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私は「食べて」除霊する

 嫌なことのあった日に見る夢は、最悪だ。

 悪夢明けに聞く雨の音も、最悪だ。

 


「……小百合、おはよう」

 落ち着いた声が、寝起きの小百合に滑り込む。

「う……う」

 湿った枕に顔を押し付け、小百合は呻く。体が重く苦しく、どろどろに溶けてしまったようだ。

(身体が……重い)

 言葉にならない声を発して小百合は手をのばす。

 指先にあたったのは服、お菓子の空袋に、読みかけの雑誌。

 顔を上げれば、いつもと変わらない散らかり放題の部屋が見える。

「ケン……」

 ケンタ。すぐに片付けるから。そう言いかけた言葉を飲み込み、小百合は小さく首を振る。

 ……もうケンタに、小百合の言葉は届かない。

(頭、痛い、どろどろになったみたい)

 小百合の体はまるで液体にでもなってしまったようだ。頭の奥はズキズキと痛む。二日酔いの経験はないが、きっとそれよりひどい状態に違いない。

 目を固く閉じれば、昨日の出来事が一気に頭の中に蘇る。全ては夢ではなく現実だ。何度眠っても、夢にはならない。

 誠一郎は死んだ。それを昨日知った。誠一郎がもう二度と帰ることはない、そんな事実を突きつけられた。

(溶けちゃえばいいのに)

 小百合は自棄になったように考える。ドロドロになって溶けてしまって、この苦しみも悲しみも全部忘れてしまいたい。


「ひどい顔だな。水を使ってこい」


 こめかみを押さえながら起き上がれば、また透き通るような声が聞こえた。

すぐ目の前に赤い着物の裾が見える。白い足袋と膨らんだ振り袖の形も。

 長く黒く冷たい髪が、小百合の頬を撫でる。

 その髪を目で追って、小百合は目を細めた。

「……着物さん? なんで……」

 小百合の真上、着物さんが浮いているのだ。彼女は六ツ角地蔵の上がお気に入り。めったに他の場所には現れない。

 部屋の中でぷかりと浮かぶ彼女は、小百合と違って威風堂々として見えた。

「黒い獣が珍しくしおらしいのでな。ちょっとお邪魔した」

「獣……」

「獣はそこだ。小百合がずっと獣の名前を呼んでたせいで、この獣は一歩も動けずそこにいたぞ」

 右の足が熱いほどだ。ふと見れば、小百合の足元にケンタが丸くなっている。耳はふせられ、目は情けないほどにたれている。しかしその口から漏れるのは、わん、と小さな声だけだ。

 彼の背中を撫でると、ケンタは少しだけ尾を振った。

「珍しく仕事を投げ出したようだな。難しい幽霊か?」

 じっと俯いたまま動かない小百合を見て、彼女は不思議そうに眉を寄せる。

「嫌な夢をみたな?」

「……皆に置いていかれる夢」

 どんな夢だったのか、具体的には覚えていない。ケンタや誠一郎、招福が去っていくような夢だった。皆が小百合に背を向け暗闇に消えていく。

 叫んでも手を伸ばしても誰も振り返らず、小百合は一人暗闇に取り残された。

「小百合。私はここにいるし、獣もそこにいる」

 着物さんがそう言って笑っても、小百合は笑い返すことさえできない。

 ぼんやりと窓の外を見てみれば、そこは雨の黄昏時。糸のような通り雨が灰色の空から降り注いでいる。

 小百合は枕元に転がるスマホに手をのばすが、画面に浮かんだのは充電切れのマークだけ。

 スマホの隣には銀色の鍵が見える。着物さんがそれに指を伸ばすと、小百合の手に転がり込んできた。

「小百合。まるまる1日眠っていたので、ちょっと心配したぞ」

「じゃあもう、13日なんだ。せっかくの迎え火なのに雨なの、最悪。みんながっかりしちゃうね」

 声はガラガラで力もない。鍵を握りしめる指にも力が入らない。小百合はゆっくりと浅い呼吸を繰り返し、また目を閉じた。

「……ごめん。もうちょっと眠っててもいい?」

「何があった、小百合」

 着物さんがするりと小百合の隣に滑り込む。いつもは彼女が近づくだけで吠えるケンタだが、今は静かに彼女を見上げている。

 小百合は彼女の冷たい手のひらに触れ、俯いた。

「バスに……幽霊が出るんだって。それでね。バスの中に入ったら悪霊がいっぱい居て……奥に一人だけまだ悪霊になってない子がいて、助けようと思って。それで……でも……あのね」

 ふわふわと、言葉が漏れる。前後のない言葉を聞いても、彼女は怒りもしない。声も出さない。

 ただ、じっと小百合を見つめている。

 彼女くらいになれば、小百合の経験したことなど口にしなくてもお見通しのはずだ。しかしそれを小百合に敢えて語らせようとしている。

 ひどいことだ。と小百合は奥歯を噛みしめる。

「それで……誠一郎さん。死……もう」

 死という言葉は鋭い刃だ。それを口にすると、じわじわと心のどこかが傷ついていく。

 小百合は膝を抱え顔を埋める。

 小百合の髪は転んでも平気なようにいつでも短い。しかし今はその短さが切なかった。着物さんくらい長ければ、この情けない顔を隠すことができるのに。

「2年前、死んでたんだ。誠一郎さん。悪霊に取り殺されて……悪霊からそれを聞いたの。除霊師として最悪じゃない?」

 冗談めいて口にしようとしたが、その声は途中で震えて喉の奥に張り付く。

「……最悪だよね」

「そうか」

 彼女は小百合の頬に手をそっと置いた。

「悲しいな」

 泣けない小百合の両目はいつも乾いている。着物さんは小百合の頬を指でなぞり、困ったように微笑んだ。

「私が中に入って泣いてやっても、それは小百合の涙にはならんのだな」

「誠一郎さんがいなくなって、ケンタの声も聞こえなくなって、私ね。一人ぼっちになっちゃった」

「誰が一人ぼっちなものか。皆がそばにいる」

「……誰もいないよ。もう、誰も……」

「ほら、こっちを見ろ」

 着物さんの冷たい手が小百合の肩を抱く。

「小百合は一人じゃないさ。それに気づけば、小百合はもう少し強くなるのだが……ああそうだ、小百合には貸しがあったな」

「貸し?」

「大家の婆さんから姿を隠してやった。逃げる幽霊を足止めしてやった。獣の隠れ場所を教えてやった。もう何十個もの貸しだ。ちょうどいい。今、一つだけ返してもらおう」

 そして彼女は蛇のように目を細めて微笑む。

「今回の仕事、最後までやり遂げる。どうだ?」

「……でも私にはなにも」

 力がない。と言いかけて小百合は口を閉ざす。

 どれほど自分が無力か小百合はやっと思い知ったのだ。小百合には力がない。

 小百合の除霊は、幽霊との対話で成り立つ。悪霊に成りかけた幽霊とは会話ができない。それどころか悪霊に翻弄される。

 どんな幽霊だって救える……そんな風に考えていた自分は傲慢だ。誠一郎やケンタが守ってくれていたからこそ仕事をこなせてきたのだ。たった一人では、ほんの小さな悪霊にさえ立ち向かえない。

「何もできないから」

 恥ずかしくなり、小百合は顔をうつむけた。

「なあ小百合。なぜ悪霊は煤の匂いがすると思う? あいつらは身体を焦がされる匂いから、逃げ出せないのさ」

 着物さんの手は冷たいが、悪霊のそれとはまるで異なる。

 小百合は着物さんを見上げた。時代錯誤な着物姿に、長いたらし髪。おそらくずっとずっと昔の幽霊なのだろう。出会った時から飄々として、いつも超然とし、掴みどころのない幽霊だった。

 そんな彼女が初めて真剣な目をして、小百合を見つめている。

「悪霊は命を羨む。命にすがって命を妬む。だから人に害をなす。お前の師を殺したのは、そういった存在だろう。そんな相手に憐れむことはないし、好きなだけ憎んでいい」

 細い指が小百合の頬を掴む。子供にするように、優しく撫でる。

「……ただその場所には、悪霊に成る前の幽霊もいたんだろう? まだ救える魂が。それは小百合だけが救える魂だ」

 小百合が思い出したのは、バスの奥に座り込む少女の姿だ。やせ細った膝を抱え、汚れた格好で彼女は泣いていた。そして小百合に来るなと叫び続けていたのだ。

 着物さんは優しく微笑んで、小百合に耳打ちをする。

「昨日までの小百合なら、どうしていた?」

「……救った」

「それが答えだよ」

 着物さんの冷たい手が、小百合の魂の深いところをそっと押した。



「葛城さん!」

 風呂で冷たい水を浴びて服を着替え、外に出ると外はまだ霧雨が降っている。

 雨に濡れたまま進む小百合を捕まえたのは大家の新川だ。

「あーんた、仕事を投げ出すだなんてねえ。今日迎え火の日だよ。バスがまた一個消えたんだよ。観光客ごと消えて、おかげで右往左往で……」

 彼女はまくし立てながら、眉を寄せる。そして心配そうに小百合に傘を差し掛けた。

「どうしたの、傘もささずに……顔、真っ青だけど」

「……いえ。すみません。行きます」

 新川の傘を押しのけ、歩き始めるとケンタが小百合の隣にぴたりと寄り添った。

「ケンタ。もう何も聞こえてないんでしょう? いいよ、もう。私は一人で行けるから」

 リードを離しても体を押し返しても、ケンタは尾を後ろ足の間に入れてぴくりとも動かない。

 本当に犬に戻ってしまったようだ。忠犬のような顔で、小百合のそばを離れない。

「ケンタ。本当に、犬だったの? ずっと話ができてたの、私の幻覚だったのかな」

 膝を落とし彼の顔をじっと見つめる。切れ長の黒い瞳に長く伸びた口。大きな耳、柔らかい毛艶。

「ケンタが居てくれたから頑張れた。ケンタが背中を守ってくれてたから、安心できたし、本当はね、小言だって嬉しかったんだ」

 話しかけても彼は尻尾を振るだけ。口からは犬の鳴き声しか聞こえない。

「本当だよ。本当に、私はケンタのこと」

 ……ずっと、頼りにしてきたのだ。家族だとそう思っていた。

「早く言えば良かったのに、私」

 昨日までケンタは小百合の名を呼んでいた。一緒に走り、一緒に笑い、ときに喧嘩もした。

 この一年、どれだけそれに救われたのか。小百合は今更悔やみ、唇を噛みしめる。

「一緒に来てもいいけど……絶対無理はしないでね」

 力なく顔を上げれば、波岸商店街の看板が雨に濡れていた。夜から始まる迎え火のイベントまでにはまだ時間があるのだろう。

 割れたアーケードの下、お年寄りたちが不安そうな顔をして小さく固まっていた。手には思い思いの蝋燭、身体には揃いのアロハシャツ。その周囲には、観光客らしい人たちの姿もある。

 今から彼らは墓地に向かい、そこで蝋燭に火を灯すのだ。灯りを手に、彼らは歌って踊って街を練り歩く。帰ってきた魂を連れて、街を巡って家に戻る。

 そして16日、送り火は逆に墓へと魂を連れ帰る。それが波岸商店街の盆祭りである。


(……それまでに、なんとかしなくちゃ……できるなら)


 シャッター街の商店街を通り抜け、細道を覗き廃屋の隙間を抜ける。

 やがて、小百合は細い路地の奥に闇を見つけた。まるで怨念の作る黒い道だ。

 目を細めると道のあちこちに、煤が散っている。それは悪霊の残り香だ。近づくだけで皮膚がチリチリと焼けるように痛む。

(このショックでいっそ、幽霊が視えなくなればよかったのに)

 小百合はその煤を追いかけ、枯れたような道を歩く。灰色のブロック塀に、壊れたブランコの揺れる公園。青いカバーの掛けられた廃屋に折れた街路樹。

 この街は、ゆっくりと死んでいこうとしている。

 誠一郎の生まれた街が、死んでいこうとしている。

「小百合ちゃん!?」

 道を曲がった途端、招福の声が響いた。そこは墓地の裏にある旧駐車場だ。

 アスファルトは壊れ、蔦が這い、木が横薙ぎに倒れている。昨年の台風で派手に倒れてそのままになっていた場所だ。

 袋小路の奥にあり、普段は人など誰もこない。

 入り口にある赤いコーンを蹴り上げて、バスはちょうど広場の真ん中に横付けで止まっていた。

 招福は今まさに、バスに向かおうとしているところである。

「招福さん」

「大丈夫ですか? ここは私が」

 招福もまたこの場所を見つけ出したのだ。いつもどおりの袈裟姿の彼を見て、小百合はため息をつく。

「いいの。昨日はごめんね、招福さん。私、もうちゃんとするから」

 そして小百合は招福の体をぐっと押す。

「小百合ちゃん」

「私が行くの。私の仕事だから」

 見上げれば、バスは黒い靄に包まれていた。窓ガラスにはいくつもの手のひらが視えた。

 擦り付けるように、手が何度も窓を叩く。苦しんでもがいて憎んで恨む。悪霊の巣窟となったその中に、『彼女』はまだいるのだろう。

「そんな精神状態では無理です」

「無理じゃない」

 雨はヌルヌルと、粘つくように降る。盆の時期に雨が降るのは、遺された人が死者を思って泣くからである。

 この中に小百合の涙もあるのだろうかと、乾いた目を固く瞑って小百合は思う。

「誠一郎さんならやったでしょう? どんな時でも」

 ケンタが小百合のスカートを噛んで引く。それを無視して進もうとすれば、招福の白い手が小百合をとめた。

「……では、少し時間を」

「招福さん?」

「悪霊は心の隙間をついてきます。だから小百合ちゃんは過去を全部知っておかなくては……」

 彼にしては珍しく歯切れが悪い。言葉を選ぶように噛み締め、やがて意を決したように小百合の顔を見た。

「本当は私が話すべきことじゃない。誠一郎さんが……あなたの20歳を待って話をする、そう言っていたことです」

 招福の口が誠一郎の名を呟く。ごめんなさい。と、その唇が動いた。

「平気だよ、招福さん。私はこれ以上……」

 しかしそんな招福を見ても、小百合の心はコトンとも動かないのだ。

 一度傷んだ心はもうこれ以上傷つかない。

「何を聞いても平気」

「これは……あなたの父の言葉として、聞いてください」

 小百合の手を掴む招福の手は大きい。誠一郎の手も大きかったことを思い出して胸が苦しくなる。

 小百合はもう二度と、あの手に触れることも、見ることさえできないのだ。

「……私たちのように幽霊を視る、触れる、しゃべる、祓う。これは視えない人からは理解されないことです。それがたとえ、本物の家族であっても」

 招福の目は、深いところが青くみえる。これは除霊師にはままあることで、誠一郎の目も時々赤くみえた。

 小百合の目もきっと色が異なる。その色の中で除霊師は幽霊を視る。

「あなたは誠一郎さんの本当の娘ではありません。あなたは本当の……家族のもとで……ひどいネグレクトを」

 招福は小百合をゆっくりと抱きしめる。その優しい手は、幼い頃の小百合を抱きしめるような仕草だ。甘い香に包まれて、小百合は浅い呼吸を繰り返す。

「招福さん?」

 小百合は、過去を覚えていない。

 気がつけば誠一郎と共にいて、誠一郎と除霊をしていた。誠一郎の手を握った雨の日。その時から小百合の人生は始まるのだ。

 幽霊を視る小百合はクラスメイトに恐れられたし、意地悪な言葉もかけられた。

 お母さんもいないくせに。と言われたこともある。

 若い父親に連れられた『事情のある子』とクラスメイトの母親からは陰口を叩かれた。

 幼い頃から小百合のそばには、母も兄弟も祖父母も存在しなかった。 

「本当の……家族?」

「……幼い頃、本当のご家族のもとで……あなたは、妹さんを襲おうとした悪霊を、食べたんです」

 小百合は自分の手を見つめる。

 この手がうんと小さい時の記憶は、小百合には無い。

「妹……私の妹は」

 まだ小学校の低学年の頃。小百合は誠一郎に向かって、お母さんはどこ? と尋ねたことがある。

 クラスメイトに意地悪を言われたのだと不貞腐れる幼い小百合を抱きしめて、誠一郎は嘘話をいっぱいしてくれた。


 正義のヒーローの母から生まれた小百合。母は遠くの星で今も悪と戦っている……妖精の森に住む妹、どこかの国で世界を救っている兄……。

 小さな小百合は世界の秘密を守るため、過去の記憶を失った。

 そんな嘘の物語を繰り返し繰り返し、誠一郎は小百合に何度も語った。


「妹……?」

「幽霊が視えたのは……家族の中で小百合ちゃんただ一人」

 小百合の中に過去の記憶はない。目を瞑っても、幼い妹の姿など浮かんでもこない。

 ……しかし、もし妹が目の前で悪霊に襲われていたら。

 食べるという行為でそれを救えると知っていたら。

「悪霊を?」

 きっと、小百合は食べる。食べて妹を救う。今でもきっとそうだ。

 口の中に粘土のような味が蘇った。幼い小百合は「食べて」除霊をしたのである。 

「小百合ちゃんは正しい。視える人間なら、誰もあなたを責めません」

「それで親に……捨てられた?」

 きっと本当の親は、小百合が暗がりの中で何かを食べる姿を見てしまったのだ。黒く、煤けた、粘つく何かを夢中に食べるその姿を。

 視えなくなって安心した……と、呟いた城宮の声を小百合は思いだす。

 視える人間と視えない人間の間には深い深い溝がある。視えない人間は、けして視える人間を理解できない。

「誠一郎さんはあなたの遠縁です。小百合ちゃんが捨てられる直前、すくい上げた」

 ぞくりと小百合の背がまた震えた。

 誠一郎との最初の記憶。それは夏の夜の小さな台所だ。

 大きな丸いテーブルに椅子が2脚あった。狭い台所に大きな冷蔵庫が置いてあったことを覚えている。

 彼は小百合の手を引いて椅子に座らせ、おかえり。そう言って料理を作ってくれた。

 あの日、おそらく小百合は親から捨てられたのである。

「誠一郎さんは小百合ちゃんに除霊のいろはを教えました。そして二度と幽霊を食べさせるような真似はしなかった。絶対に。だから……」

「招福さん、ありがとう」

 小百合は招福の手をそっと離す。

 雨はますます強くなり、雲は緞帳のように濃い色となって垂れ下がっていた。

 二人の体は頭の先から足の先まで水浸しだ。地面に広がる水たまりには世界が反転して映っている。

 廃屋に樹木に斜めになった電柱。水たまりに映る世界は現実とは別の世界のようだ。

 水たまりに飛び込めば違う世界にいける。と、幼い頃の小百合は本気でそう考えていた。

 誠一郎は笑って「きっとこことは違う世界に行けるよ」などと言った。しかし現実はそう甘くない。水たまりに足を突っ込んでも誠一郎の生きている世界にはたどり着けない。

「招福さんずっと言ってくれてたでしょう? 除霊の仕事は危ないって。別の仕事を探す方がいいって。誠一郎さんが居なくなって、私がまた幽霊を食べたらどうしようって心配してくれたんだね」

「小百合ちゃん」

 招福は懐から小さな守り袋を取り出した。

 いつも手品みたいに守り袋を取り出す招福だというのに、今はただ震えながら、落としそうになりながら守り袋を強く握りしめ、小百合に手渡す。

「あなたはお父さんを亡くしました。でもね、私だって師を亡くした。この上、師の娘を亡くすなんて悲しいことをさせないで」

 除霊師以外の生き方もある。招福にそう説得されても小百合はずっと聞き流してきた。

 自分は誠一郎が帰ってくるまでの代理。小百合はそんな気持ちで除霊を行ってきたからだ。

 しかしもう、誠一郎は帰ってこないのだ。

「……うん。私、これを最後の仕事にする。だから、行ってくるね」

 もう、帰ってこないのだ。


 

 駐車場をはみ出すように止められたバスは、小百合が近づくと誘い込むように扉が開く。しかしこの程度、小百合にすれば恐怖でもなんでもない。

 バスに入り込めば、影が小百合を取り巻いた。

 まるで黒い雲の中を進むようだ。影は誠一郎の顔になる。さらに妹らしい小さな影、母親らしい女の影。幽霊を食べる自分の姿。

 しかし、小百合の心は微動だにしなかった。

(全然似てない……なんで誠一郎さんだなんて思ったんだろう)

 幻の誠一郎の顔は、胡散臭い軽薄な笑顔だ。ちっとも似ていないので逆に笑いがこみ上げる。

 伸ばされた手を払えば、それは煤のように黒く散る。手の甲に影が染みのように残った。

 この影が蓄積されれば、やがて死に至るのだろう。きっと誠一郎はそうして命を失った。

「残念。もう、全部知っちゃったから。何も怖くないんだ」

 バスを見渡せば、乗客が数十名確認できる。皆、意識を失ったようにがっくりと座席に崩れ落ちていた。一人の首筋に手を当てて小百合はほっと息を吐く……ただ眠っているだけだ。相当ひどい悪夢を見ているかもしれないが。

 立ち上がろうとして、小百合の足がふわりとよろめいた。外を見れば風景がゆっくりと動いている。

「……?」

 気がつけば音を立ててバスが動き始めたのだ。先程まで意識を失っていた運転手がハンドルを握っている。どこかへ移動しようというのか、バスがゆっくりと動き始める。

 しかし動きは不安定だ。右に、左に揺れる。小百合の背に汗が一筋流れケンタが激しく吠える。

「運転手さん!」

 止めようと声をかけても、目を見開いた彼の腕は石になったかのように重い。小百合はすぐさま踵を返し、一気にバスの後方に向かって駆け出した。

「どいて。その子に話があるの。何を見せてきても怖くないんだから、無駄なことはやめて」

 小百合の目的はバスの一番奥。長いシートの隅。そこに例の少女が座っている。

 ケンタが腰を低くして唸る。ケンタを押さえて小百合は無造作に彼女に近づく。

 少女は小百合に気づいたように、はっと目を丸くした。 

「なんで、また、ここに」

「バスを止めて」

 小百合は彼女の隣に座って、顔を覗き込んだ。やはりそれはまだ幼い少女だ。身体にはべっとりと悪霊の怨念が張り付いている。じわじわと、身体が腐り落ちるように悪霊に引きずられようとしている。

 その目に浮かぶのは絶望だ。触らないで、近づかないで……そんな声が聞こえる。両方の目から黒い涙がこぼれ落ちている。

 妙に腹立たしくなり、小百合は彼女にもう一歩、近づく。

 小百合だって悲しいのだ。俯いていつまでも泣きたい。涙を流して、叫んで、泣きたいのだ。

「どこに行きたいの? 連れて行ってあげるから、これ以上、バスを巻き込むのはやめて」

「わかんない……わかんないよ、もう」

 がたがたと少女が震えると、バスも震える。車体が壁をこする音がして車内が激しく揺れる。それでも誰も目覚めない。悪霊だけが面白がるように奇声を発する。

「止め方、わかんない……わかんないの……こわいの……だって……」

 ケンタが床に伏せ、激しく吠え立てた。

 バスは右に左に、不安定に動く。ゆっくりとだがバスは交通量の多い国道に向かっているようだ。流れる風景を見て、小百合は少女を睨んだ。

「バスを止めて。このままじゃ事故になる」

「わかんないの。もうなにも……でも寂しくて悲しくてつらくて寒くて、それで」

「そっか」

 頑なに膝を抱える彼女の身体に小百合はそっと手を伸ばす。

 冷たく、硬い体だ。未練は身体を頑なにする。

 彼女はもう半分以上怨念に変わっている。

 このまま放っておけば、彼女もきっと悪霊と成ってしまうに違いない。どうせ、救われない魂だ。

 

「……じゃあ。食べてあげようか」


 小百合は彼女の耳に囁いた。彼女の髪から、肌から、煤の香りがする。手にした守り袋は墨の色に染まっていく。

「だって私が受けた依頼は除霊だから。どんな方法でもいいんだ。バスさえ止められたら」

 小百合は目を細めて彼女を見つめて手をのばす。疲れのせいか何も考えられないのだ。世界は灰色で息苦しくて、全てに靄がかかって見える。

 ただ、全てが面倒くさかった。

「バス止めないなら、除霊する」

 早く、家に戻って眠ってしまいたかった。

 泥のように何日も、眠ってしまいたかった。

 小百合はゆっくりと、口を開く。

(悪霊は食べてしまえばいい)

 簡単なことだ。食事をするように噛みしめればいい。歯で噛み砕いて、飲み込めばいい。簡単だ。

 ……昔、そうしていたのだから。

「食べて除霊してあげる」

 

 

 ぎゃん、とケンタの吠える声が聞こえ、熱い口が小百合の腕を甘噛みした。大きな体に引きずられ、小百合は情けなく床に倒れ伏す。

 ケンタの足が小百合の体を押さえ、大きな尾が小百合の足を打ち付けた。

「ケンタ! 邪魔を」

 邪魔をしないでと叫びかけた小百合の言葉が、喉の奥で詰まった。


 急に、空気が変わったのだ。


「……なに?」

 小百合はケンタに押さえつけられ、床に倒れたまま。

 バスの中には相変わらず黒い影が飛び回っている。悲鳴も狂ったような笑い声も、前と同じまま。

 バスはまだ動いている……風景は先程と何一つ変わらない。

 それなのに、空気が急に軽くなったのだ。

「え?」

 小百合はぽかんと口を開き、顔を上げた。

「明かり……?」

 バス中の電灯が、一斉に灯った。

「なに……」

 先程まで闇に包まれていたバスの中が、パッと明るく輝く。

 手前から奥にかけて、まるで拍手でも湧き上がるように。パチパチパチ。そんな軽い音を立てて、一気に光が溢れ出す。

 グレーだった世界が白に染まる。まるで白い緞帳が空から降ってきたように。

「なに……なんで」

 あまりの眩しさに小百合は目を細める。

 そこに、緩やかな音が響き渡った。

「音……楽?」

 唐突に音楽が聞こえたのだ。それは、どこかで聞いたことのあるクラシック音楽。

 ゆるやかに、のびやかに、名前も知らないその音楽は場違いなほど騒々しく、バカバカしいほど明るく、一斉にバスの中に響き渡った。

 悪霊たちが怯えるように動きを止めた。光と音に怯えるように、慌てて四方の角に逃げ隠れる。

「何が……起きて……」


「姉ちゃん。最高の演奏を聞かせてやると、そう約束しただろう?」


 声に驚き顔を上げれば、空中に燕尾服の男が浮かんでいた。

「こんな渋い格好してると誰か分かんねえか? いつかは俺のバカ息子が世話になったな」

 白い髪に派手な顔だち。彼は目を閉じて、手にした指揮棒を大げさに振る。堂々と、明るく。

 燕尾服の裾が、まるで羽根のように大きく動く。

「せっかく皆が戻る迎え火だ。一人に聞かせるにゃ勿体ないくらいの、最高の楽団を連れてきたぜ」

 彼が手を動かすだけでどこからともなく音が響いた。

 伸びやかなクラリネット。

 音が舞い散るようなヴァイオリン。

 そして、荒々しく響くピアノの音。まるで音に押し流されるように、黒い影が一斉に退く。

 ……それと同時に、バスが急停車した。

「こちとら、バスの仕事を40年続けてきてんだ。悪霊ごときが馬鹿にするんじゃねえ」

 バスが揺れ、小百合は椅子の端でしたたか頭を打つ。驚いて顔を上げれば、運転席のすぐそばに、胡麻塩頭の修司が立っている。

 修司だけではない。振り返れば、見覚えのある顔が並んでいる。女性、男性、年寄り、それは皆、小百合が除霊した幽霊だ。

 乾ききった小百合の口の中に、様々な味が浮かんでくる。うどん、カレー、シチュー、ケーキに、白米……懐かしい味。

「なんで」

 味は記憶だ。

「……なんで」

 食事は思い出となって舌に蘇る。

「なんで……みんな」

 味とともに思い出すのは、皆の嬉しそうな声だ。幸せそうな吐息だ。

 そして、『ありがとう』の声だ。

 小百合は震える手で椅子の手すりを掴む。立ち上がろうとするが、腰が抜けたように動けない。

「おい。顔が真っ青だぞ」

 修司が小百合の肩を揺すった。触れたところから暖かさがとろけるようだ。悪霊に冷やされた身体が、だんだんと熱を持っていく。

 まるで液体のようになっていた小百合の心が固まっていく。

 彼らと共に食べた食事の味が、小百合の記憶を鮮明なものにする。


「あんたは、そうやってみんなを助けてきたじゃないか」

「小百合ちゃんにはお世話になったんだ」

「昨年の迎え火の日に、助けてくれたろう」

「どれだけ皆が、救われたのか」


 小百合の背後で低い悲鳴が響く。振り返ればケンタが黒い影を噛みちぎったところだ。しっかりとした前足で悪霊の身体を掴み、鋭い牙が影を噛みちぎる。吐き出した黒い影は、煤になって地面に散る。

「ケンタ!」

 ケンタは二匹目の黒い影に飛びかかり、小百合をちらりと見る。言葉は無いが、声が聞こえた気がする。

 大丈夫かと、いつもの声が聞こえた気がする。

「私……」

 小百合は何度も転びながら立ち上がり、ガラス窓に映った自分を見つめた。

 だらしない、まるで寝間着のような格好だ。上も下もちぐはぐで、靴だってボロボロのもの。

 情けない自分の姿を見て、小百合ははじめて目が覚めたように息を大きく吸い込む。

(しっかりしろ。しっかりしろ……)

 小百合は自分の冷たい頬を叩く。触れるうちに熱を持ち始める。まるで昨日から止まった時間が急に動き始めたようだ。心臓が跳ねて大きく音を立てる。呼吸音が耳に響く。

 顔を上げれば、世界に色が蘇った。赤いベロアの椅子に白い手すり、夏特有の青に染まる雨の色。

 先程までは悪霊のうめき声しか聞こえなかったのに、今では雨の音が聞こえる。音楽も鮮明に聞こえる。

 そして自分の呼吸の音が聞こえる。 

 飛び回る悪霊の影も、そこを走り回るケンタの姿も、ぐったりと倒れる人々の顔も。今になってすべてが鮮明に目に映り込む。

(……誠一郎さんは、誠一郎さんなら。こんな時、どうしたんだろう、どうやって……どうやって切り抜けた?)

 除霊師は因果な商売だ。と誠一郎はよく言っていた。視えない人間からは不気味がられ、悪霊からは恨まれる。

 それでも誠一郎は幽霊を助け続けた。

 彼のやり方は幽霊の話を聞くことだ。聞いて語らせ、そして送る。

 しかし、こちらの言葉を拒む幽霊を助けることはできない。虚しく悪霊に成ってしまった幽霊も多いはずだ。

 救えなかった霊を、誠一郎は苦しみながら祓ったのだろう。隠されたパートナーとともに。

(誠一郎さんなら……)

 小百合は震える足で一歩、進む。

(誠一郎さん……なら?)

 冷え切った手を床を踏む足を、小百合はじっと見つめる。20年近く、小百合は手で、この足で、この身体で生きてきた。

(……違う。誠一郎さんじゃない……私なら)

 修司が心配するように小百合の顔を見上げている……修司だけではない。皆が小百合を見つめている。

(私なら、どうする?)

 歩き始めれば、踏みしめる足に力がこもった。


「そうだ。ここにいるのは私なんだ」


 一歩、一歩。背後に響く美しいクラシックが小百合の速度と同じになっていく。

「私は、未練を、食べて、除霊をするんだ」

 小百合はバスの奥にたどり着くと、奥の座席で震える少女に手を伸ばした。

「ねえ。おいで」

 べっとりと黒い影をまとう彼女は苦しんでいる。

「私の中に、入れるかな?」

 そうだ。それは誠一郎が小百合に残してくれた、世界で一番優しい除霊の方法だ。

 小百合は彼女の前に膝を付き、そっと手を握りしめる。小さくて骨張ったその腕を。

「ケンタ、言葉が聞こえなくても、今のは分かるよ」

 ケンタの鼻が小百合の体を激しく突き、爪が小百合の足を掻いた。

 その懐かしい感触に小百合は思わず吹き出す。

「お嬢さん、馬鹿なことはやめろ。そういうんでしょ?」

 ケンタの声音を真似て小百合は笑う。そして止めるケンタに構わず少女の体を掴み、無理やり抱きしめた。冷たく痛く硬い感触が、ゆっくりと小百合の中に溶け込んでいく。

 硬い飴玉を飲み込むように、小百合は喉を鳴らした。体の中心に、冷たく悲しいものが静かに沈んでいくのが分かる。

 苦しい、痛い、悲しい、寂しい。その感情ごと小百合は胸を抱きしめる。

 ケンタが何度も尾を叩きつけるのを見て、小百合はにやりと笑った。

 なんて馬鹿なことをするんだ。非常識だ。お嬢さんは俺のいうことを一つもきかない……そんな声が聞こえた気がする。

「やっぱり、ちゃんと、会話できる。ケンタは、ケンタだね」

 不機嫌そうなケンタの鼻先を掴んで、小百合は笑う。その鼻先に軽くキスをすると、彼はまるで硬直するように尻餅をついた。

 笑いながらケンタの背を叩いて小百合はバスの窓を見る……外は、雨が止んで、ちょうど宵の頃。

 通りの向こう、ちらちらと明かりが見える。道の向こうに墓地があるのだ。迎え火の祭りが始まろうとしている。

 窓の外には黒い影が飛び回っている。盆は幽霊たちのお祭りだ。良い幽霊も悪霊も、みんな揃って地上を乱す。

 悪霊たちは未練を引きずる幽霊を夜に染めようと飛び回る。寂しい幽霊はそれに釣られて悪霊と成る。

 小百合は胸をぐっと押さえて駆け出した。小百合に迫る黒い影をケンタが捕まえ、地面に叩きつける音が響いた。

「ケンタ、行ってくるね。絶対に振り返らないから」

 それはケンタを信用しているからだ。

 そして、ケンタもまた小百合が振り返らないと信頼してくれているからだ。

「どんなときでも私は前を向いて自分の仕事を遂行すること!」

 目の前を飛び回る黒い影を手で祓い、小百合はドアをこじ開けた。

 辛い時にはな、胸を張ってしゃんと立ちなお嬢さん。そんなケンタの言葉が聞こえた気がして、小百合は丸めかけた背を正す。

「……今になってあの声、聞きたいなんて馬鹿だなあ」


「葛城さん!?」


 ステップを踏みしめ外に飛び出すと、新川の声が小百合の足を止める。

 見ればバスは国道交差点の手前数メートルの場所で、溝に滑り込むように止まっている。ギリギリだったのだと、小百合はぞっと震える。そのバスを取り囲むように、大勢の野次馬が集まっていた。

 パトカーや救急車の赤い色が壁や家に反射している。

「小百合さんがそこにいるの?」

 小百合の手を掴んだのは、城宮だ。逆の手を新川が掴む。

「バス、見つけてくれたんだね。やっぱり私の見込んだ通りじゃないか」

「でもバスが逆走して……止まったって皆、大騒ぎで。大丈夫なの?」

 彼女たちも迎え火の祭りに参加をする予定だったのか、手には花束と蝋燭が握られている。

 城宮は驚くように小百合の手を強く握りしめた。

「もしかしてまだ……お仕事中? ひどく冷たい手」

「実はちょっと……無茶を、してます」

 城宮の手は温かい。その手の温度を吸い取るくらい、小百合の手は冷たい。足を止めれば震えるほど。夏の粘つく気温は小百合の体を温めてはくれない。

 これほどの未練を残す霊を飲み込むのは初めてのことだ。

 未練が怨念になってしまえば、もう救えない。誠一郎もそう言っていた。

 こんな悪霊に近い幽霊相手では、小百合の除霊は効果が薄い。もしここに誠一郎が居たら身を張ってでも小百合を止めたに違いない。

「すごく、本当は、だめなこと……誠一郎さんが……私のお父さんが……だめって言ったこと」

 野次馬達はあふれる悪霊の姿も見えないのか、バスを覗き込み、眠る人たちを指差し散々騒いでいる。それを警察官が必死に追い返す。あふれかえるような音と光の中で、小百合は一人震えている。

「危ないことを……してます」

「琴の世界でもね、禁じ手や、やっちゃいけないことって多いの。でも時々、それを超えていく教え子がいるのよ」

 城宮は花束からそっと一本の花を抜き取って、小百合の手に乗せる。

「いいと思うわ。ここにいるのは、あなただもの。あなたは幽霊の最後に寄り添える人だもの」

 それは、真っ白な百合の花である。



 ふらつくように歩き始めたが、行くべき場所など小百合にはわからない。声をかけても小百合の中の少女はうんともすんとも言わないのだ。どこに行きたいのか、何を食べたいのか。彼女は一つも答えない。

 ただ、釣られるように進んだのは墓地への道。迎え火の炎に惹かれるのは幽霊の常だ。宵の闇の中、まるで波のように揺れる炎に向かえばやがて墓地にたどり着く。

「さゆちゃん、顔真っ青よ」

 息を乱す小百合に声をかけたのは、近所で商店を営むお婆さんだ。杖をで放り出して彼女は小百合の手を握る。

「まあ手をこんなに冷やして! 女の子が体を冷やすのはねえ……」

「おばあちゃん、ここに……若い子のお墓って、ないですか?」

 小百合は倒れないように体を支え、必死に息を整える。

「若くて……小さくて……きっと、寂しい女の子の……」

 周囲には墓石が並び、あちこちに幽霊の姿が視える。

 家族を見つけて嬉しそうに笑う幽霊、手招きする幽霊。彼岸と此岸が混じり合い、まるで帰省ラッシュのような賑やかさ。

 しかし小百合の中の彼女は動かない……迎えに来る家族が居ないのだ。

(……この子、一人ぼっちの幽霊だ)

「若い子……?」

「小さな女の子……事故か……自分で……悲しい死に方をした子で……家族はいないか……捨てられたか……」

 小百合の言葉を聞いて彼女の顔が青く染まる。

 いうべきかどうか迷うように顔を伏せ、やがて意を決したように墓地への奥へ続く道を指差す。

「集団墓地の奥に一つ。可愛そうな子でね……お墓なんて打ち捨てられちゃって……可愛そうだからって和菓子の西団さんがずっとお世話して、おまんじゅうを毎月お供えしててねえ。でも西団さんが亡くなっちゃったでしょう。町内長が時々掃除なんかしてるみたいだけど……」

 周囲はアロハシャツの集団がにぎやかに集っている。ぽつぽつと明かりが灯る。蝋燭の明かりに惹かれるように、一人、また一人と幽霊たちが家族の元に帰っていく。

 しかしお婆さんが指差す方向は静まり返っている。奥にあるのはもう誰も足を運ばない古い墓地エリアだ。

「西団さんのお盆まんじゅうは絶品だったんだけどねえ。あ。そうそう。それでね、皆が西団さんの味を懐かしがるもんだから、娘さんが今年から隣町でまたお店を開いたのよ。いくつか買ってきたから、さゆちゃんにもわけてあげるわね」

 手に乗せられたのは真っ白な饅頭だ。どっしりとした重さは餡が詰まっているのだろう。

 お婆さんにお礼を言って、饅頭を抱きしめたまま小百合はまた歩き始める。体の奥に閉じ込めた彼女は何も言わない。しかし、墓地に進むごとに身体が軽くなる。

(ねえ。何が食べたいの? 何がしたいの? 助けてあげる、私なら助けられる)

 墓地はアロハシャツの老人たちでみちみちていた。蝋燭と花を手に、彼らは墓地の真ん中で踊る。光がくるくる回る。観光客たちがカメラを向けて楽しそうな手拍子が響く。

 しかし小百合はその合間を抜けて、一人だけ墓地の奥へと進む。墓地の奥地区は古い墓だけが並ぶ、寂しい場所である。

 木々が鬱蒼と垂れ下がり、蝉の声も聞こえない。昼なお暗いその場所は、夜になるとさらに暗くなる。

「……お姉さん大丈夫?」

「葵君……も来てくれたんだ」

 気がつけば、小百合の横には少年の姿があった……葵だ。

 彼の顔を見るだけで、口の中に甘い味が広がった。夏のチョコレートパフェ。冷たく甘くて美味しかった、それは幸せの味だった。

「すごいなあ」

 小百合は唇をかみしめて、胸をきつく押さえる。

 天を見上げても誠一郎の姿はない。ただ暗く垂れ下がる柳が見えるだけだ。打ち捨てられた墓地が並ぶこの場所は、ぼうぼうと不気味な声が聞こえるだけだ。

 しかし、小百合のそばには優しい声がある。

「みんな来てくれた。ねえ誠一郎さん」

 それは誠一郎の教えのおかげだ。誠一郎は、小百合にこんな素敵な置き土産をした。

「一人じゃなかった」

 一人ではないということに気づけば、もう少し強くなれる……着物さんの言葉が不意に蘇る。

 その言葉の通りだ。小百合は一歩歩くごとに、強くなっていく。

「ひとりじゃない……きっと、この子だって。ひとりなんかじゃない」

 手にしたユリの花が爽やかな香りを撒き散らし、薄暗いこの区画に光のように、白い筋が描かれた。

 葵は少年らしい顔に悔しさを浮かべて俯く。

「お姉さん、ごめんなさい。僕が支えて行ければよかったのに」

「大丈夫だよ、まだ歩ける。葵君は離れていてね。悪霊が来ると行けないから」

 葵と別れて墓地の最奥。どの墓か、なんて聞くまでもない。一番奥、崩れて欠けた墓が一つある。

 花の影もなく、雑草が生い茂る。青く錆びたような色の浮かぶ小さな墓。横に刻み込まれた名前はもう見えない。ただ、享年15の文字だけが切なく青く錆びている。

 触れると小百合の中の少女が悲鳴を上げた。もがくように暴れまわる。それは苦しみと悲しみだ。

「……家族に……捨てられた」

 見えてきたのは、悲惨な少女の死に様だった。誰も居ない家の中、家族に見捨てられ、倒れ、救出された時にはもう命は終わろうとしていた。

 病院の奥、一人きりになる。ナースコールは間に合わず、そして死んだ。墓に納められたが、誰もこの場所を訪れない。墓は草に包まれ朽ちていく。

 しかし彼女の寂しさはそれだけではない。

 墓に取り残され一人きり。孤独に耐えられなくなった時に、出会ってしまったのだ。

(……西団さん)

 目を閉じると、風景が浮かんできた。ボロボロのこの墓を掃除する年老いた手。優しく話しかける声。白く大きな饅頭を供え、優しく手が合わされる。祈るような声が響く。

 透ける少女はこの忘れ去られた墓の前で、たった一人を待ちわびる。生前は会ったこともない、その女性を待ちわびる……おばあさんの、優しい顔を待ち続ける。

「西団のおばあちゃん。お墓を掃除してお饅頭を供えてくれたんだね」

 名前を呼ぶと少女が震える。まだ彼女の中には未練が残っている。すべてを絶望したように見せかけて、どこかに望みがあるのだ……あの幸せだった一時を取り戻したい。

 西団は数年前に亡くなった。急に姿を消した西団に気づき、少女は何を思っただろう。どれだけ悲しかっただろう。

「最初の孤独は平気だけど二度目の孤独は耐えられない」

 今朝までの重い気持ちを思い出し、小百合は目を閉じる。

 彼女の姿は、もうひとりの小百合の姿だ。

「私も、そう思ってた」

 未練が怨念に変われば、悪霊に成る。

 しかし未練がまだ少しでも残っていれば、その幽霊は救われる。

 小百合は墓にふれ、その前に座る。お婆さんと同じように手を合わせ……はたと思い出し、先程もらった饅頭をそっと差し出す。

 真っ白でつややかで、まるで夜の闇を祓うような白さだ。故人に供える食べ物はどれもキラキラとして美しい。故人を思う人の心が食べ物を美しく見せるのだ。

 小百合の手の中に収まる甘くて小さな固まりは、今、この世の中で一番綺麗なものにみえた。

「これだよね。これが食べたかったんだよね。もう何年も、バスに乗って、おばあちゃんのお店、探してたんだよね。ずっと」

 気がつけば隣にケンタの暖かい身体があった。手も腕も尻尾も煤まみれだ。

 ……そしてもうひとり。

「おばあちゃん?」

 それは腰の曲がった一人の老人の幽霊。彼女は小百合の横に腰を下ろして皺の寄った丸い手を合わせる。その顔に見覚えはないが、つややかな丸い顔を見た途端、小百合の中の彼女が激しく動揺した。

「西団のおばあちゃん?」

 小さくうなずくその人は、寂しそうな目で小百合を……小百合の中に閉じ込めた少女を見つめている。

「ほらね。あなただって一人じゃないんだよ」

 真っ白な饅頭を両手で持って、小百合は祈るように目を閉じる。鼻に届くのは甘くて柔らかい香りだ。

「……さあ、一緒に食べよう」

 噛み締めたその味は、柔らかく甘い。もちもちとした生地もかすかに香る優しい匂いも、夏の温度に似合う味。ほろりと崩れた餡の柔らかい甘さが身体の中を染め上げる。

 墓地の向こう側ではとうとう迎え火の練り歩きが始まったようで、太鼓と笛の音が響き渡った。

 赤い光がちらちらと、まるで誘い火のように揺れている。

 そんな音からも遠いこんな場所で、小百合は饅頭を食べている。一口、二口、ゆっくりと噛みしめるごとに涙が溢れた。大粒のあふれる涙が小百合の手を濡らし、ユリの花の上で散る。

「ごめんなさい。2年前、私のせいで、ごめんなさい」

 震える声が、小百合の中から聞こえた。目を開ければ、すぐ目の前に少女の姿がある。

「あなたのお父さん、助けたかったのに……わ、私のせいで」

 黒い影はもう見えない。震える彼女を西団のお婆さんが優しく抱きとめる。すると初めて彼女は少女らしい泣き声を上げた。

「ごめんなさい……」

「よかった」

 目の前に浮かぶのは、少女とお婆さんのただ明るいだけの幽霊だ。黒い影も未練もない。

「……助けられてよかった」

 やがて小百合の背から、光と声があふれる。

 その光は喜びの色だ。

 その声は至福の音だ。

 小百合の身体からゆっくりと、力が抜けていく。

 しかし何の心配も恐怖もない。

「ケ……ンタ……」

 小百合はいつものようにゆっくり地面に倒れながら、呟く。

「一時間後……起こして」

 その体を、柔らかく暖かいものが受け止めた。

 


「お前が何もできないときは俺が守ってやる」

 夢の中で聞こえてきたのは懐かしい声である。

「過去をみるな」

 それは昨日まで聞こえていたケンタの声。

「俺がお前を守ってやる。俺はこんな体だが、あいつと違って生きているし、あいつと違って約束だけは守るんだよ」

 聞こえなくなって2日なのに、もう100日以上聞いていない。そんな気がする懐かしい声だ。なんて優しい夢だろう……そう思った瞬間、小百合の体に痛みが走った。

 ……それは硬い石の上で眠っていたせいだ。石を枕にしていたせいだ。泥と土まみれになったまま、小百合はぼんやりと目を開ける。

 辺りは一面薄暗い。虫の声と、幽霊たちの囁き声しか聞こえない。

 そうだ、小百合は墓地の奥で気を失ったのである。湿った土の香りに、線香の香り。

 ……そして懐かしい声。

「会った時に約束しただろう、絶対に、お前を守る。だから……」

 目の前に、黒い影が立ちふさがっている。寝ぼけたまま小百合は手を伸ばし、その影にふれる。

「俺だってな、小百合とやる除霊が一番楽しいんだよ」

 柔らかくつややかで……心地よい夏毛の感触。

 これは幻ではない。現実だ。本物のケンタの声だ。

「……ケンタ」

 小百合はその首を引き寄せて、強く、強く、抱きしめた。顔を彼の首にこすりつけた衝撃で、先程こぼし残した涙が一粒、目元から転がり落ちる。

「ケンタ、守ってくれてありがとう」

「ま……お前、おま……もしかして、俺の声、きこえ」

 焦るように逃げようとするケンタだが小百合は退路を防ぐように、もっと強く抱きしめる。

「聞こえるように……」 

 彼の尾はせわしなく上下左右に動き、小百合は思わず吹き出した。

「褒めて」

 犬だって照れるし、気まずくなるのだ。ケンタと会って小百合は初めてそんなことを知った。

 そして人間だってもちろん、照れるのだ。あつく火照った頬をケンタの毛皮に押し付けて隠し、小百合はケンタにねだる。

「褒めてよ、ケンタ」

「……よく頑張ったな、小百合」

 一番聞きたかった声は、小百合の中に水のように広がった。

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