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彼女は「想い出」を除霊する 

 炊きたての米を口にする寸前に目覚める朝ほど、虚しいものはない。

 炊飯器から上がる白い煙に、蒸された米の香り。

 ほかほかの米を奥歯ですりつぶして噛みしめると、口の中に広がる甘い米の味わい。

 炊きたての米の真髄は香りにある。

 顔が湿るほどの暖かい湯気に含まれた柔らかい香り。肉や魚が焼ける匂いとは異なる優しい香り。

 そして思い出すのだ。

 やはり米は植物だ。大地と水と太陽に育てられた……。

 


「だからな、お嬢さん。今日、目の前で米を食うのはやめてくれ。俺は今、無性に米が食いたい」

 ……と、ケンタが言い始めたのは、ようやく梅雨明けを迎えた7月頭のこと。

「い……じゃない。ケンタって、ご飯食べちゃ駄目だったっけ?」

 犬と言わないように気をつけながら、小百合はケンタの耳にささやく。

 部屋は電気もエアコンも扇風機もすべて落として、窓もドアもぴっちりと閉めている。加えて、隣に座るケンタは発熱体質。

 マゾだな。と小百合は流れ出る汗をタオルで拭いながらそう思った。

「猫ほどじゃないが、犬の舌も不便なんだ。炊きたての米を食うには適していない。しかし、残念ながら俺は炊きたての米が好きだ。で、今朝の夢だ。夢で米を食う直前に、お嬢さんに無理やり起こされた。おかげで今、俺はすごく炊きたての飯が食いたくて仕方がねえ」

「今日、カレーを作ろうかなって思ってたんだけどな。ケンタも食べられるような味付けで……ほら、玉ねぎも抜いてさ」

「お前、面倒くさいからって、仕事のない時はカレーばっかりじゃねえか、たまには栄養のあるもんを」

「……おっと。しーってしててね、ケンタ。しー、だよ」

 とん、とん、と、扉から定期的にノックが聞こえる。先程から小一時間も響く音だ。その音を聞いて、小百合はきゅっと身を縮ませた。

 台所の曇った窓ガラスの向こう側、うっすらと人影が映っている。廊下に立つ「誰か」が窓を覗き込んでいるのだ。

 これが幽霊なら、怖くもない。

(幽霊よりも怖いもの……は……)


「葛城さぁん、昨日お宅から大型の犬が出てきたって聞いたんだけど、登録とちょっと違うんじゃなあい」


 どん、と扉が叩かれて低い女性の声が響く。小百合は息を呑んでケンタを抱きしめた。

「ほら、やっぱり大家さんだ……」

「お前……まだ俺のことをトイプードルって嘘ついてやがんのか」

 外から聞こえてきた女性の声を聞いて、ケンタがため息を漏らす。犬も溜息をつくのだと、ケンタと暮らし始めて初めて知った小百合である。

「だって! 小型犬なら家賃据え置きなのに、大型犬と猫だと千円上がるんだよ! お金云々じゃなくってね、だってだってケンタは畳を引っ掻いたりしないし、うるさくないし。小型犬と同じくらい、おとなしいし、それに」

「不正をするな」

 ふん、と鼻を鳴らしてケンタが立ち上がる。彼はニヒルなアウトローを気取っているわりに、こういったマナーにやたらうるさいのだ。

 ケンタは冷たい目で小百合を睨んで鼻を鳴らす。

「俺はコソコソ暮らすのはごめんだからな。そもそも頭下げて住んでやってるわけじゃねえんだ。出ていったって、別にいいんだぞ」

「あっちょっと、ちょっと、待ってよケンタ」

 彼は鼻先でベランダの扉をこじ開けると、壊れたベランダ柵の隙間から器用にするりと抜け出していく。

「わ、私も一緒に外に出るから! お散歩いこう、お散歩! ちょっと……っ」

 慌てて後を追いかけても、小百合の体ではその細い隙間は通り抜けられない。

 隙間から顔を突き出せば、目の前に広がるのは梅雨明け眩しい夏の日差しに、日傘をさして歩くご近所の方々。

 隙間を抜けようともがく無様な小百合の前に、ヒラメのような顔の女がぬっと迫る。

「葛城さぁん、さっき、ここから大きな犬が出てきたように見えたけどねえ?」

「はい……」

 季節に似合わない冷や汗を流したまま、小百合は大家に向けて愛想笑いをへらりと浮かべてみせた。



(あーもう、ケンタのせいで、絞られた!)

 今年、古希を迎えるという大家の説教から開放されたのはたっぷり1時間あとのことだ。

 ケンタをアパートに引き取った一年前まで遡り、家賃の差額を支払うというところで手打ちとなった。

 その後は部屋の散らかり具合の文句をつけられ、職業についても説教を食らう羽目になる。

 小百合のアパートの大家である新川は、嫌味と金への執念だけで構成されたような人間だ。

 『あたしは優しくないんだからね』が彼女の口癖で、実際彼女はちっとも優しくない。

 近隣の小学生には通称鬼ババで通っていて、法律だってきっと彼女にはかなわない。もちろん小百合にだって容赦はない。

 小百合に後見人がいなければ、とっとと出ていってもらうところだ……などと、さんざん嫌味を言われた。

 その口撃にじっと耐えながら、小百合は思うのだ。


(……生きてる人間のほうが、幽霊より数倍めんどい)


 疲れ果ててアパートを出たのは夕刻間近。ゆらゆら揺れる赤い日差しが、地面をぬるく染めている。

 アパートを出れば、家の目前は交差点。それも六つに道がわかれた、複雑な六ツ角交差点だ。

 振り返れば、住み始めて2年になる小百合のボロアパートが西日に照らされていた。

 駅徒歩35分、全6室の2階建ての築40年木造アパート。その一階西側が小百合の城である。

 ベランダの柵はパキパキに割れて、窓にはヒビが入っている……さらにここは事故物件だった。

 当然、問題となっていた幽霊は、引っ越し当日に除霊した。

 未だに幽霊の噂が立っているせいで、空き巣にも狙われない。恐ろしいのは大家と虫くらい。住めば都と言うもので、小百合は案外この家を気に入っている。

「ケンタ……どこに行っちゃったんだろ……」

「さゆちゃん。さゆちゃん。さっきケンタちゃんがねえ」

 小百合が汗を拭って歩き出せば、素早く一人のお婆さんが駆け寄ってくる。一人が来れば、2人、3人。

 いずれもご近所のお年寄り達。揃いのアロハシャツを身にまとって駆け寄ってくる様子は、まるで賑やかなお団子が転がるように見えた。

「皆さん華やかですねえ」


「ほれ、来月に迎え火と送り火のお祭りで、みんな総出で踊るじゃない? いっつも着物ってのもアレだからさ。揃いのアロハシャツでやろうっかってねえ」

「ヤマモト手芸店のトメさんが全員分仕立ててくれてねえ……」

「そうそう。うちの死んだ爺さんも派手な恰好が好きでねえ、お前は派手な色が似合うよなんて言っててねえ」

「何年か前に和菓子屋の西団の奥さんが亡くなっちゃったでしょ。それでずっと出来合いの和菓子をお供えにしてたけど、どうも評判がねえ悪くって。いっそ、お供えを洋菓子にしようかって話になったのよ。それならなおのこと、洋装でいいじゃないってね」

「あ、そうそう。小百合ちゃん、ケンちゃんねえ。すごい勢いであっちに行ったわよぉ」

「時々一人でお散歩してるからぁ、大丈夫かなって心配してるんだけどぉ」


 小百合が足を止めるとあっという間にお年寄りたちに囲まれて、一斉に話しかけられる。

 彼らの向こうに見えるのは、古ぼけた『波岸商店街』の看板。

 赤錆の浮いたボロボロの看板だ。昨年の台風の際、波のさんずい編が傾いて彼岸という文字にも見える。

 しかし『むしろ彼岸商店街のほうがお似合いだ』などと、お年寄りたちは不謹慎に笑い合っている。

 小百合が住み着いているのは、都心から外れた下町のまた下町。半分以上がシャッターに沈み込む古ぼけた商店街。

 彼らは小百合のご近所友達であり、同時に大事なクライアントでもある。

「ありがとう、おじいちゃん、おばあちゃん……あ、吉沢さんも! この間、お仕事紹介してくれてありがとうね」

「さゆちゃんの役に立ててよかったよ。夏になると変なのが部屋ん中に出てきてさ。なーんで外にゃいねえのに、家に出るかねえ。どうせ数年後にゃ俺もああなるんだけどさ、生きてるうちに見るにゃあ、不気味なもんだ。また今度頼むわ」

「はあい。ご用命、お待ちしてまあす」

 幽霊を敵視しているケンタなどは眉を寄せるが、この商店街における幽霊の立ち位置など、そのようなものだった。

 お年寄り達が散り散りになれば、気の抜けた音楽が流れ始める。

 それは商店街が時間ごとに流しているテーマソング。その音の中には、ブツブツと何かを呟く声が混じっている。笑い声も、泣き声も。それに反応するように、夕日に染まった六ツ角には居ないはずの影が揺れる。

 そして、小百合のすぐそばにも。


「……小百合。今日も人気者だね」


 ふっと冷たい空気が耳を撫で、小百合は顔を上げる。

 気がつけば、小百合の後ろに女が立っている……いや、浮いている。

 真っ白な肌に、長くて黒い垂らし髪。時代錯誤な赤い着物に、輝く白い足袋。彼女は宙から数センチ浮かんだまま、小百合の顔を覗き込む。

「商売繁盛でいいことだね」

「こんにちは、着物さん。今日は除霊される気になった?」

「せっかくだが、もう少しここに居ようかな」

 白い顎を傾けて、彼女は微笑む。

 狐のような細長い目は生きているように輝くが、体の向こうに電柱が透けてみえる……彼女は死んでいる。

(幽霊、外にもいっぱい居るんだけどな。視えないならそのほうが、幸せだろうけど)

 小百合は彼女を見上げて思う。お婆さんが一人、彼女のそばを通り抜ける。肌に触れた涼しさに驚いて目を開くが、それだけだ。

 六ツ角地蔵の近くに住み着く彼女は、朝から晩までこの場所でぷかりと浮いて遊んでいる。

 名前も教えてくれないので小百合は勝手に着物さん、なんて呼んでいる。それでも彼女は怒らない、

「着物さんは、いつも悠々自適だね」

「小百合、これを泰然自若というのだよ。こうなると悲しいことも辛いこともなくなって、気持ちがいつも穏やかだ。悪霊どもは哀れだな。この境地を知らないなんて」

 一日中、何人ものお年寄りが彼女の体を通り過ぎていくし、車だって通り過ぎていく。それでも彼女は動じることなくそこにいる。彼女に何があったのか、なぜそこにいるのか小百合にはわからない。

 しかし人間が道を行くように、幽霊だって堂々と存在するのだ。それが小百合の日常なのだ。

「いつでも除霊してあげるから、気が向いたら声かけてね」

 だから小百合はいつも彼女にそう声をかける。

 すると彼女は赤い唇で、にいっと笑った。

「そうそう。今日も小百合の可愛い獣が逃走していたぞ。今日は元気よく、西方に駆けて行った。そうだな、あの角の奥……の、緑の屋根の家」

「ありがと」

「一つ、貸しだな」

 ぽうん、と彼女は宙に浮かんで腕を大きく広げる。袖が広がり、白い腕が思い切り伸びをする。

 そんな様を見ていると、小百合は幽霊という生き方もいいな。なんて除霊師からぬことを思ってしまうのである。

 

 

「ケンタ。人の家に勝手に入り込んじゃ駄目じゃない」

 着物さんが指し示したのは、小百合のアパートから道を二本、西に向かった袋小路の一番奥。静まり返った古い民家だ。

 チャイムを押しても反応がないので、玄関に手をかけると、音もなく扉が開いた。中に足を踏み入れ、小百合は目を細める……鼻先に、線香の匂いを感じたのだ。

「ごめんくださーい、うちの子が勝手に……」

 人の気配はない。ただ、玄関先には塩の白い粒。玄関先のポストの上には忌中札が落ちている。

(たしかちょっと前に……このあたりでお葬式があったけど……)

 小百合は目を閉じ、壁に触れる。人の声がまだそこに残っているようだ。

 『奥さんや息子さんに向こうで出会えたかねえ』と、寂しそうな女性の声や、高らかに響くクラクションの音も聞こえる。

 耳を澄ましても目をこらしても、そこに人の気配はない。人のいない家は、火が消えたように冷たくなる。

 孤独になる。

(……最後の住人が逝っちゃったんだね)

 背伸びして家の中を覗き込むと、廊下の奥にケンタの黒い姿がみえた。だらりとしっぽを垂らして、いかにも嫌そうな顔つきで。

「おい、なんでここがわかった」

 と、ため息をつく。

「着物さんに教えてもらったの」

「あんなやつ、とっとと祓っちまえ」

「ケンタ時々一人で勝手にあちこち行ってるでしょ。皆心配してるから、あまり出歩かないでよね」

 一応「失礼します」とつぶやいて中に足を踏み入れれば、ケンタが諦めたように一つの部屋に吸い込まれていく。そこは暗い廊下の右奥。

 部屋には大きな仏壇。きれいに清められた畳の上には……一匹の猫。

 その姿を見て、小百合はぱっと目を輝かせた。

「猫ちゃんだ。おいでおいで」

 長い毛に包まれた、柔らかそうなキジ猫だ。つん、と澄まして座っているのも愛らしい。小百合は思わず我を忘れてケンタを押しのけた。

 そっと指を伸ばせば、猫は不機嫌な顔で指先を香る。その一瞬のすきをついて、小百合は猫をすくい上げた。

 ふわふわの毛が小百合の鼻を撫でて幸せな気持ちになる。思ったより細くて頼りなく、ふにゃふにゃとした体をぎゅっと抱きしめた。

 あたたかく、とくとくとした血の流れが指先に伝わってくる。

「柔らかいねー。猫、飼いたいなあ。でも猫も飼うとまた家賃に千円プラスなんだよねえ」

「おい」

「別にケンタで物足りないって言ってるわけじゃないんだよ。ケンタの毛皮もそりゃあいいものだけど」

「おい、おいお口チャックだ」

「犬の毛と猫の毛って性質が違うじゃない?」

「お嬢さん、除霊の邪魔だ」

 たん、とケンタの尾が畳を弾く。彼の声を聞いて、小百合は顔を上げた。

「除霊?」

 ……幽霊の存在はあまりに身近すぎて、小百合は時にその気配に気づかないことがある。

 小百合は顔を上げ、初めて彼の存在に気がついた。

「あ……」

 仏壇の前、一人の男が静かに座っているのだ。

 彼の体は透けている。

 霧のように淡く、白く、実態がない。

 そのくせ、見つめるだけで目の奥がチリリと痛む。

 声はなくとも存在が痛いくらいに主張する。

 ……ここにいるぞ、と聞こえるのだ。

 それは未練という名の魂の残骸だ。

「ケンタ。除霊はね、相手のお話を聞いてからにしないとだめなんだよ」

「それはお前のやり方だろう。俺はこの猫に、爺さんの除霊を頼まれた。これはお前じゃない。俺のヤマだ」

 ケンタは仏壇前に座る男に向かって、毛を逆立て身をかがめている。いつでも飛び出せるように。

「ずっとお前のやり方で辛抱してきたんだ。そろそろ好きにさせてくれよ」

「だってこの猫、ここの飼い猫でしょ?」

 小百合は慌ててケンタの首輪を掴み、引き寄せる。

「猫が飼い主の除霊を頼むなんてあるはずない」

 ケンタは不満そうに鼻を鳴らしたが、やがて諦めたようにため息をついた。

「……爺さんは、先月死んだこの家の主だ。婆さんも子供も皆昔に死んで、最後の住人……って、お前が最後の住人だったな」

 にゃごにゃごと、猫が何事か呟けば、ケンタが答える。

「つまり、この家はあと一ヶ月程度で解体される。猫は爺さんの飼い猫……いや、どっちが主人とか、そういうのはややこしいから今は置いといてくれよ……で、猫としちゃあ、雨も防げるここで解体の間まで呑気に過ごしたい。しかし爺さんの幽霊が居座って邪魔だ……で、俺に除霊を頼んできたわけだ」

「会話できるの?」

「この姿ならある程度会話ができるんだよ」

 カチカチと、ケンタの歯が鳴る。猫は表情も変えず、そこに座ったまま。

 でっぷりと太った毛艶のいい猫だ……しかし、随分な年寄り猫だろう。先程触れた毛の感触を思い出し、小百合は少し切なくなった。

 確か玄関の隅には、猫の餌があった。誰かが定期的に餌を置いているのだ。

 猫は家につく、そんな言葉を小百合は思い出す。

「見たところ、地縛霊ってわけでもなさそうだ。何か未練がありそうだが、まあどうでもいい。ちゃちゃっと済ませるから、手を離しちゃくんないかな、お嬢さん」

「ねえ、お爺さん。なにか食べたいものはある?」

 小百合はケンタの頭を無理やり抑えたまま、男の顔を覗き込む。

 ゴマ塩頭に丸い猫背。80歳か……90歳か。

 顔のシワが深いが、それは性格から出るものだろう。口はへの字に曲がり、眉は不機嫌そうに歪んでいる。

 悪霊の見せる顔つきではない。そのあたりの……偏屈なお爺さん、そんな顔立ちだった。

 体が半透明でなければ、生きている人間とそう変わらない。

 そして、真っ黒な仏壇前に静かに座っている。彼のみつめる仏壇には、位牌が3つ。一番新しい位牌の前には写真が一枚飾られていた。

 海の見えるベンチに座ったお爺さん、隣には優しそうな女性。その前には、はにかむ青年の笑顔。

 修司、景子、直也と名前が刻まれている。

 黄色く滲んだ写真だけ、まるで時の流れが止まったまま。

「……えっと、修司さん……かな?」

 小百合に声をかけられ、彼は驚くような表情で初めて顔をあげた。

「お……お前、え? なんだ? なんで人の家に」

「おい、おい、おい。お嬢さん、頼むからバカなことは考えるなよ」

「そうだねえ……えっと、修司さん」

 低く唸るケンタを押し付けたまま、小百合は男に向かって微笑みかける。

「バカ、お前、おい、小百合!」

 目の前の魂を吸い込むように深呼吸をする。そして、その冷たい空気をきゅっと抱きしめ引き寄せる。

「……ねえ。ちょっと私の中に入っておいてね」

 結局、小百合は「バカなこと」以外の方法を知らないのである。



「出してくれ」

「だーめー」

 数十回目になる同じ言葉を言い返し、小百合は喉を思い切り息を吸い込み腹に力を込める。

 どんなに恨みを残した霊でも、小百合がぐっと飲み込めば大抵は大人しくなるものだ。しかしこのお爺さんはなかなか強敵だ。憑依しようともしないので、無理矢理掴んで体の中に押し込んだ。

「一体、お前、俺に何をした」

「除霊だよ。でもね無理やり噛んだり痛いことはしないよ。私の除霊は美味しいの」

「除霊……ってなんだよ、そんな非現実的な……」

「ねー。ケンタ。私の除霊は痛くないよね」

「……」

 すっかり不貞腐れたケンタは口も効かない。足取りの重いケンタを引きずり、暴れる修司を抑え込み。ヘロヘロの体で六ツ角までたどり着いたのは先程のこと。 

「小百合、また活きが良いのを連れているな。そして獣は不機嫌だ。あまり心配かけて泣かせてやるなよ」

 六ツ角では着物さんが相変わらず浮いたまま、ケンタに唸られても楽しそうに笑って宙をくるりと回るだけ。

 夕日に透ける彼女の姿を見て、修司の声が震える。

「お……おい、ありゃあ幽霊じゃないか」

 しかし彼の声はやがて静かになっていく。気落ちするように、ゆっくりと、ゆっくりと。

「……いや、俺もか」

 アパートにたどり着いて扉を締めても、外からは激しい蝉の声が聞こえる……梅雨も終わり、季節は7月。

 今年も蝉が元気に飛ぶ。それを見上げて、小百合は目を細めた。

(蝉の幽霊って見たことがないな……)

 と、小百合は思う。彼らは生きに生きて、未練も残さず死ぬからか。

 人間も未練を残さず死ねば、こんなふうに幽霊に成ることもないのだろう。

「……ここはお前の家か……おい、泥棒にでも入られたのか?……あ、いや、違うのか……?」

 部屋に入ると、修司は小さくうめいた。その気遣うような声に小百合は少し傷ついてしまう。明日……いや、明後日にはちょっとだけ掃除をしよう……そう、決意を決める。

「おい、家族は?」

 部屋の惨状を見たせいか、修司はすっかり静かだ。じたばたと暴れることもない。小百合は胸のあたりにそっと手を置いた。形は見えないが、ここに修司がいるのだ。

 幽霊を吸い込んだ時はいつも不思議な気持ちになる。もう一つの人生が、小百合の中にある。

「今はねえ、このケンタと二人暮らし」

 名前を呼ぶとケンタの尾が激しく小百合の足を打ち付けた。苛ついているときの彼の癖だ。

「今、は……?」

「……父は今、長期でお出かけ中」

 窓の外を見れば、お年寄りたちが忙しそうに行き来していた。来月、盆の時期に行われる迎え火の支度がもう始まっているのだった。

 そもそも小百合がこの街に初めてきたのは数年前。

 仕事で誠一郎に連れて来られた。それから何度か足を運ぶうちに、ここが誠一郎の生まれ故郷だと知った。

 そこで、誠一郎が消えた後、元々住んでいた東京を離れてここに家を決めた。

 ……淡い期待があったのだ。

 波岸町なら、誠一郎が一日でも早く帰って来るのではないか。そんな期待が。

「父は仕事で留守だから、私とケンタがお留守番。だから、気にせずにゆっくりしてね」

「お母さんや……兄弟は? そんな若えのに、一人きりってことはないだろ」

「えーっとね……」

 小百合は言葉に詰まるように宙を見つめ、ため息をつく。

「多分……いない……のかな?」

 小百合は記憶力の良いほうだ。それでも小百合の記憶は誠一郎とともに始まる。 

 それは小学校低学年頃だったか。蒸し暑い夏の夜だった。

 誠一郎の大きな手に掴まれて、たどり着いたのは小さな家の台所。誠一郎は小百合を食卓の椅子に座らせて、温かい食事を用意してくれた。

 それより以前のことはまるで靄がかかったように覚えていない。記憶の奥に黒い小箱があって、その中に過去が閉じ込められているようだった。

 だから母という存在を小百合は知らない。兄弟という存在も知らない。祖父母も、親戚という存在もない。

 誠一郎に聞いても「さあ、どうだったかな」なんて誤魔化されるので、脳天気な小百合も「まあいいか」などと、すっかり過去に拘るのをやめてしまった。

「……だから誠一郎さんが私のお父さんで、お母さんで、家族で、師匠なの」

「そうか」

 修司の声が少しだけ優しくなった。

「留守番は……寂しいな。しかも危ない仕事してるってのによ」

 修司の声は気遣うように優しい。

「大丈夫だよ」

 散らかり放題の床に伸びて小百合は息を吸い込む。目を閉じれば、誠一郎の声を思い出すのだ。

「20歳の誕生日には必ず帰ってくるって、そう約束したから」

「俺も昔……観光バスの運転手でさ、あちこちの学生を乗っけたもんだ。やっぱり寂しがってる子はすぐわかったよ。影に隠れて泣いたりしてさ」

 まるで子供に言い聞かすような言葉を聞いて、小百合は笑ってごまかす。

(泣く……かあ)

 頬に触れ、まぶたを無意識のように、撫でる。

 そこはすっかり乾ききっている。

 小百合は寂しいことも悲しいことも、人一倍感じやすいたちだ。

 だからこそ、感情を抑え込むことが得意になっていた。

 クラスメイトの男子から意地悪された時も、ひどい風邪を引いた時も。

 ……誠一郎が消えたその日も。寂しかった悲しかった苦しかった。

 しかし、小百合は泣けないのだ。

 涙は目からあふれる前に、消えてしまう。

 それは幼い時からの小百合の特性。小百合はこれまで一度も自力で泣いたことがない。

 泣けない小百合の代わりに、幽霊が泣いてくれるのだ。

 憑依させ、食事をとる。ありがとうの言葉とともに、幽霊の思いが溢れる。

 そうして、小百合はようやく泣くことができる。

(……泣いたら、すっきりするって)

 締まりの悪い水道管から水がぽたりと落ちるのを見て、小百合は涙の味を思い出す。

(……幽霊が教えてくれたんだ)

 周囲は夕闇が降りてきて薄ぼんやりと薄暗い。一日が終わるそんな空気。

 こんな時間を彼誰時というのだ。幽霊の顔も、人間の顔も同じになる時。

 誠一郎はこんな切ないような時刻を一番好んだ。幽霊の気持ちがよく分かる時間だと、そう言っていた。

「年頃の娘を残して仕事に出るなんざ、親父さんも心配だろうな。俺も仕事が忙しいときにたびたび家をあけて……散々恨まれたし後悔もしたよ」

「修司さん、いいお父さんだったんだね」

「……そんなじゃねえよ……それにみんな先に死んじまったけどな。早世の家系なんだろう。俺だけ無駄に、長生きをした……」

 小百合の中に、いくつもの風景が過ぎ去っていく。例えばそれは病院の風景だ。やせ衰えていく女性の手。白い病室に沈む若い男性の体。修司の涙に、一人きりの墓参り。

「……俺は死んだんだな」

「向こうでみんな、待ってるね」

 向こう、と言いながら小百合はつい赤い空を見る。そこに天国などあるはずがない。

 空の向こうは宇宙だ。しかし、人は逝った人を思う時、天を見上げる。あの美しくて広大な空に大切な人が暮らしていてほしい。そう願って空を見る。

「早く、向こうにいきたい?」

「ああ……会いたいな」

 人は未練があると、魂が地上に縛り付けられる。それはだいたい、恨みだ。悲しみだ。苦しみだ。その中にかすかに残る「食べたいもの」の未練を探り出して小百合は除霊を行う。

 しかし修司には憎しみも悲しみもない。

 天にいる家族に早く会いたい、とさえ考えているようだ。

「とっとと、祓っちまえ」

 ケンタが不機嫌そうに呟くが、小百合はその場に腰を下ろして目を閉じる。

 修司の中に広がるのはあの古い家。仏壇。家族の風景。畳の上を歩く猫の足……。

(台所……布団……赤い……郵便ポスト……? だめだ、ケンタが噛みそうだったから思わず飲み込んじゃったけど、食べ物のイメージが、全然湧いてこない)

 床に腰を落とし、小百合はひんやりとした机に顎を乗せる。机の上には複数枚の、白い封筒。

 それはすべて、誠一郎から届く大切な手紙だ。

 元気でいるか、無理はしていないか。いつもの定型文。少しの説教と、除霊の心得。

 小百合は6月に届いた手紙を手にして、見つめる。もう数百回も読んだのに、文字の掠れるインクを見るだけでも嬉しくなってしまうのだ。

 散らかり放題の部屋の中、ここだけが奇跡のように白く美しく輝いている。

「……手紙か」

 ふと、小百合の中の修司がつぶやいた。先程までの険のある声ではない。気が緩んだ、そんな声。

「俺も出したことがあるよ……猫に」

 チリン、と外から自転車の音が響く。どこかの家から、煮物の匂いがする。おばあさんたちの井戸端会議の声に、宵闇に伸びる黒い影。

 こんなにも生者の気配が濃くなる夏だというのに、幽霊たちはこの空気の中には混じれない。

「俺が仕事でよく家を空けるもんだから、旅先で家族にハガキやら手紙を出してたんだ。でも家族がみんな死んじまった後はさ……」

 寂しそうに、彼はつぶやいた。小百合の脳裏に、美しい風景が広がる。それはどこかの草原だった。青い山道、青い空、多くの家族連れ。

 観光めいた赤いポストが目の前にあり、大きな手がポストに小さな葉書を落とし込む。

「猫に出したんだよ。バカみたいだろう」

「猫ちゃんにきっと気持ち、通じてるよ」

 小百合は白い封筒に指を押し当てて、目を閉じる。

 誠一郎はやりての除霊師だ。全国のあちこちから除霊に呼ばれる。

 そんな時、誠一郎は旅先から必ず葉書を一枚、ポストに入れてくれた。それは小百合にあてた葉書だ。それは旅先の香りをまとっていた。

 手紙には、そんな力がある。

「私とケンタみたいにお話はできなくてもね」

「……そういえば、この犬と喋ってたな」

 修司は、どこか不満げにつぶやく。元々、不可思議なことや常識はずれのことは嫌いなたちなのだろう。

「なんで、犬なんかと喋れるんだ」

「除霊師だからかな。でもケンタだけだよ」

 ケンタの大きな背を撫でると、彼は小さく唸る。しかしそれは怒っているのではない。少しだけ照れているのだ。唸っても背中を向けても、しっぽが揺れるのですぐ分かる。

「……そうか」

 修司は少しだけ羨ましそうに、小百合の中でため息をついた。小百合の脳裏に浮かんできたのは、病床の風景だ。しぼんだ布団の上から見える天井の色彩。隣に寄り添う猫の体温。

「俺も、チビと喋れたら……少しは気が紛れたのかもしれねえな」

 その瞬間、鼻の先にぷん……と、米の香りが届く。

 柔らかい米、出汁の香り……これは、鰹節だ。米の上で踊る鰹節、コロコロ転がる、あられの玉。

「……あ、食べたいもの、分かっちゃった」

 小百合はとん、胸を叩いてにやりと笑う。

 やはり人でも幽霊でも、気の緩む瞬間に本心が顔を出すのである。



「え、お前、なにを……」

「さあ、作ろう。一緒につくろう」

 ざ、ざ、ざ、と音を立てて小百合の手元で米が踊る。釜に入れた真っ白な米を、リズミカルに研いでいく。

 料理を始めると、心が軽くなる。気分がどんどんと明るくなる。

 何か温かいものに包まれている。そんな気がする。 

「手間な除霊だな。俺がガリッと噛んでおけばすぐ終わったのによ」

 ケンタが何か黒いものを噛みちぎり、吐き捨ててぶつくさと文句をこぼす。

「ケンタ何してるの」

「お嬢さんが幽霊連れ歩くせいで、そのへんの悪霊が引っ張り込まれて部屋の中が大運動会だ」

 ケンタが噛みちぎっているのは黒い影。

 未練を残した幽霊の周りには悪霊が集まりやすい。仲間を増やそうと、悪霊たちは虎視眈々と幽霊を狙う。除霊師はそんな悪霊から幽霊を守るのだ。まだ助かる魂を、一人でも多く救い出すために。

(大丈夫だからね)

 呟いて、小百合は胸をとんとんと叩く。

 そしてわざと調子外れの鼻歌を歌いながら、炊飯器に綺麗な水を流し込む。

「お嬢さん、米はやめろと言ったはずだが?」

「だーいじょうぶ。これならケンタでも食べられるから」

 ケンタが黒い靄を噛みちぎると、薄暗い部屋が一気に明るくなった気がした。米は炊飯器に任せて、小百合はその場でくるりとターンする。

「お米を炊いている間に……」

 小百合は行平鍋を握るとたっぷりの水。そして柔らかい鰹節をふたつかみ、ひらひらフリルみたいな鰹節は、まるで踊るようにふわふわ揺れて、ゆっくりと沈んでいく。鍋の中がきれいな黄金の色に染まり、香りをまとった湯気がゆっくりと部屋を染める。

「うん。いい、出汁のかおり」

 夜に染まる部屋の中、鍋の周りだけが美しく輝いた。

 目を閉じれば、脳裏に修司の手が視えた。

 古い台所、使い古した鍋。大きな袋に入った鰹節。ストップウォッチでしっかりと時間をはかる皺だらけの指。

「へえ。修司さんって真面目に時間測ってつくるタイプなんだね。私とは正反対」

「お嬢さんは大雑把すぎるんだよ」

 ケンタの呟きに、修司の苦笑が響く。

「……俺もだよ。大雑把だからよ」

 修司の声が小百合の中で響く。静かで穏やかな声だ。もう抵抗する気配もない。

「せめて料理くらいは時間測ってちゃんとやれって、死んだせがれがな」

 一度鰹節が沸けば弱火に落として、きっかり2分。湯気は熱く汗のにじむ肌にむしむしと絡みつく。汗が流れて、心地いい。

「修司さん、食べたいもの、思い出してきた?」

 部屋の中にゆっくりと広がる鰹節の香りは海の匂いに似ている。

 かつて、小百合も誠一郎と一緒に、海へ除霊に行ったことがある。

 かき氷に未練を残す幽霊を四苦八苦しながら除霊した。あの時も、甘いみぞれの奥に海の香りがいっぱいに広がったのを覚えている。

(あれも夏だったなあ……)

 ぷくぷくと鍋の中で膨らむ鰹節を眺めながら、小百合はいくつもの除霊を思い出す。

 記憶は重層だ。と誠一郎はよく語っていた。ミルクレープみたいに記憶が重なってその人の生き様になるのだ。記憶の合間に挟まった思い出の食べ物を、小百合は引き出す。それが小百合の除霊である。

「……食べ物をみると、色々と思い出すでしょ?」

 ぼうっと鍋を見つめている間に、炊飯器から呑気な音楽が流れる。

 蓋を開けると、そこには真っ白な炊きたてご飯。甘い湯気が顔を撫でて、温度がまた少し上がった気がする。

「食べて、すっきりして、そしたらみんなに会いに行こうね」 

 熱いそれを、小百合はお椀にたっぷりと盛った。

 

 

「できたよお」

 大きなお椀と小さなお椀、二つのお椀にはたっぷりのご飯。水筒には鰹節のお出汁。タッパにはあられと追い鰹節、それに魚の形のミニ醤油。

 それだけかばんに詰め込んで、小百合が再び修司の家に飛び込んだのは、もうすっかり夜も更けた頃のことである。

 夜になっても温度が下がらず、吸い込む息さえ蒸し暑い。しかし人の居なくなった家というのは不思議と温度が下がるもので、ひやりと冷たい空気が小百合の皮膚を包み込む。

 家にはやはり、猫が……チビがいた。ツンとすまし顔で、身じろぎもしないまま。

 彼は仏壇に向かったまま、静かに尾を揺らしていた。

「お嬢さん、結局、なにを作って……」

 小百合はお椀にかけたラップを外すと、水筒に詰めたぬるい出汁をたっぷりかける。

 たゆたゆと出汁に浸かったご飯の上から散らすのは、赤や青、黄色に輝くカラフルなあられ。それに鰹節もたっぷりと。大きなお椀の方には、醤油をひとたらし。

「ねこまんま!」

 味噌汁をご飯にかけるのも『ねこまんま』なら、出汁をかけて食べるのも『ねこまんま』。

 修司が気を許した瞬間、この言葉だけが小百合の中にあふれてきた。じっと修司の心を探るうちに、鰹節の香りがした。黄金の色も。

(だからこっちが……正解のはず)

 白米が黄金の出汁に沈み、鰹節がきらきら輝く。それをうっとり眺めた後、小百合はケンタの顔を覗き込む。

「ねえ、ケンタは猫とお話ができるんだよね」

「ば……ばか、お前」

 ケンタは勘がいい。小百合が言わんとすることを、伝える前に理解してくれる。そして先回りして気づいてしまったことを悔やんでため息をつくのだ。

「お前、馬鹿なことを……本気かよ……」

「ケンタならできるよね、最強の除霊師だもんね」

「いや、お前」

「ね、お願い。ケンタ」

「……くそ。少しだけだぞ」

 いまだに仏壇の前にきっちり座ったままの猫に向かって、ケンタが何事か話しかける。

 猫はしばし思案するように尾を揺らしていたが、やがて小さく頷き、ケンタにそっと寄り添った。数秒もしないうちに、猫の柔らかい体が、すとんとその場に崩れ落ちる。

「おい……チビっ。いったい何をした!」

「修司さん、私の中に入ってるからケンタの声も聞こえるでしょ? ケンタの中に猫ちゃんの魂を少しだけ入れてもらったから……これで猫ちゃんの声、聞こえないかなって」

「まさか」

 小百合の中に動揺と……後少し、なにか温かいものが広がる。

「そんなバカな」

 固く目を閉じていたケンタだが、やがて緩やかに瞳を開ける。先程までのケンタとは異なる、冷めた瞳。

(目は口ほどに物を言う……かあ)

 と、小百合はしみじみと、そう思う。自分が除霊するときもそうだ。魂の奥に別の魂を憑依させると、まず目が変わる。

 今、ケンタの瞳はケンタのものではない。つんと尖り、鋭く……年老いている。

「ま……まさか、チビか、お前」


「よくもチビなどと、名前をつけてくれたものだな」 


 ケンタの口から、彼の声ではない……年老いた男の声が響いた。

 それは低く、柔らかい。海の音によく似ている。

「チビだよ。うちに来た時にゃ、チビだったじゃねえか」

 小百合の口が、自然に動く。小百合の口から漏れるのも、年寄りの声だ。

「お前を拾ったのは、海の中だ。真冬、海に沈んでいたのを俺が引っ張り上げたのさ。あのときは、随分チビだった。ひどくでかくなったもんだ」

 それはどこか楽しそうな、跳ねるような声。

「その後も風邪程度で死にかけて、数年前は餌を喉に引っ掛けて死にかけた。まったく手間をかけさせる猫だった」

「……きさまの最期は私を湯たんぽ代わりにしないと一睡もできなかったくせに、よくいう」

 く。と笑いを堪えるように、ケンタが……チビが笑う。

「とっとと、上にいっちまえ。あっちには、婆さんもあのドラ息子もいるんだろう。お前の親もみんな上だ。ここにいてどうする」

「ああ、いくよ。いくが、体が地面にくっついて離れない。何か未練があるんだろうと、この小娘は言うが、未練が自分じゃわからないんだから仕方ない」

 小百合の目が、自然と畳の上を見た。そこには赤い茶碗が2つ、きちんと並べてある。

 ぬるい米と出汁。鰹節とあられのたっぷり載った、ねこまんま。

 小百合の目……修司の目が、それをじっと見つめる。喉が鳴り、腹からこすれるような音が響く。

 修司は諦めたようなため息をついた。

「……小娘だとバカにしていたが、なるほど、俺の未練はこれらしい」

「でしょ?」

 小百合は思わず微笑む。未練の重さが、小百合の中からどんどん溶け出していくのが分かるのだ。

「食べ物の恨みは重いっていうでしょ? 食べ物の未練も、すっごく重いんだよ」

 小百合は箸を取り、大きなお椀を目の前に。小さなお椀は、ケンタの前に。

 ちょうど冷めて、猫舌にも犬舌にもいい温度。

「てめえもこれだけは、一緒に食えるじゃないか」

 修司は、言い訳をするように吐き捨てる。

「猫っていうのは、面倒でしかたがない。あれもこれも猫にゃ毒だからと言って食わせられない。餌はあれがいい、これがいいだのと……でも鰹節と米だけのねこまんまなら、食えるってな、何かで読んだ。それにお前はチビんときからアラレが好きだっただろう」

「仕事明け、帰ってきたらいつも一緒にこればっかりだったな。婆さんの死んだあとはずっと」

「じゃあ」

 小百合はそっと手を合わせ耳を澄ませる。未練の散る音を、聞き逃すまいとするように。


「……さあ、一緒に食べよう」


 するりと口の中に吸い込まれるのは、やわやわになった米粒に、鰹節の柔らかい味。

 ぬるくなった出汁は甘く、滋養のある味がする。

(鰹節はやっぱり海の味がする)

 出汁を吸い込んだ米はほろほろ崩れて体に沈んでいく。アラレの香ばしさが、なぜか懐かしかった。

 ケンタも噛みしめるように、食べている。いつものケンタとは異なる、丁寧で優しい食べ方だ。

 小百合の中に一つの風景が広がった。修司は正座をして、チビは背を丸めて。

 場所はちょうど、この仏間。

 家族が一人、一人と減って、代わりに仏壇には一つ、二つと位牌が増える。

 時に喪服で、時に仕事着で、修司はここに座っていた。曲がった腰でよろよろと、炊飯器を運ぶ。使い古した鍋にたっぷりの出汁、二つ並んだ赤いお茶碗。

 そうだ。二人はこうして向かい合って、食べてきた。

「正直にいえば、一匹での留守番も気楽だったさ。はがきが届くとそのうちお前が帰ってくる。帰ってきたらこの飯だ。そう思うと、いつもげんなりだ」

 ケンタが猫の声で呟く。

「そりゃあ、悪いことをしたな」

 修司が笑い、猫も低く笑う。いくつもの葉書の幻影がみえる。海の葉書に山の葉書。それを前に、二人がすする、鰹節のねこまんま。

 その日常がひとかけら見えた気がする。

「でももう、お前も帰ってこない。これが最期か」

 チビが小さく呟いた。

 視えたのは、仏間で一匹、修司の帰りを待ち続けるチビの姿だ。

 近所の人達が彼に猫の餌を与える。床に落ちた赤い茶碗に、ねこまんまが盛られることはない。

 2日、一週間、一ヶ月。赤い茶碗は乾いたまま。

 やがて玄関が開き、慌ただしく黒服の人達が現れる。仏間に寝かされた修司の体は冷たくかたい。チビが急かすように鼻先でつついても、何も答えない。

 赤い茶碗を手の先で転がし転がし、彼の鼻先に運ぶ……それでも動かない。食べよう。そう囁いても彼はもう答えない。

 旅先から帰ってくれば一緒に食べる、ねこまんま。長年の約束が初めて、破られた。

「……ああ、食べそこねていた最期の一膳だ」

 命を失う前、食べそこねた最期の一膳。

 たったその一杯が、未練になる。

 ……誠一郎が帰ってくれば一緒に何を食べようか。小百合はふと、そんなことを考えた。

「小娘などと言って悪かったな」

 ふと、小百合の腹の奥が軽くなる。そして暖かくなる。暖かさがこみ上げるように、目の縁に涙が膨らみ……頬を伝って転がり落ちた。

「美味しかった?」

「まあ、及第点をやろう。ちゃんと時間をはかって出汁をとりゃ、もう少しうまくなるさ」

 するりと、何かが体から抜け出していく感覚……これはいつまで経っても慣れない。倒れないように体を張って、小百合は顔を上げる。

「それに、けちらずにいっぱい使うんだ。鰹節はな」

 白く柔らかい靄が、一瞬だけ猫を撫で、仏壇を見つめ……そして、不意に消えた。

「……逝ったか」

「うん」

 仏壇に手を合わせ……小百合はふと、顔を上げた。

 仏壇に飾られている家族写真の裏に、葉書が見えたのだ。

 真っ白で、なんの変哲もない手紙。観光地の郵便印だけが輝いている。裏面には『チビ、元気でいるか。まもなく帰る』の一文だけ、書きなぐるように書いてあった。

 その葉書に重なっているのは、古い写真。それには小さなキジ猫が緊張するように写り込んでいる。

 ビシャビシャに濡れて縮こまって、背中の毛を逆立てて。

 その隣では、少しだけ若い修司が同じくずぶ濡れで笑っていた。

「言葉などわからなくてもなあ……その手紙の内容くらいは分かるさ。何年、一緒にいると思っている」

 ケンタがまるで猫のように、頭を小百合の肩に擦り付けた。

「猫一匹を気にかけて成仏もできないような爺さんなど情けない。最期まで手間をかけさせる爺だよ」

 ケンタの力がするりと抜けて、畳にへたりと崩れ落ちる。同時に、床に伏せていた猫の尾が緩やかに動く。

 猫は小百合にはわからない言葉で鳴いて、小百合の指をひとなめした。

 その暖かさに小百合のまぶたもゆっくりと落ちていく。

「……うん、言葉なんてわからなくても、分かるね」

 憑依をした時は、いつもそうだ。体から力が抜ける、

 至福感と達成感と……口に残る美味しい料理と、体に残る少しの寂しさ。それは幽霊が残す寂しさなのかもしれない。いつもその寂しさを抱きしめて小百合は眠る。

(ケンタ……)

 呟いて、倒れ伏すケンタの体にぽすんと落ちる。

 部屋はもうすっかりと闇の色。空っぽになったお椀2つだけが、少しだけ寂しく残されていた。



「もう二度と、俺に、あんなことは、させるな」

 二人が目覚めたのは、夜も更けてのこと。憑依に慣れないケンタは、人生最大の二日酔いのような顔つきで目を覚ます。小百合もケンタの体にうつ伏したまま目覚めたので、毛皮で泳ぐ夢をみる羽目になる。

「俺はお前のような危険なやり方はしない。やるならシンプルに噛み殺す、ずっと言ってるだろう」

 猫に別れを告げてアパートに戻るまでケンタは不機嫌。小百合に向かって口を開いたのは、明け方近くになってからだった。

「……まだ気持ちが悪い。そもそも魂ってのは繊細なんだ。無理やり入れると、容量があふれる。お前みたいにひょいひょい憑依させてるやつはそのあたりの意識が薄いようだがな? もし、うっかり傷でもつけたら、あの猫は死んでいた」

「でもケンタ、うまくできてたよ?……はじめての割には」

 ケンタはぐったりと、まだ調子が悪そうだ。それを見て小百合は先輩風を吹かせてにやにや笑う。

「憑依させると、すっごく疲れるでしょ。二日酔いみたいに」

「毎回これをやってるお嬢さんに感心するよ」

 小百合は眠れないまま、布団の上で膝を抱えた。

 この町は静かすぎて、夜中には物音一つ聞こえない。

(昔の家のほうが……うるさかったな)

 昔、誠一郎と暮らしていたのは繁華街裏のビルだった。

 お隣は街金、逆隣は風営法に引っかかるような店が入っていて夜中になると幽霊と人間の声が入り交じっていた。だから初めてこのアパートに来たときは静かすぎて眠れずに困ったものだ。

 今はケンタのおかげで、よく眠れる。

「しかしな……」

 ケンタはなにか小言を言いかけて、口を閉ざした。

「……もういい。別に俺が口を出す義理なんざねえんだからな」

 ケンタは吐き捨てると、小百合の隣で丸くなる。短い毛の奥から、温かい体温が伝わってきてようやく小百合の体から力が抜けていく。

「ケンタ、今回の食事、お米で良かったね」

「俺は炊きたてのほうが好きだと言っただろう。あんな緩い飯なんぞ……それに報酬もなしだ。結局、手間暇かけてただ働きじゃねえか」

「お金にこだわるねえ」

「お嬢さん。生きていくのにはな、金がかかるんだ」

「死んだら持っていけないのに?」

「そのセリフを口にして許されるのは婆さんになってからだ。いいから寝ろ。子守唄でも歌ってほしいのか?」

 ケンタの鼻が小百合の肩に、頭に押し付けられてくすぐったさに小百合は思わず含み笑いを漏らす。

「そういえば今日ケンタに褒めてもらってない」

 ケンタは尾を床に叩きつけて、苛立つようにため息をつく。

「……どっちかといえば、俺が頑張ったんじゃねえか……まあいい」

 ケンタは鼻先を小百合に押しつけたまま、腕に軽く歯を立てる。

「よく頑張ったな、お嬢さん」

 くすぐったいその甘噛みは、およそ1年前を思い出させた。

 ケンタと出会ったのは、ただの偶然だ。

 その時、小百合は少し危険な幽霊と相対していた。雨が降り出し、地面がぬるぬると滑っていたことを覚えている。

 説得しようと駆け出した途端、足を滑らせた。幽霊の冷たい手が小百合の腕を掴んだ。

 思わず固く目を閉じた瞬間、目の前に大きなシェパードの姿があったのだ。

 彼は幽霊に噛みつき、突き飛ばし……やがて幽霊は苦悶の表情を浮かべて、恨みがましそうに消えていく。

 そして彼は、人の言葉で喋った。


『怪我はないか、お嬢さん』


 それが二人の出会いだ。

 出会って一年、まだケンタのことは何もわからない。小百合が彼について知っているのは、肉が好きなこと、カリカリタイプのドッグフードは好まないこと。それだけだ。 

 彼が現れたのは、誠一郎が消えて一年。張り詰めていた空元気が失われそうになる、その直前。

 確かに小百合はケンタのぬくもりに救われ、今も救われ続けている。

(……あったかい)

 小百合はケンタの温かい腹に顔をうずめ、子供のように丸くなる。小百合の背に尾がのせられ……そうするともう眠くてたまらない。

 とくとくと響くケンタの鼓動に、窓から差し込む月のあかり。蒸し暑いほどの気温の中で、小百合はようやく眠りについた。

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