彼女は「悪夢」を除霊する
かたん、かたん、と心地良い音が体を揺らし、小百合はふと目を覚ます。
ゆらゆら左右に揺れる体、背中にあたる日差しの暑さに滲む汗。
この心地よさは人を眠りに誘う。
(……ねむ)
目をこすって顔を上げれば、丸い手すりがお行儀よく左右に揺れるのが見えた。
小百合は今、ローカルなバスに乗っている。赤と緑に塗られたこのバスは、波岸商店街から隣町に繋がる地元の足だ。
(ここって駅から遠いから、バスが便利なんだよね)
すっかりヘタったベロアの座席を撫でながら小百合はぼんやりと、考える。
窓の外を見れば、民家がぐんぐんと通り過ぎていく。
陸の孤島とも例えられる波岸町に小百合が越してきたのは2年前のことだった。それから地元密着の仕事ばかりを受けている。
(ケンタがいると普段はバスや電車に乗るのって難しいし……)
町を出ることも遠出をすることもすっかり無くなり、小百合の行動範囲はめっきり半径2キロメートルまでに収まってしまった。
(バス……久しぶりだな)
小百合は並ぶ広告を見上げる。不思議なことに文字は全て逆向きに綴られている。小百合の席から運転手は見えない。他の客の気配もない。
ただ、小百合の隣に淡い気配がある。
「……ねえ」
小百合の隣席に座っていたのは、幼い少女だ。その体は透けている。腕も顔も青白い。
彼女は膝を抱えて、膝の間に顔をうずめている。
幽霊に『足がない』なんて、とんだデマだと小百合は思う。彼らは生きている人と、なんら変わらない。
……ただ、死んでいるだけだ。
「なんで、除霊をするの?」
消えそうな声で彼女はつぶやく。顔を伏せたまま、苦しそうに。
あたりは一面、鬱陶しいほどの夏だというのに、彼女から漏れる空気は冷え切って冬のようだった。
「それは……誠一郎さんが、今はこの町に居ないから」
小百合は彼女を見つめたまま、つぶやく。
「その間は私が、誠一郎さんの代わりに」
車体から響くの音は同じリズムだ。タイヤがアスファルトを叩く音は心音に近い。
「迷ってる子を、助けなきゃ……」
生者はその音を聞いて心地よくなるかもしれない。
死者はその音を懐かしく思うのだろうか、それとも悲しく思うのだろうか。
嫌な予感に襲われて、小百合は頭を振る。
気づけば周囲は夕刻の色。
(……あれ?)
茜色に染まる車内を眺めて小百合は思う。
(なんで、バス?)
……そういえば、自分はいつ、このバスに乗ったのだろう。
「ねえ、小百合」
気がつけば目の前に闇がある。
いつの間にか、彼女が小百合の顔を覗き込んでいたのだ。生気のない黒い目が、小百合の顔をじっと見つめる。その口が小刻みに揺れた。
「小百合、小百合、小百合、小百合」
彼女の首は90度、ぱきりと折れ曲がっている。ぐにゃりと曲がった首のまま、彼女はじっと小百合の顔を覗き込んでいる。
黒い瞳には生気がない。底の見えない井戸の中、そんな色をしている。
そして何よりも。
(この匂い……)
小百合は除霊師として大事なものを持っていた……それは鼻が利くということだ。
彼女から漂う香りは、誠一郎から時折香った匂いでもある。
(……煤の匂い!)
そうだ。これは悪霊が放つ香りだ。
その香りが小百合の意識を明瞭なものにした。
「あなた、誰?」
刺激しないように気をつけて、乾いた唇で小百合は尋ねる。しかし彼女は答えない。
バスはますます速度を上げているというのに、走る音も風の音も聞こえない。色もない。無色無音の世界に、煤の香りだけが鼻につく。
「……近づくと除霊するよ」
立ち上がろうとして、小百合は小さな箱を抱いていることに気がついた。軽くて四角い、不思議な箱。
中を開ければ、黒いヘドロのようなものがこびりついている。
「なんで幽霊に近づくの。どうせ、全員は救えないくせに」
少女の顔が小百合に迫った。目の焦点が合っていない、薄暗い顔だ。
「ねえ。嫌でしょう? 気持ち悪いでしょう?」
少女の細い手がゆっくりと小百合の喉をつかむ。
「でも泣けないんでしょう?」
ひゅう、と空気が抜ける音がした。痛みはない。苦しみはない。
「魂が欠けてるから、泣けないんだよ。ねえ、自分の魂が欠けてること、知ってた?」
ただ、力が抜ける。
(ケン……タ)
小百合は思わず隣に腕を伸ばす。いつもそこにある体温が、今は存在しない。
(……ケンタ)
それだけで、手の先が冷たく凍った気がした。
「ねえ」
少女の顔が宙を滑るように近づいてくる。乾いた唇は一ミリも動かないのに声だけが聞こえる。
「悪霊に近づかないほうがいいって、お父さんに教えてもらわなかったの?」
彼女は口元だけで笑う。口が大きく開き、目が白になり黒になり首が伸びて……気がつけば彼女の顔が、ぐにゃりと引き伸ばされたように広がる。
真冬の風のような冷たい視線が小百合を貫いた。
「除霊師なんて嫌い」
夢だ。と、小百合は直感する。これは夢だ。悪霊は夢を利用する。
「……死んだこともないくせに」
(誠一郎さんの……10か条……の、確か……みっつ……め……だったっけ……)
少女の細い指に首を掴まれたまま、小百合は箱を投げ捨てた。黒いへどろのようなものが地面に跳ねて、小百合の顔を汚す。
顔を拭う間も惜しみ、小百合は少女を突き飛ばす。
「除霊……中……は」
小百合は両足で地面を踏みつけた。
「……目……を、しっかり、開けること!」
誠一郎の言葉を思い出し、小百合は思い切り地面を蹴り上げる。窓をこじ開け外に顔を出せば、風が頬を打って小百合の髪が舞い上がった。
目前に広がるのは、流れていく町の風景。尖った電柱、黒いアスファルト。夕日に照らされて町が右から左に激しく流れていく。まるで本物の風景だ。
しかしこれは偽物の風景だ。
「だ……大丈夫、これは……夢!」
だから小百合は窓枠に足をかけ、思い切り、身体を外に投げ出す。
……足が、まるで階段を踏み外したように大きく震えた。
「あっぶな……っ」
その激しい足の揺れに小百合は目を覚ます。心臓がうるさいほどに脈打っていた。全身から汗が溢れだし、足の先まで氷に浸かったように冷たい。
「夢……夢だよね……うん。夢……夢だ……」
目がさめても、夢の中にいるようだった。立ち上がると蹴飛ばした布団に足を取られてよろめく。
小百合は這うように机に向かい、水の入ったコップを掴んだ。
まだ自分の手に黒いヘドロがついている気がして、肩が震える……しかしそれは暗がりの見せた幻覚である。
シャツで掌をこすって、小百合はコップの水を一息に飲んだ。
喉に伝わる水分に、ようやく小百合の目が覚めていく。
顔を上げれば、周囲は淡く青い。夜から朝に変わる境目の色。
「……どうした?」
「ケンタ……」
小百合の枕元で丸くなっていたケンタが、薄目を開ける。
「まだ早いぞ、お嬢さん」
「ケンタ、ここに、居たぁ」
小百合は思わずコップを投げ出し、ケンタの首をぎゅっと抱きしめた。指先から熱が染み込んで身体に体温が広がっていくようだ。
「どうした」
「ちょっと……寝ぼけて……」
「ガキかよ」
不機嫌そうにケンタは呟くが、それに反するように尻尾が揺れる。
「……まだ早い、寝ろ……」
やがて眠気に負けたように、ケンタの瞼がゆっくりと降りていく。
定期的な呼吸音を聞きながら、小百合は親指をきゅっと手の内側に握り込む。幼かった頃、誠一郎が教えてくれた、幽霊よけのおまじない。
(……ああもう。せっかく早めに寝たのに)
ケンタの尾に顔をうずめて小百合は深呼吸をする。
人間より少し早い心音の向こうに、かすかな水の音が聞こえた。
悪夢を見て目覚める朝、必ず雨が降る。
それは小百合が幼い頃からずっと、ずっと決まっていることだ。
「……お嬢さん」
次に小百合の意識を引っ張り上げたのは、ケンタの低い声だった。
地面を激しく叩く雨の音の中、心地いい声が響く。低く、柔らかく、耳に馴染む声。小百合は無意識に腕を伸ばし、温かい塊をぎゅっと抱きしめた。
「ケンタ……?」
「おはよう、お嬢さん。別に急かすつもりはないが……もう昼を過ぎたな?」
張り付いたような瞼を無理やりこじ開けると、小百合の顔を覗き込むのは不満げな顔のシェパード犬。
ケンタの向こう側、窓から差し込むのは真っ白な昼の日差しだ。
ケンタは大きな尾を、畳に激しく何度も打ち付ける。
「えっと……ご飯……?」
「察しが良くて助かるよ」
冷静を装うケンタの腹から、苛立つような腹の音が響き渡った。
「除霊師って何なんだろう、ケンタ」
ちょっと高級なドッグフードの封を開けながら、小百合は今朝の悪夢を反芻する。
悪霊の言葉はだいたい不明瞭だ。その曖昧な言葉で人を不安にさせるのだ。しかし今朝の夢に現れた彼女の言葉は明瞭だった。
死んだこともないくせに、という言葉が紙で切った傷口みたいにチクチク痛む。
「禅問答か? 除霊師ってのは幽霊が視えて祓える技を持つ、ただの人間だよ。他の職業よりはリスクが高いが、特殊技能でリターンも大きい」
「ケンタも昔は……除霊師だったんだよね」
「……ああ……きっとな」
ケンタがこれまでどう生きてきたのか、小百合はあまり知らない。彼が語りたがらないせいだ。
記憶の大半をなくし、犬の姿になったケンタは人間の除霊師だったという淡い記憶だけを頼りに生きている。
(怖くないのかな)
つやつや輝く背の毛並みと、尖った口元を見つめて小百合は思う。
人間とは全く似ていない犬の姿。もう二本足で歩くことも、手を使うこともできない。人間とは食べるものも、生きる場所さえ違う。そんな存在。
しかし落ち着き払った彼の口からは、愚痴も泣き言も漏れることがない。
「……で? 俺はいつまで待てをすればいいのかな?」
「あ、ごめんごめん」
銀皿にたっぷりの餌を盛り付けてやると、ケンタはすぐさま皿に飛びつく。
普段は犬らしい振る舞いを嫌がる彼だが、食事の時だけは見せつけるようにガツガツと食べる。首輪が皿に触れて、ガチガチと音を立てるほどに激しく。
鼻先についた餌をべろりと舐めあげて彼はふん、と鼻を鳴らす。
「実際、除霊師ほど便利な能力はないさ。一生食いっぱぐれない、人に使われることもなけりゃ、でかい顔もできる」
「悪霊に恨まれても?」
大きな舌がべろりと、皿を舐めるとそこは空っぽになってしまう。
「悪霊ごとき、恨まれても別にどうでもいい……っておい、お嬢さん、顔色が悪いな? 悪い夢でもみたか?」
「う……ん」
ケンタの鼻が小百合の顔を突き上げる。
「悪夢ってのは、罪悪感だったり、悪い思い出が見させることが多い。が、それは視えない人間の場合だ。除霊師の見る悪夢は悪霊の干渉の可能性もある。おい、どんな夢を見た」
「夢……は」
小百合は冷え切った手のひらを見つめる。
ちゃんと目覚めたはずなのに、まだ夢の中にいるようだ。少女の声も匂いも、窓枠の感触も。まるで本物のようだった。
除霊師は悪夢を見やすい。それゆえに本物の除霊師は悪夢の処理が上手だ。
悪夢で揺さぶられるなど、中途半端な除霊師だと宣言するようなものである。
「無理やり……人参を食べさせられる夢かな」
「それは言いたくないということだな」
ケンタが不満そうに唸る。それは、小百合の言葉を信用していない時の彼の癖。何かを言いたそうに顔を見上げて、口を開く……その時。
「……ん?」
小百合は中腰のままぴたりと動きを止める。
「チャイム?」
雨の音の向こう側、間の抜けたチャイムの音が鳴り響いたのだ。
小百合の家のチャイムを鳴らすのは、新聞勧誘か大家。もしくは幽霊。
この中で一番恐ろしいのは、幽霊ではない。大家の来襲だ。
「来月分まで家賃ちゃんと払ってるし、ケンタのことも、解決したし……騒音もだしてない……はず」
不安要素を一つ一つ取り除く間にもチャイムは二度、三度と執拗に鳴り響く。
「ケンタとのお喋りだって、そんな煩くしてないし……えっと、大丈夫……だよね?」
雨の音に相まって、それは不気味な音に聞こえた。
「俺が出ようか?」
「ううん。大丈夫……訪問営業だったら思いっきり吠えてね……でも大家さんだったら、いい子にしておいて……」
恐る恐る扉に近づき、小百合はそっと耳を澄ます。この古い家にはドアスコープさえないのである。幽霊なら気配でわかるが、人間相手だとその技も使えない。
玄関に散らばる傘と靴を足で適当に押しのけて、小百合は覚悟を決めて声を上げる。
「……はぁい……」
思い切って扉を開けた小百合だが、甘い香りを吸い込んで大きく目を見開いた。
「あ!」
雨の降りしきる扉の向こう、大きな蛇の目の傘がみえる。その人物から沸き立つ甘い香の匂いが、陰鬱な空気を振り払う。
骨の多い傘がくるりと回ると、そこには黒い袈裟姿の一人の僧侶。
「招福さん!」
「小百合ちゃん、お久しぶり」
彼は美しいテノールの声で、そう言って微笑んだ。
「すごい! 会いに来てくれるの、去年の誕生日以来じゃない?」
小百合は子供のようにジャンプすると、彼の体に飛びついた。
すると彼は小さな子供にするように、小百合をそっと抱きしめ返してくれる。腕に巻き付けた数珠が、清らかな音を立てた。
それだけで悪夢が消え失せるようだ。つま先まで詰まっていた息苦しさが音を立てて消えていく。
「小百合ちゃんは相変わらずですね。元気そうで何より」
きれいに剃り上げた青い頭に、シワひとつない袈裟。薄曇りの中に光る白い足袋。
今日は袈裟の裾に少しだけ泥がついている。しかしその泥さえ、不思議とキラキラ輝いて見える。
完璧な立ち姿で静かな微笑みを浮かべるこの男の名前を、招福という。
「最近は仕事ばかりで……ずっと不義理にしてました」
「誠一郎さんみたいな言い訳するようになったんだね、招福さんも」
誠一郎の名前を出すと、彼は少しくすぐったそうに手で口を押さえて含み笑う。その袖には黄色の花びらが名残みたいに付いていた。それは瑞々しい菊の花。
「招福さん、お墓参り?」
「ええ。この時期は僧侶の方の仕事も忙しくて……ああ、そうそう。小百合ちゃん。ちゃんとポストは見なさいね。溢れてましたよ」
「手紙!」
彼は懐から一枚の封筒を差し出す。そうだ、今日は16日だ。小百合は息を飲み、あたふたとそれを抱きしめる。
「凄い、いろんなことが一杯起きて頭の整理が追いつかない……あ、そうだそうだ。招福さん、部屋、部屋に入って。お茶でも……だめだめ。部屋を片付けるからちょっと待って、すこし、えっと、5分だけ!」
「実はこのあと仕事があるので……今日はここで失礼します。近くまで来ましたからね、でも少しでも顔が見たかったんです」
目を白黒させる小百合を見て、招福は薄く微笑む。それは知り合って数年前から、ずっと変わらない優しい笑みだ。
(聖人君子って、こういう人のことを言うんだろうな)
小百合は彼を眩しく見上げる。彼の顔からは負の感情など一片も感じない。清々しい空気しか漂ってこない。
「小百合ちゃん、おかわりないようで安心しました……いえ、ちょっと変化が?」
穏やかな招福の目が、ふと小百合の足元を見る。
「……大きいですね。いつから?」
「えっと……1年前くらい……迷子犬を預かってるというか……名前はケンタ。可愛いでしょ」
気がつけばケンタは小百合のそばにひたりと寄り添って、低く唸っている。歯をかすかに見せて、鼻にシワを寄せて。
小百合はそんな鼻先の皺を必死に伸ばして、招福に笑ってみせた。
「あの、今、寝起きで不機嫌で」
「番犬になりますね……と、大家さんもおっしゃってました」
「大家さん?」
招福が続いて取り出したのは、賃貸契約書。更新、と赤字で書かれた契約書の保証人欄に招福のきれいな文字が浮かんで見える。
「まもなく更新時期なので、先に寄ってきました。そして、その大家さんから除霊依頼です」
「え?」
「大家さんのお友達の……お琴の師匠さんの家に妙なことが起きるようで……住所はここ。あとで顔を出してくださいね」
さらさらと、招福は白い紙に地図を描く。方向音痴の小百合と違って、彼の空間認識能力は完璧だ。細い線で描かれたそれを抱きしめて、小百合は恐る恐る招福を見上げる。
「あの、招福さん」
「本当は小百合ちゃんには除霊なんて危険な仕事は辞めてもらいたいんですけど、あなたは誠一郎さんに似て頑固なところがあるから」
細い目が優しく微笑む。剃り上げた頭の形は綺麗で、まるでモデルみたいな小さな顔によく似合っていた。
小百合と10歳違いなので、今年30になるはずだ。年齢らしい貫禄が身につかないのが悩みだ……といつか聞いた記憶がある。
愚痴をこぼす時でさえ、穏やかに微笑む男だった。
そして彼の隣には、いつも誠一郎の姿があった。
「あのね、招福さん……せ……誠一郎さん……どこにいるのかな」
父の名前を口にして、小百合はぎゅっと手紙を握りしめる。
今月届いた手紙もきっと3枚なのだろう。書かれているのは季節のたよりと旅の話と、ちょっぴりの説教。
小百合に除霊の技術と料理のいろはを教えた父とはちょうど一年、手紙でしか出会えていない。
……もう、夢にも出てくれない。
「さあ、ご存知の通り、気紛れな人なので……仕事が忙しいんでしょう。でも心配しないで。小百合ちゃんのことは片時も忘れない、誠一郎さんはいつも言っていたでしょう?」
招福は困ったように微笑んで小百合の手をそっと握る。足元のケンタがまた小さく唸った。
「そうそう。悪霊よけのお守りも新しいのを用意しました」
招福の温かい手が離れると、まるで手品のように小百合の手の中にお守りが現れる。
昔から小百合を喜ばしてきた招福の手品だ。子供扱いに小百合は思わず笑ってしまう。
「私、もうすぐ二十歳だよ」
「まだ19歳、です」
雨の香りの中に清廉とした香りが交じる。
招福の印を刻みつけたその守り袋は、巷にあふれる偽物の除霊グッズとはまるで異なる。本物の守り袋だ。
「忘れず身につけてくださいね」
平然と微笑む招福だが、その体には煤の香りが染み込んでいた。彼の袈裟に近づき、小百合は目を閉じる。
「……招福さん、ここに来る前に……どこかで仕事した?」
この香りを小百合は知っている。
(……悪霊の、匂いだ)
「ええ。除霊師の仕事も……少しだけ。夏はどうしても忙しく……」
「招福さん。また危ない仕事をしてない?」
音を立てそうなほど糊のきいた袈裟を見つめ、小百合は守り袋を握りしめる。
煤けて焼けたような……その香りは夢の中で嗅いだばかり。招福だけではない。誠一郎も時折、この香りをまとって戻ってくることがあった。
「大丈夫ですよ、私は無茶をしません」
小百合を見つめて、招福は袈裟を払って微笑む。
「自分の手で救えないものは、諦めます……それが除霊師としての基本ルールです」
招福はそう言うが、招福も誠一郎も小百合に隠れて危険な除霊をしていたことを知っていた。
行き先を告げずに姿を消した時、誠一郎はかならず煤けた香りをまとって帰ってきた。
除霊師はそうやって無茶をするのだ。誠一郎や招福だけではない。ケンタも時々憂さ晴らしのように悪霊を噛み殺して帰宅する。
(招福さんもケンタも私のこと心配するけど、ずっと二人のほうが危ないことしてるじゃない)
心配ばかりされる自分が半人前のひよっ子のようだ。
実際、悪夢相手にはなすすべもなく逃げ出してしまった。そんな情けなさに小百合は唇を噛みしめる、
「……小百合ちゃんどうしました?」
「う……ん」
招福は柔らかく見えて、実は鋭い。
小百合は足元に座るケンタをちらりと見つめた。彼は用心深いので、招福の前ではすっかり犬のような顔をしている。
……しかし彼は人間だ。彼がかつて除霊師だったのなら、招福はケンタのことを知っているかもしれない。
「あの招福さん、実は……あのね……このケンタは……」
小百合が重い口を開きかけた瞬間、招福の懐から小さな音が響く。招福は渋い顔をして懐からスマホを引っ張り出すと、小さくため息をつく。
「すみません。仕事が……何かあれば、必ず連絡してください。世界のどこにいても駆けつけますから」
夏特有の甘酸っぱい雨の香りの中、招福の匂いが交じる。
一瞬口を開きかけた小百合だが、音に邪魔された唇はそれ以上の言葉を紡げなかった。
「小百合ちゃん?」
「……なんでも無い。ありがとう、招福さん」
雨が、また少し激しさを増した。
「お嬢さんには全く、お知り合いが多いことで」
「そりゃあ、私にだって知り合いの一人や二人……」
「ジジババの知り合いしかいねえと思ってたよ。あんな若いのとも知り合いとはな」
「ケンタはときどき失礼だよね」
雨傘をくるくる回しながら小百合は雨の中を進む。せっかくの地図は、雨に濡れてべちゃべちゃだ。細いペンで書かれたきれいな文字が水滴に滲んだ。
「……私だって知り合いは多いんだよ。ほら、そこにも知り合いがいる。着物さん、おはよう」
「おはよう、いい守り袋を持ってるな。私には効かないが、悪霊程度ならひとたまりもないな」
今日もまた、六ツ角地蔵の上には着物さんが浮いていた。すり抜ける雨を楽しむようにくるりくるりと、着物の裾がきらきらと輝いている。
ケンタはそれに向かって歯をむき出す。
「そこの着物女、噛み殺されたくなければ離れてろ」
「着物さんに当たらないでよ」
犬用のレインコートをまとうケンタは不機嫌そうに小百合のスカートに噛み付いて、引っ張る。
「で? あのスカした野郎は、なにもんだ」
「スカしたってなにそれ。誠一郎さんの一番弟子の招福……招福健雲さん。私と同じ本物の除霊師だよ」
小百合は足を止め、透明の傘をくるりと回した。
明け方から降り続くこの雨は、まるでスコールだ。激しい音をたてて白い雨が散る。
こんな雨の中でも招福は爽やかな顔で去っていった。彼が焦る様子など、出会ってこれまで一度も見たことがない。
師匠である誠一郎よりずっと落ち着いていて、どんな場面でも動じない。それが招福だった。
「それにアパートの保証人を引き受けてくれたり……私って色々身元も怪しいじゃない? でも招福さん、僧籍あるし。そのへん信用高いっていうか」
彼とはじめて出会ったのは小百合が中学生の時。僧侶になりたてで、昨日剃ったばかりという頭を少し恥ずかしそうに撫でていた。
そんな頭をしていても、ちまたのアイドルより整った顔をしている……というのが小百合の第一印象。
誠一郎が全幅の信頼をおいている除霊師であることはすぐに分かった。彼が歩くだけで、彼が触れるだけで浮遊霊程度はかき消される。
誠一郎があまりに彼ばかり褒めるものだから、反抗期だった小百合は招福に除霊勝負を申し込んだ。
しかしそれが危ない幽霊だったせいで、ひどい目に遭い二人は誠一郎にひどく絞られた。
二人並んで雷を落とされた時から、小百合と招福はいいライバル同士である。
「誠一郎さんがいなくなったあと、本当に大変だったんだよ」
小百合の18歳の誕生日。誠一郎が急に姿をくらました日。小百合に残された問題は山積みだった。
まず、収入の問題。そして住居の問題。誠一郎と暮らしていたアパートは、家賃が高すぎる。
誠一郎が消えて家賃も払えないとなると、小百合の立場は住所不定、自称除霊師。途方にくれる小百合を助けてくれたのが招福だ。
家の保証人、引っ越しの手伝い。当面の生活まで面倒も見てくれた。無我夢中に独り立ちできたのは1年前。
「その間もずっと招福さんが誠一郎さんと連絡を取ろうと頑張ってくれたけど、全然連絡つかなくて……もしかしたら……」
……死んでしまったのではないか。と、言いかけた口を小百合は閉じる。誠一郎が消えて最初の一ヶ月、小百合はそんな疑いを持ったことがある。
薄暗い妄想から小百合を救ったのは、小百合宛の一枚の白い封筒だ。それを見つけた時、小百合は1時間ほどポストの前で固まって大家をひどく困惑させた。
「ふん。葛城誠一郎か。ぽやぽやしてる男……と聞いたが、実際はいい加減な男なんだな」
ケンタが顔についた雨水を不快そうにふるい落とす。
「ケンタ、誠一郎さんのこと知ってるの?」
「……有名な除霊師だからな。放浪してるときによくそいつの噂を聞いたよ」
ケンタは不機嫌そうにそう返す。
「じゃあ……」
どこにいるか知っている?……と、開きかけた口を小百合は飲み込む。
誠一郎の話を聞くのが恐ろしかったのだ。
小百合は足取り重く、傘を握りしめた。
(……なんで、あのときのこと、思い出せないんだろう)
誠一郎が消えたのはちょうど一昨年の夏。あのときも、スコールみたいな雨が降っていた。
(確か、誠一郎さんと一緒に、仕事を……)
雨に濡れた手を握りしめ、小百合は記憶を探る。いつも大事なときの記憶が淡いのは、除霊のあとに深く眠ってしまうせいだ。
しっとりと湿った風景を眺めながら、小百合は歯がゆく呻く。
「どうしたお嬢さん、歯でも痛いのか」
「最後に誠一郎さんと一緒に組んだ仕事のこと、思い出してたんだけど、思い出せないの」
仕事の内容はよく覚えていない。ひどく疲れる除霊だったことだけ覚えている。
史上最低の気分で目覚めると、ベッドのそばには招福がいて、困ったように微笑んだのだ。
『誠一郎さんは、また旅に出てしまいました』
誠一郎の欠点は放浪癖だ。短いときは1日、長ければ一ヶ月。
今回は、まもなく史上最長の2年目に突入しようとしている。
「お前は体に負担かけて働きすぎなんだよ。ちったあ休め」
息を吐きだし、ケンタは周囲の風景を睨む。
……同じ色の屋根が続く、単調な住宅街。
この町は山や川を整地して作られた。大昔は複数の町の重なる境界線の場所だった、と聞いたことがある。
今でもその名残なのか、町のあちこちに細道が蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。
袋小路に一通道路、そのせいで小百合は今でもよくこの町で迷子になるのだ。
「ほら見ろ、疲れてるから迷子になるんだ。何回同じ道を通る気だ、お嬢さん」
「迷ってないよ。ちょっと……ちょっとあたりを下見してるだけで」
人のいない雨降りの道。右へ左へ。進んで戻って小百合はようやく足を止める。
「おい、聞いてるのかお嬢さん」
「あ、ついた。ここだ」
……そして小百合は、足を止める。手にしたメモには招福のきれいな字で『月下亭 城宮茜』と書かれている。
美しい琴の音が鳴り響く瀟洒な一軒の家の入り口にも、同じ名前が刻まれていた。
「別に私は困っちゃいないんですよ。心配をかけてることは申し訳ないけれど」
「今回のは腕が悪かっただけで、もうあと一人用意してるから、そっちならなんとか……なんだい昔馴染のよしみで、人がせっかく……」
部屋に入った途端に響く甲高い罵声に、小百合は思わずケンタを抱きしめる。
ケンタも柔らかい耳を伏せて目を細めた。
「おい、ここかよ……」
……小洒落た生け垣が囲む、木造りの一軒家。その奥から女性の怒鳴り声が、今もまだ響いている。
そんな声の応酬の合間を縫うように、一人の男がひょっこりと玄関から顔を出した。
「ん? お客さん? 今ちょっと揉めてるからさ、出直したほうがいいかもね」
それは胡散臭い安物スーツを身にまとう若い男。彼は軽薄に笑いながら、腰を落として地面に何かを書き込む。赤い三角形に、バツマーク。それを見て、ケンタが小さく唸り声を上げた。
「おい、あいつ、前に……現場にマークを残していった野郎じゃねえのか」
「……その守り袋……招福坊主の? ってことは、もしかしてあんたも除霊師? 招福のグループにこんなガキがいるなんてな。とうとう人手不足もここに極めり、ってことか」
彼は小百合が傘に付けた守り袋を目ざとく見つけ、目を細める。雨の中でも甘く香るそれは、非売品の特注品。
本物の除霊師だけが持つことを許された、あかしの守り。
しかしそれを見ても、男はせせら笑う。
「止めときなって。ここに幽霊なんか居やしない。幽霊見たり枯れ尾花ってやつ」
「じゃあなんで、そのマークを書くんですか?」
「そりゃあ」
男の顔が、ニヤリと歪んだ。
「この手のカモは何度も依頼してくれる上客なもんでね。他の除霊師に渡したくないからだよ」
まるで地鳴りのようにケンタが吠えて男が悲鳴を上げる。小百合も思わず大きく一歩を踏み出した。
「お嬢さん。俺はな、この手の詐欺師野郎が一番キライなんだよ」
「私も」
小百合はぶん、と音を立てて傘を閉じ、男を睨んだ。
この男、こういう仕事をしていれば必ず一度や二度は出会う、ロクでなしだ。悪霊なんかよりも、ずっと厄介でたちが悪い。
「残念でした」
ケンタに吠えられ水たまりに尻もちをついた男に向かって、ざまあみろ。と呟いてやる。
こんな偽物のせいで、小百合たちのような本物が苦労するのである。
「私は本物の除霊師だから一緒にしないで」
「……どうだかね。どうせ視えずに外に出る羽目になるぜ。恥かく前に止めときな」
厭味ったらしく目を細める男を睨んで押しのけ、小百合は瀟洒な扉に向かって叫んだ。
「すみません、本物の! 除霊師ですけど!」
小百合の声に答えるように中から、透き通るような甘い香りがした。それは招福の香とはまた違った柔らかい匂いだった。
「あら、もういらっしゃったのね……どうぞ。相棒のわんちゃんのことも聞いてます。一緒で大丈夫ですよ」
ふわりと香るのは、上品に甘い匂い。白い着物をまとった女性が小百合の前に立つ。
その姿を見て、小百合は唇をきゅっと締めた。憤っていた自分が急に恥ずかしくなったのだ。
「あの……えっと、はじめまして……葛城……小百合です」
現れたのはうりざね顔の上品な顔立ちの女性だ。年齢は60を超えたくらいか、目元には年相応に刻まれた上品な皺が見えた。
しかし、彼女の目は固く閉ざされている。そしてその目元にはかすかに疲れの色が見えた。
「ああ、葛城さん。来てくれたのかい。雨の中悪いね、あんたんとこのハンサムな坊さんに、あの子をよろしく。なぁんて言われちゃったから、仕事の一つでも紹介してあげようと思ってさ」
着物の女性の後ろから顔を見せたのは、ヒラメのような顔をした大柄な女性。
ぎょろりと動く大きな目を見て、小百合はほっと息を吐く。
新川弥生……小百合が恐れるアパートの大家であり、同時に今回の依頼者である。
「まあその前に頼んだやつは役たたずだったけどね」
まだ玄関先にいた男は、まるで蛇に睨まれた蛙のようにこそこそ逃げ出す。男の背中を見て、小百合と新川は同時にふん、と鼻をならした。
「えっと。大家さん、あの、この度はご用命ありが……」
「この子は城宮茜。あたしの昔馴染でね、この子の部屋が、ちょっと妙なんだよ。早く上がって」
新川は小百合の言葉も聞かず、せっかちに腕を引っぱる。ケンタの足をタオルで拭い、掃き清められた室内に入ると綺麗な琴の音が耳に馴染んだ。
月下亭というこの場所は、城宮が経営する琴の教室だと招福は言っていた。中庭付きの日本家屋には香が焚きしめられ、雨音に似た琴の音が静かに響いている。
あまり触れ合ったことのない清廉とした空気に小百合は思わず背を伸ばした。
「で、ここが茜の部屋なんだけどさ」
小百合が案内されたのは奥の間だ。床の前には大きな琴と大ぶりの花瓶。
雲のように壁に付けられた違い棚にも上品に花が活けられ、空気が清廉としている。自分の部屋の惨状を思い出して、小百合はいささか恥ずかしくなった。
「きれいな部屋ですね」
「でもね、ここで寝ると悪夢を見るんだってさ」
新川が言いながら、小百合の肩を部屋に押し込んだ。
「……夢?」
どうにも今日は夢に縁のある日だ。小百合は無意識にケンタの背を掴んだ。
「茜の顔、見てご覧よ。すっかり睡眠不足だろ。聞いてみたら変な夢を見るっていうじゃないか」
新川が忌々しく吐き捨てる。地声が大きいので、彼女が一言しゃべるたびに障子の枠が揺れるようだ。
「でもさ。試しにあたしがここで寝ても、夢ひとつ見やしない。でも隣で寝てる茜はうんうんうなされて、全身汗びっしょりで、しかもずっと謝ってんのさ。あたしは幽霊なんて信じちゃいないけど、こういうのは昔から憑き物ってやつに決まってる。だから専門家の葛城さんに声をかけたってわけ」
「葛城さん、ごめんなさいね。弥生ちゃんの勘違いなの。先程の方にも説明したんですけどね。疲れてるから夢見が悪いだけなんですよ」
彼女は音もなく畳に腰を落とすと、大きな琴に手を伸ばす。白い指先が弦に触れると、空気を震わせるような音が漏れた。はらはらと響くそれは、雨の音によく似ている。
「長雨の時期なんかは昔から眠りが浅いんです。今回はちょっとそれが長いだけ。ね? この部屋に幽霊なんて、いないでしょう?」
「……そう……ですね」
小百合はぐるりと、部屋の四方を見る。天井の隅、四方の角や違い棚の上にある天袋の隙間。
人の目が届きにくい、ちょっとの闇。見えにくい隅っこ。そんなところに、幽霊は住み着きやすい。
しかしこの部屋は清浄だ。黒い影も煤けた香りもなにもない。
「何も、いないです」
「ふん、さっきの奴は下にいるだの上にいるだの言ってたが……除霊師なんて、どいつもこいつも口だけだね」
「弥生ちゃん」
新川が吐き捨てるように叫ぶと、城宮がたしなめる。しかし新川は鼻を鳴らして立ち上がり、そしてぷいっと顔を背けた。
「弥生ちゃん、どこいくの」
「仕事に戻るんだよ。あたしは仕事が多いもんでね」
新川は部屋を飛び出す瞬間、一瞬だけ城宮を見る。
「困ってたら助けたいと思うだろう……友達なんだから」
それはほんの小さな子供がむずがるような、そんな表情に見えた。
「騒々しいことで申し訳ないわ。大したものは出せないんですけど。お茶とお菓子、せっかくですから召し上がっていらして」
「いえあの、まったくお役に立てずで……」
新川が激しい音を立てて出ていくと、残されたのは雨音と琴の音だけだ。
城宮の弟子と思われる女性が小百合の前に上品な和菓子と温かいお茶を一つ、置いていく。
花火のようにカラフルな色のついた練りきりと緑のお茶。湿ったような部屋の中、そこだけがきらきらと明るい。
「わあ。きれいなお菓子」
「私が作ったんですよ」
「城宮さんが?」
練りきりの色を眺めて、そろそろ花火の季節だな、と小百合は思う。
花火大会など人の多い場所には幽霊が集まりやすい。そんな場所に除霊師が足を向けると彼らは花火を楽しめなくなってしまう……とは、誠一郎の言葉。
だから小百合は長らく花火大会をはじめ、大きな祭りには足を運んでいない。
「もちろん、目がこんなですから弟子に手伝ってもらいながらですけど。ほら、角の西団の和菓子屋さん、おばあさんが亡くなって数年前に閉じてしまったでしょう。あそこのお菓子が一番好きだったのだけど、なかなかあの味にはたどり着けないわね」
新川は饒舌だがどこか心ここにあらずだ。白い着物の襟を直しながら、気だるそうに雨の音を聞いている。
「葛城さん……たしかお名前は小百合さんと仰ったかしら?」
「はい」
「私の生家は華道を教えていてね。だから、お花の名前は好きよ。夏の花はいいわね……百合に葵に……」
床の間に飾られている花の名前を小百合は知らない。レースのような赤紫の花と、白い百合の花。城宮はそれをじっと見つめたあと薄い唇で微笑んだ。
「……花びらは散っても花は散らず、形は滅びても人は死なないというのは本当のことね。お菓子の味はずっと覚えているのだもの。お味はいかが?」
小百合は甘くてねっとり絡みつく練りきりを噛み締めて、飲み込む。温かいお茶で甘い味を流し込むと、自然に幸せな息がもれた。
「和菓子、久しぶり……すごく美味しいです」
「お口にあってよかった」
城宮はクマの浮いた目元をこする。もう何日眠れていないのか。
小百合は練りきりをもう一口飲み込み、彼女の端正な顔を見つめた。
(憑かれてる……って感じはしないけどなあ)
小百合はさり気なく、彼女の肩を軽く払う。
幽霊の影はない。ただ黒い影がつきまとっている。それは浮遊霊が残す未練の欠片だ。
地面に転がる黒い影をケンタの足が踏みつけ、その牙が引きちぎる。それだけで影は煙のように消えてしまう。
「この婆さんに必要なのは俺らじゃなく、医者だろう」
ケンタが息を吐けば黒い煤が宙にパッと散った。
気の沈んだ人間には霊が残す未練の欠片が憑きやすいが、その程度で不眠に陥ることは少ない。せいぜい、少し肩が凝るくらいのものである。
「除霊は大変なお仕事でしょう?」
小百合とケンタの動きになど気づきもせず、城宮が尋ねる。
「これまで沢山の幽霊を見てきた?」
「はい。ちょっと悪い子も、いい子も、お年寄りも若い子も……」
「素敵な男の子の幽霊にときめく、なんてことは?」
城宮がいたずらっぽく微笑む。その言葉を聞いて小百合の目が丸くなり、ケンタの耳がぴくりと動く。
「まさか!」
頭に浮かんだのはこれまで出会った幽霊の顔。しかし残念ながら幽霊の造形は少しぼやけているし、何より小百合にとっては仕事中。一目惚れというのはちょっと難しい。
(……まあ、大昔、一回だけ、それっぽいのは……あったけど)
と、小百合は薄い菓子楊枝をつまんだまま思う。しかし小百合のそれは、恋というには淡すぎる思い出だ。これが本当に恋ならば、辛く悲しいことだろう。
消えていくものと残るもの。きっと、それはお互いに未練になる。
「若い女の子に、まさかなんて存在しないわよ」
「だってお仕事ですから」
「あら。案外お硬いのね」
上品に手で口を押さえ、彼女は笑う。しかしその笑顔は無理に作られた微笑みだ。
「あの。城宮さん……」
城宮は、何かを迷っている。苦しんで、しかしそれを口に出せずにいる。
これが幽霊なら小百合は救うことができるのだ。過去と感覚を共有し、息を吸うように悩みを解きほぐせる。しかし人間相手だと、こんなにも難しい。
「……いつから眠れてないんですか?」
「ここ、一ヶ月か、二ヶ月ほど」
雨が窓を叩き、二人は同時にそちらを見た。朝から続く雨はまだ止まない。
城宮は白い指で髪を整え、薄く微笑む。
「歳を取ると眠りが浅くなるでしょう? だからそんなに気にしなくても大丈夫」
「除霊師がみる悪夢は、幽霊が干渉して起きることが多いんです」
かたかたと、窓が揺れた。
その音で小百合は今朝見た夢を思い出す。喉に食い込む細い指の感触も、頬を撫でる風の感触も全部全部覚えている。
しかしそれは除霊師がみる、特別な悪夢だ。
「でも、一般の人の悪夢は……思い出したくないことや、気にしていることが夢に出る。心の奥が悲鳴を上げてるんです。だから、ちゃんと調べたほうが」
「小百合さん。これ、弥生ちゃんには言ってないんですけどね」
雨のせいか部屋はしんみりと薄暗く、城宮の顔だけが白く浮かんで見える。
湿った畳の上を着物の裾が擦る。ざらざらと、衣擦れの音が響く。
「私もあなたと同じ。幽霊が視えていたんですよ、昔はね」
彼女はまぶたを手で押さえたまま微笑む。
「でも病気で目がこうなって、途端に幽霊も視えなくなったの。でもね昔視えていたからこそわかるの……心配するようなことはないって」
城宮は琴に指を置く。彼女が軽く弾くと透き通るような音が響く。
まるで城宮が今にも消え去ってしまいそうで、小百合は思わず彼女の手を掴んでいた。
「じゃあ、せめて、もっと話を聞かせてください」
彼女は微笑んで、小百合から手を離す。出会ったときから彼女はどこか厭世的な雰囲気をまとっていた。生きるのに飽きている。そんな気がする。
「いいの。これはきっと……私の……」
何かを言いかけ、城宮は唇を噛みしめた。その薄い唇には赤い筋が見える。何度、彼女は言葉を飲み込んできたのだろう。
「幽霊が視えたころ、不思議と何も怖くなかったわ。視えなくなった今のほうがずっと怖いの。除霊師さんにしてみれば不思議でしょうけど」
彼女は部屋の障子を薄く開いた。地面を跳ねる雨の音が部屋に広がる。
「幽霊が視えなくなった代わりに雨の音ばかりよく聞こえるようになった」
彼女は力なく微笑む。
「今日もひどい雨」
「……あの、城宮さん」
小百合は恐る恐る、顔をあげた。ケンタがなにかに勘付いたように小百合の足を踏む。
そもそも夢とは、この世とあの世の境目、一寸先の闇。何があるかわからない。だから夢には気をつけなければならない。
小百合はそう誠一郎から学んだ。そして同時に誠一郎は語ったのだ。
一寸先の闇を覗けるのは、この世で除霊師だけ。
「私がその夢……入ってみましょうか?」
雨の音だけが、部屋の中に響き渡っている。
「結局、なんの役にも立たなかったなあ」
「夢相手じゃな。お前の除霊スタイルじゃあ無理だろ」
城宮にすっぱりと断られ、家を出たのはそれから数十分後のこと。
柔らかく見えて案外強情な城宮は、何を言っても暖簾に腕押しだ。
「悪夢の原因、分かってる風だったのに」
歯がゆく、小百合は傘を握りしめる。幽霊相手なら無理やり飲み込んで感覚も過去も共有するところだが、人間相手に小百合の技は通じない。
「理由がわかってるからこそ、祓ってほしくない。そんなことを言う人間も多いもんだ」
「ケンタ、経験あるの?」
「……一般論だよ」
消化不良の気分で水たまりを踏みつけると、ケンタが呆れたように小百合を見上げる。
「ま、こういう日もたまにはあるさ。金は出ねえが菓子は食えただけで良しとしとけ」
「……でも他の部屋に原因があるのかもしれないし。お弟子さんが憑かれててその人が原因ってことも……」
雨のせいだろうか。外には車もない。人も居ない。古ぼけた電柱と規則正しい家が並ぶ。
傘の隙間からみえる世界は、雨の黄昏。曇っているくせに、空は夕暮れ一色だ。日差しが地面を照らしている。
いわゆる狐の嫁入り。黄昏時の狐の嫁入りは柿を煮詰めたような色になる。
近隣の家からテレビの音が漏れて聞こえる。野球中継らしい音と、水を使う音。全てが夕暮れ特有の色に染まりつつあった。
波岸と名付けられたこの場所は、夕日と雨が似合う街である。ここに一人取り残される城宮を思うと、胸が締め付けられそうになる。
小百合は足を止め、顔を上げた。
「やっぱり心配だから。戻ろう、ケンタ」
「まて、お嬢さん」
一歩前を歩いていたケンタの足が小百合の足を踏む。
「……誰かくるぞ」
「え、誰かって」
傘の向こうが急に赤くなる。目の前にあるのは、夕暮れだ。
赤と雨に照らされた町並みは、行きとは全く異なる。まるで赤い絵の具をぶちまけたように、赤い、赤い、赤い。
「あの……すみません」
雨の音の向こう、弱々しくも透き通るような声が聞こえる。
「一緒にバス停まで、行ってもらえませんか」
振り返れば、先程まで人の気配のなかったその場所に一人の少年が立っていた。
気配もなく立っていたのは、おそらく少年だ。おそらく、というのは傘で顔が隠れているからである。
黒いズボンに白いシャツ。だらりと下がった腕は夏のはずなのに、日焼け一つしていない。しかしその骨ばった手の甲は、少年特有のものだった。
大きな黒い傘で上半身をすっぽり覆って、彼はそこに立っている。
「……バス停? いいよ。一緒に行こうか」
小百合は何でも無いような顔して、彼に一歩近づいた。
これくらいのことに動揺しているようでは、除霊師としてやっていけない。
「あ、あの。学校前のバス停です。友達が待っていて。僕一人じゃ、いけないんです」
「やめておけ。嫌な予感がする」
ケンタが唸ると少年が驚いたように数歩、下がる。しかし気にせず小百合は彼に手を差し出した。
「ケンタ。吠えないの……私もねえ、実は迷子によくなるの。だから手をつないでいこう? どこのバス停?」
「波岸中学前バス停……です」
恐る恐る、彼が左手を差し出した。傘を覗き込めば、少年の顔がそこにある。
大きな目、小さな鼻筋。頭には四角い学生帽。学生帽の下に見える顔は中学生か、それくらい。
まだ少年らしさを残した幼い目だ。
にこりと笑って小百合は彼の手を握りしめる。
「さあ。いこう」
「お前、お嬢さん、お前な。そんな、ガキじゃねえんだから、手なんて」
「ケンタ、うるさいよ」
うなるケンタをなだめ、小百合は進みはじめる。
しかし、小百合は知っているのだ。
(実はこのあたりに、もう中学校は無いんだよね)
繋いだ手は冷たく硬い。周囲は蒸し暑いくらいなのに、彼だけまるで冷蔵庫で冷やしきったような体温だ。
彼の手は、夏の温度も冬の寒さも感じることができないだろう。
(その制服も学生帽も……ずっとずっと昔の型)
……なぜなら彼はすでに死んでいるからだ。
(今日はてんこ盛りだなあ)
小百合はため息を押し殺す。
悪夢、招福との再開。そして依頼の失敗に、幽霊との出会い。
しかし人生で起こるできごとは、どこかでつながっている……誠一郎の言葉を小百合は思い出す。無駄なことはなにもないのだ。それが誠一郎の口癖だった。
「お姉さん?」
「ねえ、いくつか質問してもいい? まず1つ。バス停へは待ち合わせ?」
小百合は足を止めないように気をつけながら少年を見た。彼からは悪意も未練も感じない。仕事をしていると時々、こんな幽霊に出会うことがある。
過去に囚われたままの幽霊に。
「はい。友達と……出かける約束が」
頬を少しだけ赤らめて彼は言う。
「質問その2。相手は女の子でしょ? じゃあデートだ」
「ま、まさか。えっと、あの。一緒に喫茶店に行くだけなんです。本当に、それだけで」
初めてこういう幽霊に出会ったのは、小百合が小学生の頃のこと。それは学校の裏庭にいつも現れる綺麗な青年だった。
彼は高校生か大学生。それが小百合が人生で二番目に好きになった人である。
彼はまるで生きているように振る舞う幽霊だった。小百合と一緒に図書室で勉強をして、一緒に音楽室でピアノを弾いた。
春になったら公園に桜の花を見に行こう、なんて甘い約束をした。
しかし冬の始まりに、淡い恋心は終わりを告げる。彼は誠一郎の手により除霊され、それ以来、図書室も音楽室も小百合の中で輝きを失ってしまった。
ショックで寝込んだ小百合を誠一郎が困った顔で抱きしめて、そして言ったのだ。
「……青春だねえ」
夕暮れの色は深く染まっていくというのに、雨はますます強く降る。二人が繋ぐ手は、水に沈んだようにぬるぬると滑る。
しかし小百合は再び彼の手を強く握り直した。
「小百合、振り返るなよ」
三人の後ろからカタカタカタと、奇妙な音が響いていた。
傘が地面を擦るような音にも聞こえるし、空き缶に水滴が落ちる音にも似ている。
小百合は彼の手を強く握ったまま、前を見据えた。
西に向かっているので、影はすべて背後に生まれるはずだ。だというのに、夜より深い闇が小百合のすぐ隣でうごめいている。
……人間の大きさとは異なる黒い影が、かたり、かたりと震えている。
人と同じ体、同じ腕、同じ足、しかし頭部だけが膨れ上がった奇妙な気配。
壊れた玩具のように、がくり、がくり、と首が揺れる。
頭の影が振り子のように奇妙に捻じくれて動く。
「……お姉さん?」
振り返ろうとした少年の腕を引っ張って、小百合はただ前を見据える。
風にのって流れてきたのは、悪霊の放つ煤の香り。
「あの、お姉さん。なにか後ろ……」
「見ちゃだめ。真っ直ぐ前を見てて」
振り返ってはいけない。声をかけてもいけない。悪霊は、人がその姿を認識した瞬間に襲ってくる。
「なにか……何かが」
「大丈夫。気にしないで。まっすぐ前だけ見ててね」
音を聞いて少年の手が震える。その手を強く握りしめて、小百合はわざと明るく笑ってみせる。
「ねえ。お姉さんって呼び方も嫌じゃないけど、私の名前は小百合。君の名前を教えてくれない?」
「あ……葵、です」
「葵君かあ。私と同じ、花の名前だね」
かた、かた、かた。音は定期的に響く。それは歯をゆっくり擦り合わせるような音である。黒い影が地面を這う。こちらを誘うように影が揺れる。
傘に付けた招福の守り袋が、段々と嫌な色に染まっていく。
「くっそ。坊主の守り袋、なんの役にもたたねえじゃないか。捨てちまえそんなもん」
傘に付けた守り袋が灰色に染まっているのを見て、ケンタが吐き出した。
「おい小百合、そこのガキ連れて先に行け。ここは俺がなんとかする」
ケンタが唸るように身を沈め、小百合はそれを合図にリードを離す。
「振り返るなよ、小百合」
言い終わるなり、ケンタは弾かれたように体を翻した。赤革のリードが鞭のようにしなり、水しぶきが上がる。
「お姉さん、犬が……」
「大丈夫、あの子強いから」
静かな住宅街に、ケンタの爪の音が高らかに響いた。出会った時から変わらない強い足音だ。
ケンタの立てる音に惹かれてか、黒い影が音をたてて後ろに下がっていく。
「……っ」
何かを食いちぎるような、激しい音が響いた。
続いて聞こえたのは、何かを叩きつけるような音。
(ケンタは、強い)
小百合は空っぽになった手を握りしめる。
(強い。大丈夫。ずっと、こうしてきたじゃない)
振り返りたい。駆けつけたい。すぐにでも助けたい。何度思ったかわからない。しかし、小百合は振り返らない。
それは二人が組むとき、最初に交わした約束だった。
除霊中、小百合は前を向いて自分の仕事を遂行すること。
「ケンタは強いから、大丈夫」
言い聞かせるように顔を上げ、小百合は足を早めた。
夕日の赤はますます色が濃い。まるでドロドロと絵の具をかき回したような色が目の前に広がっている。
「行こう」
小百合は水たまりを蹴飛ばして、速度を上げた。
(確か商店街の西側……大道路沿いにある図書館……廃校の跡地に造られたはず……)
この付近最大の図書館、その前身は廃校となった波岸中学校だった。建物前に立つバス停には、中学校前と書かれた文字がまだ消えずに残っていたはずだ。
葵は震えるように小百合の手を強く握りしめる。握ったその手の先から、かすかな未練が感じられた。生に対する未練ではない。
それよりも深い、後悔に似た未練。
彼は、何かをずっと悔やんでいる。
でこぼこの道を駆け、角を曲がる。ふと顔を上げたそこに、見覚えのある商店街の看板が見えた。
しかし視界の端に黒い影が映り込み、小百合は慌てて足を止める。
角を曲がったそこに、悪霊がうごめいているのだ。ずるずると水の中を這いずるような音と雨の音が不気味に重なる。
「何人いるのよ、もう……」
小百合が急に立ち止まったせいだろう。葵が小百合の背にぶつかる。その拍子に、彼のかばんから一冊の本がぱさりと落ちた
それは一冊の少女雑誌だ。
慌てて拾い上げれば、栞の挟まれたページが指にふれた……中を開いてみれば、そこにあるのはチョコレートパフェの特集記事。
モノクロ写真だと言うのにとろりと蕩けた色合いが美しく、まるで輝いているように見えた。
喫茶ピノキオ、夏のスペシャルチョコパフェと書かれたその下に、綺麗な字で住所と電話番号がペンで書き込まれている。そのページだけ、てらてらと輝いているようだ。何度も何度も繰り返し見た、そんな気配がある。
「これ、食べに行くの?」
「じ……実は……今から会う友達、家族にいじめられてて」
葵が決意したように小百合の顔を見あげる。
「あのこれ、内緒にしててください。その子、あと少しで遠くの施設に入れられるんです」
彼は秘密を囁くように、呟いた。手が小さく震えている。指先が黒く滲んで見えるのは、未練の色だ。
この子は……未練に焼け焦げようとしている。
「ここに楽しい思い出がないって。そんなの寂しすぎるから。僕から誘ったんです。この喫茶店に二人で行きたいって。だから僕、どうしてもあの子と一緒に……一緒に」
「小百合、こんなところでなにさぼってんだ! とっとと行け! 遅いっ」
ケンタの叫び声が、通りの向こうから響く。小百合は葵を引き寄せ、その肩を掴んだ。
「話は後で。まずは行こう、この道曲がったところのバス停。そこでいいよね?」
「……っは、はい!」
本を彼のポケットにねじ込んで、小百合は葵の背を叩く。
行こう。呟いて身を低くする。するとどこかで花火の打ち上がる音が聞こえた。
そういえばこの町は昔、花火大会で有名だった……と、聞いたことがある。
しかしもう十数年前、花火大会は終わりを告げたはずだ。
……すなわちここは、過去と現在の入り交じる場所。
(これって誠一郎さんでも経験したことがないかも!)
ブロック塀の角から一気に飛び出して、小百合は地面を蹴り上げた。水が跳ねる音に気づいた黒い影が振り返り葵に手をのばす。黒い煤の香りが小百合の頬に触れる。
「……っ」
ケンタ。と叫べば弾丸のようにケンタが飛びかかり、黒い影を食いちぎった。
「小百合! 行けっ」
小百合は振り返らずまっすぐ、前を見た。
そこにあるはずの図書館は姿を消して、あるはずのない古い中学校が目の前にそびえ立つ。
その前にあるのは赤錆の浮いたバス停だ。バス停には中学前……もう使われていない名前がぼやけて浮かんでいた。
ちょうどその前にバスが停まっている。煙を吐くバスの扉が開いたところだ。乗客の姿は見えないが、賑やかな雑踏音が響いている。
雨と夕日に花火に幽霊に……なんて賑やかな日だろう。
「……あそこ!」
小百合は目を細めて、やがてまっすぐ指をさす。
バス停のすぐそば。黒い靄に包まれたように、一人の少女が見えたのである。
うりざね顔で、色の白い……中学生くらいの女の子。彼女は誰かを待つように、そわそわ浮き足立って腕時計を何度も確かめ、不安そうに身を隠し、そっと顔を上げる。そんな動作を繰り返している。
やがて、バスの向こうに一台の車が止まった。そこから飛び出してきたのは恰幅のいいスーツ姿の男。
少女は驚いて逃げ出そうとするが、その前に男に腕を掴まれる。男に掴まれた腕は青あざが滲んでいる。いくつかの古傷も見える。
彼女は真っ青な顔をして、その手から逃れようとする。転がり、悲鳴を上げて、もがくように名前を叫んだ。
「……葵!」
「ちょっと、その子、待って!」
小百合は少女に駆け寄ろうとしたが、視えない壁のようなものに押し返され、地面に尻餅をついた。
「行って、葵君!」
葵は小百合から離れて必死に走る。少女が振り返り、その顔がぱっと輝く。彼女の手が宙に向かって伸ばされる。
しかし、葵のすぐ目前で少女はあっけなく車に押し込められた。
やがて彼女は姿を消し、ごめんなさい。と叫ぶ声だけがその場に残される。
葵は呆然と、水に濡れた自分の手を見つめた。
「……僕は」
雨の中に、蝉の声が聞こえる。蝉の声は死んだ人間の声だ。小百合は誰かからそう聞いた。
だから蝉はうるさく鳴くのだ。
「やっぱりあの子を、助けられないんだ」
幽霊の声に代わって泣くのである。
「葵君。今の子は城宮さんだね」
小百合はよろよろと立ち上がり、葵の隣に立つ。
消えた少女の顔には見覚えがあったのだ。上品な色白、うりざねの顔。
「一緒にデートをする約束をしていた女の子、それが城宮さん。そうでしょ?」
小百合は葵をじっと見つめる。葵からは体温を感じられない。しかし、湿度はある。幽霊はいつも雨のような湿度を持っている。
「質問、その3。していい?」
小百合は彼の顔を覗き込んだ。
「君は……」
「……」
「君は、もう死んでるよね?」
小さな声で問いかければ、葵は力なく俯く。その細い肩が可愛そうなほど震えている。
「僕……どうしても、バス停にいきたくて……一人で行くと、いつも、変な影が現れて……たどり着けないんです。それで」
「除霊師の私なら、連れて行ってくれるかもって?」
こくり。と葵は力なく頷く。
幽霊に利用されたのは初めてだ、と小百合は苦笑する。ケンタが聞けば怒り狂うことだろう。
「……お姉さん、変なことに巻き込んでごめんなさい」
「私は気にしてないし、謝らないで。除霊師たるもの、どんなことが起きても冷静に受け止めなさい。って誠一郎さんもそう言ってたの」
「せいいち……ろう?」
「そう。最高にかっこいい私のお父さん。それでね、誠一郎さんはもう一つ言ってた」
小百合は微笑み、彼の顔を覗き込む。
「困ってる幽霊がいたら、助けなさいって」
空っぽになったバス停を葵は切なく見つめ、瞼を震わせる。
そしてすべてを諦めるように、彼は小百合を見上げた。
「……ずっとずっと昔。僕、茜ちゃんを助けるって、約束したんです」
中学の建物は砂のお城のように崩れ、バス停も消え去る。
空気が揺れ、小百合は周囲を見渡す。気づけば雨は止んで、夕日だけが赤い。
「助けるって約束したのに、今みたいに……助けられなかった。あと少しだったのに、連れて行かれて……」
葵は車の去った遠くを見つめる。未練の色が彼の体を染めようとしている。
「ここは?」
「……茜ちゃんの夢の中」
「ほんとだ」
小百合はぽん、ぽん、と地面をはねて見せる。地面は土でもなくアスファルトでもない。雲のようで泥のよう。
辺りは不明瞭で、明け方に見る夢の風景によく似ている。
小百合はぽかん、と周囲を見る。
「夢で除霊する人の話を聞いたことあるけど……こんなにリアルなの初めて」
「大人になった茜ちゃんはこの町に帰ってきたけど、もう僕の声は届かなくて、僕の姿も視えなくなって」
目を病んで視力を失い、幽霊を視なくなった。城宮の言葉を小百合は思い出す。
何度二人はこの町で、すれ違ったことだろう。
なのに、葵の声はもう二度と城宮には届かない。
「ここは城宮さんの夢……悪夢。眠りが浅い理由……」
小百合は親指の爪をぐっと噛み締め、考える。ここは城宮が囚われた夢の世界だ。
葵は城宮を救うため、中に引きずり込まれたのだろう。しかし二人は夢の中でも救われないまま、何百回もの別れを繰り返している。
「その中に、私も招待されたってわけだね」
「ごめんなさい……でももう僕一人じゃ」
葵は悲しそうにうつむき、小百合は慌てて彼の肩を叩く。
「むしろ頼ってくれて嬉しかったよ。ちょっと驚いちゃったけど」
「お姉さん、ここが夢の中っていつ気づきましたか?」
「悪霊が私を襲わなかった時から」
気づけば世界はただ暗い。夜のように真っ暗な中に小百合は浮かんでいる。
「除霊師って悪霊に恨まれやすいの。なのに悪霊は私じゃなく、葵君を見てたでしょ。だから分かったの。私は引き込まれただけなんだって」
ケンタはどこかへ姿を消した。
先に目覚めたのかもしれない。うっかり幽霊の夢に入り込んでしまったと気づいたケンタはきっと史上最悪に不機嫌だろう。
「葵君。本当にしてほしいのは、道案内じゃないよね」
「……茜ちゃんを、助けて」
震えるような声で葵が呟いた。黒い目の端から綺麗な涙が溢れる。それを見て小百合は、羨ましいな。と思った。
小百合は泣きたくても、涙を零せない。魂が欠けているせいだ……と、悪夢の中の幽霊はそう言っていた。
「僕じゃ助けられない。ずっと、助けたいって、そう思ってるのに」
小百合はそっと、彼の頭に手を回して抱きしめる。それは誠一郎の癖だ。いつも、迷える幽霊を、そうして抱きしめていた。
(悪夢から人をどうやって救うか……)
小百合はじっと目を閉じ、城宮の顔を思い浮かべる。覚悟を決めたような表情がずっと気になっていたのだ。
……悪夢は、未練が起こさせる。
ふと、そんなことを思い出して小百合は震える。
(まさか、城宮さん)
彼女は悪夢に抵抗していない。夢の中で葵に会うために何度でも同じ夢を見ている。
つまり、彼女は自ら悪夢を見ている。
悪夢の中で、葵に会うために。
葵と出会うためだけに。
「……幽霊だけじゃなくって人だって未練を残す……」
彼の顔を見つめているうちに、じんわりと甘い味が口の中に広がる。先程食べた、練りきりの味だ。
「あ、そうか……花びらは散っても花は散らずだ」
小百合は不意に城宮の言葉を思い出した。味が想い出を繋げるのだ。それは死者だけでなく、生者にも有効なはず。
そうだ。元々小百合は駆け回るような運動は得意じゃない。特技は食べること。
「食べて、除霊だ」
小百合は彼の肩を掴んでその顔を見つめる。
「そう……食べたいもの……葵君だけじゃない……城宮さんもだよね。一緒じゃなきゃ駄目だよね」
幽霊に近づけば、味が浮かぶはずだった。それは幽霊の残す未練の味だ。
しかし今回は味が浮かんでこない。ただ浮かぶのは、モノクロのざらりとした絵だけだ……当然だ。二人はまだその味を知らない。
「ピノキオのチョコレートパフェ?」
小百合の言葉を聞いて葵の目が大きく見開かれた。
「え……」
「わかってる。2人で食べないと意味ないでしょう? 食べよう。食べさせてあげる」
「本当に?」
震える体を抱きしたまま小百合はつぶやく。葵の体がぐずぐずと、小百合の中に滑り込む感覚があった。喉を鳴らして、彼の魂を飲み込む。
「君、運がいいね。私、人を助けるの、得意なんだ」
こくり、と喉を鳴らして体の底に魂の奥に、葵を閉じ込める。
「私に任せて」
囁いた瞬間、激しい雨の音と……2つの声が耳に飛び込んできた。
「おい、小百合!」
「葛城さん、大丈夫?」
激しく吠えるケンタの声……新川の声だ。ケンタの鼻先に体をゆすられて、小百合ははっと目を開ける。
「心配で戻ってきて見たら、あんたと犬は玄関で倒れてるし、部屋じゃ茜がぶっ倒れてるし」
小百合の顔を覗き込んだのは新川の大きな顔だ。小百合が目を開けると彼女は心底安心したように息を吐いた。
乾く目をこすり小百合はぼんやり周囲を見る。そこは城宮の部屋だ。すぐ真横、城宮も真っ青な顔で横たわっていた。
「何があったんだい。ちょっと、あんた。頭でも打ってんじゃないだろうね」
新川に支えられ、小百合はゆっくりと起き上がった。
小百合は玄関を出てすぐ、雨樋の下で座り込んでいたという。膝を抱えるように眠っていたのか、腕も膝もしびれている。
振り返れば、城宮がゆっくりと起き上がった。その目に浮かぶのは絶望と、悲しみと、安堵と苦しみ。彼女は夢の中でしか、葵に会えない。謝れない。
小百合は自分の胸に軽く触れた。この奥に何かが存在している。それは飲み込んだ葵の重さだ。
「あら、小百合さん、まだ……いたの?」
「城宮さん、葵君とどこで知り合ったんですか?」
強い通り雨が、背後に響いた。
城宮の表情がこわばり、青くなり、赤くなる。
「……なんで」
「私、除霊師なので」
「ちょっと葛城さん、茜は倒れたばっかりでねえ」
文句を言う新川の体を押しのけ、小百合は城宮の手を握りしめる。この中に葵がいるのに、小百合の皮膚を介さないと二人は手も握れない。
「葵君と会いたいんですよね」
「そんな子は……知らないわ」
嘘を言う唇が震え、噛み締める。
「何のことを言ってるのか、さっぱり。歳を取るとね、昔のことなんて全部忘れちゃうの。小百合さんもきっと、大人になればわかることよ」
言い繕うような言葉の切れ端が寂しそうに震えている。小百合の中の葵も戸惑うように打ち沈む。
……生きた人間はなんて面倒くさいのだろう。
「分かりました。過去の話は、したくないんですね。城宮さん」
小百合は大きく手を打ち鳴らし、勢いよく立ち上がった。
「なら、今からは未来の話をしましょう」
まだ少しめまいがするが、それだけだ。幸い、小百合は頑丈にできている。髪の毛だって、踏みつけないようにいつも短く、倒れたときの対策はばっちりだ。
「食べませんか?」
「え?」
「ピノキオの、チョコレートパフェ!」
「……なんで、それを」
名前を叫べば、城宮の顔色が変わる……その指先が震える。
「なんで、その、名前……」
「レシピなんて、最近はネットで調べたらすぐわかるんです……えっと」
何か言いたそうに唸るケンタを無視して、ポケットからスマホを取り出す。キーワードを叩き込めば、それは結構な名店だった。
ちょうど数ヶ月前に惜しまれて閉店。そんな記事が大量に現れる。
「悪夢を見始めたのはここ数ヶ月って言ってましたよね。この店の閉店を知ってからじゃないんですか?」
プリンアラモード、クリームソーダ。ハムきゅうりサンド。懐かしいメニューが並ぶ、レトロな喫茶店だ。
この店に葵と城宮が並ぶ姿はすごく似合っただろうな、と小百合は思う。喫茶店は幽霊がよく似合う場所である。
(……これだけ有名店ならきっと、再現レシピがあるはず)
店の看板メニューの写真と、再現レシピ。いくつものメニューを蹴飛ばして、小百合はようやく目的の記事を探り出す。
ピノキオ、夏のチョコパフェ、再現。
こてこてと甘そうなその写真は、夢の中で見たものとそっくりだ。モノクロのわら半紙に映し出されたパフェの写真が、段々と色づいて小百合の前に現れる。
小百合の中の葵が、小さく震える気配があった。
「買い物してきます。だからキッチン、貸してください。それに新川さんも、皆で食べたほうが絶対に美味しいから。お仕事に行かないでくださいね」
「一体、あんた何さっきから」
ぽかんと固まる二人を見て、小百合は笑う。
「きっと葵君も、城宮さんを大事にしてくれる人がいること、知りたいと思うんです」
レシピを頭に叩き込み、小百合は踊るように立ち上がった。
雨の音はますます激しく、ケンタの機嫌もますます悪い。
しかし小百合は気にせず、キッチンに立つ。
城宮の家のキッチンはぴかぴかに磨かれて美しく機能的だ。もう少し自分の家も掃除をしよう、と希望だけ心に刻んで小百合はキッチンに材料をざらりと並べる。
「お前、あれが夢の中だって、いつ気づいた」
「割と早くかな。私、その辺りの勘、いいんだ」
ケンタの機嫌は最高に悪かった。先程から小百合の足にずっと尾を叩きつけている。
彼は早々に夢から抜け出したのだろう。
彼は小百合を夢から覚まそうと散々頑張ったらしい。服もスカートも歯型まみれだ。腕にも噛み跡がくっきり残っている。
「夢で幽霊と話すのは一番危険な行為だ。分かってるな? なんでとっとと抜け出さなかった」
「ケンタ、かっこよかったよ」
「今そういう話はしていない」
「……ごめんなさい」
「お前は油断がすぎる。お師匠様から仕事の仕方を学ばなかったのか? 休業して初級講座からやり直してこい。それに今回の犯人を飲み込みやがったな。吐き出せ、俺が噛んでやる」
「お小言はあとでね」
ケンタの言葉をスルーして、小百合は腰に手を当てる。
「さて、久しぶりのお菓子作りだ」
目の前にあるのは、板チョコレートにバニラのアイスクリーム。カステラ、フルーツ缶に、いくつかの果物。
ブルーハワイのシロップ。生クリーム、カラフルなスプレーチョコ……そして。
「ポイントはアンゼリカ! 案外、見つかるもんだねえ」
まるで宝石みたいに輝く緑の固まりをつまみ上げ、小百合は呟く。
遠い昔、見たことがあるような無いような。砂糖にまぶされた四角いそれの正体は、セイヨウトウキの砂糖煮だ。
ピノキオのパフェにはこれが葉っぱのようにカットされ、堂々と刺さっていた。
「フキだと思ってたんだけど、セリの植物なんだって。なんでこれを砂糖につけようなんて思ったんだろうね。お菓子の世界って不思議……そうそう。あとはパフェのグラスも買ってきたんだよ」
レトロなチェリーが描かれた小さな缶詰、レトロに背が高いパフェグラスを3つ。
商店街にある古い店を回れば、そんなものが埃まみれで眠っていた。引っ張り出されたそれらをピカピカに磨いて、小百合はにんまりと笑う。
「ちょっと出費はかさむけど、これも経費ってことで」
机に置いたスマホの画面を眺めながら、小百合は右に左に駆け回った。
夏の暑さに溶けかけたミルクチョコは荒く刻んで湯煎にかけ、ヨーグルトにブルーハワイのシロップを混ぜる。
アンゼリカはできるだけ丁寧に、葉っぱの形に切り抜いていく。
「あとはホイップクリーム泡立てて……」
すべての準備が整えば、あとは組み立てるだけだ。
「まずはカステラを底に敷き詰めて……上からブルーハワイ入りのヨーグルトシロップを……それで上からバニラアイスとカステラのサンドイッチ!」
硬いバニラアイスにスプーンをつきたて、小百合はたっぷりのアイスをすくい上げる。
アイスの固まりと薄切りカステラでグラスいっぱいにすると、中のブルーシロップがアイスに触れてその境目が美しく輝き出す。
「上から生クリームたっぷり絞ってぇ」
うきうきと、小百合はグラスに向かう。パフェグラスに甘いものを重ねていくだけで、なんて楽しいのだろう。まるでパフェグラスに花が咲くようだ。
「フレークでごまかさないのが、名店っぽいね。えっと、生クリームの上に溶かしたチョコをたっぷりかけて」
熱いチョコをアイスの上からかけると、アイスがとろりと柔らかく崩れる。
それを見て小百合はたまらなく、幸せになった。
いつもと違う風景の中で作る料理でも、やはり体がどこか暖かくなる。何かに包まれているような、ぬくもりが腕や足に伝わる。
「ホイホイと夢の中に入り込むなんざ、小百合、おい、聞いてるのか、お嬢さん!」
「ん……ケンタ。あとでね。さあ、最後は飾り。バナナのカット、フルーツ缶、キウイに……アンゼリカ」
「今回のやつは平和ボケした幽霊だったかもしれんがな、そのまま、食い殺されでもしたら帰ってこれなくなって……おい、聞け!」
「で、仕上げにチェリーと、スプレーチョコ!」
そして、ホイップクリームの上から、スプレーチョコを振りかける。
「……本当に夏みたいな、パフェ」
小百合はうっとりと出来上がったパフェを見つめた。
底の青は青空で、アイスは雲、黒のチョコは夜の色。上に載った様々な果物、スプレーチョコやアンゼリカはまるで花火のよう。
その上に、赤い月のようなチェリーが浮かぶ。
悪夢も疲れも雨の鬱陶しさも、全て忘れてしまう。
「葛城さん、これは?」
新川が台所を覗き込み、驚くように目を丸くした。城宮も戸惑うように彼女の隣に立っている。
「なんだいこのでっかい、甘そうなものは」
「夏のチョコパフェですよ。見てください、この完璧な再現度」
小百合は城宮の手を掴み、冷たい皿に触れさせる。
「アイスにブルーハワイのシロップに、アンゼリカ……」
一つ一つ説明するうちに、彼女の手が震える。唇を噛みしめるその表情は、先程よりもずっと和らいでみえる。
小百合の中の葵も城宮もきっと同じ風景がみえているのだ。
あの雑誌に掲載された、モノクロの写真が。
彼女は力なく椅子に腰を下ろして祈るように手を合わせた。その白い指先が小さく震えている。
「小百合さん……あのね」
彼女がぽつり、と語ったのは40年以上昔の、淡い恋の物語だった。
「……昔、私は幽霊が視えたとそう言ったでしょう?」
彼女は覚悟を決めたように、懐から一枚の写真を取り出す。
新川は何も聞かない顔をして、そっぽを向いている。そんな新川を見て、城宮は苦笑を漏らした。
「弥生ちゃんにも話したことがない、ずっとずっと子供の頃の話よ」
愛おしがるように彼女は古ぼけた写真の表面を撫でる。
なんてことはない、ただの風景写真。黄色く染まった写真には、古いバス停とバスが映っていた。
「中学校前のバス停。ここに男の子の幽霊が視えたのは、私が中学生の時。最初は怖かったわ。でもずっとそこにいるものだから声をかけて、仲良くなって、そして」
好きになったのだ。小百合は手のひらを握りしめる。
「葵君は私のことを心配してくれたわ。私はその頃、両親からひどく嫌われていたものだから」
「嫌われ……?」
「古い家だったから幽霊が視える娘なんて、大変なこと」
小百合は車に引きずり込まれる城宮の姿を思い出した。おさげ姿の愛らしい少女だ。それなのに腕にも足にも痛々しいほどの傷跡があった。
「それで施設に送られることになって……でも最後に、どうしても葵君と思い出を作りたかった」
バス停の前、胸を高鳴らせて葵を待つ城宮の姿を思い出す。あと少し、あと少しで出会えたはずなのに。
あの時も葵はバス停に向かって駆けたはずだ……しかし葵は黒い影に邪魔された。
未練を残す幽霊は、悪霊をひきつけやすい。悪霊に行く手を阻まれている間に、城宮は親族によってさらわれた。目の前で、たった数メートルの距離で、二人は離れ離れになった。
「……行けなかった」
「ええ。親に見つかってその日のうちに遠くの街へ……そこで目を病んで、幽霊が視えなくなって……この町に戻ったのは大人になってから。もう葵君は視えなかった」
彼女がぼうっと見つめるその先は、床の間の花瓶だ。
「約束を、破ったまま」
青の釉薬で模様が付けられた大きな花瓶には百合の花と赤い花。天を向いて渦巻くように咲くその花は、確か葵の花だった。
「約束は、今果たせますよ。ほら、溶けちゃう前に」
小百合はパフェの容器を引き寄せて城宮にスプーンを渡す。アイスにかかったチョコレートはパリパリと固くなり、その上をホイップクリームがとろけて滑る。
「味も再現できてると思うんですけど」
フルーツ缶の輝くフルーツたちは、アイスとホイップの海に溺れている。モノクロでみた紙面から、抜け出してきたようなチョコレートパフェ。
幸せしか無い、一皿。
城宮は震える指で、スプーンを握った。
(葵君。これでいい?)
小百合は心の奥に尋ねてみる。答えの代わりに、小百合の目に柔らかい涙が溢れ出す。温かい涙が大きく浮かんで、頬をゆっくり落ちていく。
茜ちゃん。と叫ぶような声が小百合の中に響く。まるでその声が届いたように、城宮がはっと顔を上げた。
「今……声が」
「なんだい。パフェが食べたかったのかい。それなら喫茶店でもなんでも連れて行ってやったのに、この子ったら変なところで意地っ張りなんだから……」
「……小百合さん」
そして城宮の目からも、一筋の涙。それを見て、新川が初めて焦ったように、二人の顔にティッシュを押し付けた。
「二人共泣くほど食べたかったのかい? まったく、今度連れて行ってやるから……」
「ありがとう」
どうやって城宮がここまで生きてきたのか、小百合にはわからない。きっと彼女の時間はあのバス停で止まったままだったのだ。
後悔と未練を閉じ込めて、それでも生きていくのは人間の強さだ。
その未練を剥がすのは、小百合の仕事だ。
小百合は静かに手を合わせた。
「……さあ、一緒に食べよう」
「ああ、美味しかった」
城宮がスプーンを置いて寂しそうにつぶやく。
気づけば皿は綺麗に空っぽだ。チョコレートの黒い筋とブルーハワイの青色だけが器の底に揺れている。
甘く、柔らかい幸せの味だった。アイスの甘さにフルーツの酸っぱさ。ホイップの柔らかさも心地いい。チョコチップの舌触りもなぜか懐かしい。アンゼリカの甘くシャクシャクとした食感も面白かった。
この味で、葵と城宮の未練は断ち切れたのだ。
「……雨が」
ふっと城宮が窓を見る。薄いガラスの向こうには、日差しが差し込んでいる。
いつの間にか、雨が静かに上がっていた。
これまでに聞いたことがないくらい大声で蝉が鳴く。日差しに向かって羽根が輝き雨水を弾き飛ばした。
それと同時に、小百合の体が軽くなる。蝉の描いた光の筋に沿って、一人の少年が緩やかに天を目指す風景が見えた気がする。
「止んだわ」
「やっと顔を上げたね。茜」
新川がくっと喉をならす。堪えるように天を向き、そしてわざとらしい音を立てて片付けをはじめた。
「あの……小百合さん」
城宮は少し照れるように顔を拭うと奥の間から花束を抱えて現れる。今日のために用意してあったのだろう。真っ白で、大きな百合の花がまるで雲のように揺れている。
「不思議ね。偶然、今日用意しておいたの……あなたのお名前と同じ、百合の花」
「……綺麗」
「百合は、海外ではお葬式でよく使われるの。お見送りのお花。枕もとに飾る、人生最後のお花」
清らかな琴の音が静かに響く。
「まるであなたのようね、小百合さん」
新川は、気まずそうに目をそらし、何かを噛みしめるようにそっと小百合をみた。
「疑って悪かったねえ……葛城さん、あのねえ……」
大きくてゴツゴツした手が小百合の掌を掴む。
「ありがとう」
それは、城宮と葵の声に重なって、綺麗な三重奏のように響いた。
除霊後はいつも1時間ほど倒れてしまうので、夜になると眠りが浅い。こんな特別な場合も、それは同じだった。
「寝れないのか」
寝転がる小百合の背に、ケンタの鼻先が刺さる。
声は落ち着いているが、怒っている。たった1年ほどの付き合いだが、ケンタの感情は案外分かりやすいのだ。
「……色々小言……じゃない、助言、無視してごめんね」
ぶん、と窓から光が差し込む。車が一台、通り過ぎたのだ。その光に照らされたケンタは不機嫌そうに腕に顎を乗せている。
「それだけか? お嬢さん」
「……無理してごめんなさい、ケンタ」
小百合はそっと、ケンタの耳に鼻を埋める。温かい血の流れが、小百合の鼻先に伝わってくる。
生きている、と小百合はため息をついた。この体温を感じるたびに安心するのだ。
ケンタは、生きている。
「幽霊を憑依させる、幽霊の夢の中に入っていく……除霊師の禁忌ばっかり、なんでやるのかね。普通はしない、普通はな」
「それは……」
ケンタの耳に頬を押し当てて小百合は言葉を飲み込んだ。
(誠一郎さんの代わりに、頑張りたいから)
誠一郎は密かに悪霊を祓うこともあったが、それ以上に多くの幽霊を救ったのだ。
彼は幽霊の話を聞いて未練を断って、見送って彼らの喜びの声を聞いた。
小百合もそうありたいと、思っている。
小百合には守り袋をつくることも札や数珠で祓うこともできない。できるのは憑依させるという技だけ。
無茶なことをしているという自覚はある。しかし、頑張りたいのだ。
誠一郎の代わりに、この町を守りたいのだ……悪霊に、どれほど恨まれたとしても。
「これからは、気をつける」
ケンタを撫でると、彼はため息をつくが尻尾が揺れる。やがて鬱陶しがるように、小百合を睨みつけた。
「分かってんならいいんだよ。俺だって人間の姿してりゃ、もっと早くにあそこが夢だって気づいて、とっとと抜け出してたんだよ。やすやす夢に飲み込まれたのは今、こんな不便な格好をしてるからだ。それを忘れるなよ」
ケンタが頭を振って立ち上がる。そして布団をくわえ、小百合の体にそっとかけた。
「ほら、もういいから、寝ろ」
布団を頭までかけられて、小百合はおとなしく目を閉じる。
しかし眠れない。ぐずぐずと目を閉じ、開き、息を吐く。どれくらいそうしていたのか、やがてケンタがゆっくり体を起こす気配があった。
「……小百合。頼むから、無茶は止めてくれ」
まるで吐き出すような声だ。小百合がもう眠っていると、そう思ったのか。
「この体じゃ、守るにも限界がある。わかってくれ、小百合」
大きな舌が、小百合の頭をなめる。
「よく頑張ったな、小百合」
やがて、爪が地面をかく音。そして、緩やかな寝息が頭の上から聞こえてきた。
(招福さんなら……)
小百合はきゅっと掌を握りしめ、思う。
(ケンタを戻す方法が、わかるかも……って思ったけど)
小百合は招福の香りを思い出す。全国各地を飛び回る彼なら、ケンタのような事例を知っているかもしれない。スマホに手を伸ばしかけ……小百合はその手を止める。
もしケンタが過去を取り戻せば、ケンタは小百合の元を去っていく。そんな、気がしたのである。
(ごめんね、ケンタ)
結局、自分は狡いのだ。
(2年前、一人で頑張るって決めたのに)
柔らかいケンタの尾に額を押し付けて、小百合は目を閉じる。
(……もう一人は嫌だって、そんなふうに思っちゃうなんて)
ちょうど2年前の今頃、小百合は一人ぼっちで目覚めた。たしかその日は、大雨が降っていた。
2年たって相変わらず誠一郎は不在だが、代わりにケンタがいる。
(ケンタがいて、良かった)
ケンタの鼓動音を聞きながら、小百合は目を閉じる。
(……ほんとだよ)
外はもう、雨の音さえ聞こえなかった。