第六楽章~返済~
「今回の仕事がここで終わりってどういうことですか?まさか、久々湊さんに同情して返済してもらうのを諦めたんですか?」
あやめは慌ててそう尋ねた。百万円近い金額を諦めるなど、もったいないというレベルの話ではない。また、借りたものを返さないですむというのは、恐らくだが長い目で見れば免除された方も本人のためにならない。
だが、誠の返事は違った。
「いえ、そうじゃないんです。返済があったんです。つい先ほど」
にわかには信じられない内容だった。
「本当ですか?」
「本当です」
「全額ですか?」
「全額です」
「……ちょっと待ってください」
思考が落ち着かない。どうも照と出会ったあたりから混乱してばかりだ。
深呼吸を一つ。
「どういういきさつで返済が済んだんですか?」
その質問に、少しの間を置いて誠は答える。
「いきさつというほどのことはないですが……。ついさっき、昼休みに照さんが突然私の職場に現れて、ぽんと現金で全額を返済していったんです」
「お金はどうやって用意したんでしょうか?」
「わかりません。何も言わずにすぐまた消えちゃったんで、そのあたりは全然聞けてないです」
肝心なところが分からないままということか。
「ですから、雫石さんにお願いしていた、照さんからお金を返してもらう、という仕事はなくなったんです……」
誠は何か言わんとしている。その内容はあやめにもなんとなく理解できた。
「雫石さん、もし可能だったらですけど、引き続き照さんのことを……」
「それはできません」あやめはきっぱりと言い切る。「返済が終わって債権者と債務者という関係が終わってしまった以上、仲町さんと久々湊さんはもはや何の関係もありません。ただの他人です。ですから、何の関係もない久々湊さんのことを仲町さんの依頼で私がどうこうすることはできません」
そう、もはや照のことは誠がどうこうできることではない。であれば、誠の行為を代理するあやめにとっても、誠のことは不可触の領域だ。これで結論は間違っていない。
「そう、そうですよね。もう僕にも雫石さんにも、照さんのことはどうしようもないですよね……でも……」
誠は納得しきれない様子だ。
「仲町さん、あなたは人が良すぎます。あなたは久々湊さんにお金を貸していただけです。ですから、仲町さんがするべきことは、自分のお金を確実に回収することだけです。それが済んだ以上、仲町さんは久々湊さんのような問題の種になりかねない人物とは今後関係を絶つのがベストです」
「……」
誠は沈黙する。大丈夫、理屈として自分は間違っていない、とあやめは確認する。
「問題ありません。例え仲町さんに返ってきたお金が他から新たに借金をしたお金であったとしても、仲町さんには何の責任もありません。法律上はもちろんのこと、道徳的にも全く責任はありません。ですから、安心してください」
そう言うと、ようやく誠から反応があった。
「そうですね。確かに、雫石さんが言っていることは正しいと思います。僕がおかしなことを考えていました」
あやめは少しほっとする。大丈夫、自分の理屈に誠のお墨付きがついた。
そう思った瞬間、あやめは駅のすぐ近くの人の往来が激しい場所で立ち止まったまま通話をしていたことに気づく。道行く人が邪魔そうにあやめを追い越していく。慌てて道のわきへと移動する。
「今日までにかかった費用が分かったら請求をください。それではどうも、色々とありがとうございました」
誠はそう言って電話を切った。あやめのスマートフォンからは、ツー、ツー、という一定のリズムで音が発せられるだけになった。
終わったのか、と思う。わざわざ病院まで行ったというのに、あまりにあっけない幕切れだったような気がする。こんな形で今回の件が終了するだなんて―
あやめは通話画面を切り、名刺入れを開くと、如月修二と書かれた名刺を取り出す。
プルルル、ガチャ。
「はい、如月医院メンタルケアです」
「先ほどお邪魔した弁護士の雫石あやめというものですが、如月修二先生に言伝をお願いしたいのですが」
「あ、雫石さんですか?私です、高槻ノエルです」
電話に出たのはノエルだった。電話口では口調が変わるので判断できなかったが、そうだと判れば声のトーンが確かにノエルのそれだ。
「ああ、ノエルちゃん。さっきは色々と教えてくれてありがとうね」
「いえいえ、いきなりご飯に誘ったのに受けてくれて、こちらこそありがとうございました。それで、修二先生に何て伝えれば良いですか?」。
「今度患者さんを連れて来るからお願いしたいって言っておいたんだけど、色々あって、連れていくことが出来なくなりました、申し訳ございませんでした、そう謝っておいてくれないかな?」
おかしな話だとは思うが、照と出会ってからあやめはおかしなことばかりしているので、もうそういった感覚は薄れてきていた。
「え?久々湊さん、来なくなったんですか?」
どうやらノエルはおおよその話を知っていたようだ。誠から聞いていたのかもしれない。
「そう。さっき仲町くんから連絡が入って、突然返済がなされたから、私の出番がなくなったってわけ」
電話の向こうでノエルが黙り込む。仲町と同じことを考えているのかもしれない。付き合う相手は似た相手を選ぶことが多いと言われることが多いが、ノエルも仲町と同じで他人を放置できないタイプか。
「私もちょっと気がかりではあるんだけどね。あの様子だったら、どうせまたすぐに仲町くんから借金することは目に見えてるからね。仲町くん、人が良いからなんだかんだ断れないんだろうし、また同じことが繰り返される可能性は高いかな」
そう、その可能性は高い。しかし、これはビジネスなのだ。
「分かりました。修二先生には確かに伝えておきます」
「ありがとう。よろしく頼むわね」
あやめは電話を切った。ポケットにスマートフォンをしまって改札を抜ける。
そう、これは仲町から依頼を受けた弁護士として考えれば、一つのハッピーエンドだ。経緯に自分の力がどの程度関係しているかはともかくとして、仲町が借金を回収できれば結果は問題ない。しかし、どこかもやっとしたものが残るのはなぜか。
不思議に思いながら、あやめは発射寸前の列車に駆け乗った。