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彼女は「不協和音」を除霊する

「そこのお姉ちゃん、俺のバカ息子をちょっと救ってくれやしないかい」

 小百合が突然声をかけられたのは、嫌味なくらい晴れ上がった早朝のことだった。



 時刻は早朝、7時前。

 今日から販売される新作カップ麺を買うために、三つも目覚まし時計をかけて早起きした小百合である。

 カップ麺ごときで早起きなんてご立派なことだとケンタには嫌味を言われたが、数週間も前から楽しみにしていたのだから仕方がない。

 早速帰って食べようと満面の笑みのまま公園を横切っていると、突然声が聞こえた。

 普通の人間なら木立の揺れる音と勘違いしただろう。しかし小百合にはその声がはっきりと聞こえる。

 なぜなら彼女は除霊師だからだ。


「君、除霊師だろう? 中途半端なうちのバカ息子は今、中途半端に幽霊だ。悪いが救ってやってくれないかね」

 小百合に声をかけてきたのは初老の男性だった。派手なアロハシャツに半ズボン。目にはグラサン。しかし日差しは彼を突き抜けて、地面には影も生まれない。

「幽霊?」

「俺みたいなかっこいい幽霊に声をかけられるのは慣れてないかい?」

 にやりと、口の端を上げて彼は笑った。

 幽霊が夜にしか出ない、なんてとんだデマだと小百合は思う。死んだ人間に時間の感覚を押し付けるのは、生者のエゴだ。

 ベンチに浅く腰掛ける彼に近づくと、ヴァイオリンの音が聞こえた気がした。

 続いて高らかに響くピアノの音も。小百合は目を閉じ、音を探る……彼はきっと、音楽に関わる人間だ。

 彼は公園のベンチに前のめりで腰を落としタバコを吸う仕草をしかけ、舌打ちをする。

「この格好じゃタバコも吸えやしない。ああ除霊の話だったな。うちのバカ息子は幽霊になっても中途半端だ。父親の俺が叱りつければいいと思うだろうが……あいつは俺に万年反抗期でね」

 彼は透明な足をぶらぶらと揺らしながら、言葉を続ける。

「……で、君にひとつ除霊を頼みたい」

「いい……ですけど。幽霊から除霊を頼まれるの初めてで、なんというか……なぜ私に?」

「おいお前、こんな馬鹿げた依頼受けるつもりじゃ」

 ぎゃんと吠えたケンタの口を手でおさえ、小百合は彼の顔を覗き込んだ。

 彼はサングラスをずらし、目を細める。そしてまるでタクトを振るように指を動かし口の端を少しあげた。

「このあたりに腕のいい除霊師が居ると聞いて待ってた。何人か除霊師が通りがかったが、声をかけても無視だ。阿呆な除霊師では俺の声も聞こえないからな。で、姉ちゃんは振り返った。あんたが腕のいいホンモノの除霊師だ」

 小百合は緩みかけた頬を慌てて引き締め、わざと咳払いをしてみせる。

「ま、まあ確かに腕はいいですけど……」

「しかし腕がいいみたいだが飯はちょっと残念だな。カップ麺じゃあ身体を壊すぞ。ネギくらい入れろ。自由業は身体が資本だぞ」

 男は小百合がぶら下げるビニール袋を覗き込み眉を寄せる。ケンタがけふっと笑って小百合は思わず頬をふくらませる。

「あ、あなたも除霊しなくていいんですか」

「俺はあのバカ息子がどうにかなれば勝手に天国でもどこでもいくさ。あっちには可愛いワイフもいるし、タバコも吸い放題だしな。それに頼まれてるコンサートの用意も忙しい」

 夏特有の日差しが公園に降り注ぎ、気温がぐっとあがった。早朝はうるさかった蝉たちも今はだんまりだ。

 ジョギングをする女性だけが息を乱して後ろを通り過ぎていく。

「……真面目な話さ」

 軽い口調だが言葉の奥に真摯な響きがある。彼は足を組み、青空を見上げた。

 白い雲が浮かぶ夏空は幽霊の目にはどう映るのだろうか。

「俺はこんなナリだが界隈では名を知られたコンダクター。わかるかな。オーケストラの指揮者だ。指揮者ってのは真面目な人間が多いんだ」

「……はい」

 小百合が思わず頷いてしまったのは、男の体の冷たさに触れてしまったためだ。

 一瞬触れた手の先から視えた風景は、白い病室。白いカーテン、白い壁。

 老いた手が宙に伸ばされる。男はベッドに腰掛けたまま、伸びやかに腕を動かす。

 目の前に奏者はいない。彼がタクトを向けたのは、ベッドに置かれた1枚の写真。

 ……ピアノの前に座る青年の写真に向かって彼は無言のままタクトを振り続ける。

 そんな風景が、男の手を伝って流れてきたせいだ。

 

 

「お嬢さんは本当にバカだな」

 アロハシャツの男に教えられた場所は、街の外れの古い建物だった。

 小百合の隣を歩くケンタはいよいよ不機嫌そうに鼻を鳴らして小百合を見上げる。

「本当にお前はバカだ」

「バカバカ言う方がバカなんだよ。私は真面目にお仕事してるだけじゃない」

「お嬢さん、仕事ってのは、ギブアンドテイクだ。対価だよ。与えよさらば与えられんってのはな、商売じゃねえんだ」

「お、お爺さんが喜んでくれるもん」

「礼の言葉で腹がふくれるかよ」

 ロマンスグレーに教えられたその場所は、空き家と工場跡地に間に挟まった古い家。

 ボロボロの壁は蔦にかこまれ庭の樹木に今にも押しつぶされそうになっている。家を囲む柵は伸びた雑草に覆われて、どこまでが敷地なのかさえ分からない。

 壊れた柵を慎重に押し開き、はびこる雑草をかきわけて小百合は進む。

 地面はどろどろ水浸しで、あたりは一面饐えた香りに淀んだ空気だ。

「じゃあ趣味ってことにしといて。っていうか、文句ばっかり言うならケンタは家に戻ってればいいじゃない」

「危険な時、誰が助けてやると思ってんだ」

「別に危ない幽霊じゃないだろうし」

 家の入り口は大きな樹木の影になり日差しも届かない。

 かつてはきれいな緑色だったと思われる木の扉は、今や蝶番一つで支えられ風もないのに揺れている。まるで絵に描いたような幽霊屋敷だ。

 ……つまり、現実感がない。

「心配しなくたって、私だって除霊師なんだから」

 扉に手を伸ばした瞬間、ケンタがふっと鼻を鳴らす。

「おい、お嬢さん。そこ」

「……っ」

 小百合が家に近づこうとした瞬間、玄関横の曇った窓ガラスに赤い手のひらが叩きつけられたのだ。

 おん、おん、と低い音が響く。扉が激しくガタついて、窓ガラスが揺れる。

 入ってくるな、ここにくるな、帰れ、帰れ、窓に文字が浮かんで赤錆みたいに流れていく。

 窓の向こうを黒い影が通り過ぎていく……。


「はいはい。お邪魔しまーす」


 が、小百合は気にせず扉を肩で押し開いた。

「ホラー映画でも、もう少しまともな演出してくるだろうよ」

「だよねえ。本当に襲いたいなら、もう襲ってきてるだろうし」

 ケンタが呆れたように呟いて、小百合も頷く。これではまるで地元のお化け屋敷なみの演出だ。

 恨みも妬みも何も感じない。声も聞こえない。肌もひりつかない。 

 小百合は斜めに傾いた扉を直しながら肩をすくめる。

「除霊師になって残念だな、って思うことがあるんだ」

 ……それは、作られた恐怖、というエンターテインメントを楽しめない、ということ。

「お化け屋敷に行くと、本物の幽霊見つけて仕事モードになっちゃったりとかね」

「まあ、そういうのはあるな」

 ケンタは同意するように、ふん。と鼻を鳴らす。

「でもわざわざ脅かしてくれるってことは、ここの住人は……きっといい幽霊だね」

 小百合は建物に一歩進みこむ。真っ暗な室内からはカビとサビの匂いがした。

 そして手を差し伸ばした先に、ひやりとした感触と……声が響いた。


「やあやあ。可愛らしいお嬢さん、私の演出はお気に召さなかったかな? お若いのに肝が据わってる」


 目をこすれば、やがて暗闇に目が馴染んでくる。目前にふわりと浮かぶ白い体を見て、小百合は苦笑した。 

「これまで来た若者は、全員入り口のあれを見て逃げたんだがね」

 派手なシャツによく回る口。たっぷり太った体に丸い顔。年の頃は、40歳前後。年の割に、ひどく演技がかったセリフを喋る。

 なるほど、彼は間違いなくロマンスグレーの息子だ。

「私は除霊師の葛城。葛城小百合です……あなたは?」

「私は大久保。幽霊研究家で得意分野は魂だ。君は除霊師か。生前、私は除霊師が大好きでね……まさか幽霊となって、除霊師に相まみえるとは!」

「噛み殺そう」

「ケンタ!」

 ケンタが体を伏せて物騒なことを呟くので、小百合は慌ててケンタの頭を抑え込む。

「あの……お父さんが心配してました。えっと……息子さんが幽霊で……その、ちゃんと導いてほしいって……指揮者の、男の人」

 人の死を扱うため、除霊の仕事には色々起きる。悲しいことも重苦しいこともある。

 しかしこんな生き生きと目を輝かす幽霊と出会うのは初めてのことだ。

「その息子さん、ですよね?」

「親父……?」

 大久保は目を細め、不機嫌そうに腕を広げる。

「まさか! 一週間前に死んだがね、あの男は最期まで私を恨んで恨みぬいて死んで行った。そんな男が私を心配するはずがない。君はその辺の浮遊霊にでも騙されたんだろう」

 まるで生きた人間のようによく喋る幽霊だ。普通、死んだ人間はもう少し謙虚である。少なくとも元気ではない。

 しかし彼は腕を広げ、呑気に空を飛ぶのだ。

「なるほど、血は争えねえな」

 呟いたケンタを小百合はそっと背後に押し隠す。

「お……大久保さん。この建物は?」

「私が研究用に借りていたボロ屋だよ。先日のスコールみたいな大雨で色々駄目になってしまったがね。掘り返せば無事な書物もあるだろうが、この体では如何ともし難くてね」

 地面には腐った本に、破れた書類が乱雑に積み重なっている。水の跡がじっとりと残り、持ち上げるだけで崩れそうだ。彼は切なそうにそれを見つめたが、やがて机の前に立つと大きく腕を広げた。

「しかしこの姿には利点もある。まず、人の魂が見られること。魂がどこにあるのかは大いなる謎の一つだったが……それが見えるようになった。学者冥利に尽きるじゃないか」

 彼は大きな目を見開いてケンタの顔を覗き込む。

「この犬は面白いな。犬の魂の中に人間の魂が同居してる。まるで白梅と紅梅が同じ枝に咲くような具合だ」

「……ロクでもねえな」

 げっそりと耳を伏せるケンタと違って大久保はご機嫌だ。彼は笑って宙を舞い、続いて小百合を指差した。

「そして君は魂が欠けている」

「魂?」

 小百合は思わず自分の左胸を押さえる。先日見た悪夢を思い出したのだ。暗い目をした女の霊は、小百合を見て言ったはずだ。

 『魂が欠けている』

 ……欠けているなら泣けないのだ。

「人の魂は満月の形のように膨らんで丸いんだ。中には歪んだ人間もいるがね。しかし君は一箇所欠けている」

 大久保は小百合の体を見つめ、眉を寄せた。

「……無理やりもぎ取られたような」

 痛みなどないはずなのに、胸の奥がきゅるきゅると締め付けられるようだ。

 魂のありかなど、誠一郎は何も教えてくれなかった。欠けているのを分かって黙っていたのか、だとすれば何故なのか。

 聞きたくても誠一郎は、ここにはいない。

「欠けてたら……やっぱり、良くないんでしょうか?」

「初めて見るものだから私にもなんとも……体に不具合は?」

「お嬢さん、幽霊の言葉なんぞ信用するなよ。どうせ口からでまかせだ」

 とん、とケンタの尾が小百合の足を叩く。そのざらりとした感触に小百合はほっと息を吐く。

「えっと……風邪ひとつひかない健康体です」

「なら問題はないんだろう。欠けた人間の文献など読んだこともないからな」

 いい加減な言葉を続けながら、彼は呑気にまた宙を舞った。

「そんなことより、楽しい話をしよう。せっかく除霊師が来てくれたんだ。部屋を案内したいし、意義のある話し合いがしたいな」

 この建物は外と同じくらい、壮絶な雰囲気だ。木々に囲まれているせいで部屋は暗く、スマホの光でなんとか歩ける程度。

 床は大きく抜けて壁紙は剥がれている。部屋の四方にあるのは書類や本が詰まった棚だが、ほとんどが水でやられている。かびた背表紙に「幽霊史」だの「除霊の歴史」などの文字だけがかろうじて見えた。

 本棚の隣にはカバーで覆われたピアノが一台。公園の幽霊に触れた時に見えたピアノだ。小百合が腕を伸ばすと、大久保がさり気なく小百合の行動を止める。

「大久保さん、なにか未練があるんじゃないですか?」

「未練……? さあ。どうだろう。こう見えて、人生は楽しむ派だったものでね」

 大久保は素知らぬ顔をして飛び回るが、薄墨のような黒い影がに彼の背中に巻き付いている。ケンタはその一つに噛み付いて足で踏みつけ低く唸った。

「嘘付きめ。未練はあるはずだ。なんだこの浮遊霊の数」

 黒い影はケンタに踏みつけられ、煤をちらして地面に散らばる。

「そいつの未練に引っ張られてきてやがる」

「おお。除霊師のそばに悪霊ありだ。いや? 除霊師が悪霊を呼び寄せるのか。なるほど、これは興味深い」

「……おい小百合、後ろ!」

 しゅん、と風を切る音が聞こえて小百合は慌てて頭を下げる。

 カップ麺が袋から転がり落ちそうになって、大急ぎで抱きしめる。今頃、本当なら熱々のラーメンを暑い部屋で堪能しているはずだったのだ。それがうっかり仕事に巻き込まれ、カップ麺の容器はぐにゃりと歪んでしまった。

 しょんぼりと肩を落とす小百合の背後でケンタが黒い影を引きちぎり、吐き捨てた。

「何が立派な除霊師だ、聞いて呆れる!」

「なんともまあ、素晴らしいボディガードだ。まるで騎士のようではないか。君はいい相棒をもっているな」

「ふざっけんな! クソジジイ」

「ほう。犬の除霊師とは珍しい。そして君はあれの声が聞こえるのか。除霊師にはそんな力が……」

 彼は床に降りると右に左に歩き回る。それが彼の思考スタイルなのだろう。

 そんなふうに地面を歩きまわると、まるで生きた人間のように見えた。

「……ん?」

 小百合は不意に違和感を覚えて目をこする。

「あれ?」

 ホコリでも目に入ったのかと思ったが、そうではない。小百合の目の前、暗い部屋の中に……薄い影がある。スマホの光を差し向ければ、そこには彼の体から伸びる、薄い影。

「大久保さん?」

 小百合は探るように、呟いた。

「……もしかして、幽霊というより……」

 大久保の足元から黒い影が伸びている。幽霊ならばありえない。幽霊には影がない。

「幽霊じゃなくって……」

 素知らぬ顔をしてみせる大久保の体に、小百合は手をのばす……すると電撃のように風景が流れ込んできた。

 小百合の中に流れ込んできたのは、白い病室の壁にカーテン。消毒薬の匂い。窓からの光に、心配そうな看護師の顔。周囲には誰もいない。見舞い客の代わりに置かれたのはオーディオプレイヤー。まるで慰めるように繰り返し繰り返しピアノの曲が流されている。

 机に置かれた小さな鏡には、チューブに繋がれ瞳を閉じる大久保の姿がうつり込んでいた。

「大久保さん……生霊、なんですか?」

 大久保の丸い目が固く閉じられた。ぷっくり太った頬と愛嬌のある顔は、彼の父と似ても似つかない。しかし静かに目を閉じると、たしかに公園の幽霊とそっくりな顔になる。

 彼は叱られた子供のように、しょぼんと肩を落とす。そして上目遣いに小百合を見た。

「……だって戻らなければ、このまま幽霊でいられるんだろう?」

「だ、駄目ですよ! いくら幽霊が好きって言っても! 早く戻らないと!」

 腕を掴み引っ張ろうとするが、大久保はするりと小百合の束縛から逃げ出した。

「せっかく幽霊になれたのに? 私は今のこの体が気に入ってるんだ!」

 彼は口元だけ上げて、少し笑う。

「体は軽いし、空も飛べる。腹も空かないしトイレも風呂も不要。なんて便利な体だろう!」

 外では突風が吹いて木々を揺らし、家が激しくきしむ。その音を懐かしむように聞いて、彼は再び宙に舞い上がった。

「でも」

「暗い話はやめにしないか。せっかくなのに……もっと楽しい……そうだ幽霊の話をしよう。お、良いのか? 付き合ってくれる? 君は大変勉強熱心で良い子だな。隣の部屋においで、私の研究を継がせてあげよう」

 彼はやはり自分勝手に小百合を手招き、壁をするりと抜けていく。湿った部屋の中、小百合の盛大なため息だけが響き渡った。



「なあんだ。除霊師といっても学術的な勉学を積んでいたわけではないんだな」

「……私、どちらかといえば現場で修行積んだタイプなもので」

 大久保が話して聞かせたのは、除霊の歴史に著名本、幽霊についての講釈に噂話に与太話。本に書かれた御高説を垂れ流しながら、大久保は練り歩く。

 一時間以上カビの香りに包まれ小百合がぐったりした頃、彼はようやく興奮が収まったように足を止めた。

「ああそうだ。たしか君は葛城小百合といったね、葛城……葛城……もしや除霊師の葛城誠一郎氏の娘さん?」

 思わぬところから思わぬ名前が出たことで、小百合の目が一気に見開かれる。

「え、誠……父のこと知ってるんですか?」

「数年前に取材させてもらったんだ。えっとたしかこの辺に……ほら!」 

 彼が指をさすだけで、書類の一角が崩れて一冊の雑誌が滑り落ちてきた。古い女性雑誌で表紙はすっかりカビていたが、中は奇跡的に乾いている。ぱりぱりに張り付いた紙を慎重にはがしていけば、やがて真ん中あたりに懐かしい顔写真が現れた。

「誠一郎さんだ!」

「悪霊の概念についての取材だったんだが、なかなか興味深い話にまで発展した。悪霊を除霊できるかどうかという話だ」

 柔らかく渦巻く癖毛。少し長めの髪は一つに結ばれている。ピンク色のヘアゴムなので、きっと小百合が結んだのだ。

 一張羅の黒いスーツ、スーツに似合わない赤い靴下に、ボロボロのシューズ。少し照れたようにはにかむ笑顔で、大久保と並んだ、ツーショット写真。

 誠一郎は写真が嫌いな男だった。魂が抜かれる。なんて時代錯誤なことを言ってはカメラのレンズから逃げ回った。慣れていないせいか、笑顔がぎこちない。そんなところも誠一郎らしかった。

 小百合は目を見開き、それを食い入るように見つめる。表紙を見ればちょうど5年ほど前の雑誌だ。

「し……写真、もらっていいですか? 私、父の写真ほとんど持ってなくて」

「いいぞいいぞ。持っていきなさい」

 握りつぶすような勢いで雑誌を掴む小百合を見て、大久保は苦笑を漏らす。

「ケンタほら、これが誠一郎さん」

「ふん、俺のほうがいい男だろう」

「……先程の続きになるが」

 こほん、と大久保が咳払いをしたので、小百合は慌てて雑誌ごとポケットにねじ込む。

「除霊師は悪霊を惹きつけやすい。何故か分かるかね」

「えっと……」

「幽霊は皆、救われたいんだよ」

 大久保の言葉は、誠一郎の声となって響く。

「悪霊は自分を未練で縛り、檻に閉じこもり、誰も自分を救ってくれないといって泣いている。そして自分を救ってくれない除霊師に、勝手に恨みを募らせる。未練はやがて怨念になる」

 それは誠一郎の言葉だ。声だ。目を閉じれば、小百合の中に彼の声が蘇る。

「葛城氏が言うには、悪霊相手でもまだそこに未練があれば、除霊できると。未練の段階であれば」

「あれば?」

「まだ、救えると」

 誠一郎はいつも小百合に言っていた。

 ……幽霊を救えるのならば、救わなければならない。除霊師は、その力を持つのだから。

 大久保は優しい目で微笑んだ。

「君たちの仕事は、魂の救済だ」

「大久保さん!」

 小百合は大久保の手を掴む。幽霊とはまた違った感触だ。生霊に触れるのは初めてだった。幽霊よりも力強く、少しだけ暖かい。きっとこれが、命の暖かさなのだろう。

「おいおいお嬢さん。生霊を取り込むのは、骨が折れるぞ」

 ケンタが唸って小百合のズボンをかむ。しかし小百合は気にせず、大久保の顔を覗き込む。

「……幽霊研究家っていうなら、本物の除霊師の仕事、見たくないですか?」

 救えるのならば、救わなければならない。それが小百合たちの仕事である。

「仕事?」

「私の除霊方法ちょっと変わってるんです。きっと興味あると思います。その人の思い残した食べ物を食べて……未練を断って除霊するんです」

「それは……」

 彼は目をきょときょとと動かして、小百合を見る。

「なるほど食べ物か。食と睡眠は人間の大事な欲求だ。でも幽霊でも食べたいものが? すっかりそんな感情は消えた気がしたが……いや、私にもあるのか、言われてみれば……」

「ね?興味ありません?」

 小百合は彼の手を掴んだまま、微笑んだ。

「……だから大久保さんを救わせて」

「救う?」

「大久保さん、あなた幽霊研究家じゃないですよね。本当は……ピアニスト」

 小百合はさきほどポケットにしまい込んだ誠一郎の記事を取り出す。

 誠一郎と並ぶ大久保は燕尾服姿。隣には期待のピアニストと文字が刻まれていた。

 それを見て、大久保は目を細める。嫌そうに顔を背け子供のように口を尖らせる。

「周りがそう言ってただけだ」

 彼が本棚の一部に触れると風もないのにはらはらと、湿った紙切れが落ちてきた。

 その下に無造作に置かれたピアノはホコリまみれで動きもしない。

「今更、私が命を取り戻したとして、誰が喜ぶのかね。私は色々と恨みを買っている。のうのうと生き返っていい人間じゃないんだよ」

 この家は、全ての時が止まっている。

 息子を救ってほしいと祈った男の声を、小百合は思い出した。

 彼が生霊となった理由など分からないが、彼の体は魂が戻ってくるのを健気に待っている。

 そして彼の父は息子の救済を願っていた。真剣に願っていた。

「いますよ、絶対」

 小百合はそっと、彼の手を取って引っ張る。彼を救いたい幽霊がいて救える小百合がいるのなら、やはり救わなければならないとそう思うのだ。

「大久保さん、中に入れます? 憑依。私の魂の欠けたところに」

「先生と呼びなさい」

 大久保は気難しい顔をするが、やがて諦めたように小百合の体に重なる。

「別に救われたいわけじゃない……ただ、君の除霊に興味があるだけだ」

 幽霊よりもほんの少し温度と質量がある。飲み込むのに苦労して、小百合は胸をとんとん、と叩いた。

 押し込んでしまえば身体の奥底から一つの味が浮かんでくる。熱々のスープ、鼻を抜けるカレーの香り……モチモチの麺。

 朝からずっと食べたかったカップラーメン新作の味は遠くに追いやられ、口の中がすっかりカレー味になってしまう。

「……大久保さんが食べたいものは……カレーうどん?」

「君は心まで読めるのかね」

 大久保はすっかり諦めたように穏やかに呟く。

「幽霊も生霊も、言ってみれば全部が心みたいなものだから」

「なるほど、面白い説だ」

 大久保は偉そうに鼻を鳴らして見せた。

 

 

「しっかり炒めた玉ねぎに、濃いお出汁。えーっと、お肉は薄切り、あとは薄揚げ……厚揚げ? いや、やっぱり薄揚げかな。ペロンと薄くて……ざらっとしてる……」

 体の中に広がるカレーうどんの味わいを探るように、思い出すように。小百合は大久保の求めるカレーうどんを必死に探っていく。

 湿った大久保の研究所から飛び出して我が家に駆け戻ったものの、小百合は冷蔵庫の前で唸ることになる。

 冷蔵庫にある食材は少なめだ。それでも薄切り肉と薄揚げ、カレールーに、玉ねぎだけは発掘した。

 玉ねぎを少しクタッとなるまで強火で炒める。薄揚げはへらへらと薄めに切って、鍋に放り込んだ。その上からたっぷり注ぎ込むのは濃い目に出汁の素を溶いたお湯。みりんに醤油も少々。

 砕いたカレールーをいくつか放り込むと、夏の台所がカレーの香りに包まれる。

「君はいつもそうして除霊をするのかね」

「料理が得意な幽霊ならいいんですけど、あんまり料理しない幽霊だと具体的な食材が浮かんでこないから結構苦労します」

 市販で買える料理が一番楽だ。作り慣れている料理でも助かる。フレンチのシェフや割烹の板前の幽霊にあたりませんように、と小百合はずっと願っている。

「あと、季節感に合わない料理は結構苦労するかな」

 鍋から上がる蒸し暑い湯気にあてられて、汗が流れる。夏場のカレーは地獄である。

「うんうん。お出汁風味の甘いカレーうどんですね。最後は……ええっ」

 ぽん、と浮かんだイメージに小百合は愕然と腰を落とした。

「ホイップクリーム!?」

 浮かんできたのは生クリームをしっかり泡立てた……ホイップクリーム。真っ白なホイップは小百合だって大好物だ。もちろん、ケーキに乗っていればの話だが。

「うええ……」

「おい君。馬鹿にしたな。砂糖抜きの、ただのホイップだ。美味しいのだぞ。気分で溶かして食べる。ビーフシチューに生クリームを浮かべることだってあるだろう。ヨーロッパじゃ普通の食べ方だぞ」

「だってカレーうどんって日本食じゃないですか」

 お仕事お仕事。と呪文のように唱えて小百合は冷蔵庫の奥に眠っていた生クリームを取り出す。甘い食べ物の依頼があってもいいように、生クリームは切らさないのだ。それが災いした。小百合は苦々しい気持ちを飲み込んでクリームを泡立てる。

 砂糖を入れないせいか、泡立てるのも一苦労だ。蒸し暑さも相まって、ひたいに汗が浮かぶ、背中に汗が流れる。

 腕が汗で濡れて泡立て器が何度も滑って、ケンタが呆れた顔で小百合を見上げる。

 ……その間に、鍋の中のカレーはとろとろと湯気を上げはじめた。ぽ、ぽ、ぽと小さな泡がマグマのように湧き上がる。

 普通のうどんスープよりも粘っこく、濃厚な泡。

 湯がいたうどんに重みのあるカレールーをたっぷりかけて、刻んだネギをぱらりと散らす。

 昼過ぎの日差しが、湯気を拾ってきらきら輝いた。

「ホイップ……」

 勇気を振り絞り、うどんの上に、ホイップクリームをひとさじ。

 熱々のカレーに、白いクリームが蕩けてつるんと滑り込む。じわじわと、溶けてカレーにクリームが侵食していく。

「いつもとちょっとパターンが違うけど」

 そして小百合は手を合わせる。

「……さあ、一緒に食べよう」

 恐る恐る口に含めば、まず広がったのは柔らかいカレーの風味だ。ふにゃっとした麺にとろみのあるカレーが絡む。ネギのシャクシャクとした食感に、薄切り肉と揚げの柔らかさ。

 スパイスカレーとは全く異なる優しい味だ。喉を通り抜ける時の熱さと、鼻を抜けるカレーの甘みが体に染み渡る。

 それに絡む、ホイップのまろやかさ。

「あ。案外美味しい」

 ぱっと目を丸め、小百合は思わず呟いた。見た目のインパクトと違って、味は驚くほど優しい。

「君は食べ方が綺麗だな。飛び散らんではないか。私が食べるといつも飛び散らして叱られた」

「私、カレーうどん、飛び散らさずに食べるの得意なんです。コツを掴んだら案外難しくないんですよ」

「……似た人間を一人、知ってる」

 大久保の声はすっかり落ち着いていた。何かを思い出すように、記憶を探るように、ぽつぽつと呟く。

「父だ。譜面を前に一度も汚すことなく食べてたな、あの親父は」

 小百合の中に浮かんできたのは、白髪の男が台所に立つ風景だ。すらりと長い指でホイップクリームを混ぜ、大きな体を折り曲げて鍋を覗き込んでいる。

「君は高名な除霊師を父に持っているが、やりにくいと思ったことは?」

 ふと、大久保が呟いた。思い出を探るような声だ。心を許した声だ。小百合の中にゆっくりと、風景が広がっていく。

 それは、大久保が見てきた風景の切れ端である。

「私の父は世界的な指揮者だ。性格は最悪だったがね」

 広い会場で喝采を浴びる男がいる。彼が腕を振り上げるだけで音が生まれ動き出す。そんな男を舞台の袖からじっと見つめるのは青年時代の大久保か。

「私は若くして、親の七光りでピアニストになった。しかしセンスが無い。自分でもわかってるんだ、父の引き連れる楽団のような音は出せない」

 光の中で必死に鍵盤を叩く大久保の顔は、少年から青年へ。そのつど、ほろ苦くなっていく。焦りは諦めに変わり、楽団に向ける笑顔はこわばっていく。

「本当は学者になりたかったのに、ピアニストにしか進めなかったのは父のせいだ。下手くそなのは期待を押し付けた周囲のせいだ……なんて人のせいにして、研究に没頭したが、そちらでも自説も生み出せず、ただ先人の言葉を自分の言葉に置きかえて偉そうに語るだけ。ピアノと同じ、結局は真似事だ。君の魂のことだって、アドバイス一つできやしない」

 ……やがて大久保の父が死ぬ。

 彼が病院にたどり着いた頃、すでに父親の魂は消えていた。その手を掴んで泣いても、父はもう答えない。

「魂の研究家を目指したのに、父の魂一つ救えない。ならばピアノで鎮魂歌を奏でるくらいすればいいのに……」

 大久保の声は静かだ。懺悔をするように、低く落ちていく。

「……数日前のことだ。父の追悼の演奏会から逃げ出して仲間に迷惑をかけて、あげく足を滑らせて転んで気を失って」

 雨に濡れた階段が彼の足を取る。とっさに指をかばったまま、彼は頭から地面に落ちた。

「気づけば、あの部屋で、自分の体を見つめて浮かんでいた」

「大久保さん」

「父の料理だよ、これは。幼い頃、ケーキしか食べない私に食べさせようと、父が入れ始めた。馬鹿にするやつらには、親父がよく言ったもんさ。ヨーロッパじゃビーフシチューに生クリームを入れるだろう……何故、君は分かったんだ」

 カレーはその香りで思い出を呼び覚ます。

 一つ一つのカレーに、それぞれ家庭の思い出があるのだ。昔、誠一郎はそんなことを語っていた。

 小百合はまだ冷めない出汁を一口、一口、丁寧に飲む。甘くて優しい思い出の味だ。幼い大久保親子の姿がその味の向こうに隠れている。

「親父の幽霊を見たと、言ってたな。自慢じゃないが親父には随分と嫌われていた。彼に最期に会ったのは、息を引き取ったあとだ。手を握ったが親父は気づいてもなかっただろう」

「気づいてますよ。だから私に声をかけてくれたんです。だって、生きててほしいじゃないですか」

 公園で声をかけてきたロマンスグレーを思い返し、小百合は苦笑する。

 あんなにふざけた口調だったのに、息子のことを語るときだけ声が震えていた。今、彼が父を語る時と同じだ。

(素直じゃないなあ、二人共)

 最後の一滴まで出汁を飲み込んで、小百合は口を拭う。

 あとは、彼を返すだけである。

「大久保さんだって分かってたでしょう? ホイップを混ぜるのだって、結構面倒で手間なんですよ」

 照れ隠しのように、大久保がふん。と笑う。そしてぬるりと、小百合の中から体を出して、大きく伸びをした。

「良い経験をさせてもらった。憑依とは面白い。東北のイタコか、沖縄のユタ……いずれもシャーマンや霊能者だが……それに似ているね。しかし大体は自我を失いトランス状態に入る。ところが君は自我を保てている。これは面白い。一度取材をしてみたかった」

「私は大久保さんの演奏が聞いてみたいです……でも、過去形じゃないです。これからできますよ」

 立ち上がり、小百合は大久保の手を掴む。転ぶ時にとっさに守った指は綺麗なまま。

「だって、大久保さん、生きてるんだもん」

「……そうか」

 部屋にはまだカレーの香りが残っている。夏は香りが残りやすい季節だ。

 大久保はふと、窓の外を見た。

「生きてるのか」

 彼が見つめた先には、市の総合病院がある。



「2階の、奥の部屋」

「やっぱり先生だから、記憶力抜群ですね。倒れても記憶があるみたい」

 ケンタを外につないで、病院の入り口をさり気なく抜ける。受付をすっと通り抜けて、入院受付へ。大久保が囁いた部屋番号を告げると、看護師は何も言わず小百合を通してくれた。

 2階に上がればそこは病院独特の不思議な香りが広がっている。それは熱と消毒薬の香りだ。

 つるつるの廊下を看護師たちが忙しそうに行き交っている。

 大久保の記憶をたどりながら、付いたのは一番奥の部屋だ。ただ静かな部屋だった。音も香りもない。薄く開いた扉を、小百合はそっと覗き込む。

「本当は、あのまま死のうと思ってたんだよ」

「え?」

「追悼公演は私だけじゃない。父が育てたオーケストラ全員が参加する大事な講演会だ。それから逃げ出して」

 大久保の記憶が小百合の中に流れ込む。叩きつけられた冷たい地面、顔の直ぐ側を駆け抜けていく車の音。

 思わず守ってしまった自分の指を見つめて、彼は悔しく思っただろう。

 才能の無さにもがきながらも、ピアニストであろうとしている自分を悔しく思ったのだ。

「皆に迷惑をかけて、父にも顔向けができず、何をしても中途半端で」

 たった2センチほどの隙間からは、部屋の様子がよく見える。

 大久保の記憶にあるこの部屋は寂しい風景だった。しかし今、大久保が眠るベッドの周囲に何人かの男性が集まっていた。

 皆、真剣な表情だ。皆がベッドを囲み、眠る大久保の顔を覗き込み、声をかけている。

 囁くように誰かが歌う。誰かがベッドサイドを軽く叩きリズムをつくる。たん、たん、たんと響くそれにあわせて一人、もう一人、歌声が重なり始める。

「もう二度と、音楽なんて、ごめんだと思っていたのに」

 気がつけば、小百合の指が動いていた。

 自分の意志ではなく、指が鍵盤を叩くように動く。なめらかに心地よく、指が壁を跳ね上げる。

 それは、中の人達が歌うリズムと同じ旋律だ。

 小百合の指に涙がはらはらと落ちた。

 熱い大粒の涙が何粒も、小百合の指を濡らしていく。

「……なんで、こんなに泣くのか、わからん。わからん」

「仲間だからですよ」

 小百合は大久保を体から引き出して、病室の前に立たせる。彼は戸惑うように小百合を見つめた。

「何故、君は除霊師などをするのかね。危ない目に遭いながら」

「さっきあの家で、高名な父がいて嫌じゃないかって聞いたでしょう? 私、一度もそんなことないんです」

 小百合が思いだすのは誠一郎の大きな手だ。大きな背中だ。どれほど多くの幽霊を救ってきたのか。小百合は幼い頃からその背中を見つめてきた。

「誠一郎さんは私のやり方、馬鹿になんてしなかった。それだけです」

「そう……だな」

 大久保は呆然と立ち尽くしている。部屋の奥、音が緩やかに広がった。誰かの音を待つように、部屋の中に音がみちみちていく。

 それを見つめて大久保の指が小さく震えた。

「……父も楽団も、誰も私のピアノを馬鹿になんか、しなかったんだなあ」

 小百合は彼の丸い背中をそっと押す。

「さあ、行って」

 大久保の体はまるで吸い込まれるように隙間に滑り込んだ。魂が暖かさを持つ。ベッドで眠る男の体に重なって、それは確かに一つの塊になる。カレーの湯気のような、重くて粘度のある煙だ。それが、やがて部屋の中に消え……足が少しだけ動くのが見えた。

 かすかに、乾いたうめき声が響く。それは声にならない、子供のような声。

 それはまるで奇跡だろう。周囲を取り囲む男たちの歌声が止まり、その目から本物の涙があふれる。

 彼らは嗚咽を堪えるように抱きしめ合い。何かをささやき、ナースコールが連打される。廊下の向こうから慌てたように看護師が駆け寄ってくる。

「ありがとうよ」

 気づけば隣に、派手なシャツのロマンスグレーが浮いていた。彼は小百合に深々と頭を下げ、少し照れるように微笑んだ。

「この世の金など、もう持っちゃいねえが、いつか姉ちゃんに俺の演奏を聞かせてやるよ。生前なら俺のコンサートはプレミア価格だ。それで一つ手をうってくれ」

「……はい。楽しみにしてます」

 中から聞こえる祝福の声を聞きながら、小百合は崩れそうな体を、廊下の壁に押し付けた。

 

 

「除霊師が幽霊から仕事を受けてりゃ世話ねえな」

「おはようケンタ。1時間たった?」

「1時間どころか、すっかり夜だよ。よく頑張ったなお嬢さん」

 なんとか家にたどり着いたのは、昼過ぎ。

 病院で倒れると面倒だ。倒れそうになるところを踏ん張って自宅の鍵を開け、玄関先で意識を失い数時間。

 目が覚めると、部屋はすっかり夜の色だ。熱がこもったように部屋の温度は急上昇。

 息をするだけで体の中が蒸されるように暑い。ぱたぱたと手で顔を仰ぎながら小百合は流れ続ける汗を拭う。

「……そういえばケンタ、前は仕事にいくのが嫌だって駄々をこねてたけど最近は率先して行ってくれるね」

「目を離すと無理するお嬢さんがいるからな。でもああいうのは止めてくれ」

 大久保の研究所から引っ掛けてきたらしい黒い影を鬱陶しそうに振り払い、ケンタが吐き捨てた。

「未練ってのはこびり付いたら粘っこくて取れねえんだよ」

 なかなかハードな一日である。せっかく買ったカップ麺は床に転がったまま。

 そんなカップ麺の上を小さな影が通り過ぎていく。ベランダの向こう、首の折れまがった女が呻くように這いずっていく。小百合とケンタはそちらを見つめ、小さく息を吐く。

「盆に向けて幽霊が増えてきたな。面倒なことが起きそうだ。小百合、無理はするなよ」

 彼の黒い瞳は犬のものだがその目の動きは人間に似ている。人の魂が閉じ込められている……と大久保は言っていた。彼の言葉を聞き取れるのは小百合だけで、彼がかつて人間であることを知っているのも小百合だけ。

(……ケンタは怖くないのかな)

 長い鼻先をそっと撫でれば、ケンタは心地よさそうにその目を瞑る。が、首を振って小百合の手を甘噛みする。

「犬にするような真似はやめろといったはずだが、お嬢さん」

 外を一台の車が駆け抜けていき、光が部屋に反射する。その光が机の上に広げた雑誌を照らす。

 そこに切り抜かれた誠一郎の笑顔は、時が止まったままだ。

 誠一郎が消えた日からあと数日で2年。小百合とケンタが出会った日から1年。

 どちらも、こんな蒸し暑い肌が張り付くような夜だった。

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