#089:大枚で候(あるいは、騎士道シクスティ/ナイナー)
薫子殿の病室を辞す。糸が切れたかのように、ふ、と意識を失った薫子殿の容態をざっと調べるや否や、小浮医師は端末にて誰をか呼び立てるような会話をしながら、我々を室外へと追いやってきたのであった。
その顔貌には、先ほどまでの逡巡や怖れのようなものは欠片も見当たらない。ひとりの医師が、最善の医療を尽くそうとせんばかりの、気高くも真摯なるものが宿っているだけであった。
看護師が何やら物々しい装置のようなものを押してきたりして、にわかに慌ただしくなってきた廊下を通り、我々五人は建物の角に設置された「談話室」なる簡素な机と椅子が置かれたスペースに落ち着く。二方向に大きく取られた窓からは、湾岸の青き風景が広がっている。
ほらよ、と、ギナオア殿が片隅に設置されていた「自動販売機」なる機械で買い求めた、薄い褐色の液体が満たされた瓶を、私の胸元目掛け放ってくる。
何とか両手で受け止めた私は、礼を言うのもそこそこに、栓を捻って、そのひんやりと冷えた茶らしきものを、乾ききった喉、そしてその奥へと送り込むのであった。
とにもかくにも、やるべきことは見えてきたような気がしていた。しかし、どうにも引っかかっているところが、私にはある。
む、甘くないのか。しかしこれはまた清涼なる飲み物である、と、私にはまだ全て読むことは叶わぬ漢字にて書かれたラベルを矯めつ眇めつしていると、
「ひとつ、聞きたいことがあるのだが」
同じく甘くなき茶に怪訝そうな顔をしながらも、姫様はそうギナオア殿に疑問を呈されたのである。私の思うところと、同じことであろうか……
激情の波は去り、赤く腫れた目の周り以外は、いつも通りの冷静なる姫様の御顔に戻られていた。いや、先般のごとき無感情というわけではない。内なる奔流のごたる想いを、確固たる意志で抑え込み、それを真っすぐなる動径へと昇華させたような……並々ならぬ気が静かに沸き立っているかのような、そんな御顔なのであった。
どうしたい姫様、とギナオア殿はまるで今から為されるその問いを、見通しているかのような、そんな口ぶりで言う。あくまで力は抜けており、何と言うか、全てを達観しているかのような、運命の先を見通さんばかりの、そんな言葉なのであった。
そんなギナオア殿の前に立つと、姫様は……こちらはと言うと、見えない先を臆せず見据えて、運命も全て呑み込んで未来へと進もうという気概しか感じられぬ御表情のまま、御口を開かれる。
「……『10億円』と申したな。それを積むと。しかして、さなる大金が何処にあろうと言うのか」
然り。私もそこが最も気になりし所であった。だがその御言葉に、ギナオア殿は、例のくっくという笑いで応えると、おもむろに驚愕の言葉を紡ぎ出していくのであった。




