#084:涼風で候(あるいは、サウザンフレーズ/ブレイザー)
小柄な医師(『小浮』というらしい)の話は続く。
「……思い切ってバイパスをやればもしかしたら、とは思うが、ここには設備が無い。搬送するにしても、ここからいちばん近い所が浜松だっていうんだ。とてもじゃないけど、そんな距離、車だろうとヘリだろうと、あのばあちゃんの体が保つわけない。今だって、装置に繋がれていなければ、呼吸すらままならない状態なんだっ」
小浮医師は、がしがしと右手で自分のもさもさの髪の毛をかきむしりつつ、そう言う。私はとりあえず姫様には、おばば様の容態が重篤である旨を告げるに留めた。
姫様は何かを言おうと御口を開いたものの、結局御言葉は発せられず、またも固くその御唇を結ばれる。その様子をちらと見て言い淀んだものの、小浮医師はぽつりと言葉を紡いだ。
「それに……本人がもう、延命を望んでいない」
ひどく虚ろに、その声は響いた気がした。
「もう……施せることはない。やれることが……無い。ただ、その時を……迎えるまで、少しでも苦痛を和らげることしか我々には出来ないんだ」
そう言ったきり、医師は俯いて肩を落としてしまう。ようやく周りの喧騒が戻ってきたように感じられるが。
「……やっぱ、お前さんに任せて正解だったよ。他の医者じゃあとっくに殺しちまってる」
ギナオア殿は相変わらずふんぞり返ったままで、そんな言葉を発した。いや何、そのばばあの娘婿からのたっての願いで俺が噛んでたんだがよ、そんな風に続けられる言葉は、この場の雰囲気にそぐわないほどに、しかしその重々しい空気を薙ぎ払うかのように吹き抜ける。そして、
「身内だったら面会させてくれんだろ? ここにおわすのは紛れも無え、柏原のババアの孫娘よ。遥かアフリカの、地球の裏側くんだりからはるばるやって来たんだ、向こうはもうわけ判んねえだろうが、ひと目会って、死に水取らせるくれえは構やしねえだろう」
物騒な言葉に、小浮医師は周りを伺いながら慌てるが、わわわかった、オレが直接案内するから、もうここで喋るな、とギナオア殿を制すると、立ち上がり、こ、こちらへ、ぷりーず、と我々をも誘う。
「……」
巨大なエレベーターは奥行がやけに長かった。我々は言葉を発することもなく、ただただ目指す三階へと到着するのを待つばかりであったが、そこに姫様の声がかぼそく響き渡る。
「おばば様にお会いして……わらわは何を言えばいいのであろう」
誰かに尋ねたようにも、自分の中の想いが漏れ出たようにも聴こえた。
「そもそも……これが初めてだ。それに重篤なる状態……それも心臓、であれば……下手に逢って動揺などをさせぬ方が、おばば様の為なのやも知れぬ」
その言葉に、我々は返す言葉を持たない。が、
「お前さんは、ばばあ様にただ会いたくて日本まで来たんだろう? 土壇場でいろいろ考えても埒があかねえよ。何も考えず、ただ会う。そのことに、上手いも下手もありゃしねえのさ」
ギナオア殿はまたも清浄な風を吹かすかのように、そう軽やかな言葉を紡ぐのであった。
「それによ、小浮の旦那よぉ」
そして、背中を丸めたままの医師にも声を投げかける。
「『やれることが無え』とか言ってたな。なこたぁ無えよ」
重そうな鉄の扉が、結構な音を立てながら左右に開いていく。




