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彼女は「過去」を除霊する

 20歳の誕生日は、恐ろしいほど晴天の日となった。



「開ける……開けるね。うん、開い……た?」

 小百合は恐る恐る鍵を掴むと鍵穴に差し込み、勇気を振り絞ってくるりとひねる。すると思ったよりあっさり鍵は開いた。

「玄関……あいちゃった」

 玄関は、柄入りガラスの古い引き戸タイプだ。カラコロと扉を開いて中を覗けば、無機質に灰色の玄関土間、その向こうには少し高めの上がり框。奥は薄暗い廊下が続く。

 耳を澄ましても人の気配はなく、ただ自分の声が響くだけだ。

 小百合は恐る恐る、周囲を見渡す。

「えっと。お……おじゃま……します……? かな?」

 大きな楡の木が玄関の隣に占拠していた。昼の日差しを浴びた葉はまるで宝石のように輝いている。クリームグリーンの葉裏から蝉が一匹飛んで真っ青な空に吸い込まれていく。

 雲ひとつない、美しい夏の昼だ。

「……誰もいないのかな」

 その場所は、小百合の家から西に向かって徒歩20分ほど。住宅街の隙間に生まれた袋小路の一番奥にひっそりと建つ小さな家。

 あの日、招福からもらったメモに書かれた場所にこの家があった。銀の鍵はぴたりと合う。

 表札もインターホンもない。ただ赤錆びた門扉があるだけだ。壊さないように中に滑り込み、鬱蒼とした茂みに囲まれた玄関の扉を開いた。

 草と夏の香りに閉じ込められたような家である。

 住宅街のどこかから漏れる演歌の音と蝉の鳴く声以外、ここには音がない。 

「なんだろ、この家」

 小百合は玄関の扉を掴んだまま眉を寄せる。

 鍵は回った。地図も間違いない。しかし、ここが誰の家なのか小百合は何も知らされていない。

 小百合は玄関から数歩離れて家を見上げた。青い屋根を持つ2階建て。築年数は古そうだが、この街においてはごくごく普通の一軒家。

「……これって入っていいのかな?」

「さあな」

 草を蹴り飛ばしてケンタが不機嫌そうに呟いた。

「大口叩いておいて、怖気けづいたのかい、お嬢さん」

 それはいつものケンタの軽口である。



 墓場での除霊が終わったあと、小百合は再び寝込んでしまった。

 眠りながら一生分の夢を見たような気がする。目覚ましになったのは、小百合自身が鳴らした腹の音だ。

 最悪なほどボロボロの状態で目覚めたのは16日の明け方。お腹も喉も空っぽカラカラだ。よろけて顔を上げれば小百合と同じくげっそり顔のケンタがそこにいた。

 ボロボロだなと派手に笑われたせいで、二人の小さなわだかまりは解れて溶けて消えてしまう。

 ズタボロの二人は炊飯器を抱えるように食事をして、ぐったりと崩れ落ち、昼過ぎまでまた眠った。

 招福や新川、あちこちに連絡を入れて迎え火のイベントが成功したこと、バスの人々が無事だったことを聞いたのはその後のこと。

 ……そして小百合は一つの決断を迫られる。


「まさかお嬢さんに出かけるほどの元気があったとはな」

「まあ確かに、まだ頭は混乱してるけど」

 小百合は苦笑して一歩、家の中に入る。小さな鍵をきゅっと握りしめる。

 招福から預かったメモと鍵……それは誠一郎の置き土産だ。ここに行けばもう少し深い謎が解ける。しかしそれは同時に小百合をもう一度傷つける可能性もある。

 鍵を前に思い悩んだのは30分。ケンタは行きたくないと駄々をこねたが、小百合はきっかり30分で立ち上がった。

 えいや。と、思いきれるのは小百合の美点だ。ケンタのリードを握りしめて夏の道を進み始めて20分。奇跡的に迷うことなく、小百合はその家の前に立っていた。

 昔から招福も誠一郎も小百合に明確な答えは与えてくれない。いつも答えは小百合自身で探す羽目になる。

 除霊師は自分で回答を見つけるのだ……と誠一郎は言っていた。

「……歩けないときでも無理やり前に倒れたら、嫌でも前に進むでしょ?」

 そっと玄関から入り込み、壁のスイッチを押すと廊下にパッと明かりが灯った。床に積もったホコリを嗅いでケンタがくしゃみをする。

「電気つくってことは、誰か住んでるのかな?」

 スイッチの上にもホコリが積もっているほどだというのに、廊下には小さな足跡がトントンと先に続いているのが見えた。

 その視線を邪魔するように、ケンタがするりと小百合の前へ行く。

「俺が先だ」

「いつもケンタが前に立ってくれるね」

 大きく黒い背中を頼もしく見つめて小百合は笑った。ケンタは招福や誠一郎以上に過保護である。

「ケンタなんでこの家に来るの嫌がったの?」

「……中に入りゃ、わかるよ」

 変色した襖、崩れた棚、埃の積もった蛍光灯カバー。しかしジリジリと、電気の流れる音が聞こえる。

 長らく換気をしていないと思われるこの家には春夏秋冬の香りが蓄積されているようだ。

 ケンタはまるで見知った家のようにサクサクと進むと、廊下の端にあるガラスの扉をつん、とつついた。

 誘われるままに開いて……小百合は目を見開くことになる。

 

「……犬の餌」


 部屋は平均的な畳の間。ホコリにまみれたテレビに小さな机に、端に積まれたボロボロの布団。

 その横に、開封されたままになっている餌の大袋が一つ。その隣にはエサ台と、犬用の大きなクッション。

 ケンタは袋をくん、と嗅いで嫌な顔をする。

「まずいからこれは嫌だつってんのに、あの男はこれしか買わなかった。パッケージの犬の顔が好きだったんだとよ」

「ケンタ」

「人の話を聞かないのは、お嬢さんそっくりだったな」

「ケンタ」

「たまーに買ってくるのは、ふざけた玩具だの甘ったるい子犬用のおやつだ。ま、お嬢さんのほうがあいつよりはマシだな」

「……ケンタ、誠一郎さんの」

 招福が語った言葉を小百合は思い出す。震える声で彼は言っていた。誠一郎は危険な仕事をするためのパートナーを別宅に隠していた……。

「パートナーだったの?」

 誠一郎が消えて1年後、小百合の前にケンタは突然現れた。

 しかし思い返せばケンタからは時折、懐かしい香りがした。その気配は誠一郎の香りをまとっていた。

「ケンタが……誠一郎さんのパートナーだったんだ……じゃあこの家は」

 小百合は鍵を握りしめたまま、四方を見る。その場所はあまりにも普通の部屋だ。ホコリまみれのまま積まれた布団にもテレビ台にも誠一郎の気配はない。ただ机の上には白い封筒が一通だけ残されている。

 ……それは毎月16日。20歳の誕生日までは、と約束していた誠一郎の手紙。

 最後の一枚。それは丸い机の上に、祈るように置かれている。

「鈍いお嬢さんだな。もっと早く気付くと思っていたが」

 座り込んだ小百合の顔に、ケンタが鼻を押し付ける。

 1年前に初めてケンタと出会ったとき、小百合は彼から誠一郎の香りを感じた。

 ケンタの身体には常に誠一郎の気配があった。ケンタに妙な懐かしさを覚えたのはそのためだ。

 ケンタはすっかり諦めた顔をして小百合の前にかしこまる。

「……俺は……昔の俺はただの除霊師だよ。才能なんざないが、周囲におだてられて、一流除霊師のつもりになってた。大人しくしておけばよかったのに、有名な除霊師の仕事を奪って出し抜いてやろうと……葛城誠一郎の除霊現場にしゃしゃり出て……」

 ケンタは舌をだらりと垂らして浅く息をする。

「何も覚えてないと言ったろう? 半分は本当だ。気づいたらこの姿で、ここに居た。人間の手足も顔も……全部失って、こんな身体だ。ああそうさ、俺だって何がなんだかわけが分からん。ただ……除霊中にあの男に、あいつに助けられた……らしい」 

 そして耳を伏せ、上目遣いで小百合を見る。威厳のあるシェパード犬の顔が情けなく崩れる。

「屈辱だが、あの男に頼るしかないだろ。泣いたって笑ったって犬なんだ。で、悪霊狩りを一緒にな……人間に戻してやると言ったくせに、あいつはその前に死んじまった」

「なんで……教えてくれなかったの」

 小百合は力なく、座り込む。

「あの男は案外、慎重でね。もし自分がこの家に2週間戻らなければ、自分を探すのはやめて小百合の所に行けと」

 ホコリまみれの机の上に遺された一枚の封筒。小百合は震える手で、封筒を掴む。

 小さな手紙がポストに入っているだけでどれだけ心強かったか。嬉しかったか。幸福だったか。

「助けてやれと、あの男に頼まれた。絶対に正体をバラさないように、小百合をサポートする。それが俺を助けた対価だと。別にずっと助けるつもりはなかったし適当に切り上げるつもりだったんだが……」

 ケンタは尾を地面に叩きつけ、苛立つように顔をそむけた。

「お嬢さんがあまりに危なっかしいせいで、もう1年だよ」

 大きなシェパード犬……それも人間の言葉を口にする犬。初めて出会った時、恐怖より先に嬉しさが立った。

 たった一人で出たアパートの扉を、二人で戻ることができる。それがたまらなく嬉しいこと、一緒に並んで食べる食事が美味しいこと。

 忘れかけていたその嬉しさを、ケンタがまた教えてくれた。

 彼は誠一郎が遺した、小百合への贈り物だ。

「手紙も、ケンタが運んでくれたんだ」

「別に……乗りかかった船だ」

 机の上には封筒の形の跡がいくつも残っていた。案外こまめな誠一郎は、手紙を書き残しておいたのだろう。もし自分に何かが起きた時、小百合が20歳まですべてを隠し通すために。

「ダンボール一箱分書いてたな。腱鞘炎になったって笑ってやがった。お前が20歳の誕生日を迎えるまでの、毎月の手紙だ。生き延びた月には1通捨てて……捨てられる手紙のほうがずっと多かったんだ、あの頃は」

 ケンタが部屋の隅のゴミ箱を見つめる。白い封筒が握りつぶされ、何通も捨てられている。

 誠一郎にはどれだけの秘密があるのか。この数日で、誠一郎の断片が小百合の前に現れる。

「ずるいなあ、ケンタ。私の知らない誠一郎さんを知ってるなんて」

 いつもよりも丁寧に最後の一通を開ければ、たった1枚の便箋だけ。そこに書かれた文字もたった一言。


「……台所へ」


 部屋の東側にはガラスの扉がある。そちらに向かおうと思ったのは直感だ。暖かい気配を感じたのだ。

 ガタつく扉を開けば、かすかなカビの香りにホコリの匂い……そして。

「……女の子?」

 そこには机が一つ、置いてある。

 それはしっかりとした木造りのダイニングテーブルだった。

4人は座れるほど大きなその机には椅子が2つだけ。向かい合うように置かれた片方に、小さな少女が座っている。

 まだ幼稚園くらいだろう。足をぷらりと椅子から垂らして、呑気に机を叩いて遊んでいた。

 ぷくりと丸い頬に、幼い瞳。しかし身体は淡く光り、向こう側のガスコンロが透けてみえる……生きた人間ではない。

「誰だそいつ……前は居なかった」

 ケンタが鼻を鳴らし唸るが、ケンタを見た少女は嬉しそうに口を開けて笑う。

 犬が好きなのだろう。椅子から飛び降りてケンタの体に触れようと必死に腕を伸ばす。

 ケンタの首に抱きついて、嫌がるケンタに構わず何度も何度も鼻先にキスをする。そして彼女は嬉しそうに目を細めた。

 その笑顔を見て小百合は呆然と呟いた。

「……この子は、私だ」

「小百合!?」

 胸の奥が針で刺されたようにチクリと痛む。小百合の魂は「欠けている」。あの廃屋で出会った大久保はそう言って首を傾げていた。

 涙を零せないのは魂が欠けているからだ。ずっと小百合はどこかが欠け続けていた。

 そのピースが今、目の前にいる。

 驚かさないように気をつけて、一歩。また一歩。近づくごとに疑惑は確信に変わり、その手に触れた瞬間、小百合はすべてを理解した。

「……おいで、中に入れる?」

 ごきげん顔の彼女は小百合を見上げて無邪気に笑う。伸ばされた手には、黒い影のようなものがこびりついて見えた。

「何が食べたいの?」

 小百合はその手を掴み、ゆっくりと抱きしめる。小さくて軽くて、体に馴染む。

 少女の小さな手が小百合の肩を抱いた。ゆっくり、ゆっくりと彼女の身体が小百合に溶け込んでいく。

「そうだね」

 彼女はまるで小百合に耳打ちするように、幼い声で何かを囁いた。 

「私もそれを食べたいと思ってたの」

 小百合は笑い飴玉を飲み込むように喉を鳴らす。

 ……体の奥に熱が灯った、そんな気がする。

 それは十数年ぶりに感じる熱だった。

 


「よし。きれいになった。ガスも繋がる、水も出るし、買い出しも終わったし」

 小百合は額に浮かんだ汗を拭い、磨かれた台所を見つめる。

 鍋もコンロも、時間をかけて新品並みに磨き上げた。

 恐る恐ると付けたコンロは一瞬激しく燃え上がったものの、その後は通常運転。錆びた水道管もしっかり擦れば水が出る。

 しばらく水を流し続ければ、赤錆は取れてすっかり綺麗な水だ。

 机の上も磨き上げれば、すっかり台所は生まれ変わった。

「自分の家もそれくらい綺麗にしてりゃな」

「ごめんね、この子、口ばっかりうるさくて」

 ビニール袋から食材を取り出しながら小百合はからからと笑う。小百合の中で、幼い声がくすくす笑って声をあげる。

 まるで自分と同じ声。同じ波長、同じ高さで笑い合うと、笑い声が体中に満ち溢れるようだった。

「ケンタ、この子がねえ。うるさいワンワンだねって」

「うるっせえ……で。何し始めたんだ、お嬢さんはよ」

「料理だよ」

 掃除をしていたらすっかり外は日暮れてしまった。送り火のイベントのせいでスーパーはいつもより2時間早く、18時に閉まる。蛍の光が流れる店に駆け込んで、大急ぎで食材や調理道具を整えた。

「冷凍グリーンピースに、炊飯器は壊れてるから……惣菜コーナーにあったご飯。ああいうご飯って誰が食べるんだろうって思ってたけど、こういう時助かるねえ。人生にそう何度もあることじゃないけど」

 ウインナー、玉ねぎ、じゃがいも、牛乳。そしてホワイトシチューの白い箱。机の上に並べた食材の数々を眺めて小百合は手を打ち鳴らす。

「さて、始めよっか」

 サクサクと玉ねぎを刻むと目がじわりと痛くなった。

 ケンタは不満そうに口を閉ざし、小百合の側に腰を下ろす。

 足を揃えて尾を前に出し大人しい顔で座る。何も言わないで居てくれるのは彼なりの優しさだ。

「……玉ねぎで目が痛くなるのって、硫化アリルっていう成分が原因なんだって。だから昔から玉ねぎ切るのは苦手なんだよね」

 高校生の頃、流行の映画で泣く同級生に囲まれて小百合はたった一人、泣けなかった。そんな自分が情けなくて、無性に玉ねぎを刻んだことがある。

 しかし玉ねぎで流す涙はやっぱり何かが違うもので、涙は感情が伴わなければすっきりしないと小百合は悟った。

 それを語ると誠一郎は小百合を大げさに褒め、そして二人で一週間、玉ねぎ料理を食べ続けた。

「赤いウインナーって懐かしいよね。誠一郎さんがウインナーはこれしか買ってくれなかったから、世の中には赤いウインナーしかないってずっと思ってて、中学のときの調理実習で恥かいちゃった」

 サラダ油でてりてりに炒めた玉ねぎの海に投げ込むのは、真っ赤なウインナー。油をまとうと、まるで宝石みたいに輝くのだ。

 運動会の思い出も遠足の思い出も、全部全部この赤いウインナーだった。

 皮をブサイクに削ったじゃがいももゴロゴロ入れる。順番なんて関係ない。食材を次々炒めるだけで、鍋の中から幸せの香りがする。

 たっぷりの水、沸いたところに白いシチューの素。ごろりと入れて混ぜればやがてふつふつ甘い湯気がたつ。

「こんな所で料理なんざ……いや、お前まさか」

 匂いを嗅いでケンタが顔をあげた。彼の目が大きく見開かれる。

「食べて除霊、でしょ?」

「小百合、お前、そのガキは自分だって……」

「大丈夫」

 パック入りのご飯はフライパンで、沸き立つくらいのバターで炒める。

「昔、小学校の時。ダイエットしたんだよねえ。なにかの本で、バターと砂糖がデブのもとって書いてたから、とにかくバターを減らそうと思って。でも誠一郎さんがバター大好きで」

 しかしピラフにバター減量は厳禁だ。米がバターの間で踊るくらいたっぷりのバターで炒めなければ美味しくない。それが誠一郎の信念である。

 やめてやめてと騒ぐ小百合を気にせず、誠一郎はどんどんとフライパンにバターを追加した。

「あとグリーンピースも誠一郎さんの好物」

 子供の頃は大嫌いだったグリーンピースを炒めた米の中にゴロゴロと落とす。

 この翡翠のような固まりを美味しいと思い始めたのは、誠一郎に出会ってすぐのとき。

 あまり野菜を食べない誠一郎だが、なぜか冷凍のグリーンピースだけは食べるのだ。

 だからグリーンピースのことを小百合は誠一郎の栄養素。と呼んでからかった。

 食材を一つ二つと炒めるごとに、そして一つ二つと熱が入るごとに、柔らかな色に染まっていくフライパンを見て、小百合は目を細めた。

「いっつもねえ、料理をすると温かいなって……そうおもってたの」

 包丁を握る手も、鍋を掴む手もなにか暖かいものにくるまれている。いつもそうだ。除霊の時、料理をする手に何か暖かいものが添えられている……そんな気がしていた。

 いつも、そんな気がしていた。

「ずっとそばにいてくれたんだねえ」

 小百合は微笑んで、右隣を見上げる。

「……誠一郎さん」

 古ぼけた家に湯気が上がる。ここに湯気が上がるのは何年ぶりなのだろうか。

 その湯気の向こうに、懐かしい顔があった。

 

「誕生日おめでとう。小百合」


 飄々とした声だ。深いシワも大きな手のひらも、あんな幻とはまるで違う。

「これまでよく頑張ったね」

 それは、本物の葛城誠一郎である。 

 鍋を混ぜて、小百合は口を開き……閉じる。何度もそれを繰り返し、結局笑ってしまう。

「……いっぱい文句を言おうと思ってたけど、もういいや。なんだか全部、忘れちゃった」

 誠一郎の死を知って、まだたった数日だ。心はぐちゃぐちゃになって、もう歩けないと思うことだって何度もあった。

 それでも小百合は立ち上がって、歩いて、ここにいる。

 そして誠一郎に出会えた。幽霊が視える除霊師で良かった……何百回も思ったその言葉を、小百合はもう一度噛みしめる。

「ケンタ。よく守ってくれたね、僕の可愛い娘を」

「守りたくて守ったわけじゃねえよ。だいたいな、てめえは娘のしつけが悪い。どれだけ俺が苦労したと……まあいい。親子水入らずだ。俺は邪魔しねえよ、好きにしろ」

 誠一郎は柔らかい髪を揺らして、笑う。それを聞いてケンタは吐き捨てて背を向けた。

「でもな、誠一郎」

 ……が、彼は耳を伏せちらりと誠一郎を見上げる。

「やらねえからな、ちゃんと返せよ」

 吐き捨てるケンタの声はまるで小さな子供みたいにふてくされて聞こえた。

 


「誠一郎さん。すぐそばに、いてくれたんだね」

 半分透けた身体も、近づくと皮膚が泡立つ感じもすべて彼が幽霊であることを示していた。

 小百合の背中の向こうで温かい湯気が揺れている……シチューのあげる白い湯気と、バターピラフの甘い湯気。

「手紙でごまかして、生きてるふりをして」

「完璧な作戦だと思ったんだよね。手紙なら先に書いておけるし」

「消印は?」

「大きな声では言えないけど、僕は色々手先が器用なんだ。小百合は知ってるだろう?」

 誠一郎はいつもの黒いスーツ姿で小百合を覗き込む。

「小百合は強くなったね」

 バスで出会った偽物とはぜんぜん違う。眩しいほどに、誠一郎だ。本物の誠一郎だ。 

「この子が欠片なの?」

 小百合は胸の奥をぎゅっと押さえる。そして部屋を見渡した。

 この台所を小百合は知っている。大きなテーブル、大きな冷蔵庫……大人になった今からすれば、ちっとも大きくない。

 しかし幼い小百合はここを見て、まるで巨人のお家のようだ。と、思ったのだ。

 夏の夕暮れ、蝉の声。赤い夕日。

 晴れているのに雨の降る不思議な天気の中、小百合は大きな手に包まれて、この場所を訪れた。

 それが誠一郎との出会いだった。

「誠一郎さん、私の欠片、守ってくれていたんだ」

 小百合は胸の奥をとん、とん、と叩く。

 その中に収まったのは温かい塊だ。それは、幼い小百合だ。

 小百合の無くした魂の欠片だ。欠片は小百合の体の奥深く、あるべき場所にすとんと収まる。

「私の過去の記憶。この子が全部持ってた」

 小さな少女を飲み込むだけで、頭の隅にある記憶の黒い小箱が開いていく。

 思い出すのは冷たい家。男と女の冷たい目線。広い家の片隅で膝を抱えて座っていたこと。

 目の前の大人に話しかけても、返事をしてもらえなかった寂しさ……そして生まれたての幼い赤ん坊の可愛らしい頬。

 黒い手が赤ん坊の顔に近づく。狂ったような笑い声が赤ん坊……妹の体に迫ろうとする。

 それを、小百合の幼い手が掴んだ。どうしていいかわからず、小百合はそれを口に運ぶ。

 妹を救うため、小百合は幽霊を食べた。飲み込んだ黒い固まりは、体を芯まで冷やしたことを覚えている。

「子供が持っていちゃいけない記憶だよ。それに耐えられるまで、僕が預かってた」

 誠一郎が穏やかにほほえみ、小百合の頬に指を伸ばす。

「今の小百合はもう耐えられる」

 薄暗い記憶しか持たない少女の欠片だ。しかし、そんな過去も苦しみも誠一郎と出会った記憶が全てを上書きする。

 心地よい家に連れて行ってもらったこと。

 床ではなく椅子に座らせて貰えたこと。

 あたたかい食事を与えられたこと。

「小百合、そろそろ食事の時間だよ」

 小百合ははにかんで、大きな皿にどろりとしたシチューをそそぐ。

 もう一つの丸い皿にはグリーンピースのピラフ。バターでつややかに輝くそれを山盛りにしてテーブルに置く。

「誠一郎さんほど上手に作れないかもだけど」

 初めてこの家に小百合を招き入れた時、彼はこの場所でシチューとグリーンピースのピラフを作った。

 その2つだけが、彼の料理レパートリーだった。

(……そう、ひどく殴られて、痛くて、悲しくて、辛くて)

 父に殴られた。母になじられた。妹に泣かれた。親戚には不気味な目で見られた。

 苦しみにもがく小百合の前に差し出されたこの2つの料理が、一歩を踏み出すための力になった。 

 誠一郎も椅子に腰掛け、にこりと小百合を見つめる。

「小百合」

「誠一郎さん」

 二人は同時に、息を吸い込む。


「……さあ、一緒に食べよう」


 同じ声が、小さな台所に響いた。

「これ、誠一郎さんが言ってくれた最初の言葉だったんだよね」 

 大きなスプーンでシチューをすくい、すする。とろとろと甘くて、野菜の味が染み出したミルク味の特別なスープ。

 同じスプーンでバターたっぷりのピラフを噛みしめれば、甘い味が倍になって口の中に染み込む。

「……うん、覚えてる」

 目の前に座る誠一郎はまるで生きているようだ。しかし影は生まれない。ピカピカに磨いたスプーンにも映らない。

「美味しいね、誠一郎さん」

 スプーンの上に、温かい水滴がはらりと落ちた。

 ぽとぽとと、音をたてて落ちていくそれは涙だ。これまで吸い込んだ幽霊が流す涙とは違う。

 これは小百合自身が流す、本当の涙だ。

 幼い小百合が大人の小百合と共に流す涙だ。

 そんな小百合のことををじっと誠一郎が見つめる。その目が柔らかく、円を描く。

「……出会ったときは、小百合はとにかく小さくてね。ちゃんと大きくなるかずっと心配で」

 誠一郎は食事と小百合を見つめてテーブルに肘をつく。

「小さな小百合が、昔を思い出して泣くんだ。幽霊を見ても怯えないのに、夢で泣くんだ。ずっと、謝ってる。僕はそれが耐えられなかった」

「だから魂の……記憶の欠片をとっちゃった?」

「僕の除霊方法は……魂を……少し、いじるんだ」

 にやりと、誠一郎は笑う。

「まあでも、人にするのは初めてだったから、成功してよかった。招福君には後ですごく叱られたけどね」

「そんなの初めてきいた」

「だって悪役っぽいだろ? 僕はいつでも小百合のヒーローでいたかったんだ」

 誠一郎は肩をすくめる。そんな軽い調子は、生きていた頃となんら変わらない。

「大丈夫。人に対して使ったのは2回だけだよ。一回目は小百合、二回目はそこのケンタ」

「は!? 今はじめて聞いたぞ、この詐欺師!」

 黙っておくといったのにケンタが耐えきれないように声を上げた。

「そりゃそうだ。今はじめて喋ったからね。まあケンタの場合は死なないように緊急避難的な意味合いもあるんだけど」

「じゃあ戻る方法があるって言ってたのは」

「僕は嘘はちょっとしか付かないって、知ってるだろ? 始まりがあれば終わりがある。出したなら、戻す方法だってある……たぶんね」

 まだ何かいいたげなケンタを押さえて、誠一郎はにやりと笑う。

「……小百合の方は大人になったと分かったら、僕から欠片を返すつもりだった」

「死んだのは誤算?」

「誤算も誤算。でも僕は用意周到だから、小百合が賢い子ならたどり着ける用意をしておいた」

「……よく言うよ、人のことこき使いやがって」

 誠一郎はケンタの言葉を無視して小百合の頭をそっと撫でる。

「ちゃんと、自分でこの場所にたどり着いたね、小百合」

 外から鈴の音が聞こえて、小百合と誠一郎は動きを止めた。

 煙った窓ガラスの向こう、ゆっくりと光が移動していく。それは風に煽られた蝋燭の灯りだ。

 ゆらゆらと赤い光と小さな話し声……それに幽霊の影が通りの向こうを進んでいく。

 送り火の、始まりだ。

「行こう、誠一郎さん」

 小百合は誠一郎の手を掴み、外に飛び出す。

 外は生ぬるく、まるで湿度のカーテンにくるまれているようだ。日も沈んでいるのに、秋の蝉が短い声で鳴いている。

 雲は灰色、青黒い空に大きな月がかかり、電灯より明るく輝いている。

 そんな夏の夜の道を、波岸商店街のお年寄りがゆっくりと歩いていた。

 馴染みのお婆さんに手をふって、小百合は笑う。

「誠一郎さんがこの街が好きって言ってた理由、わかるよ」

 お年寄りたちは揃いの派手なアロハシャツ。13日は笛と太鼓の賑やかさだったが、今は静かに手にした蝋燭を揺らしながら歩いている。

 行きと違って帰りは観光客の姿も少ない。

 小百合はその最後尾につく。と、仏具店のお爺さんがそっと蝋燭を渡してくれる。

 じりじりと燃える赤い炎の向こうにみえるのは、生者に寄り添う、薄く透けた幽霊の集団。

 修司の家族と思われる三人の隣には、老猫の姿。

 上品な着物姿の城宮を守るように立つのは、アロハ姿の新川と嬉しそうな葵だ。

 ご近所のお年寄りの隣に寄り添うのは、西団のお婆さんだろう。彼女の隣には少女が付き従う。

「この町は、生きた人も幽霊も、みんな入り混じって存在してる」

 13日に家族に迎えられた幽霊たちは16日、光に導かれて帰っていく。

 戻る先はどんな場所なのか小百合には分からない。

「……明るくて温かい場所に帰っていくのかな」

 やがてたどり着いたのは、坂道の上の墓地。

 商店街のアーケードから歩いて20分。少し勾配があるのは、かつてここが山だったからだ。

 まるで斜面にくっつくように小さな墓が並ぶその場所に、人々が散っていく。墓は磨かれ花が飾られ、幽霊たちは送られる。

 小百合は光の渦をたどるように斜面を進み、やがて一つの墓の前で足を止めた。

「……招福さんもケンタもひどいよね」

 それは比較的綺麗な墓だ。ピカピカに磨かれている。墓の前には新しい花と誠一郎が好きだったお菓子が供えられ……そこには甘い香の匂いが残っていた。

 思えば、招福が小百合の家に来る時、いつも裾に薄く泥がついていたことを思い出す。

 ケンタも時折姿を消し、戻ってくると泥と線香の匂いが染みついていた。

「先に言ってくれなきゃ。2年もお墓参りしてないなんて、娘として失格じゃない」

 真四角の墓を覗き込めば、誠一郎の名前が刻まれている。

 こんなに近くに住んでいて、小百合はずっと気づきもしなかった。

「……誠一郎さん、私って免許皆伝?」

「ギリギリ、かな。でも、そうだな……小百合は、除霊師だよ。立派な」

 手を合わせ、小百合はうつむく。そして深呼吸をすると、結んだ手のひらをほどいて小百合は力いっぱい顔を上げた。

「……じゃあ誠一郎さん。この子も一緒に、連れて行って」

 胸の奥が不思議なくらい詰まっている。これまで感じたことがないくらい満ちている。それは自分の魂の欠片が戻ってきたからだ。記憶も音も匂いも数十年ぶりにすべて取り戻した。

 しかし、それは同時に小百合の除霊師としての終わりを意味している。

「この子が私に帰ってくると、もう、私のやり方……食べて除霊ができなくなるでしょ?」

「小百合!? ばっか、お前もう除霊師、やめるって」

 ケンタがきゃんと叫んで小百合の服を引っ張った。その頭をぎゅっと抱きしめて、小百合は深呼吸をする。

「私ね、ずっと、除霊師の仕事。誠一郎さんのかわりに、頑張ろう。そう思ってたの」

 ここ数日、思い出していたのはこの2年の風景だ。誠一郎との思い出ではない。

「……でもね今は」

 たった一人で、そしてケンタと二人で。

 この2年、多くの幽霊の前に立った。話を聞いた。飲み込んで、食べて、さようならと叫び、ありがとうと言われた。

「続けたい」

 りん、と鈴の音がどこからか、聞こえた。

 誰かが鈴を鳴らしたのだ。そろそろ、送り火のイベントが終わろうとしている。

「……私のために、私の力で続けたいんだよ、誠一郎さん」

 小百合は隣に立つ誠一郎に手を差し出した。

 誠一郎は微笑み、少し寂しそうに小百合を見つめる。

「もう、僕が居なくても大丈夫だね。小百合」

 誠一郎のいう「大丈夫」という言葉を、小百合は噛みしめる。これほど安心できる言葉を、小百合は知らない。

「この年で免許皆伝なら、いつか誠一郎さんを超えるかもね」

 小百合の目は穏やかに濡れている。泣くというのはこんなに心地よかったんだ、と小百合は思う。

 玉ねぎの涙とも、幽霊を飲み込んだときの涙とも違う。

 自分の涙は暖かい。でも、その涙とも、さようならだ。

「ケンタ」

 鈴の音が鳴り響く中、誠一郎がケンタの名前を呼び、ケンタが不満げに誠一郎を見上げる。

「僕の娘をバカというのは禁止。それとこれからも小百合を守って……紳士的な範囲で」

「てめえはいつも一言多いんだよ。最後の最後にでっかい爆弾落として行きやがって」

 誠一郎は清々しい笑顔で小百合に向かい合うと、手を伸ばした。

 小百合が大好きだった大きくて乾いた手のひら。

 この人に救われてよかったと、小百合は思う。

「誠一郎さん、大好きだった」

「過去形?」

「まさか。ずっと大好きだよ」

 誠一郎の手が優しく小百合の頭を撫でる。

「僕もだ」

 誠一郎の手が小百合を抱きしめる。何かが抜き取られるような、心地よい酩酊感が体を襲う。

「小百合。僕の教えた10か条の最初の一つを覚えてる?」

 膝から崩れそうになるのを、ケンタの体が支えた。

 除霊をすると1時間は意識を失う……その直前の柔らかな暖かさ。小百合は必死に意識を保ちながら誠一郎を見上げる。

「最初の……? 1つ目はたしか……」

 顔を上げれば、誠一郎が少女の手を引いていた。丸い頬に大きな目。無邪気に笑う彼女は、誠一郎の足に絡みつき、小百合とケンタに手をふる。

 昔なら、小さな小百合を羨ましく妬ましく思っただろう。しかし、今は違う。

「10か条の1つ目は……おもいっきり……楽しく……」

 鈴の音とともに、蝋燭の明かりがまたゆらゆら揺れる。

 皆が宙に向かって蝋燭を振るのだ。その灯りにつられたように、幽霊たちは空を目指す。

 真っ暗な空に、いくつもの美しい筋が走っていく。

 赤い炎に黄金の月。夜の静寂に響く、にぎやかな幽霊たちの帰路の光。

「そう……おもいっきり、楽しんで。除霊も、人生も」

 誠一郎は微笑んで、大地を蹴る。

 その白い身体がゆっくりと白い線になり、煙になり淡く淡く溶けていく。

 それは夏の幻のような、一瞬の出来事だった。



「……夏の終わりごろの……蝉の声がするね。これを聞くと、誕生日が終わったんだなって思うんだ」

 小百合の目を覚まさせたのは、残り香みたいな蝉の鳴き声だ。

 気がつけば、送り火のイベントも終わり。居残りをしていた街のお年寄りたちも、ぞろぞろと帰っていく。

 辺り一面を覆っていた光は穏やかに静まり、また墓地はいつもの静けさを取り戻しつつある。

 お年寄りたちを遠くから眺めながら、小百合は少し軽くなった胸の辺りをさする。

 この三日間で世界が滅ぶくらい悲しいこともあった、嬉しいこともあった。しかしどんなことがあっても、世界の時間は流れている。

 16日がきて、小百合は20歳になった。

「ケンタありがとう」

「せっかく普通の生活に戻れるところを棒に振りやがって」

 足元でちょこんとおすわりするケンタの前に座り込み、小百合は彼の顔を覗き込む。

 真っ黒な鼻先に、大きな耳。ツヤツヤ輝く少し硬い毛に、しっかりとした手足。

 最初見た時、なんて立派なシェパード犬だろうと思ったものだ。

 そんなシェパード犬が人間の言葉を話した時にはひどく驚いた。

 たった1年で、この嫌味で可愛く優しいシェパード犬は唯一無二の相棒になった。

「……これまで守ってくれて、ありがとう」

「別にお前に、ここまで近づくつもりはなかったんだ。あいつに言われたとおり、遠くから適当に様子を見ておくだけで良かったのに、なんだってこんなことに」

 ケンタは相変わらずのいやみったらしい声で、吐き捨てる。

 緊張している時に言葉が増えるのは彼の癖だ。尾を打ち付けるのはイライラしている時。小百合の足を尾で殴るときは怒っている時。

 食べ物の好みも、匂いの好みもなにもかも知っている。

 同時に彼は小百合の癖だってお見通しなのだろう。

「誠一郎さんはあんなこと言ってたけど、ケンタ、もし行きたい所があれば……」

 小百合は唇を噛み、手を握りしめながら呟く。

 ……それは小百合が、心にもないことを言う時の癖。

「招福さんのところとか……もっと、良い除霊師のところのほうが……良いなら私は、べつに」

 そんな小百合の足を、ケンタの尾が激しく打ち付けた。

「人間に戻る方法があると、誠一郎が言ってた……ずっと嘘だと思ってたが、今日聞いた感じだと、何か方法がありそうだ。なんだってあいつは、いつも大事なことを言わずに消えちまうんだ」

 ぶつぶつと、耳を伏せてケンタは唸る。

「い、今のままじゃ……俺はこの姿じゃ何もできないし、野良犬は生きづらい世の中だし、お前は一応力もあるし、まあ本物だしな。あの招福ってのは気に入らねえ、それにお前は放っておくとむちゃするし……」

「……ケンタががそばに居てくれないと、いやだ」

 前のめりで叫んで、小百合はケンタの首を抱きしめる。

「ケンタがいい!」

「じゃ、じゃあ……じゃあ……小百合がそう言うなら! 仕方ねえな!」

 ケンタは思わず尻尾を振り回し、バランスを失ってその場に崩れた。小百合も釣られてケンタを抱きしめたまま、誠一郎の墓の前で転がる。

 あまりのおかしさに笑い出した小百合を見て、通り過ぎていくお年寄りが「あらあらまあまあ」などと微笑ましく見つめてくる。

 お年寄り集団が踊るように去っていけば、そこに遺されたのは夜の闇と小百合とケンタだけ。

 泥まみれのまま立ち上がり、小百合はケンタのリードを握る。

 墓地の斜面をくだり、旧国道のでこぼこ道を歩く。夜もすっかり更けて、古い家にはぽつぽつ電気が灯りはじめる。

 不思議な鳥の鳴き声と、テレビの音と、車の音だけが響く静かな夜だ。幽霊も悪霊も、盆がすぎればちょっとだけ静かになって息を潜める。

 誠一郎の家を通り過ぎ、琴の響く城宮の家の裏へ。遠くに見えるブルーシートは、大久保の幽霊研究施設。その細道を抜けきれば、彼岸商店街……に見える波岸商店街の看板。

 シャッターの降りた店の前を通りすぎ、小百合のアパートまであと少し。

「コンビニでケーキでも買っていこうかな。誕生日のお祝い……ケンタも誕生日、教えてよ、お祝いするから」

「忘れたよ、そんなもん。それにここ最近オーバーワークだ。胃を壊すぞ。ちょっとは休め」

 歩き始めてケンタはげっそり疲れ果てたようにため息をつく。ここ数日、二人共満身創痍だ。

 久々に一週間くらい休みを取ろうかな……と考えた小百合だが、ふと手を叩く。

「あ、だめだ。その前に一つ、することがあったんだ」

 目の前には、小百合の城。古いアパートがそびえ立つ。隣には六叉路があり、隅っこには壊れかけた小さな地蔵。

 その上に、ぷかりと浮かぶ白い顔を見て小百合は手を振った。

「ただいま、着物さん」

「おかえり、小百合」

 微笑む着物さんの隣、細いお婆さんの幽霊が一人、静かに浮かんでいる。

 彼女の周囲にはまるでずっと雨が降っているようだ。霧雨の中、耐えるよう震えている。

 一歩近づくとケンタが呆れたように顔を上げる。

「小百合、さっき食べたばっかりじゃねえか」

「ダイエットは明日からだよ……こんばんは」

 街灯の下で静かに浮かぶ幽霊に、小百合はにこりと微笑んで見せる。

 思い残しのある顔をした幽霊は、まるで救いを求めるように小百合を見つめた。

 だから小百合はいつものように手を伸ばし、その冷たい手をにぎるのだ。

「……ねえ、何が食べたい? 私が食べさせてあげる」

 なぜなら小百合は除霊師だからである。

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