♭310:エピローグ中間、かーい(あるいは、もったり水窪ワカクサの諸事情)
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降り立つ。彼の地へ……
「いや暑ぅ」
旅情感を滲ませつつ、自分の中で自分を盛り上げようと画策しておった私だったけれど、飛行機からコンクリの地面にラメる黒いシューズ底面を付けたか付けないかのうちに、身体の前面からぼひゃと巻き付くようにして叩きつけられてきた乾燥した熱気という奴に脊髄を刺激されるようにして発せさせられた言葉が反射的に声帯を震わせるけど、それもまた熱風にかっさらわれていく……
カタールやね。ドーハの悲劇やね。
なけなしの知識は乏し過ぎて自分でもこの暑さの中で悪寒を感じてしまうけれど、ここはまだ中継地点で、ここからアフリカ、ルワンダは首都キガリまで、またもチャーター便での快適な空の旅が待っているそうで。
乗り継ぎ待ち四時間がむしろ短ぇなおい、と思わせるほど空港内はゴージャスなレストランやらラウンジで寛ぎアンド癒しの堪能空間であった……人工池から跳ね出る噴水の飛沫の煌きが天井に鏡に映って幻想的やわ……みたいなことを思いながらほどよく空調の利いた仮眠スペースでゆったりしたソファに寝そべりながら、既に爆眠状態のもうすぐ一歳になる娘の奏奈が全身でかけてくる体重をお腹で受けながら、ふう幸せばい……とのありきたりにもほどがある寸感を声にならない声に乗せて何かの柑橘系アロマが漂う空間に漏れ吐き出すけれど。
かあさん、僕は翼ェの兄ちゃんとこのハマド空港のビジネスラウンジの探検に行ってくるよ、とより戻してからは子煩悩そのものになった誰かに似たのは明らかなんだけど、何とも真面目くさった構文調の台詞みたいな喋りは何とかならんかな……と思いつつも、早くも秀才の片鱗を惜しげもなく開花させ始めた五歳の息子、聡太が普段よりも生き生きとした目をしていることにやっぱ来てよかったわ、というこれまた平凡に過ぎる感想を頭に思い浮かべるのみなのであった……
いや、ありきたりが一番、平凡こそ至高……
夫の仕事はうまくいっているようだけど、休みはちゃんと取ってくれるようになっていたし、何より子供たちを第一に考えているように思える。もちろん私に対しても。もう文句をつけたらあかんレベルの満たされ方なんだけど、心の奥の底の底の方で、なんか燻っているような度し難い私がいることも、見ないようにしつつ自覚をしていたわけで。
カジノのディーラーの仕事はここ二年ほど、産休育休を理由にずっと休職の体でやっていない。いやでも主任のことを思い出してしまいそうだし、そんなメンタルで務まるもんでもないから、もういいか、と思っている。でもその分、どこかで満たされていない、満たされることのない自分がいるのも確かであって。
そんな、どこか自分の一部を地べたに引きずったまま歩いているような状態の私に、予期せぬお誘いの豪華な書状が届いたのは一か月ほど前のことだった。
「即位の儀」……何とも浮世離れした文句に、私の心は躍った。姫様……
もうあれから結構経つのか。あれからいったい、姫様はどうしたのよ。表情あんま見せなくて取っ付きづらそうだったけど、最後の最後では「ダメ」に染まっているように見えたけど? 何らかあの「祭典」で掴み取ったものはあったのかねい……?
おばあさまの事も、結局手術がどうなったのだの、そのあとどうしたの、とかは分からずじまいだったわけだし。まあ当日のセレモニーはてんやわんやの忙しさだとは思うけど、その辺、その後でも少しでも話せたらいいなあ……
忙しい夫は日本に置いてきちゃったし、私に急ぎの何かがあるわけじゃあない。しばらくはアフリカの自然に囲まれ、のんびりするのもいいかもね。
これからのことはこれから考える。「これから」が自然と考えられるようになった私の、それが今の心情、信条だ。体の不具合が治ったわけじゃあないけど、そうなったらそれまで、それまで悔いの無いように生きるまでだと思っている。七年前、雑居ビルの屋上で柵を後ろ手に掴んでいた私はもういない。
いるのは、かけがえない家族に囲まれて、一日だったり、一か月だったり、一年だったり、それよりも先のことをぼんやりと考えつつ、日々を何とは無しに送っている自分だけだ。
度し難く、ダメな私だけなわけで。
みたいなまどろみが、私から詮無い思考を引き出していく中、ふいにお腹辺りにじんわりと熱いものが広がっていく……
がばと私から起き上がった娘の、気付いてべそをかき始めの微妙な表情を下から見上げ、見とれながら。
何でもない何でもない大丈夫、と歌うように囁きながら、その小さな手を取って立ち上がらせつつ、お手洗いの場所を探し始める。




