯人を捜すのを手伝って貰っていいかしら?」

 結女子がそう言うと、梅吉はしたり顔で喜んだ。




「凄いこれが私?」

 両頬に手を当てて、鏡の中の美少女に梅吉が驚いた。

 そうすると、鏡の中の少女も驚く、どうやら確かにこれは自分の顔だと梅吉は確認した。

「うふふ、お若くて、化粧の乗りも良いので、メイクが映えますわ。」

「え、そんなぁ。お姉さんの腕が良いんじゃないですか?」

 梅吉が、わざとらしくもじもじしながら、結女子に聞き返した。

 その反応に、何だか結女子もつられ、楽しくなってしまう。

「普段から運動されてるから、肌に艶もおありですし、きっとどんな殿方も振り返りましてよ。今日は今年夏限定のフレッシュイエローを目元に当ててみました。小さなパールのラメが入っていて、爽やかな印象を出してくれます。」

「何か、殿方って言い方とかが昭祥(しょうしょう)生まれ臭いな。」

「この平並(へいへい)生まれめ。」

 小憎たらしい小娘の様な梅吉の台詞に、結女子は握りこぶしをつくる。

 現在日和の国は、国歴平並二十七年。

 平並前が、昭祥時代だった。

 日和の国の急速なIT企業の発展により、ジェネレーションギャップは否めない。

 どうして、二人がこんな事をしているかというと、ちゃんとした理由がある。

 梅吉と結女子は、犯人追跡するに当たり、変装は必要だろうと言う事で、結女子が梅吉に化粧を施したのだった。

 それが、如何せん梅吉が何の抵抗もなく化粧されるのと、結構な美少女に仕上がったものだから、お互いに「大したもんだ」と、感心した事で、二人は『美容部員とお客様ごっこ』を楽しみ出していた。

 そして二人は一通りはしゃぎ終わると、同時に空腹を覚え、早めの昼ご飯をそのまま結女子の部屋で取る事にした。

 結女子が台所に立ち、フライパンに油を広げ刻んだ玉ねぎとひき肉を炒めた。

 合間にレンジで温めた冷ご飯を足し、軽くフライ返しで砕いて、フライパンを持った腕をたてに振る。

 具材は香ばしい音を立てながら、フライパンの上で飛び跳ねた。

 次に卵を割り入れ、また軽く振って炒めた。 

 結女子は出来上がったモノをお皿に盛り、「簡単なモノだけど」と断りを入れてから、梅吉の前に出した。

「頂きます。」

 梅吉は手を合わせ、喜んでむしゃむしゃ食べた。

 育ち盛りの梅吉の食べっぷりが気に入り、結女子は軽くフライパンを濯いで、もう一品作り始めた。

 その結女子の背中を見ながら、梅吉は話し出した。

「俺さトゲが見えるんだ、人の発するトゲのある言葉が。それは『言霊のトゲ』なんだ。」

 梅吉はそう言いながら、両手で輪っかを作って、結女子の後姿を覗き見た。

「それは、何かの比喩表現なの?」

 結女子が銀のボールに卵を割り入れながら、振り返らずに言う。

「比喩じゃないよ、本当に見えるんだ。上手く、言えないんだけどさ、その『言霊のトゲ』が刺さった人間て、始終体の何処かが固まってる状態なんだ。刺さったトゲの痛みに麻痺していくからだと思う。」

 結女子は何となしに、梅吉の話を聞きかじりながら調理をした。

 フライパンに油を回し、タネを入れ、蓋をして、火を弱めて置いておく。

「私にも刺さっているのが見える?」

 エプロンで手を拭きながら、冗談交じりに結女子は尋ねた。

「お姉さんはね刺されやすいみたいだね。」

 梅吉のやっぱり直球な言葉に、がっくり肩を落とす結女子。

「言えてるわ。」

 冗談半分に、本気半分に、結女子は笑って答えた。

「でもね、案外直ぐトゲが抜けちゃう系の人だよ。」

 『何々系』と言う表現が、若者言葉だなと思いながら、結女子はガスコンロに向き直った。

 結女子はホットケーキを二皿、テーブルに置いた。焼きたての生地の上でバターとはちみつがてかる。

 梅吉がまた喜んで食べ始めた。

「お姉さんは被害にあった人と、どういう関係だったの?」

 ホットケーキを頬張りながら梅吉が聞いた。

 梅吉の食べっぷりを両肘を付いて眺めていた結女子は、はっと我に返る。

「最近は連絡を取ってなかったけど、高校の友人だったわ。恵って言うんだけどね。最近はアルバイトしながら音楽活動をしていたの。メジャーデビューを目指してたわ。まぁ、二十五歳で地下アイドル卒業して、ちっとも知名度無かったけどね。アイドル卒業後はシンガーソングライターとして、それまでいた音楽事務所で継続契約していたの。」

 結女子はテーブルの横の本棚からCDを取り出し、梅吉に渡す。

 「『マーメイド・恵』って、何かネーミングが昭祥時代臭いだな。」

「プロデューサーのセンスの問題よネ。メジャーデビューしてるわけじゃ無いし仕方ないよ。ただ昭祥って言うよりは、バブル期世代ぽいのよ。私達、平並育ちの昭祥生まれと一緒にしたらダメよ?」

 結女子の熱意の籠った説明に、梅吉は大人しく聞き入るしかなく、慇懃に頷いた。

「何でこの人、行方不明になったんだろうね。」

 梅吉は話を本題に戻した。

 しかし、結女子は何も答えず、ただ頬杖を付いていた。

「お姉さん、そのホットケーキ食べないなら俺にくれる?」

 自分の分を既に食べ終えた梅吉が、結女子の皿を物欲しげに見た。

「食べるわよ。」

 結女子は頬杖を止めて、フォークを持った。

 結女子が黙ってホットケーキを食べてる最中、梅吉は頭の後ろで手を組んで、天井を見上げていた。

「それでさ、何でわざわざ自分が見つけてやろうと思ったんだよ。お姉さんは今回の事件は、誘拐犯がいるって確信してるみたいだけど、だからって自分が探す必要は無いと思うよ。」

 結女子が半分位ホットケーキを平らげたところで、梅吉がまた本題について話し始めた。

 友達だからと言って、危険な事に首を突っ込んで、自分まで危ない目に合う必要はない。 もしも、本当に誘拐犯がいるなら、事件に関わっては危険だ。結女子は梅吉が見たところ、警察関係の人間でも、強靭な格闘家でもなさそうだ。

「私ずっと世の中に酷く腹が立っているの。事実をあやふやに誤魔化して、加害者が、知らぬ存ぜぬを通すことが、この国では悪習になっている。例えばいじめによる自殺だって、行き成り死んだ訳じゃなくて、そこに至るまでの前兆があったはずよ。」

 淡々と述べてから結女子はホットケーキまたを口に運んだ。柔らかい生地を噛みながら、沸々と結女子の頭に言葉が湧いて出た。

「それにね、私、恵の事件をニュースで知った時、丁度ストレスがピークに達していたのよね。しょっちゅう痴漢やナンパに遭遇していて、勤めてる派遣会社では年下の正規雇用の女上司に毎日怒鳴られて、年上の同僚の太った男性が何時も休憩中私の後をついて着て、私を見る目が何時も気持ち悪くて、でも何もされたわけじゃないから、誰も取り合ってくれなかった。そこに恵の事件を重ねちゃったのね。今もどこかにいるはずの犯人にも、女にも何か疾しい事があるんじゃないかって」言ってる奴らにも酷く腹が立ってる。それがまかり通る社会にもね。どうして加害者は何時もいけしゃあしゃあとしていられるの?被害者は逃げるしかできないのかって。第三者は自分に厄介が降りかからないように見ないふりして、でも知った風な口は聞くのよ。何だかそんな世の中を見ていたら、会社にも社会に出る気力が失せちゃって。でも事件の事だけは気になって、取り合えず会社辞めてここに越して来た。きっと色んなことへの腹いせかなって、…」

 て、て、て、て、て、と二十分ほど結女子の独白は続いた。

「話半分も分かんなかった。」

 梅吉は真顔だ。

「何でわかんないのよ。」

 つられて結女子も真顔になる。

「だって、だらだら長いんだもん。」

 結女子は言われて黙り込んだ。

 言い返す事が出来なかった。

 自分のこういうところが男性受けが悪いのかも知れないと、内心でこっそり僻む。

「でも、お姉さんのそういうとこ好きだよ。」

「何で?」

 唐突な梅吉の告白に、思わず結女子は背中を仰け反らせた。

(可愛いとは思ったが、ちょっと歳の差がありすぎる。)

 結女子の心の声である。

「何でだろう、こうさ、見た目よりぶっ飛んでるから?」

 梅吉は朗らかに両腕を上げて見せて。

「そうかしら、本当にぶっ飛んでたら、何時も私の後を付いてくる男を、さっさと殴ってたわよ。」と言うと、持ったままだったフォークでホットケーキを抑え、ナイフで切り始めた。

 梅吉は歯を出しながら笑う。

 結女子は梅吉が不思議な力を感じさせるのに関わらず、普通の男の子の反応をする事しばしば安堵した。

「ねえ、私が行方不明者の知り合いだって事、梅吉君は見抜いてたでしょ?それはどうしてなの?」

「俺は嘘が分かるんだ。」

「それは、超能力?」

「ううん。ただの直感。」

 梅吉は真顔だった。

「昔から嘘つきばっかの場所にいたからな。だから話を聞いていて何となく分かるんだ。」 声のトーンを変えず、顔色も変えず彼はそういった。

 結女子はそれ以上は何も聞かなかった。

「ホットケーキ一切れあげる。」

 結女子が差し出した皿に、梅吉はフォークを掲げて喜んだ。

 結女子はまたテーブルに両肘を付きながら、むしゃむしゃ美味しそうにホットケーキを食べる梅吉の顔を楽し気に眺めていた。

「あなたの事、信じるわ。」

 結女子の言葉に一瞬視線を上げる梅吉。

 結女子の穏やかな顔と目が合うと、何も言わず、またホットケーキに噛みつき始めた。



 腹ごしらえを終えて、二人は誘拐犯と思しき男の場所へ行った。

 時刻は13時、場所は大型スーパー『国道24時・ノーマルスーパー』だ。文字通り、国道沿いの六階建て大型スーパーでは、新鮮なものが、毎朝搬入され、しかもお手頃価格。駐車場も30台利用可能。休憩スペースや多目的トイレ、ATMが設置されており、近隣の方々から重宝されている。

「アイツ、毎日この時間に出勤してるの。」

「お姉さん、良く今まで不審者扱いされなかったね?」

 完璧な女装をしている梅吉に反して、結女子は黒ずくめで、黒いキャプを被り、サングラスにマスクをしている。

「夏にそれは可笑しいよ。」

 と、梅吉が突っ込んだが、自分は徳の友人だった為、顔が知られてるかも知れないと、頑として顔に付けた小物を取ろうとしない結女子だった。

「だって、この格好の時、人から話しかけられた事無いもの。」

「そりゃ、かけられないだけだって…。」

 梅吉は溜息を吐いてから、気持ちを目的に切り替えた。

 結女子がアイツと言った男は、四十歳くらいだろう。魚売り場の前で、白いエプロンとマスクと帽子を付け、パック詰めされた魚を店頭に並べていた。

 結女子が言うには、その男は『鹿島(かしま) 輝次(てるつじ)』と言って、恵と同じマンションの隣人で、恵の自宅練習を耳にしたのをきっかけに、恵の地下アイドル時代から、しばしばライブに来ていたらしい。そして、これは結女子だけが恵から聞いた話なのだそうだが、シンガーソングライターとしてピンで活動するように立つようになってから、恵はライブがある度に彼に送り迎えをしてもらっていそうだ。

 結女子は誰かとバンドを組んでる訳でも、マネージャーが付くような売れ筋でもない。鳴かず飛ばずのアマチュアシンガーの二七歳だった。 彼女の帰宅事情を、事務所側に把握されてなくても仕方ない。

 「悪い人ではないんだけど、ちょっと面倒臭い。ていうか、気持ち悪い。ずっと隣に住んでいるけどね。勿論家に入ったことも無いんだよ。音楽以外関わりないからね。何かさ気に入らない事が有ると、裏返った声で怒るの。私といる時だけだし、一瞬だけなんだけどね。何で私ってこんなに不幸なんだろう。どうせ幸せに何てなれっこ無いんだろうな。」 その様に恵は結女子に言っていたらしい。

 恵はずっと鹿島に不信感は募らせていたものの、周りが素知らぬ顔でいると、どうにもその対応に合わせてしまっていたそうだ。

 結女子は恵に「私に愚痴を零すだけで、現状を変えず何となくやり過ごして、みんなに良い顔しようとしてる。」と言ったそうだ。

 恵は激怒し、結女子から離れていったらしい。

 事件の一か月前の事だったそうだ。

 恵失踪後、結女子が心配し、鹿島の事を警察に伝えたものの、事情聴取を受けても鹿島は知らぬ存ぜぬで済まされたそうだ。

 それどころか、鹿島に同情をするものまでいた。鹿島が売れないシンガーソングライターの数少ない熱心なファンだったからだ。

 鹿島は年齢的な問題で地下アイドルグループを卒業し、懲りずにソロデビューした恵を「彼女頑張ってますよね。」とライブの際は常々周りに言っていたそうだ。

 彼は優しくて親切な人間。そうみんなが思っているのだそうだ。

 対して恵は、アラサーに入っても音楽活動を続け、焦りからかしばしば意固地になっていた。

 周りに裏方になる事を進められたものの拒否をし続けたらしい。

 それまでアイドルとして大人しくプロデューサー達の言うことを素直に聞いていただけに、周りは良い顔はしなかった。

 恵は自分の意思を貫いたものの、周りの顔色が気になり、必要以上に明るくして更に空回りしていたそうだ。

 そんなある日、結女子は突然、既婚のプロデューサーに対して「貴方の子を妊娠したからお金を払ってよ!」と他の人間が十数名いる事務所で叫んだらしい。

 妊娠についてプロデューサーは否認している。

 そんなこんなで、恵が行方不明になった後も、事件自体が彼女自身の仕業と考える人もおり、色々な事実が有耶無耶のまま、行方不明事件に結論が出ない状態が続いているのだった。

「「人魚姫だから、泡になって消えたんじゃないの」っていう人までいたのよ!ホント自分に関係なければ、みんな何言っても良いと思ってんのかしら?」

「ちょっと待ってて。」

 梅吉はそういって、苛立つ結女子から離れ、一人容疑者のもとに、留める間もなく向かう。

「おじさーん。」

 精いっぱい高い声を出してみる梅吉。

 どうにも上ずっているが、大きな目をした、人懐っこい美少女。の、姿をした少年に、声をかけられた男はだらしなく微笑んだ。

 ネームプレートには「鹿島」と書かれている。

 一般的な身長に、ごつごつ角張った手。

 道具を扱う人の手だ。

「このタラ、美味しそうですね。私の大好きな歌手が好きなお魚なんだ。」

 梅吉の上目遣いに、鹿島の口が緩む。

 並べられた魚の刺身は、どれも色を失うことなく、切られた側面がしっかり平坦になっている。

「魚好きのアイドル何ているの?」

 少し小馬鹿にした調子で鹿島は言った。

「うん「マーメイド・恵」って言うの。」

 名前を聞いた途端、鹿島の筋肉が緊張で引き締まるのを梅吉は捉えていた。鹿島は汗をかき、唾を飲む。瞳に怒りが浮かんで見えた。 梅吉はその黒目を凝視する。

 すると鹿島が明るい笑顔で言った。

「実は僕も大ファンなんだ。」

「…そっか、恵さん行方不明になっちゃったよね?」

「ああ、でも心配ないさ。」

「おじさん何か、恵さんがいなくなった事について知ってるの?」

「いいや、全く知らないね。でもそうだなぁ、前に「本物の人魚になりたい」って言っていたよ。人魚は歳を取らないからね。」

 鹿島は心底楽し気に笑っていた。

 その時、天井から、マイクの電源が入る音がした。

「ピンポンパンポーン。迷子のお知らせです。十六歳の田中梅子ちゃん。田中梅子ちゃん。お姉さんがお探しです。一階配送カウンターまでお越しください。ピンポンパンポーン。」

「やだ、お姉ちゃんが呼んでるぅ。」

 梅吉はその場で足を崩しそうになりながら、必死で高い声を出して、肩を揺らしながら、小走りでその場を去った。

(十六歳にまでなって、館内放送で迷子扱いされるとは思わなかった。)

 梅吉は屈辱に思いつつも、怪しまれないように、おてんばな山脈に住み着く、少女のイメージで走っていった。

 一階の配送カウンターに行くと、結女子が般若面で立っていた。

 狼狽える従業員が必死に作り笑顔をしている。

「どうして勝手に独りでいっちゃうの!?危ないでしょ!」

 大きな声で怒鳴られる。

 梅吉は縮こまるしかない。

 何も知らない定員が「妹さん見つかって良かったですね。」と必死に梅吉を庇おうとしてくれた。

「それどころじゃ無いんだ。結女子姉さん。急いで向かおう。」

 梅吉は結女子の腕を取ると、スパーを急いで出て、クマに連絡を入れた。




 梅吉と結女子は急いで恵の住んでいたマンションに向かった。

 最上階左端の部屋が鹿島の部屋だ。

 梅吉がピッキングで鹿島の家のドアを素早く開ける。

 勢いよく入った梅吉に反し、結女子は暫く入り口で立ち往生した。

 梅吉が入ると、部屋の床には空缶が何十本も置かれていた。

 缶がフローリングから生えているような景色だった。

 部屋の下端のコンセント口から押し入れに向かって、コンセントが二本繋がれ伸びていた。

 押し入れを開くと、中の板が取り払われていた。

 押し入れの壁に張り付いていた分配器のスイッチを梅吉が押すと、押し入れの上から数個のライトの光が着いた。

 そこには串刺しの人魚姫の姿があった。

 頭と、胸と、腹が、細く長い透明なトゲで壁に打ち付けられている。

 人魚の亜麻色の髪は上空を仰ぐようにたなびき固定されている。

 ワックスかノリを使っているのだろう。

 その髪には造花が散らされている。

 両腕は大きく広げられ、両手首を壁際に透明なバンドで拘束されていた。

 周りには作り物の鯛やヒラメが紐で宙に何匹か浮いていて、人魚と一緒に中に泳いでいる。

 上半身は青白く、目は宝石が埋め込まれ青く輝く。下半身は綺麗な紺碧色。

 表面にアクリルの鱗を細やかに重ねながら、尻尾の先まで装飾されており、小さな鱗の節々が虹色に発色している。

 腰元の切れも鱗で全く分からない。

 まるで本物の人魚がそこで歌っている様だ。

 押し入れ近くのデッキを梅吉が見つけ、ボタンを押した。

 すると、恵の初シングル「永遠☆お姫様」が流れた。

 音楽に反応して、スポットライトがカラフルに点滅し始め、海の青で塗装された押し入れの中を照らす。

「恵」

 口を開いたのは、結女子だった。

 入り口で入るのを躊躇っていたが、音楽が聞こえて思わず足が動いたのだ。

 押し入れ一個分の光景にあっけにとられ、空気さえ停止しているようだ。

 結女子は今にも全てを投げ出したい思いに駆られながら、声を振り絞って標本姿の友人に言った。

「ごめんね。」

 結女子は続けて「早く見つけてあげられなくて」と言いたかったが、声が続かなかった。

 結女子が、床に手を付いた。

 すると、間々あって、肉を引き裂く音がした。

 結女子が顔を上げると、梅吉が何の感情も浮かべない顔で、恵の胸に突き刺さっていた、透明な棘を抜いた。

 手から血が零れている。

 すると、死んでるであろう、恵の目が一瞬見開き、視線を下に落とした。

 声も無く、床に手を付いたまま、顔を上げる結女子。

 恵の虚ろな目が、恵の目線とぶつかる。

 と、次の瞬間には、恵はゆっくり瞼を閉じた。

「誰だ、勝手に入ったやつは!」

 怒鳴りながら入って来たのは鹿島だった。

 まずいと思った梅吉は、すかさずスマホで人魚姿の標本を携帯のカメラに収め転送した。

 鹿島は勢いよく怒鳴り込んで、部屋に入って来たものの、実際に人に自分の秘密が明らかになってしまった事が分かると、部屋の入り口の前でへたり込んだ。

 両指を手に突っ込み落ち着きなくもごもごさせ、唸り声をあげている。

 そのだらしのない男の姿に結女子の眉間にしわが寄せられ、彼女の怒りに一気に火が付いた。気づいた梅吉がすかさず結女子の胴体に巻き付いて止めようとする。

 梅吉は発狂する結女子を押さえつける為に力んで閉じた。目を閉じると、まだ部屋に恵の歌が流れている事に気が付く。その時、梅吉の瞼の裏には、毎日ここでこの標本になったマーメイド恵を見ながら、彼女の曲を聞き、百円の酒缶を開けては、飲んで、床にほっぽりながら、自慰に勤しむ鹿島の姿が目に浮かんだ。

 すっと、梅吉が結女子を拘束していた腕を解く。

 結女子はスピーカーを思いきり持ち上げると鬼の形相で鹿島に向かいそれを叩きつけ、そして彼を蹴り続けた。

「俺が彼女を本当の人魚にしてあげたんだ!音楽を続けられたのだって、俺が応援してやったから何だからな!」

 独り言なのか、うわ言なのか、自分でも分からない様子で鹿島は言った。

 その時、スピーカーがノイズを発してから、ぷつんと音楽を消した。

 殺された彼女の歌声の後、最初に発せられた言葉。

「俺は何にも悪くない!」

 結女子は動きを留めた。

 沈黙がその場の全ての動きを止めている。

 結女子は、顔を下げたまま動き出すと、床に散らばった空き缶を蹴散らしながら、台所に向かう。

 そして乱雑に棚を開き中身をかき出しながら包丁を探し当てた。

 鹿島に向き合う結女子。

 それを見た鹿島は、へたれ込んだまま飛び上がって床に漏らした。慌てふためき、立てないまま急いで床を這い部屋の外に向かおうとした。

 しかし、そこに苦い顔をした、大柄の男が飛び込んでて間に割って入った。

 クマだ。

「やめなさい。」

 血相をかいて部屋に飛び込んで来た割に、落ち着いた声でクマが言った。

 錯乱してる鹿島には目もくれず、泣きながら包丁を構える結女子を、片手を上げて止めるように制する。

 クマの声に結女子は表情を変えた。

 梅吉とクマに最初会った時と同じ顔だった。

 か細くて、頼りなげで、空間の狭間に湯気みたいに消え入りそうな希薄さ。

 結女子は声をかけないと、夢だったみたいに消えてしまいそうだった。

「僕が、僕が、一番最初に彼女の資質に気が付いたんだ!ずっと隣から声を聴いていたんだから!僕は誰よりずっと、ずっと!彼女の事を思っていたんだ!新鮮な魚を毎日あげたし!困っていた時は金だって工面してやったんだ!」

 クマを見て一瞬落ち着いた結女子が、また言葉も無く叫んだ。

 鹿島に向き直ろうとする。

 しかしクマが結女子を抱きとめると、声を上げて泣き始めた。

「私が自分で殺してやりたいのよ!何で止めるのよ?」

 結女子は力なく床にひれ伏した。

 クマが一緒にしゃがみ込むと、その膝を叩き続ける。

 クマは何の抵抗もせず、大きなテディベアみたいに沈黙してそこで鎮座した。

「いやいや、私はそんなこと考えてませんて言ってたでしょ?大人は言ってる事と、思ってる事が何時も違うんだから。」

 梅吉が苦笑いした。

 梅吉も結女子が恐かった。

 今もまだ、身体が震えている。

(連絡しておいて本当に良かった)

 しかし、そうこうしてるうちに鹿島身を起した。

 梅吉がそれに気付いて、結女子とクマを背にして、大の字で立った。

 しかし鹿島は三人には目もくれずに、さっと家から逃げ出した。

 その背中を梅吉が直ぐに追う。

 鹿島は階段でマンションの下へ降り、一階に着くと、すんでのとこまで近づいてきた梅吉を階段出入り口のドアを勢いよく閉め、で防いだ。

 そしてマンションから飛び出ると、感田川沿いに留めた自分の車に向った。

 震える手で上着から車の鍵を出そうとするが、何処にやったか分からない。

「おいコラ!」

 そうしているうちに、梅吉に追いつかれてしまった。

「あおーーーーん!あおーーーーんんん!」

 梅吉の怒号に呼応し、何処からか、白いフレンチブルドックの雄叫びが空高く響いた。

 鹿島は犬の声など気にする余裕も無かった。  

 梅吉の鬼気迫る勢いに、気負いし、逃げるのが精一杯だった。

 上着を破る勢いで脱いで、その場ではためかせる。

 ちゃりん。と言う金属音と共に鍵がコンクリートの上に落ちた。

 急いで拾い、慌てて車に乗る鹿島。

 梅吉が後一歩で手が届きそうなところだったが、先に車に乗られてしまった。

「わん、わん、わん、わん!」

 しかし、どうした事だろうか。

 鹿島の車の前方から、黒、白、茶のスタンダードプードルが走って来た。

「わん、わん、わん、わん!」

 それでも、車を走らせた鹿島だが、前方が遮られ見えないので、数百センチ先でブレーキを踏む。

「ああぁああぁ、何だ畜生!!」

 怒鳴り、車から降りる鹿島。

 鹿島が降りると他の人間が車から顔を出し、怒鳴っていたり、歩行者たちが睨み付けていたが、気にする余裕も無く、鹿島は車から降りて、犬を自分の車から剝がそうとした。

「わんわん、わわわん!」

 すると、今度は犬を掴もうとする鹿島の後ろに、白いフレンチブルドックがシェパードとブルドックを後ろに引き連れて走って来た。シェパードがプードルを掴もうとする腕に噛みついた。

「くっそ!犬!そこを退け!」

 鹿島は怒ってシェパードの首輪を引き上げた。

「「「わん、わん、わん!」」」

 鹿島の罵声と共に、四方八方から、またもや犬が数十匹現た。

 感田川の道路沿い半径100メートルを犬の群れが埋め尽くす。

 犬の大群に声掛けするように、尻尾をふりながら、四方八方に、くるくる身体を回しながら吠えていた白いフレンチブルドックが、仲間が集まるだけ集まったのを確認すると、異様な光景に戸惑っていた鹿島に向き直り、そのズボンのすそを、噛んで思い切り首をふりながら引っ張った。

 不意を突かれた鹿島が、その場にひっくり返る。

 柴犬、ポメラニアン、ヨークシャー、ミニチュア・ダックスフンド、マルチーズ・パピヨン。至る所、犬、犬、犬、犬、犬。

 鹿島は寄ってくる犬達を振り払おうとするも、超大型犬セント・バーナードにとどめのタックルされ、そのまま転倒してしまった。

 一方鹿島を追いかけて来たはずの梅吉は、自分の周りに沢山の犬が現れた事で、足の踏み場を失い、鹿島に近づく事が出来ず、立ち往生していた。

 犬を振り払い、蹴とばしながら進むなんて事は、梅吉には出来ない。

「梅吉行くぞ。」 

 犬の大軍を目の前に、突っ立たままの梅吉の背中にクマが声をかけた。

 梅吉が振り向くと、泣いている結女子の背に腕を回したまま、心配そうな、怒ったような顔で、梅吉の顔を覗き込んでいた。

 クマの指示で、三人は田中家に向った。

 十分後、騒ぎを聞きつけた警察がパトカーで現れた。

 パトカーの赤い警報音と共に、犬たちは散り散りになり、各々飼い主の元へ帰っていった。

 気絶した鹿島だけがその場に転がっていた。

 クマは田中家自宅に着くと、ドアの周りを良く見渡してから、静かに閉めた。

 そして振り返り梅吉に言った。

「今日の事、誰にも言うんじゃないぞ。」

 静かに淡々とクマの声が響く。

「え?何で?俺のお手柄じゃん?」

 クマは無言で眉間に皺を寄せた。

「…バレたらどうするんだ?」

 梅吉がびくっと肩を上げた。

 そして顔を伏せる。

 結女子がまだ涙の枯れない目のまま梅吉を見ると、項垂れた手の先が握り込まれ、震えていた。

 結女子が戸惑う指先で、その腕に触れようとするも、先に梅吉が走って二回に上がってしまった。

「もう、絶対学校何か行かないからな!」

 梅吉の声が悔し気に響いて、勢いよく、二階のドアが閉まる。

 玄関に、クマと結女子だけが残される。

「…少し、話をしましょうか?」

 クマの冷たい声に、結女子が身を震わした。

 クマは結女子をリビングに通すと、コップに注いだ、麦茶を出した。

「今日の事を、私は誰にも言いません。だから、貴女も、これから私が話す事、他言無用でお願いします。」

 お願いしますと言うわりには。首を横には触れない圧力がクマの全身から、結女子に向って発せられていた。 

 クマの話しは梅吉の過去だった。

「梅吉は養子何です。以前は子どもながらに、密売の足になっていたんですよ。」

 その淡々としたクマの言葉の中に、結女子は、クマの梅吉に対する敬意があるように感じた。

 そして、クマは自分の知る範囲の事を話し始めた。

 


 これから語られるのは、梅吉が田中家に来る以前の話しだ。

 梅吉はここに来る前は、母親と二人暮らしで、密売者の手伝いをさせられていたという事だった。

 梅吉とうい駒は、影の人間には使い勝手の良いものだったらしい。

 子どもなので大人よりも疑われにくく、愛想が良く気のいい梅吉を、誰も密売に関わっているとは誰も思わなかったのだ。

 梅吉にそんな事をさせたのは、梅吉の母が付き合っていた男だった。

 彼の母親は何故か何時も、ろくでなしの男と付き合ってしまう。

 それは優しくて駄目な人を見捨てられないからなのか、駄目な人間の面倒を見て、相互依存することで、自分の居場所を築きたい為なのか。

 定かでは無いが、ただ波長が合って、一緒にいたは確かだろう。

 梅吉は昔から、チビなわり筋肉質ですばしっこく、喧嘩は負けなかった。

 いや、喧嘩を吹っ掛けられやすかったから、強くなるほかなかった。とも言える。

 中学に上がると梅吉は密売の他に、色々な厄介ごとにも巻き込まれていた。  

 家庭環境の事もあり、子どもの喧嘩も大ごとになって周りに伝わっていった。独り歩きする噂が、御近所様に異質な存在感を植え付けてしまったのだ。

 ましてそれまでロクな近所付き合いがあったわけでもない。梅吉の家は密売の主犯である梅吉の母の男が入り浸ってる事もあり、近所から確実に孤立した。

 事実を知られて無いとは言え、異質な事は伝わってしまうものなのだ。

 そして学年が上がるごとに、梅吉は名を知られるようになり、一層梅吉の立場と人相は悪くなっていった。

 幼い頃は純粋な愛嬌だったものが、次第にただのお愛想になっていった。

 梅吉も自分がやっていることは、どういう事なのか分かっていた。

 しかし、どういう形であれ、誰かに必要とされることは嬉しかったし、自分がやらないと、きっと母親が利用されると分かっていたのだ。

 梅吉の気持ちを一番能動的に活用したのは、梅吉の母親の男だった。

 男は梅吉にカツアゲを教え込もうとした。が、梅吉が断固拒否した。

 売られた喧嘩を買う事はあっても、暴力を使って、相手から何かを奪う事はしたくなかったのだ。

 男は梅吉のせいで生活費が足りないと彼を責め立てた。

 どう考えても男が悪いのに、梅吉は罪悪感を覚えた。

 仕方なく梅吉は万引きをするようになった。万引きなら誰も傷つかないと思ったのだ。

 しかし、万引きは、お互いに利害が一致した密売とは別で、被害側から警察に届け出がでる。

 梅吉が万引きをし始めた数か月後、警察は梅吉に目を付けた。

 そして、ある梅吉が取引場所に向った日の事。

 幾ら梅吉が待っていても、取引相手が来なかった。

 梅吉は母親の男から預かったカバンを、公園で他に回す役だった。

 梅吉は、緊張で腹痛をおこした。

 そして、サビれた公園のベンチに、三十分遅れて来たのは警察だった。

 誰も来ない事で焦り、どうしようかと頭を抱えて悩みながら、酷い胃痛にお腹を抱え込んでいた梅吉は、近づいてきた警官に直ぐに気付くことが出来ず、上手く逃げるタイミングを逃してしまった。

 梅吉は万引きの常習犯として、そのまま施設に入れられた。

 その時の梅吉は保健所に連れてかれる野良犬の気持ちだった。

 その後、施設で梅吉は母親が自分を通報したことを知った。

 梅吉が盗んで来た品を警察に渡したのだ。

 梅吉は裏切られた事に怒り狂い、初日はずっと個室で発狂していた。その時、梅吉は暴れている自分を傍観し、冷めた目で観察している外側自分の存在に気が付いた。

 体中を掻きまわしながら泣いて叫んで、悲しんでいる何処かで、鉄の壁に自分の声が反響することに、安堵した。

 それまで蓋をしていた、感じないようにしてきたモノが、一気に噴き出したのだ。

 暴れる自分を嘲笑っている、もう一人の自分の声が聞えた。

 数日後、独房の様な個室から出されると、義務教育を他の子どもと一緒に受け始めた。

 思うと、梅吉は母や母の男の機嫌を気にせず、何かに打ち込むのは初めてだった。

中でも漢字の勉強が好きで、自由時間もずっと漢字の意味を考えていた。他にも数式が解けるとすっきりしたし、ドッチボールの時間も大好きだった。

 まだ自分から何かしたり、自分から人に話しかけることは出来なかったので、やることがあるのはありがたい事だった。

 少年院から出ると、母親で無い人が出迎えに来て、これからは自分が面倒を見るからと、梅吉の肩を強く抱きしめた。

 こうして梅吉は田中家の養子になったのだ。

 


 クマが結女子とリビングで話しをし梅吉は意気消沈し、自分の部屋の床で俯せで停止していた。

 自分のやった事は、全部無駄骨だったと、結女子に関わった事を後悔していた。

 正直結女子が不法侵入で捕まっても、梅吉にはどうでも良かった。

 自分の足なら窓からでも逃げられる。

 結女子の推理が間違っていて、結女子が捕まったとしても、それは結女子の責任だ。

 またもし結女子の言っている事が正しくても、犯人逮捕に繋がる。そうすれば、大手柄。

 そう思っていた。

 犯人を捕まえ、お手柄を立てて英雄になれば、誰も梅吉を攻撃しないし、独りにもならずに済むだろうと思っていた。

 自分がしてきたこともチャラになって、何かに怯える必要も、遠慮する必要もないのだと、そう思いたくて、梅吉は結女子に手を貸したのだ。

(そうだ、自分は決して善行を働いたわけじゃ無い。)

 梅吉は胸の内で呟いた。

 梅吉は夏休みが終わって、学校に入る前に英雄になりたかった。

 しかし、事件の事は公では伏せる様にクマに言われてしまった。

 いや、あの態度や威圧感を言葉にするなら、  

 『一生口にするんじゃない。』

 と、表現した方がしっくりくる。

 クマの言う事は梅吉にも理解出来た。

 考えて見れば、鹿島の部屋にどうやって侵入したか警察に聞かれれば、説明出来ない。

 もし、ご近所にピッキングが出来る少年がいると知れたら、ご近所の人がどう思うか、下手したら前歴も知られてしまう。

 だから黙っておけと言う事何だろう。

 しかし、頭では納得出来ても、心がもやもやする梅吉だった。

「梅吉君部屋に入って言い?」

 部屋の外から結女子の声がした。

「高校には行かないって言ってたの本当?折角編入試験、受かったんでしょ?」

 ドアの向こうの声が続く。

 高校に行かないというのは、クマに叱られ、苦し紛れに梅吉が言った言葉だった。

 しかし、嘘とも言い切れない梅吉の気持ちだ。

「密売や殺人犯にまで関わったのに、初めての学校に通うのが怖いのね。」

 ドアの向こうで自分を小ばかにする声に、梅吉は勢いよく身体を持ち上げ、ドアを開いた。

「…馬鹿にすんな。」

 力なく答える、不機嫌な顔の梅吉。

 それを見て、結女子がほっと胸を撫で下ろす。

「してないよ。」

 そう言いながらも、結女子の顔はにやついていた。

 梅吉はむすくれたまま結女子を睨みつける。

「密売者にも、犯罪者にも関わっといて、新しい学校に行くのが恐いだ何て、…可愛いなって思っただけ。」

 結女子は堪えきれず、口に両手を当て、ふふふと笑っていた。

「取り合えず、リビングにおいでよ。クマさんがピザ取ってくれたよ。手も手当しないとね。」

 先まで、般若のように怒ったり、この世の終わりのように泣いていたハズの、結女子の楽し気な笑顔を見て、梅吉は微妙な気持ちで、眉を潜めた。

 そして、目を背けてから、大人しく自分から階段を降り、リビングに向った。

 その梅吉の背中に結女子が何も言わず続く。

 先刻、般若と化していた女は、菩薩のような穏やかさで梅吉を諭す事に成功したのだ。

 その晩クマの取ったピザを、梅吉と結女子は無言で泣きながらたいらげた。

 お腹一杯になり、リビングでそのまま寝入る二人にクマは毛布を掛け、部屋の電気を消して自分の部屋に入った。

 次の日の日曜の朝、結女子は梅吉と逸物神社に参った。

 今日の結女子は何時もと違った。

 自分の願いが叶ったことを伝えに、お礼参りに来たのだった。

「あんた、そういうとこ、律儀だな。」

 神棚に向って頭を下げていた結女子に梅吉が言った。

「ねぇ、何で鹿島に会った後、鹿島の家に急いで行ったの?恵が殺されてアイツの家にいる事がテレパシーかなんかで分かっていたの?」

 結女子は疑問に思っていた事を、梅吉に尋ねた。

「違うよ。そんなテレパシー何て俺は持ってない。ただ、結女子の話から、恵さんって人はとんだ『嘘つき』だっていうのは分かっていたんだ。鹿島の「家に入った事も無い。」何て嘘だって、結女子の話し聴きながら気が付いてた。それで鹿島本人に会ったら、何かやばいことが起こっているって直感したんだ。」

 普通なら信じられない事だが、事を成し遂げた梅吉を見ると、本当の事なのだと結女子には感じられた。

 梅吉には、嘘を見抜くだけの、相手の本質を察知する嗅覚がある。

 だから、見た目や立場や、言葉で、騙される事は先ず無い。

 そんな自分に自信を持ち、それらを言葉にするだけの強さがある。

「ありがとうございました。」

 結女子は丁寧に梅吉にお辞儀した。

「…結女子さんは怒って無いの?恵さんに『嘘』つかれてた事。」

 結女子は頭を上げ、髪を祓い、梅吉に微笑んだ。

「勿論腹は立つよ。でも、信じたかったのは自分だからね。私が彼女を信じたくて信じたんだって事は、『嘘』にはならないでしょ?」

 結女子はそう言うと、明るく梅吉に手を振って、その場を去っていった。

「ウメちゃん。」

「マツ…。」

 神社境内に入れ替わりに入って来たのは、末恵だった。今日も白いフレンチブルドックの白太を連れている。

 勢いよく梅吉に飛びつこうとする白太を、梅吉は上半身をそらして軽くよけた。

「白太が俺に飛びつくの、どうにかなんないのかな?」

 賽銭箱の上に着地した白太を、梅吉は抱き上げ、下した。

「ウメちゃんの事が、大好きなんだよ。」

 末恵の言葉に、少し頬を染め、ちらっと振り返る梅吉。

 一方末恵は何の感慨も無さげに、立っていた。

 しゃがんだまま、項垂れる梅吉。

 白太がその項垂れた肩に、ちょこんと自分の前足を乗せた。

「…白太、何時も、この前もありがとうな。」

 末恵は一人と一匹のやり取りを見ながら微笑んでいた。

「後ね、結構心配もしてるんだと思うよ。ウメちゃんの事。」

 梅吉は俯いたまま渋い顔をした。

「ちょっと、さっきのお姉さんの為に、無駄骨折っちまったんだよ。」

「梅ちゃんのやってる事が無駄骨だなんて、私は思わないよ。」

 梅吉は末恵の励ましに顔を向けず、ただ耳をすましていた。

「おや、随分長いお願い事をしているんだね。」

 二人の後ろから、作務衣姿の神主が、大きな一本の竹を持って現れた。

 丸眼鏡の上に三つの横線のしわが見える。人の好さげな神主は、竹を本殿の脇に固定して立てた。

「良かったら、これにお願い事を書いて付けていきなさい。」

 神主は、百均のスパーの袋をガサガサ漁りながら、カラーペンと、自分で切ったらしい色紙の短冊を、梅吉と末恵に手渡した。

 末恵は竹の下に屈んで、膝に短冊を置き、何を書こうか悩んだ。

 隣の梅吉を見ると、既に何の迷いも無く願い事を書いていた。

「梅ちゃんは何て書いたの?」

「内緒。」

 そう言うと、梅吉はその場で軽く跳んだ。

 そして素早く、竹の一番高い部分に、自分の短冊を付けた。

 竹は三メートルは高さがあるので、末恵は背伸びしても見る事が出来ない。

 梅吉が願いを書いた赤い短冊には『母が元気でいますように』と、書いてあった。

 風に竹の葉が棚引き、短冊が揺れていた。



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