第二楽章~生活~
アパートは東京競馬場から歩いて十五分程度の場所にあった。特別変わったところのない男単身用のアパートといった感じだ。
「ウチに来たって何にもねえって」照はここへ来るまでにもう何度も同じことを言っている。
二階建てで上下階を合わせて八部屋すべてがワンルームとなっている。誠の部屋が1階の西側角部屋で、照の家はその真上にあたる。
「ふうん、確かに余分な資産は持っていなさそうね」アパートを見てあやめは呟く。
「いいから早く来いよ。こんな外から見てるより、中に入って見たほうが早い」
そう言いながら照は階段を上り、自分の部屋を開ける。鍵穴はあるのだが、差し込むことなくドアノブを回すだけで扉を開ける。
「あら?意外にも扉はスマートロック?」あやめは意外に思う。
「いえ、鍵は普通の施錠式ですよ」誠も不思議そうに呟く。
「馬鹿言え。盗むようなもんが何もないから鍵をかけないだけだ」
照のその言葉に、二人は唖然とする。いくら盗むものがないと言っても、首都圏の住宅で鍵を掛けないという人間がいるとは信じがたい。
「ほら、論より証拠だ」
促されて、誠、その次にあやめが部屋に入る。
「ハハ……」
誠とあやめは想像を絶するの光景を目の当たりにする。そこには、「生活感のない」などという生温い形容詞では表せないほどに何もない光景があった。「生活感がない」、ではない。「生活がない」、のである。空き部屋の中央に、一つぽつんと寝袋が転がっているだけだ。
「なっ!何もないって言っただろう」自慢気に照は胸を張る。
「こ、ここに本当に住んでいるんですか?」誠は思わずそう尋ねていた。
「何言ってんだ。お前は一緒のアパートなんだから、俺が度々ここに出入りているのを見ているじゃないか」
「それにしたってこれは……」
「そんなに驚くなよ。着替えくらいはクローゼットの中にちょっとあるぞ」
「洗濯は?」
「近所のコインランドリー」
「お風呂は?」
「サウナに行く」
「食事は?」
「外で食うに決まってんだろ」
照と誠の一問一答を呆けた状態で聞いていたあやめだったが、どうにか気を取り戻したて、気仕切り直すように軽く咳をした。
「コホン。生活において無駄がないことはわかりました。ではお尋ねしますが、お仕事は何をなさっているのでしょうか?」
その質問に、今度はなぜか照が呆ける番だった。
「あの、お仕事は何かと……」返事のない照はあやめは再度言う。
しかし、照は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたままである。
「仕事って?」照は鸚鵡返しに聞きなおす。
「仕事は仕事です」あやめもトートロジーに陥る。両者の間に横たわる常識の壁がお互いを混乱させていた。
「仕事って言ってもなあ……」照は困ったように頭を掻く。
「していないということですか?それなら無職ということになりますが、それなら生計はどのようにして?貯蓄を取り崩しているのですか?」
「いやあ、貯蓄なんてねえよ。通帳を持ったことすらない」
やはり会話がイマイチ噛み合わない。
「雫石さんはどうやって生活に必要なお金を手に入れているか聞きたいんですよ」
誠が明らかに不必要と思われるフォローを入れたが、どうやらそれが正解の行動だったようで、照はポンと手を叩いた。
「ああ、なんだ。そんなことか。それだったら、さっき見てたじゃないか」
「さっき?」
あやめはここに来るまでに見てきたものを思い返した。途中にあったコンビニの店員?工事現場の交通誘導?それともこのアパートが所有物で不動産所得を得ている?
しかし、照の次の言葉はあやめの全ての想定を払いのけた。
「競輪や競艇、オートなんかも好きなんだが、府中だとあそこが一番近いからなあ。土日はほとんどあれだよ」
あやめ、再びフリーズ。今度は誠も一緒だった。
「テラ銭で言えばパチンコやパチスロもいいんだけど、ずっと座ってるとケツが痛くなっちゃってさ。俺にはあんまり向いてないねえ」
そう言って楽しそうにカラカラと笑う。
「ん?どした?」
フリーズの解除は誠の方が早かった。
「つ、つまりギャンブルで勝っているから働く必要がない、と。いやあ、さすがだなあ、照さんは」
「勝ってないぞ」
その言葉に、二人三度フリーズ。
数秒置いて、「は?」とだけあやめが発する。
「勝ってないって。最後には必ず負けてるよ。不思議だよなあ。世の中の物はすべて上から下に落っこちるようになってるはずなのに、金は下々の俺達から上にいる誰かさんのところに流れていくんだから」
思考が混乱する。負けているギャンブルを堂々と仕事と言ってのける(厳密には仕事とは言っていないが)照の精神はどうなっているのか。
「ちょ、ちょっと照さん。質問の答えになってないですよ。さっき生活に必要なお金はギャンブルで稼いでるって言ったじゃないですか。負けてたら、生活ができないはずでしょう?」
ごくごく常識的な質問なのだが、照は誠に対して「馬鹿だなあ」という顔をした。
「ギャンブルなんだから、最終的には負けるにしても途中で勝つことはあるだろ。その勝った金で生活してるんだよ」
やはり照の理論は常人の理解の枠外にあった。仕方がないので、あやめは照に理解できるように、かつ自分達も理解できるように言葉を選んで質問をしていった。
「負けた場合、次の元手はどうしているんですか?」
「どっかから借りる」
「仲町だけでなくあちこちから借金をしている、と」
「そうだな」
「具体的には何人から借りていますか?」
「覚えてねえな」
「返済は一切していない、と」
「違う違う。返せって言ってきたら返してるよ。今はその数が多いから、うるさい順に返してるだけで。だから、次は誠に返すよ。弁護士まで呼ばれて、今こうして面倒になってるからな」
「その返すお金はどうやって工面するのですか?」
「だから勝った時は手元に金が残るだろ。そっから」
「つまり、お金を借りてきてギャンブルに注ぎ込み、それで勝った場合はそこから借金を返済している、と」
「そういうこと」
あまりに破綻しきっているその生計のあり方に、誠は絶句する。しかし、実際にはあやめの方がショックが大きいらしい。メモを取る手が震えていた。
「仲町さん、こんな状態の人にお金を貸していたんですか?これはもう、あなたにも非があると思わざるを得ないレベルですよ」
「い、いや。ここまでだとは思っていなくて……。あと、途中で病院に行く金が要るからって言われたもんだから、何だか可哀そうになって貸してしまったというのもあって……」
「病院?」
「ええ。治療で精神科に通っているはずですよ。僕の彼女が病院で受付をしていますけど、確かに来たことがあるって言ってましたし」
あやめは意外に思う。確かに照の生活は病的なものだが、本人に悪びれるところが全くないので、その改善を考えているとは思ってもいなかったのである。
「なるほど。治療の意思はある、と。どうでしょう仲町さん、このまま久々湊さんの返済の意思に任せていても返済は難しそうですし、ここは一つ久々湊さんにきちんと治療を受けてもらって、それから堅実に返済していただくほうが、回収としては確実なように思います。」
「いや、返すって……
「いかがですか?仲町さん?」ガン無視。
仲町は少し考えたが、提案を飲むことにした。このまま借金がかさんでしまえば、貸した金が返ってくる可能性はますます低くなっていく。もし状況が悪化して照が破産してしまえば、最悪1円も返ってこないということになりかねない。それよりはまだ、時間がかかってでも返済の可能性を上げたほうが得策である。
「そうですね。そのほうがいいと思います」
「では、久々湊さん。次回の受診日を教えてください」
しかし、その問いに返ってきた答えは、二人の期待を完全に裏切るものであった。
「行かねえぞ。医者はもう俺のこと匙投げてるから」
二人は「現在も継続治療中」という前提で臨んでいた自分達の軽率さを呪った。