#088:覚悟で候(あるいは、ディタミナツィオーネ/大いなる)
「あ……あ……」
小浮医師は最早頭を両手で抱え込んだまま、途切れ途切れの呻きのような声を半開きの口から発するだけに至っているのだが。
病室の面々は、その医師の挙動に着目し、めいめい黙ったまま、何かを待っているかのような体だ。廊下からストレッチャーだろうか、軋む車輪の音と慌ただしい足音が重なって聴こえている。
「俺……は、俺……は」
譫言のようにそう繰り返す医師の震える肩に、骨ばった手がぽんと叩くかのように乗っかった。
「どうでえ大将、『やれること』があっただろうが。やれること、いやさ、お前さんにしか出来ねえだろうことがよぉ」
窓際から一歩近づいたギナオア殿は、時折見せる、何にも縛られていないような顔つきで静かにその小さき白衣の背に語り掛けている。
「が……し、か……し」
ぼさぼさの髪を鷲掴み、苦悩の表情を浮かべたままの小浮医師。薫子殿の生命を救えるのが、この医師しかいないのならば。
「……」
この私からも、伏してでもお願い申し上げる他はない。拙きながらも日本の言葉で、この医師に訴えかける他はないのだ。
そんな決意を込め、私のその医師の側へと近づこうとした、その時であった。
「ポゥレ=ラィ」
姫様であった。姫様が素早き動きにて、その医師の前に歩み出てそう切に訴えられたのである。しかし、度重なる緊張と先ほどの慟哭によって、そこで御力が尽きてしまわれたのであろうか、御両膝が、がくりと折れて前にお倒れになりそうになってしまう。
姫様っ、とモクと私が踏み出すよりも早く、小浮医師の、髪の毛を掻き毟っていた両手が、つんのめってきたその華奢なる両肩を掴み、何とか受け止める。
一瞬の沈黙。しかし、白衣の襟元にすがりつき、医師を見上げる姫様の御顔には、ひとつの、ただのひとつの思いしかないように私には見えた。
「ポゥレ=ライ……ポゥレ=ライ、アマロ、サラトリオァっ」
やはり、言葉など無力であった。姫様が紡ぎ出したそれらの言葉の意味は、それに相対した者が分かろうが分かるまいが、どちらでも関係は無かったのであった。
ポゥレ=ライ……と力無く繰り返すだけになった姫様の御顔を、小浮医師はその髪の脂でコーティングされていそうな眼鏡のレンズの奥から、ひどく凪いだ目で見つめていた。体の震えもいつの間にか止まっているように見える。そして、
「……アオナギ、諸々の手配は頼む」
身じろぎもせず、小浮医師はその小さな体の奥底から熱を持った、しかして凪いだ言葉を滾らせるのであった。
「薫子さん、俺は全精力をかけて、あなたの死にかけている心臓を生き返らせてみせるよ。でももし……」
小浮医師は、姫様の体を放すと、薫子殿に真正面から向き合う。
「もし手術の途中でダメになりそうだったら、そしたら俺が最期まで責任を持って、あなたを殺し切ります。誰にも触らせない。止まって冷たくなって固まってしまっても、俺の手で切り刻んだ心臓をずっと温め続けるから。あなたの魂が完全に天に昇ったと、そう思えるまで」
「死ぬ」や「殺す」の、医療における禁句は、少なくともここでは意味を為さなかった。ひとりの男の覚悟が、不動なるジラマ山が如く、屹立しているだけであった。
私は先ほどから滲む視界に往生しながらも、その気高き姿を網膜に焼き付けようとしている。




