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第6章「過去」14


 先程まで涙を流しながら眠っていた人間が、目を見開いたまま石造りの道路に転がっている。そして脇に横転した大型車。交通事故だと瞬間的に理解したが、肝心の被害者は自身の頭から湧き出る血にまみれながらも、その仰向けに倒れた外見は、信じられない程損傷がなかった。

『運転手の不注意からの事故だった。あいつは倒れた時に頭をぶつけていて、数時間後には息を引き取った』

 病院、墓地と、ころころと場面が変わる。

 雨が激しく降るなか、遺族や友人達に紛れて、彼も恋人の遺体が埋葬されるのを見ていた。冷たい、深海を思わせる深い青の瞳は、もう地中に埋まってしまった愛しい人に注がれている。

――っ?

 周りの人間達が泣きながら帰っていくなか、彼だけは無表情にその場に立ち尽くしていた。ヤートはそんな彼に異常な空気を感じとった。戦場で感じる悪寒とはまた違う、愛情からくる狂った執着心……

 彼は周りに人間が居なくなったのを確認すると、素手で一心不乱に恋人の墓を掘り返し始めた。彼にとっては、雨で地面が柔らかくなっていたのが幸いした。手を血まみれにしながら、何時間も掘り続けた末、彼は愛しい人の死体を腕に抱くことが出来た。

 死体は、死んでいるとは思えない程美しかった。まだ亡くなって数日しか経っておらず、本格的に腐敗が始まっていなかったからだ。彼はその美しい死体を背中に担ぐと、雨によって人通りの無くなった道を歩き始めた。

 その行為に、ヤートは嫌な予感がした。

 今までの経験からすると、これは彼の根本に関わることで、彼の根本とはすなわち、死体愛好者ということではないのか?

 朝早くから埋葬があった為、時刻はまだ夕方だった。彼が家に着いた時には、両親はまだ帰っていなかった。

 彼は自室としておそらく二階の寝室――これは先程のベッドがあった部屋だ。窓の向こうに道路は見えなかったので、“おそらく”二階だろうと判断した――と地下室を使っているらしく、死体を抱えたまま迷わず地下室に向かった。彼が、右手を伸ばして壁にあったスイッチで地下室の明かりを点けた。

 地下室は殺風景な空間だった。寝室より高級感の劣るベッドと、音楽を聴く為の端末があるだけ。壁はコンクリートが露出しており、床には申し訳程度に黒色のカーペットが敷かれている。入り口側の壁には、右側に照明のスイッチが、左側には空っぽの棚が置いてある。

『あいつの死の瞬間を見ることが出来なかった俺は、あいつの身体があれば死んでいることにはならないのではないか、と思い込もうとしていた。大好きなあいつの身体をずっと抱いて、その冷たさには気付かないふりをした』

 ベッドで死体の服を剥ぐ彼の背中には、狂気と寂しさが同居していた。見ているこちらも胸が締め付けられ、同時に寒気にも襲われる。

 不思議な恐怖感だ。人間の愛情とはここまで大きく、真っ直ぐで、それでいて恐ろしいものなのか。彼の透き通った深海の色を湛える瞳は、墓を掘り返した時からずっと愛しい人間へと向けられていた。

『俺は、あいつはまだ生きていると自分に言い聞かせていた。だから、大事なことを忘れていた』

 部屋が暗闇に包まれた。一瞬証明が消えたのかとヤートは思ったが、どうやら時間が進んでいるらしい。流れる景色のなか、彼はあろうことか平然と学校に通っていた。地下室に制服姿のまま戻ってきた彼は、ベッドに寝かしたままの死体に笑顔で近付く。

 だが――

「――うわあぁあっ!!」

 悲鳴に近い声を上げて、彼は死体を抱き上げた。力の入らない死体は、意識のある人間より余計な重みを感じる。しかしこの時から身体の骨格がしっかりとしていた彼は、そんなことなど全く感じさせない手振りで、自分と同じくらいの背丈の死体を抱き上げている。

 彼が持ち上げたことで、ヤートからも死体の異変がよく見えた。いくら美しかった死体も、極論を言えば生ものだ。地下室という空気の悪い場所に長時間放置されていたせいで、遂に死体が腐敗しだしたのだ。

 今はまだ表皮に穴が空いている程度だが、肉全体が削ぎ落ちるのも時間の問題だろう。彼は慌てて部屋を出て行くと、すぐに液体が入ったバケツを持って戻ってきた。ヤートが怪訝に思っていると、彼はその液体を死体にぶちまけた。

『たまたま父親が芸術家に作品作りを習っていて、家にあった防腐用の薬剤をぶっかけた。腐敗を防ぐには周りを薬剤でコーティングしないといけない、という学生らしい考えからの発想だった』

 すぐに腐敗の異臭は鼻につく臭いに変わり、彼は死体に万遍なくコーティングを施した。その時に死体の、特に顔面を念入りに撫でつけていたのが、彼の執着心を現しているような気がした。

『付け焼き刃の対応策は、思ったよりも成果があった。高級な材料を使ったからかもしれないが、とにかく安心した』

 彼は死体の萎んだままの部分を優しく撫でながら、コーティングによってツヤツヤと光る死体の表皮に舌を這わせる。性的な反応が返ってこない死体相手でも、彼は充分に興奮しているようだった。しかし欲望に任せ貫こうとしても、硬直により硬く閉ざされた死体相手には無理があった。

『あいつが死んでいないと思い込むことに成功した俺は、次は性欲の処理に困った。表皮全体はコーティングしても、空洞の部分から腐敗は進んでいた。口の中や、ましてやケツなんて、腐敗によるダメージと冷たさで我慢出来るものじゃなかった』

 やがて彼はズボンのベルトに差していたナイフ――学生が普段から持ち歩いていて良い物ではないはすだ――を握ると、死体の下半身に突き立てた。

 何回か突き立てると、彼が望む通りの“欲望の捌け口”が完成していた。血流が止まった死体からの出血はほとんどなく、彼は満足そうにそこに自身をあてがう。

『俺はわかっていたんだ。あいつが死んでるってことを。そうじゃなけりゃ……』

 何度目かの摩擦を味わい、彼は歪んだ欲望を死体に吐き出す。

『あいつの身体にこんな酷いことをするはずがない』


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