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彼女は「孤独」を除霊する

 小百合の前に並ぶのは、ココア色のシフォンケーキ、真っ赤なイチゴが照りよく光るショートケーキ。雲のようなクリームが山盛り載ったホットケーキ。

 そして蕩けたアイスクリームが筋を描いて沈んでいく、輝く緑のメロンソーダ。

 むせかえるくらいの甘い空気を吸い込んで、小百合は満面の笑みを浮かべる。

 

「……さあ、一緒に食べよう」


 そして、小百合は口を大きく開いた。

「いただきまぁす」

 自分の意志とは関係なく、ぷくりと浮かぶ涙の滴。温かい涙が頬を伝ってゆっくり流れ落ちていく。

「そうだね。これが食べたかったんだよね」

 生クリームを乗せた冷たいフルーツを噛みしめれば、小百合の背が震えた。

 クリームに溺れたホットケーキを一口頬張れば、体から力が抜けていく。

 シフォンケーキの空気のようなスポンジを飲み込み、甘い甘いクリームを舐め、甘酸っぱいイチゴを口に運ぶ。

 やがて、声が聞こえた。


『ありがとう』


 その声は体の奥底から響いた気がする。

『夢が叶ったわ。ありがとう』

 それはまるで少女のような明るい声。

『本当にありがとう、小百合さん』

 やがて小百合の背から光が、声が、あふれる。

 その光は喜びの色だ。

 その声は至福の音だ。

 小百合の体からあふれた光は一人の女性の形となって、まっすぐ天へと駆け上がっていく。 

 同時に小百合の体から力が抜けた。

 先程の至福感から打って変わって、今は全身が氷でも浴びたように冷たい。足が震え、立っていられない。

「……ケ……ン、タ」

 体が地面に崩れ落ちそうになる瞬間、柔らかくも温かい塊が小百合の体を優しく受け止める。

「一時間後、起こして」

 熱い温度とツヤツヤの毛並み、心地よい心音を耳にして、小百合は目を閉じる。

 口に広がるのは、甘いケーキの味わい。

 耳に響くのは、女性から聞こえた感謝の言葉。

 だから小百合は大満足で眠りの中に吸い込まれるのだ。



「……見ているだけで胸焼けがする」

 もし、その声を聞く人がいても、犬の唸り声にしか聞こえなかっただろう。

 しかし床に伸びた小百合は低い声で目を覚まし、ゆっくりと頭を起こす。

「う……ん?」

「ほら、起きろ」

 べろりと、温かいものが小百合の顔を舐める。くすぐったさに笑うと、呆れ声が頭の上から降り落ちてきた。

「おはよう、お嬢さん。ひどい顔だな」 

 顔を上げると、小百合のすぐそばには一匹の犬……それも巨大なシェパード犬が半眼で小百合を見下ろしていた。

 ピンと立った大きな耳の先と手足、湿った鼻先は黒に近い茶色。他の部分は淡い茶色だ。ただ尾と耳の先は照りのある黒い毛が波打っている。

 丁寧にブラッシングされた毛は、うっとりするくらいつやつやだ。

 犬は……ケンタは鼻先にシワをよせて不機嫌の顔。小百合はその鼻先を軽く撫でて、肩をすくめた。

「……おはようケンタ。いつもありがとう」

 小百合は乱れて爆発した頭をかき回して体を起こす。

 いつ倒れてもいいように、彼女は髪型をショートボブ一択に決めている。

 そのおかげで、起き上がるときに髪の毛を踏んだり挟んだり。なんて情けない失態を犯したことは一度もない。

「二日酔いみたいに酷い顔だな」

 ケンタの冷たい声に釣られて、小百合は薄汚れた鏡に顔を映した。

 青白く疲れ果てても、顔の丸さはちっとも小さくならない。理不尽だな、と小百合は自分の頬をぐいっと引っ張る。

 苦労知らずの幼い顔、と意地悪を言われたことがある。頬が丸くてタレ目のせいだ。

 でも実際はあと三ヶ月で20歳の誕生日を迎えるぎりぎり19歳。

 だから小百合はまだ本物の酒を飲んだこともなければ、二日酔いの経験もまだない。

 しかし疑似体験なら、いつでも経験している。

「辛い時にはな、胸を張ってしゃんと立ちなお嬢さん」

 ケンタは赤い舌でべろりと鼻先をなめて、ニヤリと笑う。

「それが二日酔いの治し方だよ」

「二日酔いの経験あるの? ケンタ」

「大人にはな、色々あるんだよ」

(胃、気持ちわる……)

 小百合は胃を手で押さえて、小さく呻く。

「……3日前はチーズケーキでしょ。昨日はたい焼き。とどめのケーキの詰め合わせ。甘いものって続くときついかも。なにか……塩っぽいものとか……食べたいな」

「そもそもお前は依頼を受けすぎだ。太るぞ」

「言わないで。実は半年前から2キロ増えたの」

 小百合は鏡に映る頬をつねる。一ヶ月前よりよく伸びるようになった。腹回りにも記憶にない肉がついてきた。

 ケンタに言われなくても、肥満の危機感はいつだって抱いている。

「服が合わなくなる前に、仕事を減らすべきだな」

 ケンタは小百合から顔を背けて寝転がり、くるんと丸くなった。犬としては最高にお行儀のいい格好で。

「へへん。それを見越して大きい服を買ってるから問題ないんだよーだ」

 ぶかぶかで肌触りのいいシャツを自慢気に見せつけて、小百合はケンタをぎゅっと抱きしめる。

 転がした鏡には、不機嫌顔のシェパード犬が小百合に撫で回されている風景が映っていた。

「ケンタもちょっと大きくなったんじゃない?」

「成犬サイズだよ。これ以上でかくなるもんか」

 不機嫌を隠さず吐き捨てるケンタは、どこからどう見ても犬だ。

 抱きしめたときに感じる温かい温度も、人間より早い心音も、柔らかい体毛も。

 すべて彼が犬であることを示している。

 だと言うのに、なぜか人の言葉が理解できる。理解できるだけでなく、会話まで交わせる。

 しかし、ケンタと会話のできる人間は世界でおそらく小百合だけ。

 その優越感に、小百合は彼の毛皮に含み笑いを漏らす。

「ケンタ、夏毛なのに、やーらかくてふかふかだねえ」

 抱きしめて、彼の首元を嗅ぐと温かい香りがした。

(……太陽の香りがする)

 ケンタは日差しから小百合を守ってくれていたのだろう。口は悪いが、さり気なく優しいのだ。

 それを口にすれば百倍くらい嫌味が返ってくるので、小百合は口を閉ざして代わりに彼の毛皮を堪能した。

「人の体をベタベタ触るのは良くない、そう躾けられなかったのか、お嬢さん。それにひとり暮らしじゃないんだ。ちゃんとサイズの合う服を着ろ、そんな短いズボンはだめだ、嗜みを持て」

 ケンタは目を伏せて尾を足の間にくるりと押し込んだ。それは不機嫌の証拠。

「何度も言わせるな。俺はもともと人間で……それに男だ」


 ……彼と小百合は去年の夏、仕事の最中に出会った。

 出会いは蒸し暑い深夜、繁華街の路地裏。ネオンに照らされたシェパード犬はとても綺麗だった。

 そんな細長い犬の口から漏れたのは、不思議な音である。

 明らかに異質な言葉だというのに、小百合の耳に届く時には、人の言葉になっていた。

 バイリンガルも、きっとこんな風に聞こえるに違いない。

 ケンタの放つ言葉にだけ、小百合はバイリンガルなのである。


「だから俺は犬じゃなく」

「気づいたら犬だったんだよね。で、過去の記憶もなくなって……人間だけの記憶が残っていて……一人で放浪してた」

 小百合はケンタを抱きしめたまま、彼の言葉を思い出す。

 ケンタは語った。ある朝、目が覚めれば二足歩行から四足歩行。

 鏡を見れば、人の顔は失われて犬の顔。何一つ覚えていないが、頭の奥底に『かつて自分が人間だった』という淡い記憶だけがこびり付いている。

 どれだけ怖かったことだろう、どれだけ不安だったことだろう。それを思うと切なくなって、小百合はいつもケンタを強く抱きしめてしまう。

「分かってるじゃないか。それなら、犬のように人を撫で回すのはやめてくれ」

「これは普通のハグだもん。犬扱いなんてしてないもん」

「お前は……」

 ケンタは何かを言いかけて、ため息とともに顔を床に押し付ける。

「……変わってる」

 小百合は床に伸びた彼の身体をきゅっと抱きしめ、柔らかい腹毛を思い切り堪能する。

 犬が人間の言葉で会話するなんて怪異、普通は誰も信じない。しかし小百合はケンタの言葉を信じた。

 さらに行き場を失っていた彼を引っ張って、一緒に暮らそうなどと提案した。

 逃げようとしたケンタをひっつかみ、自宅に引きずりこんで数日かけて説き伏せた。先に折れたのはケンタの方だ。

 その時から二人は、奇妙な同居生活をしている。

「ケンタのほうがずっと変わってるよ」

 不思議なこと、奇妙なことに恐ろしいこと……これらは小百合にとって日常のこと。

 なぜなら、彼女は除霊師だからである。



「おばあちゃんの最期の望みが、机いっぱいに並んだケーキを食べる……なんて、すごくかわいいよね」

 小百合の体調が落ち着いたのは、目覚めから1時間半後。

 ケンタをもみくちゃに撫で回し、苦い胃薬を飲んでようやく小百合は本調子を取り戻す。

 机の上に並べてあるのは、生クリームのこびりついた色とりどりの皿、可愛いティーカップ。メロンソーダの緑の泡が残る、大きなコップ。傍らにはケーキ屋の、四角い箱。

 体がどれだけ辛くても、その風景を見るだけで小百合はにやけてしまうのだ。

 先ほど体に溢れた『ありがとう』の言葉が、何度も何度もエコーする。それは暖かく、優しく、柔らかい、お婆さんの声だった。

「……人の仕事に口出しする趣味はないが、正直お前のやり口は気に入らん」

 しかしケンタはいやみったらしく尾で床をたたき、不機嫌そうに言葉を続けた。

「普通の除霊ってのは、何かを媒介にして祓うもんだ。それが石なのか、札なのか言葉なのかは人それぞれだがな」

 案外、この世界には幽霊が多い。視える人間からすれば、この世は生と死で満ち溢れている。

 ただ、善良な人間と悪い人間がいるように、すべての幽霊が悪に分類されるわけではない。

 未練を残した幽霊、これが人間に対して何かしらの害を及ぼす。そんな時、駆り出されるのが除霊師だ。

「でもな、幽霊を自分の体に憑依させて祓う、なんて無茶な除霊、聞いたこともない」

 小百合は除霊師。それも、数少ない本物の除霊師のひとりである。

 除霊師はそれぞれに除霊の技を持つ。門外不出、一子相伝、伝統芸能、やり方は多種多様。

 その中でも小百合のやり方は独特だ。

「憑依させて……相手の食べたいものを食べて除霊する……そんな除霊方法、聞いたこともない」

 小百合は霊を自分の体に取り込む。そして霊と対話する。

 さらに幽霊が未練を残す食べ物を、思い残した食事を、一緒に食べる。


「幽霊に体を明け渡すなんて、絶対にありえない。非常識だ」


「やり方なんて人それぞれでしょ」

 人と喋れる犬のほうが非常識だ。という言葉を飲み込んで、小百合は床に広がる洋服を漁る。

「ケンタ。幽霊の未練っていうのはね、だいたい思い残しなの」

 その思い残しは、時に食べ物である。死に際にあれが食べたかった、これを食べておけばよかった……どんな悪人でも思うはずだ。

「死刑囚だって、最後は好きなものを食べられるんだよ。でもいきなり死んだ人は無理でしょ?」

 その思いは後悔となり悲しみとなり、一周回れば怨恨となる。

 だから小百合は憑依した霊に問いかけ、探り出し、そして彼らの思い残しを一緒に食べる。

 ……つまり彼女は幽霊の代わりに『食べて』除霊する。

「確かに今のところ、危険な霊には出会ってないみたいだがな? 未練があれば霊になる、未練ってのは思い残しじゃねえ、ただの怨恨だ。怨念が積もれば話も通じない悪霊になる。あいつらに話は通じねえ。単にお前はこれまで運が良かった。今後もその運が続くとは限らん」

 ケンタはぶつくさと文句をこぼすが、そもそも小百合がこのやり方を編み出したわけではない。

 小百合の父であり師匠である葛城誠一郎が、小百合に除霊の技を仕込んだ。

 幼い頃から小百合のそばには幽霊がいた。手を伸ばせば触れ合えたし、会話をすることだってできた。

 そんな小百合にとってみれば、札や数珠を使うような除霊、却って面倒だ。

 幽霊を取り込んで思いを果たしてやるほうが、ずっと楽。そして何より、お腹いっぱい食事ができる。

 ……ケンタの小言を右から左に流していると、小百合の手元がぶるりと震えた。

 スマホだ。その画面の右上に、四角いメール受信のアイコンがピョコンと現れる。

 ケンタはそれに気づかず文句を言いながら、床に散らかる鉛筆をくわえて机に置き直す。

「仕事をしばらく休んで、このきたねえ部屋を片付けるとか、まともな仕事を探すだとか……」

「ちょーっと、いい子しててね、ケンタ」

 皺の寄ったケンタの鼻筋を撫で、小百合はじっとスマホの画面を見つめた。

 小さな画面には、お名前、お所、メールアドレス……そして除霊内容。 

「犬にするような真似はやめろ」

「依頼だ。いこ」

「……俺は行かない」

 小百合が立ち上がると、反射的にケンタがぺたんと伏せる。大きな耳もしっぽも完璧に平らにして、鼻をふん。と鳴らす。

 こんなときだけ犬のフリをするのはずるいな、と小百合は口を尖らせる。

「相棒なら一緒に来てよ」

「誰が相棒だって? アドバイスを全部無視するようなやつは相棒でもなんでもない、それに」

「それに?」

「一日に二度の除霊はリスクが高い」

 小百合は立ち上がり、散らかし放題の……小百合は除霊事務所と呼んでいる……部屋を見渡して、タンスから帽子とリード、小さな鞄を取りだした。

「心配ありがと。でも仕事は縁のものだから、受けられるうちに受けておかないと……って、これね、誠一郎さんから教えてもらった10カ条の一つでね……あ。外さあ、もう暑いからホットパンツとシャツでいいって思わない?」

 髪を手櫛で整えて、小百合は白く汚れて曇った鏡の前でくるりとまわる。

「ちょっとだらし無いけど、いいかな」

 鏡に映る自分の後ろには、散らかり放題の部屋が写り込んでいた。

 ケンタが怒るのも無理はない。服は床に散らばり、食器は水切りの上に溢れてる。

 食べ残しのスナック菓子の袋はくるりと丸めて、机の下にそっと隠す。

 部屋の片付けよりも何よりも、仕事が一番大事。

 それは父であり除霊の師匠である誠一郎から学んだ、10カ条の上から2番目。だから部屋の汚さなんて、些末なことだ。

「何か条ってのは知らねえが……」

 ケンタは床に転がっているワイシャツと長いスカートをくわえて引きずり、小百合の前にぽとりと落とす。

「その服は肩が出てるから駄目だ。あと下も短すぎる。仕事をするなら、真面目な恰好をしろ。一応若い娘だろ、嗜みと恥じらいを持て」

「ありがと」

 小百合は服を足でひょいっと掴むと、着ていた服を脱ぎ捨てる。それを見て、ケンタがぎゃんと悲鳴を上げた。

「恥じらいを持てっつったろ!」

 だからケンタはとっさの伏せだけがひどく得意なシェパード犬である。



 メールでの除霊依頼……このやり方を編み出したのは誠一郎だ。しかしこれがなかなかに、都合がいい。

 今日みたいに倒れていても寝過ごしても安心だ。それにいちいちメモで内容を控える手間がない。

「どうせジジババからの依頼が中心だろ?」

 カチカチと、ケンタの足がアスファルトに響く。

 外に出るときは犬らしく、ちゃんとリードと首輪で歩く。それが二人の約束だった。小言の多いシェパードだが、こういった公共のマナーは案外生真面目に守る。

 犬らしさを演出するために、電柱の匂いを嗅いで見せることもする……それはもしかすると演技ではなく本能なのかもしれないが。

「だって私、地元密着型の除霊師を目指してるからね」

 小百合はスマホの画面を軽く叩く。

 見覚えの無い不動産屋の名前が刻まれていた。豆腐屋のお爺さんから紹介を受けた、と書かれている。

 今朝の仕事は、建具屋のお爺さんからの紹介だった。昨日の仕事はスーパーの店長さんから。

 こんなふうに、小百合の仕事はご近所からの依頼が8割を占めていた。

 最近のお年寄りは、メールを器用に使いこなす。文字を大きくできるので、手紙よりずっと良い。なんて人もいる。

 一つ一つの収入は小さいが、数をこなせば生きては行ける。お金以外に野菜や果物をもらえるのも地味に助かる。

 それにご近所を味方につけるのが、商売を安定させるコツだ……と、尊敬する父である誠一郎も語っていた。

 除霊師に社会的安定など何一つないのだ。今のアパートを追い出されたら、ケンタと二人行き場所を失ってしまう。

「なんでこんな地味な街を拠点にするんだか」

 古びた家がポツポツ立ち並ぶ町並みを眺めて、ケンタが嫌味っぽく吐き捨てる。

「老い先短い商店街だ。仕事も無くなるだろうな」

 ケンタが鼻を鳴らす時はだいたい、嫌味の合図。慣れっこの小百合はその言葉を華麗に無視してみせる。

「お爺さんお婆さんたちのネットワークは強いんだから。仕事がなくなることはないんだよーだ。えっと、今日の仕事は……」

 メールに届いた現場は、小百合の家から徒歩で20分ほどの場所にあった。

 幹線道路を超えて住宅街を抜け、公園を目印に細道を曲がる。 

「……おい、これはまずい」

 一歩、近づくたびにケンタの背が震える。ケンタのリードを握り締める小百合の目つきも、真剣なものになっていく。

「下がれ」

 角を曲がったとたん、ケンタの背が震える。毛が一斉にそそり立つのがみえた。

 ……どの場所が現場か、など教えてもらわなくても分かる。角を曲がったその奥。

(これは、怒ってるなあ)

 幽霊が……それも怨念の溜まった霊が居る場所は、いやな空気だ。離れていてもよくわかる。

 まるでヘドロが空気に流れ出したみたいに、空気が濁って煤のような匂いが広がる。

 重い空気に向かって、ケンタが小さくうなる。その声は小百合以外には犬のうめき声にしか聞こえないだろう。

 しかし彼は言ったのだ。

『危ない』

 と。

「あらあ。わんちゃん、ご機嫌ななめ?」

 ひょいっと、角から顔をのぞかせたのはおたふく顔の妙齢の女性。小百合は慌てて表情を和らげ、ポケットから小さな簡易名刺を取り出した。

 名前と、電話番号。それにメールアドレス。除霊師、と書くのはやめておいた。代わりに小さな幽霊のアイコンだけ載せてある。

「気にしないでください。ほら、暑いから機嫌が悪くて……えっと……平沢豆腐屋さんにご紹介いただいた、葛城小百合です」

 小百合はリードを器用にあやつって、ケンタの体を自分の横にぴたりとつけると、ぺこりと頭を下げる。 

 季節は6月中旬。今年は空梅雨で、ただただ蒸し暑い。

 さらに今は、夕刻間近で最も暑い時間帯だ。

 ……しかし、小百合の皮膚に張り付くのは氷のように冷たい空気である。

「あの場所ですか、どよん。ってしてますねえ」

「本当に、薄暗い。外は晴れてるのに、ここだけ、どよん……でしょ?」

 視えない依頼主は呑気にほほほ、と笑う。

「ここね、昔は会社の寮だったんだけどね。社長が亡くなっちゃって会社もつぶれて、寮も解散。今はこんな古い建物、誰も住まないでしょう? だから潰して新しいマンションでも……って話になってね」

 二人と一匹の前には、『ハイツ工事中』の看板がかかった小さな建物があった。

 しかしそこはハイツなんてしゃれたものではない。古ぼけた、錆の広がる古いアパートだ。

 元は白い建物だったのだろう。しかし今は、灰色に染まっている。壁にはヒビが入り雨樋は割れて、窓はことごとく壊れている。

 部屋は全部で6つ。立ち入り厳禁の看板が赤錆まみれの雨ざらしで立っている。しかし、そんなものがなくても、誰も立ち寄らないはずだ。

 建物からは不気味な空気が滲み出している。

 この場所は爽やかな朝日にも、暑い日差しにも美しい夕暮れの色にも染まらない。

 重苦しい。息苦しい。悲しい。痛い。ここから放たれるのは、そんな負の色だ。

「……全員立ち退いたのを確認して、工事に入ったのが一ヶ月前……それなのにね」

 依頼人は目を細め、寒そうに腕をさする。

 小百合は、壊れた部屋をひとつひとつ、眺める。その目が、西の部屋で止まった。

「いざ工事を始めたら……一階の西の部屋で女の子が……。あ、でもね、事件じゃないの……」

 分かるでしょう。という風に、女は小百合に目配せする。

 言われなくても、プロには分かる。

 この淀んだ空気は尋常ではない。殺人か、それとも相当の恨みを抱いて自ら命を絶ったのか、どちらかだ。

 女のいう西の部屋の窓には、黒い空気が見える。それは時折人の形を取りながら、へどろのように窓に張り付く。

 窓を殴っているのか、掌の跡が浮かび上がることもある。

 薄く開いた窓から黒い腕が見えた。細い指が窓枠をつかんで、ぞろりと外に漏れる。空気は冷えた泥のように重苦しい。

(……ああ)

 小百合は小さく手のひらを合わせ、祈るように目を閉じた。

(自分で、ぜんぶ、終わらせたんだ)

 幽霊に祈りなど通じやしない。自己満足だ。しかしその自己満足が、除霊では大切なのだ。

 死んだ人間はこの世に未練を残す。特に自ら命を終わらせた人間の未練は深く重い。未練は黒い影となり、その場に留まり続ける。

 恨みを重ねた未練は、食事の未練よりももっともっと上だ。そんな霊を取り込んで食べたいものを探り出すのは、ちょっとばかり骨が折れる。

「会社の寮だったって言うけど、実際は場末の飲み屋のね、寮だったみたいなの。だから訳ありの子だったらしくって」

「身よりは?」

「ない、ない。一人っきり。だから出て行く先もなかったみたいで、工事の少し前に戻ってきて、そこで……。あたし、あんまりに可哀想でねえ。知り合いに頼んでお経だけあげてもらったんだけど……」

 彼女は腕を組み、首を傾げた。

「工事初日から、変なことが起きるようになってねえ」

 ケンタが注意を促すように小百合の足を踏む。大丈夫だよ、の気持ちを込めて背を撫でてやると彼は歯をむいた。

「犬っころにするような真似はやめろ」

「どんな変なことが?」

「窓が揺れたり、水が噴き出したり……それくらいなら良かったんだけど最近は工事の人が足を滑らせて怪我をしちゃって。ほら。ああいう人たちって験を担ぐじゃない?」

 窓に張り付く影もこちらに気づいた。風もないのに窓が揺れる。

 依頼者の女は視えない人間だ。闇の向こうから淀んだ目が覗いても気づきもしない。

 部屋に取り憑いているのは、長い髪の女性だ。がりがりにやせ細り、見開かれた目がこちらを見つめている。

 恨みだ。その恨みの目は、小百合をしっかりと見つめている。

 ケンタが背を低くして唸り声を上げる。

「今……もう一つ影が視えたぞ。強い未練は、周囲の雑魚を引き寄せる」

 ケンタが舌なめずりをしながら、つぶやく。その黒い目が、家を睨みつけていた。

 件の幽霊以外にも、何かが視えた。未練の重さは磁石のようなもので、通りすがりの霊魂をひきつけやすい。

「悪霊だね」

 小百合はケンタにしか聞こえない声で囁く。

 幽霊は二種類存在する。まだ救うことのできる幽霊と、もう救い出すことのできない幽霊だ。

(……結構いるな)

 黒い影が小百合の足元を這いまわり、笑い声が小百合の耳元を過ぎていく。

 黒い手のひらが小百合のあとをついてくる。

 人のことを試すように『小百合』と名前を呼ぶ霊もいる。それは悪霊の類である。

 彼らはもう救われることのない魂だ。彼らは彷徨う霊魂を悪霊の仲間に引きずり込もうと舌なめずりをしている。そのため、霊魂を救う除霊師とは犬猿の仲。けして相容れることはない。

 自分たちの邪魔をさせまいと、こうやって除霊師の邪魔をする。

 この闇に引きずり込まれれば、彼女もやがて悪霊に成り果てる。

(早く……ここから出してあげなくっちゃ)

「これ以上変なことが続くようなら、手を引きたいって、現場監督さんから言われてて……だから今月中にどうにかしないと。でね、お豆腐買いに行ったらさ、除霊の上手な人がいるって紹介を受けて……私はそんな信じちゃいない……あ。ごめんね? でも、あんまりにも非現実的じゃない?」

 依頼人は呑気なもので、悪霊の影を平気で踏みしめる。

「そうですよねえ。よく言われます」

 小百合はへらりと笑った。こんな対応は慣れている。

「とーっても非現実的で、やっぱり信用できないと思いますよ。だから除霊料は成功報酬で……」

「おい、おい、おい、バカお前、安請け合いはするな」

 ハイツを睨みながら、ケンタが小百合の足を踏んだ。ぐるると唸るような不穏な声だが、それはちゃんと言葉として小百合の耳に流れ込む。

「まずは高いところからふっかけるんだよ。そこから徐々に下げる。商売の基本だ。おい、あれだ、料金表。あれを見せろ」

「……あ、えっと。料金表です」

 ケンタに急かされ、取り出したのは手書きの料金表。こんな商売は水物で、正規の料金なんて誰もわかりはしない。

ケンタの言うがまま作った料金表は、あまるに法外過ぎて見せる手が思わず震える。

 眉を寄せた依頼主を見て、小百合は慌てて付け加えた。

「えっと。もちろん、ディスカウントできますし、まずはお試し感覚で気軽に利用してくださいって、みなさんにお伝えしてるんです」

「あら、そう?」

「とりあえず、中を拝見して、それから一週間。どうでしょう。成功すればお支払い。失敗なら……」

 小百合は顎に手をおき、首を傾げる。

「失敗の経験がないので、この場合を考えたことがありませんでした」

 小百合の軽い物言いに、女が吹き出す。場は一瞬明るく染まったが、すぐにヘドロのような空気に変わる。

「助かるわあ……あら? わんちゃんも一緒に?」

「ええ」

 小百合はケンタのリードを軽くひく。

「この子、私の相棒なんです」

 笑う小百合の足を、ケンタが思い切り踏みしめた。



「……お前……いい加減にしないと本気で噛むぞ」

 女が去ったあと、ケンタが歯をむき出しにしてうなる。

 しかし小百合はそれを無視して、工事現場の看板の隙間から建物へ入り込む。そしてケンタを手招きした。

「ケンタ。こっちだよ」

「俺は相棒なんかじゃない。偶然! お前を! 手伝ってる! それだけだ」

「そうだね」

「前から言っているが、俺は犬じゃない、人間で、除霊師だった。でも今は見た目がこれだ。首輪も犬の飯も我慢してやる。しかし俺のことをワンちゃん、など二度と呼ぶな」

「うん」

「お前の家に身を寄せるのなら、最低限のルールを決めるといっただろう。その中の最初の約束が、俺のことを犬扱いするな、だ。覚えてねえとは言わさないぞ、前だってお前、あの時……」

 文句を付けるケンタの口が、ふと閉じる。小百合も思わずリードを強く握りしめた。

「おっと……これ以上はだめだ」

 ケンタが小百合を鼻先で突き、足で床を掻く。

 割れた地面の隅には、赤いチョークで書かれた不思議なマークがあった。一見すると工事現場に残されたマークに似ているが、それは似て非なるもの。

「……あのババア、黙っていやがったな」

 それは、除霊師が仲間に伝える秘密のマーキング。

「初めて除霊師を雇いますみたいな顔しやがって……しっかり、俺達の前任者がいやがるじゃねえか。しかも中途半端な仕事をして、霊を怒らせて尻尾巻いて逃げやがったか。そりゃあ悪霊も怒るだろうよ」

 三角の形にバツのマーク、色は赤。

 それが意味することは、気をつけろ、危険。近づくな。

 しかしマークが書かれているこの場所は、幽霊の至近距離。なるほど、いい加減な仕事だな、と小百合は苦笑する。

 小百合は除霊師の知り合いが少ない。それは小百合が本物の除霊師だからだ。本物の除霊師は希少で、偽の除霊師とは相容れない。

(また、尻拭いかあ)

 と小百合はため息をつく。偽除霊師の尻拭いも、小百合たち本物の仕事だ。ヘタも幽霊を刺激していることもあり、通常の仕事よりも骨が折れる。

(遊び気分で来られたら困るんだけどな)

 入り込んだアパートは、古いコンクリート、錆が浮いて崩れかけたポスト、崩れた電灯、日差しさえ届かない冷たい空気、どこかで漏れる水の音。

 落下した電灯のカサには、汚れた雨のしずくが溜まって悪臭を放っている。

 真っ暗な廊下の向こう、それは西に向かう廊下だ。一番奥、闇の淀んだその場所に……薄黒い影が揺れている。

 先ほどまで窓にいた影だろう。それが小百合の気配に引き寄せられるように、廊下へ滲み出している。

 化け物となり果てたその女がどのような悲惨な死を遂げたのか、小百合は知らない。

 怨んで出てくるくらいなのだから、ろくな死に様ではなかったはずだ。

 今や女は人の形保てていない。体はドロのように溶けていた。その霊は廊下に文字通りにじみ出ている。

「おもしれえな」

 カチカチと、ケンタの歯が鳴った。

 ……かみ殺してやる。ケンタの中に眠る、凶暴性が喜びの声が聞こえて来た気がする。

「ケンタ。落ち着いて」 

 小百合はリードを引っ張るが、ケンタは興奮したように首を振って低く体勢を取り、唸る。

「お嬢さん、紐から手を離しな。あの悪霊、噛み砕いてやる」

 ケンタが呻いて、尾を好戦的に左右にふる。

 ケンタは……彼の言葉を信用するのであれば……除霊師だ。かつては除霊師として名を馳せた、と彼はそう言っていた。

 記憶喪失の人間でも箸の持ち方を忘れないように、過去をすべて忘れてもケンタは除霊の方法は忘れない。

 犬の体になった彼が行う除霊方法は単純明快。

 大きな口を開き、長い牙を相手に突き立てる。

「だ、だめ!」

「はあ? いつもお嬢さんの言うことを聞いていい子にしてるだろう? たまには……思い切り遊ばせてくれよ」

 ケンタは唸り、首を振る。重い鎖が、じゃりじゃりと音を立てる。その音に興奮するように、ケンタは激しく吠えた。

 相手が凶悪であればあるほど、ケンタは嬉しいのだ。

「どう噛んでやろうか? 砕いて叩き潰して、爪で切り裂くか? どんな悪霊でもな、俺にかかれば泣いて詫びる。散々詫びを入れさせて、泣かせて……少しだけ希望を与えて……」

 は、は、は、とケンタの口から激しく息が漏れる。

「……それから噛み殺すんだ」

「だめ!」

 ケンタが後ろ足で地面を蹴る。その瞬間、小百合は必死にリードを掴んだ。きゅん、とケンタから案外かわいい声が漏れる。

「おま……え」 

「ケンタ、だめ。だって……」

 激しく咳き込むケンタの背を撫で、小百合は立ち上がった。

「……この子。泣いてる」

 小百合はケンタのリードを錆びた水道管に結びつけて、一人で廊下を歩きはじめる。

 ケンタがあとを追おうとしているのか、爪がコンクリートを蹴る音ばかり響く。こんなときのため、除霊の際は太い鎖のリードに決めている。

「泣いてる子を噛んで除霊なんてできないよ」

 小百合は一歩、一歩、黒い影に向かっていく。小百合のスカートがゆらゆら揺れて、壊れた床に影を落とした。

 崩れ落ちた扉が並ぶ、薄暗い廊下。風もないのに揺れる電灯。

 割れて転がる消火器に、腐った電気メーター。

 倒れた赤錆まみれのポスト、塗装の剥げ落ちた空き缶に、タバコの吸い殻……そして枯れて崩れて形をなくした小さな花束の痕跡。

 そんなものが並ぶ薄気味悪い廊下を、小百合はまっすぐに進んでいく。

 廊下の一番奥、闇の渦巻くその場所に向かって。

「おい、お嬢さん、行くな!」

 やがて闇は、座り込んだ女の形となった。がりがりの体の、不健康そうな女性だ。傷んだ茶髪に、派手なメイク。どろりと淀んだ黒い目が、小百合を見上げた。

 その目には恨みと憎しみしかない。

 小百合はそっと、腕を広げた。

 ごめんね、こわいよね、大丈夫だよ。さあ、おいで……大丈夫だよ。

 ゆっくりと口にするのは、小百合が誠一郎に習った魔法の言葉。

「大丈夫」

「おい!」

 ケンタが叫ぶ。リードを繋いだ水道管が激しい音をたてる。

 がん、と派手な音をたてて、錆水をまき散らし水道管が外れた。

「……小百合!」

 同時にケンタが飛び上がるように、こちらに向かってくる。

 しかし小百合は振り返って、微笑むのだ。

「……残念、ケンタ」

 小百合の体の中、静かに闇が吸い込まれていく。 

 まるで白い布に泥水が染み込んでいくようだ。小百合の腕が一瞬だけ黒く染まる。

「もう、入っちゃったから、私のやり方で除霊するしかないね、ケンタ」

「小百合……」

「ああくるしい……平気、大丈夫……いたい……大丈夫だよ……」

 小百合の体が震える。悲しみと憎しみが一気に喉を締め付ける。

 必死に飲み込めば、声が漏れる。それは小百合の声と、聞いたことのない低い声の2つ。恨みのこもった低い声と、小百合自身の声と。

 小百合の体の周囲を、悪霊たちが未練がましく飛び回る。未練を残した幽霊は、悪霊の餌食になりやすい。

「……良かった、間に合って」

 やがて小百合は大きな飴玉を飲む込むように、ごくりとのどを鳴らす。

 そうしてようやく体の震えが収まった。

 その代わり、体の奥底に別の気配を感じる。体の奥底で何かが暴れまわって、皮膚を突き破り外に出ようとしている、そんな気配だ。

 小百合は目を閉じ、必死に体内へ問いかけた。

(何を食べたい? 食べさせてあげるよ。ねえ……)

 これが小百合の除霊方法。幽霊を憑依させ、食べたいものを……未練を残している食べ物を探る。

そして憑依させたまま一緒に食べる……それでおしまい。

 協力的な幽霊であれば、あっという間に終わる。恨みを残した霊であれば、時間がかかる。

 ……今回は、いつも以上に時間がかかりそうだ。

(ねえ、教えて……)

 聞こえてくるのは恨み言だ。口の中に広がるのは涙の味だ。

 痛みと悲しみと辛さだけで味付けされた料理は、こんな味がするに違いない。

 幽霊は小百合の問いかけに答える気配もない。ただ暴れている。

「うーん……この感じ……香ばしいもの……たぶん、甘いものじゃないなあ。しょっぱいものだ。うれしいな」

「おい、すぐに吐き出せ。これは良くない気配だぞ。生前の楽しみなんぞ、何一つない……そんな」

 ケンタが必死に小百合の服を噛み、引っ張る。触れた皮膚の冷たさに、ケンタの目が大きく見開かれた。

「お前、体温が」

「あ。分かった! これ、焼きそばだ!」

 しかし小百合はのんきに、手を打ち鳴らしてケンタの首を抱きしめる。

 触れた体の温かさに、小百合はホッと息を吐いた。ケンタはブルリと震え、その鼻先で小百合の髪を撫でる。

「……どうして、お前はそんな無茶ばっかりするんだ」 

「思い残した食べ物は、多分、焼きそば。帰って食べよう。彼女の食べたかったものを」

 霊の消えた工事現場は、いきなり湿度と温度が戻る。

 夏らしい白い日差しが急に差し込み、コンクリートに反射した。



「あれでもなかった、これでもなかった……さすがにもう、手打ちだなあ」

 家に戻って数日。小百合はずっとうなっている。

「うーん。有名なお店の焼きそば……カップ焼きそば……」

 万年床となった布団に寝転がり、小百合はずっと天井をみあげ、手のひらを見つめる。

 その手のひらは黒く淀んでいた。

 雑誌や小物が無造作に転がる部屋は、ジメジメと湿度が高い。

 そのくせ、薄暗い。

 気持ちの悪い、どろりとした空気が小百合からあふれて部屋を浸食しているのだ。

「お好み焼き屋さんの焼きそば。ちょっと高級店の鉄板焼きそば。中華料理の、あんかけ焼きそば」

 小百合の指、顔、腕、足。それは毒でも受けたように黒い。

 それを無視して、小百合はゴロゴロと寝転がる。

「いろいろ食べたけど、ぜんぜんだめ……約束の時間がすぎちゃう……」

 体の中に女の霊を詰め込んだ小百合が、最初に足を運んだのは近所のお好み焼き屋だ。

 商店街で人気ナンバーワンを誇るその店で、評判の焼きそばを食べた。

 それでも女の恨みは消えない。

 続いて足を運んだのは、数駅向こうの高級鉄板店の鉄板焼きそば。財布は痛んだが、食べたこともないくらい絶妙な味わいだった。

「屋台の焼きそばはいけると思ったんだけどなあ……安っぽくて、あつあつで」

 神社に出ていた屋台。透明トレーたっぷりに詰め込まれた茶色の塊は、なかなか懐かしいものだ。硬いキャベツの芯が2枚ばかり、それに焦げたお肉に色の変わった紅生姜。

湿気った熱でべこべこになるトレーを落とさないように気をつけて、必死にかきこんだ。

 それでも、小百合の中の彼女はなんの反応も示さない。

「カップの焼きそばは、駄目だったかな……だって、インスタントの焼きそばって、焼いてる感じがしないもん」

 淀んだ部屋には、各種メーカーのカップ焼きそばが転がっている。

 香ばしい香りもここまで部屋を浸食すると悪臭だ。

 あと一年は焼きそばを食べたくない……と、小百合はため息をつく。

「焼きそばで正解のはずなんだけど……」

 幽霊を体に取り込んだとき、一瞬だけ彼女の過去が小百合の中に流れ込んできたのだ。風景ではない。味だ。

 その時、口の中に焼きそばの香りがぱっと広がった。ゴロゴロ野菜とぱりっとした麺、ソースの香ばしい香り……。

 勘違いだったのだろうか。と小百合は焦りを抑え込む。これが勘違いだとすれば、またやり直しになる。

「おい」

「もう。ケンタもちょっと手伝ってよ」

「……鏡をみたか?」

 ケンタは唸り、首を振る。ケンタの声が響いた場所だけ、空気が清浄なものとなった。

 しかし重苦しい空気を祓えるのは、一瞬だけのこと。元凶が小百合の中にあるのだ。すぐに黒い空気がにじんで部屋を支配する。

「みてない」

「みろ」

「やだ」

 小百合は顔をおさえた。

 そうだ、小百合だって気づいている。小百合の顔は、ひどく淀んでいる。女の顔がにじみだして、時折、表情が変わることもある。

 しかしそれを目にすると小百合の心が揺らぐ。揺らげば乗っ取られる。だから小百合の家には汚れて曇った鏡しか置いていない。

「わかるもん。ひどい顔をしてる。ちょっと暴れる子相手だと、押さえておくのが大変だから、それで」

「お嬢さん」

 ケンタがベッドに飛び乗り、小百合の体を鼻先でつつく。

「中の女は手遅れだ。悪霊だよ。俺が噛み殺してやるから、気を抜け、気を抜けばそいつは地縛霊だ。もとの場所に戻ろうとする。そのときに噛み殺す」

「だめだよ。ケンタが強いことは知ってる。だからこそ駄目。だって」

 小百合は顔をゆっくりとあげた。顔を動かすと涙がぼろりと溢れた。

 ほろほろと、涙がいく筋も流れて落ちる。それは小百合の涙ではない。

「……この子、ずっと泣いてるんだよ」

「悪霊は、泣くもんだ。泣いて泣く振りをして相手の同情をかって、そして恨みを晴らすんだ。あいつらに善良な心なんてあるわけがない。ただの悪意の固まりだ」

「……」

 ゆっくりと小百合の体がベッドに沈んだ。 

「小百合?」

 ケンタは鼻先でつつく、足先でなでる。しかし小百合は動けない。


「小百合!」


 ケンタが小百合の肩に歯を立てる。しかし、体は動かずどんどんと冷たくなっていく。

「待ってくれ。もしお前に何かあったら俺は……」

 ケンタが焦るように小百合の体を鼻で押し上げる。足先で掻き、情けない声をあげる。

「俺は……」

「けん……た……」

 小百合の体が震えた。

 取り込んだ彼女の意識の遠くに……かすかに感情の切れ端が視えたのだ。

 それは、悪意でドロドロに渦巻くヘドロの中に見える、針の先くらいの小さなものだが。

 小百合はその光を掴んだ。それは小百合の中で嘆く彼女が一瞬だけ見せたもの。

つまり、それは彼女の本心だ。

「……手作りの」

「て……手作り?」

 小百合はゆっくりと頭をおこして、ケンタを見つめる。


「手作りの、お家の、焼きそば!」


 小百合は意気揚々と叫び、そして布団から飛び出した。

「なんで気づかなかったんだろう!」

 全身を貫く悲しみや痛み、恨みはますます深い。

 しかし体の中の彼女は、小百合の言葉を聞いて明らかに狼狽した。まだ若い、女性らしい繊細な狼狽の仕方だ。確実に今、彼女の心が揺らいだ。

「野菜は……キャベツ……ちょびっとと、ああ、モヤシもあるある。人参と、ピーマンも! お肉はないけど冷凍してるベーコンと……たしか焼きそばの麺は買ってある。ソースもある……この間、たこ焼き除霊したときのやつ!」

 冷蔵庫をのぞき込み小百合は力強く頷く。

「……何を……良いから、早く悪霊を外に出せ」

 ケンタがおろおろと服を引っ張るので、小百合はその鼻先を優しく撫でる。

「だってケンタは作れないもの」

 雑多なキッチンの上、並べられたのはにんじん、キャベツにタマネギ、モヤシ。そしてベーコン。

 真ん中が凹んだまな板に、分厚い包丁。震える両手で頬を強くたたきつけ、気合いを入れる。包丁を握りしめ、野菜を片っ端から切っていく。

 綺麗に切る必要なんてないのだ。ザクザクと、できるだけ不格好に。

 料理をすると心が弾んだ。手を入れ、熱を加えるだけで、ただの材料が美味しい料理に変わる。

 その瞬間が好きだ。野菜に熱が入ると柔らかくなるところも、甘い香りがたつところも好きだ。

(なんて……楽しいんだろう。ねえ、料理、楽しいね。誰かに食べてもらえる料理って、すごくたのしい)

 小百合は体内に話しかける。

(なんで手作りって気づかなかったんだろう……ごめんね、遅くなって)

 野菜を強火で炒めて酒を振り入れると、部屋中に野菜の香りが漂った。

 手と背中に温かい空気が広がる。料理をするとき……幽霊のために何かを作るとき、いつもこうだ。温かい手のひらに包まれているような気持ちなる。

 それは、小百合の自信にもつながった。

 ここに立っていて良いのだ、間違いではないのだと、誰かに背中を叩かれている。そんな気がする。

「……うん。わかる……ふふ」

 小百合は小さく微笑んだ。

 ふと、体の中から声が聞こえたのだ。

 最初それはうめくような声だった。しかし段々と、はっきりとした言葉になっていく。

『焼きそば?』

 聞こえてきたのは、戸惑うような柔らかい女性の声。

 野菜たっぷり? 人参は嫌い……ベーコンはカリカリにして。

 子供のような、甘えるような声。

 笑った分だけ、不思議と空気が柔らかくなる。さきほどまで部屋を支配していた嫌な空気が薄れていく。

「へーお砂糖を少し入れるの? それがポイントなんだね。あとは紅生姜と……そうそうケンタには言ってなかったけど……私ね、幽霊と記憶を共有できるんだ」

 小百合は袋入りの焼きそばの麺を手でほぐし、フライパンに放り込む。

 野菜から出た水分がじゅわっと跳ねて日差しに光る。麺が柔らかくなったところに、隠し味のお砂糖を少々。そしてソースをたっぷり。

 じゅ。と、派手な音が響く。

「……この子ね。小さな時に親から逃げて……いけない道に進んで」

 小百合は胸のあたりをそっと押さえる。

 もう彼女は何も発していない。ただ、記憶が体に流れ込んでくるのだ。それは絶望と恐怖に彩られた記憶だ。屈辱と、痛みと、悲しみと、孤独と。

「ぼろぼろになったところを、スナックのママさんに拾われたんだって。きついけど実は優しいママさんや、お姉さんたち。いやなお客さんもたくさんいたけど……」

 苦しみの記憶は段々と、明るい記憶に上書きされていく。

「かわいい後輩ができて、ママさんや先輩たちと、あの家で、まるで家族みたいに一緒の食卓を囲んで」

 ほろりと、小百合の目から黒い涙があふれて落ちる。それは霊の流す涙だった。

「……でも、ママさんが亡くなって」

 部屋はいまや、ソースと野菜の香りでいっぱいだ。

 熱くなったフライパンの上でソースが跳ねる。音を立てて、ねっとりと沸々と、にぎやかに。

 野菜とベーコンが焦げていく香りもする、ソースの甘い香りに混じり合う。

「そして仲のよかった人が一人一人いなくなって、ハイツが解体されることになって」

 じゅ、じゅ、とフライパンが激しい音をたてる。麺がほぐれて柔らかくなっていく。

 フライパンいっぱい、あふれんばかりに焼きそばが作られている。

「でも行くところもなくって、ずっと、ひとりぼっちで」

 小百合の体から負の色が薄れていく。

 また一筋の涙が浮かんで、床に散った。

 その涙の色は、透明だ。

 もう大丈夫、と小百合は胸をとんとんと叩く。

「ひとりぼっちには慣れていたけど、久しぶりのひとりぼっちは寂しくて」

 押さえる胸のあたりがぽっと光り、ゆるりと白いものが飛び出してきた。それは恐る恐る、ゆっくりと姿を見せて小百合の手にふれる。

 女の、生白い腕だ。

「ママさんが入院しちゃう前に、ご飯を作ってもらう約束をしてたんだって……そう、そう……」

 小百合の中から現れた手は、もう暴れることはない。不安そうに戸惑っている。

「ママさんの得意料理は焼きそばで」

 小百合はその手をしっかりと握った。

「楽しみにしてたのに、ごめんねって……だから、食べなきゃ死ねないって……おっと焦げちゃう」

 フライパンから、焦げる一歩手前のソースの香りが広がっていた。

 小百合はあわてて火を止め、鰹節と青のり、それに紅ショウガをふりかける。

 それを山盛り皿にのせると、大きなグラスにたっぷりの氷、そこにすっかり気の抜けたコーラをそそぎこむ。

 かすかに残った茶色の泡がはじけて宙にとぶ。泡があふれてグラスを伝い落ちる。

 空梅雨の湿ったような日差しが窓から差し込んでテーブルの上を染めあげた。

 白ぬけしたような日差しに、濃い焼きそばの色、紅ショウガの赤にアオノリの青。そしてコーラの泡の色。

「完璧!」

 机を占拠している雑誌や文具を肘で突き落とし、小百合は大盛りの焼きそばに向かい合った。

「これを食べたかったんだよね?」

 囁いて、箸をつかむ。

「……さあ、一緒に食べよう」

 柔らかくちぎれそうな茶色の麺、所々が焦げてカリカリと歯で砕く。

 野菜と肉と紅ショウガがからみつき、色とりどりになったその一口を、小百合は大きく噛みしめそして飲み込む。

「うん……ママの味だよ。そうだよ。おいしいよ。おいしいね。これが食べたかったんだよね」

 同時に、彼女の体内から喜びの声が聞こえた。

 至福の音だ、至福の色だ、至福の声だ。それは小百合の中からまっすぐに飛び出して、一瞬だけ女の形を取る。

 その影は、ゆっくり倒れ伏す小百合の頭をそっとなでて、そしてやがて宙へ離散した。



 女の霊が去った瞬間から、小百合は伏せる羽目となる。

 結局、体が回復するまで3日を要した。除霊による困憊ではない。ただの胃もたれだ。

 甘いもののあとに立て続けに焼きそば三昧。

 それでは体が持つわけがない。

「胃薬にばっかり詳しくなっちゃった……」

 小百合はベッドに転がったまま、胃薬の袋を握りしめて呻く。今の若さでこれだ。仕事を長く続けるには、胃を鍛えるしかない。

 それでも彼女が伏せている間に例の不動産屋からは喜びの報告を受けた。

 不思議な現象はなくなり、今では突貫で工事が行われている頃。きっとあそこには綺麗なマンションが建ち、事情を知らない人たちが新しい生活を送るのだ。

 不動産会社から届いたのは、料金表通りの高額謝礼金と高級ステーキ肉。

 小百合は肉をしばし眺めた後、冷凍室へそっとしまい込む。

 こんな職業なので、冷蔵庫だけは大きなものを用意している。

「お金も入ったし……胃薬……と、お粥のレトルトを切らしちゃったから、買いに行かなきゃ」

「仕事をやめりゃ、必要ねえ出費だがな」

 ケンタは不機嫌そうに尾でベッドを叩く。

 嫌味を無視して小百合は立ち上がり、ケンタの首にピンク色のリードを付ける。可愛いフリル付きのもので、ケンタの大嫌いなリードだ。嫌味を言ってくるときには、こんな嫌がらせで返すことにしている。

 そして3日ぶりにアパートの外に出て……ふと、小百合は足を止めた。

「ケンタ! 待って……今日、そろそろ」

 スマホの画面に浮かぶ日付は、16日。

 それを見て、小百合は飛び上がって再びアパートに駆け戻る。部屋ではなく、1階奥のポストへ。

「手紙!」

 生ぬるい夏の温度に染まる銀色のポスト。小百合の部屋番号は、一番下。

 屈んで座り、祈るように手を合わせて覗き込む……そこに、白い封筒が見えたとき、小百合は小さくガッツポーズを決めた。

「さっすが。いっつもぴったりに届くんだもん……ああ、だめだめ。まだ読まない。読まないって。えっと帰ってからお風呂はいって、それからね、ね! ケンタ、もし私が読もうとしたら止めてね!」

 興奮に息が乱れるが、小百合は深呼吸でそれを収めた。

 ポストの奥から恐る恐る封筒を取り出して、宛先を見る。


 ……葛城小百合様。


 綺麗で繊細な文字だ。小百合はもう一度深呼吸し、封筒をひっくり返して、差出人を見る。


 ……葛城誠一郎。


 その文字を見たとき、小百合はきゅっと封筒を抱きしめた。

「手紙ごときで、呑気なもんだな」

 ケンタは呆れたように顔を背けるが小百合は腹も立たない。そっと鼻を押し付けて、匂いを嗅ぐ。なぜか温かい匂いがする……そんな気がした。

 それは父から届く、月に一度の大切な手紙。

 大したことは書かれていない。こんな除霊をした、こんな料理を食べた。こんな世界を見た……毎回3枚の便箋に書かれた、父の日常報告。

「ただの手紙じゃないんだよ、誠一郎さんの手紙!」

 小百合は熱を持つ頬を抑えて、ケンタの頭をぐりぐりと撫でた。

「そんなこというならケンタには見せないよ」

「見たくもねえよ」

 ……小百合の父であり除霊の師匠である誠一郎はおよそ2年前、小百合の誕生日に行方をくらました。

 もともと気紛れで呑気な男だ。昔から除霊に行ってくるなんて言って家を留守にしていた。

 父親らしいところなど一つもない人だ。だから気づけば小百合は彼をお父さん。ではなく誠一郎さん。なんて呼んでいた。

 それでも怒ることのない人だった。

 気がつけば彼は長い旅に出て、代わりに届くようになった月に一度の手紙。消印は水に濡れたように滲んでいてよくみえないが、きっと旅先から送られてくるのだろう。

 知らない空、知らない大地に知らない人たちに囲まれて。そして、それがきっと父にはよく似合う。

 寂しいけれど、月に一度だけ忘れずに手紙を届けてくれる。その優しさが、小百合の胸を打つ。

(20歳の誕生日まで約束の手紙)

 ほくほくと、小百合は手紙を抱きしめる。

 誠一郎とは2つだけ約束をした。

 小百合が20歳になるまでの間、毎月16日に手紙を渡す。もし旅先であっても手紙を出す。

なぜなら20歳のその日まで、小百合は子供だからだ。子供には親の愛情を受ける権利がある。それが誠一郎の口癖だ。

 そして見事20歳の誕生日を迎えた日には、必ずお祝いをする。世界の裏側や宇宙に行っていたとしても、必ず帰ってくる。

 彼と交わした約束の日まで、あと数ヶ月。

 約束は素敵なものだ。その言葉だけで、小百合はどんなに辛くても頑張れるのだ。

「ケンタ。先にペットショップに行こうか。高いドッグフードを買ってあげる」

 手紙を鞄の奥にそっと落として、小百合は下手くそなスキップで熱された路上に飛び出す。

 鎖が足に絡まり、ケンタが悲鳴を上げた。

「お前、俺だって言いたくって小言を言ってるわけじゃないんだ。ただあんまり向こう見ずなことばっかりするのは……」

「はいはい、ペットショップに行くよ」

 アパートを出れば、すぐそこは道がクネクネ絡んだ六ツ角の交差点。

 太い道を駆け、まっすぐ国道へ。その道を進めば、最近できた大きなペットショップが現れる。

 ケンタが唸ろうが、地面で足を掻いて抗議をしようが小百合は足を止めない。

「そうだ。夏のアスファルトは熱いから、犬用の靴なんてどう? 最近気になってるんだ。でもやっぱり美味しい餌が最優先かなあ」

 目前には、この地区最大のペットショップが燦然と輝いていた。

「知ってる? ペットの餌って、開発会社の人たちが実際食べて作ってるんだって。だから私も今度、ケンタと同じものを食べてみようかな。どう思う?」

 空梅雨の眩しい日差しをうけた大きな建物からは、犬や猫や様々な香りと音が聞こえてくる。

 その声や香りを遠くからでも感じるのか、ケンタはげっそりとした顔で首を落とした。

「お嬢さん、俺はな」

「……ケンタ、心配してくれてありがとう」

「別に心配してるわけじゃねえよ」

 小百合は木陰に入り、じっと周囲を見つめる。暑そうに道を行く人達の間に、車の間に、薄く、白い靄が視える。

 怪談の似合う夏には実際、幽霊も増える。

 もう二度と熱を感じない体に暖かさを取り戻そうとするように、彼らは人と人の間に現れる。

 幼い頃から小百合には見慣れた風景。しかし普通の人間はこの風景を知らない。

 視えない人は呑気だ。

 視える人は孤独だ。

 しかし、幽霊が視えてもいいのだ、声を聞けても異常ではないのだ。

 小百合は誠一郎からそう教えられた。

「でもね、このやり方を変えるつもりはないよ」

 不満そうなケンタの顔を覗き込み、小百合は微笑む。麦わら帽子を目元まで下げて、目を閉じる。

 夏の空気の中、幽霊の声が聞こえる。寂しい、苦しい、痛い、助けて。

 彼らに体の痛みはない。では何が痛むのか。それは心だ。未練がいつまでも彼らの心を傷つける。

「できるだけ、一人でも多くの幽霊を救いたいから」

 孤独は毒だ、と誠一郎はそう言った。

 孤独は息苦しいヘドロのようなもので、溺れると息もできない。

しかしそれを小百合は救えるのだ。救えるのであれば救いたい。そう、思っている。

「……私は大丈夫」

 小百合は身を屈め、ケンタの鼻先にキスをする。ケンタは思わず尾を後ろ足の間に差し込んで腰を落とした。

「おまえっ」

 周囲には人も幽霊も仲良く並んで歩いている。音楽を聞きながら歩く学生も、杖をつくお爺さんも、生きているときと同じ顔。

 なんて穏やかな夕暮れなのだろう。

(今日も、ちゃんと、やりきったよ。誠一郎さん)

 よく頑張ったね。と、誠一郎の声が聞こえた気がする。

 小百合に除霊のいろはを教えた誠一郎は、除霊が終わると必ず褒めてくれた。その声が無くなるだけでこんなに仕事終わりの空気が冷たい。

「ケンタ」

 小百合は足を止めてケンタを見た。

「よく頑張りましたって褒めて」

「はあ?」

「褒めて」

 夕暮れの色に染まるケンタは苦い顔をするが、やがて小さなため息をついた。

「……よく頑張ったな、お嬢さん」

 その声をきいて、小百合はにんまりと微笑んだ。ごまかすように咳をして、ぐんと顔を上げ、駆け足みたいに足踏みをする。

「いい子で待ってて。フリスビー買ってくる。日が落ちたらさ、公園で思いっきりあそぼ」

「……俺はフリスビーに飛びついたりしねえぞ」

「どうかなあ? 犬の本能には逆らえないんじゃない?」

 ケンタは小百合にしかわからない言葉で叫ぶが、その声は周囲からすればただの犬の声。

 通りがかりの子犬たちが、怯えたようにきゃんきゃん泣きわめく。

 動物の声に驚いた車がクラクションを鳴らして去り、ペットショップからは店内の音楽が漏れ聞こえてくる。

「お前っ! あんまり走るな、転ぶぞ!」

「だいじょーぶー!」

 賑やかな空気の中駆け出した小百合の姿を、ケンタだけが見つめていた。

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