♭015:自縛かーい(あるいは、はじまりの、はじまり)
「……」
コンコン、と控えめに、しかしその奥にかわゆさを秘めつつノックしようとしたものの、押し殺せぬ焦りから、食い気味にコココン、という感じになってしまった。限界寸前の個室前にてか。
いや、ここは賽野主任の控室前だ。
どうぞ、とのいつも通りの気の抜けたような低音に、何か分からないけど背筋辺りに鳥肌の立つ気配。緊張しすぎだって、平常心よ若草。いま一度、鼻から鋭く息を送り込み、気合いを入れる。ノブを下げ、押し開いて、いざ室内へ。
「やあ悪い悪い。おつかれさん。午前中はどうしたの? って感じでペース崩し気味だったけど、そこから修正できるのは流石だ。だいぶこなれてきたね。ファンも老若問わずで着々と増えていってるようだし」
中はやはり縦長の素っ気ない一室。でもそこにぶわっと咲き広がるような感じで、タイミング計ってた? みたいな感じで、目の前に差し出されたのは、焙煎香が柑橘を思わせる華やかさと絡まったような芳香を放つ、コーヒーカップだったわけで。エピオピア辺りのスペシャリティ? この抜群とも言えるセンスは何に起因してるのと問いたいけど。
こんな椅子しか無いけど、取り敢えず座ってそれ飲みながら聞いてほしい、と促される。キャスター付きの黒い丸椅子は素っ気ないものの、この狭いスペースで座り操るには最適解かも。いやいや、そんな事を漫然と考えている場合じゃあない。
意を決し、そのシートに浅く腰かけつつ、ソーサーとカップを両手に持ち、気持ち脇を引き締めて可愛さげをアピールしつつ、ちまちまと芳醇な黒い液体に口をつける。うん、美味い。酸味がトップから後口までずっと連なっているけれど、それが嫌なえぐみには決して展開していかないし、ベースに流れる苦みと喧嘩せずに逆に調和すらしちゃってる……いや、飲レポってる場合でもないっつうの。
カップに口を付けつつの上目遣いという、おうもうそんな年齢でもあんめえ、との総つっこみは覚悟で、私は精一杯のかわゆさアピールに努めるのだけれど。賽野主任は先ほどからずっと、自分のカップの底を見つめながら、言葉を探しているようだ。こっちも見てくんろ。でも。
「……水窪さん」
くっ、と真剣な目で見つめられると本当にやばい。は↓い↑、という多分に裏返った声になりつつ、私はその後に続けられる言葉に全神経を傾ける。
「頼みがあるんだ。とても、大事な頼みが」
嗚呼。告白りこキター、とのどうにかなりそうなほどの高揚感に、手にしたカップを割れんじゃねーのくらいに握りしめてしまう。でも。でもだ。
「で、でも私は、バツイチ子持ちで、何というかその……」
言い淀んでしまう。でもそこが引っかかってしまうのは、如何ともしょうがないことだと思うわけで。しかし、
「そんな事は、全然関係ない」
熱い目線を、正面から受け止めた。そうだよ、そんなの関係ない。関係ないって言ってくれる人がいるんだもの、全然関係ない。
「……あ、賽野……主任……」
掠れるような私の声は、水窪さんっ、という力強い言葉にかき消される。そして、
「俺と……」
俺と?
「一緒に……」
一緒に? 反芻するかのように脳内を、主任の一言一句が駆け巡る。ええい、もうどうとでもなれーい、と、この場で押し倒されても構わんばい(流石にそれは無いか)、との決意を新たに目を潤ませた、その瞬間だった。
「……『世界一』を目指さないか」
ん? 「せかいいち」って、何の隠語だろう。「交際」とか「婚約」とか「結婚」とか、いやもっと即物的に「××X」のとかだろうか、でもうーん、私のボキャブラリーには欠片もないわーと、全・脳力をもって、いい方へいい方へと曲解をせんとする私だったけれど。
何となくの、嫌な予感。そして懐かしさも秘めたざわつく感覚に、私はいつの間にかカップを傍らのテーブルに置いて、真顔の畏まった姿勢でこの絶望的な局面に対峙しようと構え始めている。




