♮020:霊感ですけど(あるいは、ほの明るい/イドの底から)
ようやっと、雑務の波が沈静化したのが、午前零時。朦朧とした頭で仕事を締めようとするも、シャットダウンと間違えて再起動してしまうという余計なロスを経て、やっと今日が終わる。
事務所に残っていたのはジョリーさんと僕だけになっていた。帰る旨を告げると、運転前にちょっとしゃっきりしていきなさぁいん、と、デスク下の専用冷蔵庫から謎の小瓶が取り出される。
500mlのPETくらいの高さだけど、やけに細い。中に満たされている液体は気泡を含んでいて、傾けると、とろりとした質感を持ってることが分かる。何だろうこれ。でも、ジョリーさんの差し入れに間違いがあったことなんか無いわけで、僕はその樹脂製の角ばったフタを捻じり開けると、ぐいと一気にそのとろみ液体を若干吸い込むようにして口中に送っていく。
「……!!」
途端に沸き起こる爆発的なミント感。アイトニムのギガスマッシュを液体にしたような、強烈な清涼感がまず舌と上顎を駆け抜けていき、飲み下したそばから、食道から胃に至るまで「清涼の道」が出来たかのように実感させられる。
そんな感覚を与えた後は、すんなりと収まっていき、後口は残らない。うん、これは目が冴えた。凝り固まっていた身体も少し刺激を受けてほころんだようだ。
「……鼻から思いっきり息入れると飛べるわよぉおん」
お礼を言って扉に向かう僕の背中に、ジョリーさんのそんな言葉が。言われた通りにしてみると、今度は鼻腔の奥から肺の隅々にまで、清涼な風が吹き込んで来た。おおう、爽快。心地よく覚醒した感じだ。
肩越しに振り向くと、大分メイクは剥げ落ちて顔下半分を蒼きドット群に覆われた、夜道でいきなり出くわしたら大声が出てしまいそうな面相になりながらも、仕事に関してはそれくらい真剣に向き合っているジョリーさんがにんまりと笑ってくれたので改めて頭を下げつつ辞する。
夜中でもほの明るい界隈の色々な光が、非常灯だけの暗闇に曇りガラスを通して滲んで来ている。ビルの1Fは何のテナントも入っていないので、そこを駐車場代わりにしちゃってるけど、ざらついた床を踏みながら、傍らに停めていた原付に跨り、微細動している指先で何とかヘルメットのストラップを嵌める。時間も不定で、職場―家間は、電車で回るよりも直線距離が短いのでこれが一番の選択肢なのだ。
自分でやったのか、それともこんなモデルがあるのかは分からないけれど、僕の愛車はベージュ色の、……色は抜群にいいのだけれど、それが起因するのが将棋の駒、というちょっと良く分からないモチーフのデザインであって。その「王将」だとか「歩兵」とかの図柄がボディに細かくみっしりと偏執的に入った、遠目に見たらお経が刻まれてるんじゃないかくらいの威容を発する代物だ。
行き帰りで必ず一回は二度見されるそんな型落ちだけれど、走りは軽快であるわけで、それに中古で諸々込みで11万切る破格はこれしか無かったわけで。まあでも最近はかなり馴染んで気に入り出した、大切な相棒だ。……ん?
「相棒」。ふと頭をよぎったそんな単語に、脳内の遥か彼方にまで飛ばしていた記憶がだるまさんがころんだ的に、こっちが見てない隙ににじり寄ってくるような、意味不明だけどそんなよく当たってしまう悪い予感が湧いてくる。何だろう。まっとうな生活を送っているこの僕に忍び寄るのは。
耳奥に「……DNC、……DNC」というような、大観衆が巻き起こすそんなコールが聞こえてこなくもなかったけど、それを真顔で無視し、僕は表まで押していった原付に再度素早く跨ると手早くスタートさせ、そのドス黒いイメージを振り払うように井の頭通りをスピードを上げて北上し始める。
これが更なる悪夢の始まりであることを、この時点での僕は……まあ、薄々感づいてはいたけど、気付かない体でやり過ごそうとしていた。
……そうすることが、いちばんヤバいんだということも忘れたまま。




