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#087:未踏で候(あるいは、切った張ったの/天井ハイローラー)


「し、しかし!! そんな短期間に……いやそれもそうだが、何より費用ってものがかかるだろう……っ!! うちにそんな余裕は……」


 小浮医師が、興奮を押し殺してそう言葉を絞り出すものの、一縷の望みをギナオア殿の濁ったその目に見たのか、短き両手を伸ばして、詰め寄ったひょろ長い体躯の胸元を掴み上げている。


 そんな剣幕を肩をすくめる素振りでいなすと、ギナオア殿は鼻から息をつくのと同時にさしたる力も込めずにさらりとこう言い放ったのであった。


「10億を積むぜ。文句はあるめえ。それでどうにかなるか、ならないかは、運、あるいは運命と諦めるしかねえが」


 ギナオア殿の言葉に、小浮医師は一瞬気圧されたかのように黙りこくった。私も「10億円」という金額の多寡を、我がボッネキィ=マの通貨ゲヘナムに換算したところで思わず息を呑んでしまう。王宮がもうひとつほど建つほどの額……、と、


「どうにかなるかならないか……か。アオナギすまない、金の……話は、逃げだ。情けない話を聞いてくれ。俺は単に怖ろしい。バイパスだ何だと偉そうに可能性を述べていたが、俺はまだ一度しかその症例を扱ったことが無いんだ。それにここまで重篤な症例……万全を尽くしても……」


 小柄な医師は絞り出すような声を喉奥から発すると、俯いてしまう。


その時だった。


「センセ、私を手術してくれない」


 ギナオア殿の風のような言葉に負けぬほど、そしてさらに清浄なる息吹のようなものをもって室内に響いたのは、姫様をその胸に抱き留めたままの、薫子殿の相変わらずのからりとした声であった。


「薫子さん……」


 小浮医師や私共が視線を上げたその先には、聖神像ザニアロのような達観した微笑を湛えた、死の際に面しながらも、いまなお穏やかな輝きを放つかのような、ひとりの人間の姿があった。


「いつ死んでもいいと思ってたんだけど、気が変わった。こんな可愛い孫娘を残してさ、抗わないでおめおめと死んでいくなんざ、やっぱし出来やしないよ」


 私は逐一を、姫様に向けて小声で訳していく。それしか出来なかった。薫子殿の胸から離れた姫様は、泣き濡れてぐしゃぐしゃになった顔のまま、それでも一言も漏らさず聞き取ろうと、私の顔を真っすぐに見つめてくる。


「しかし……繋げるかどうかは五分だ。それに術中、一度止める心臓が、術後再び動き出すかも、可能性は、全て低いんです……」


 感情を殺して、敢えてそのような言葉を紡ぎ出す小浮医師だが、それを遮るかのように、薫子殿の芯のある言葉が響く。


「殺す気でやっておくれよ」


 その物騒なる言葉に、私は思わず訳する言葉を失ってしまうが。


「……ここまで私を生かしてくれたセンセに殺されるなら、本望。それにねぇ、そこまで分が悪い話じゃないと踏んでいるんだ。顔の長い兄ちゃんが10億を張るんだろう? 勝算は高いと見た。なら私もそれに乗っからせてもらうよ、てめえの命をてめえで張るんだ、外野に四の五のは言わせない」


 薫子殿の決然とした、だが力のまったく入っていないように聞こえるその言葉に、小浮医師はまた全身を震わせ始める。一方、


 ババアは博打打ちだなぁ、とギナオア殿が含み笑いで言った言葉に、あたぼうよぉ、こちとら筋金入りだい、と薫子殿もにやりとした笑顔で返すと、二人でくっくっと笑い声を発するのだが。


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