八月十八日 天川視点
昨日ずっと考えて、心を静めるようにしたけれど、まだ愛音たちの前で平常心を保てる気がしない。
そう不安になっていたせいか、いつもよりも早く目が覚めてしまった。これは、愛音や亜音ちゃんと遭遇する危険性が下がって、むしろよかった。
調理室にただ一人。あまりない経験だ。幸い、その時間はあまり長くなかった。橘先輩が降りてきたからだ。
軽く挨拶を返しつつ、相談すればいいアドバイスをもらえるかと期待して見る。平然とした態度をとれる人だから、いつも通りにしていればいいだけとしか言ってくれないかもしれない。
「どうしたんだ、天川。」
「愛音たちと会った時どうしようかと悩んでしまって。」
「まだ普段通りにできそうにないか。」
苦笑されてしまった。橘先輩にとっては簡単なことでも、俺にとっては難しいことなんだ。
「はい…いつもはどうしていたかさえ分からなくなりそうです。それに三津先輩がいないことにはすぐ気付かれてしまうでしょう?」
「事故に遭ったと思う可能性もあるだろう。」
「不自然な行動をとってはいけないと思うと、余計に気になってしまうんです。愛音は三津先輩と仲良いし、亜音ちゃんも仲良くなりたいって言っていて。」
事故かもしれないというだけで安心できるほど、俺は楽天的ではない。他の可能性もあるのだから。これからの愛音や亜音ちゃんの行動を想像すれば、声が震えてきて、その先を自分では言い出せない。
「探すだろうと。」
「そうなんです。だからといってそれを止めるのも変な話でしょう?」
「探させておけば良い。たまたま会えないことだってあるんだからな。」
たまたま会うこともある。それにこの狭い寮の中をずっと探したのに見つからないなんて、何かがおかしいと気付かれるはずだ。
「けど、こんな天気ですよ。寮から出るはずがありません。探せる範囲も限られます。」
「それなのに見つからないことで怪しまれたら嫌だ、というわけだ。」
怪しまれたい人なんていないだろう。何の言い訳も用意できていないのに。
「だって、そうなった時にどうしたらいいのかなんて分からないんです。」
「なら怪しまれないようにすればいいんだ。」
「それができたら苦労しません。」
「いつまでも避け続けるわけにもいかないだろう?」
会話は平行線だ。いつも通りの行動をしなければいけないという結論は出ているのに、それをしろ、できない、となっているだけ。橘先輩にはどうして俺ができないと言うのか伝わっていないのだろう。
「それはそうですけど…」
「台風が過ぎれば池に行くこともあるだろう。それまでに普段通りに対応できるようになっていてほしいけどな。池に行けば、死体が見つかるかもしれないから。」
「…はい。」
結論は決まっているのだから、もうこれ以上何を言っても意味はない。できる人にはできない人の理由や気持ちが分からないのだから。
俺にだってなるべく早く普通の態度をとる必要があることは分かっている。そのために自室で自分の行動を思い出す。
そうしていると扉が叩かれた。
「羽良ー、具合どう?」
「まあ、よくなった、かな。」
今日は亜音ちゃんの日。昨日は体調が悪いと言って席を外したから、こう聞いてくるのだろう。少なくともその時よりは態度を改善できているはずだから、こう答えてもきっと大丈夫。
「じゃあさ、一緒に遊ぼ。風も強いし雨も激しいから外には出られないけど、屋内でできることだってあるでしょ?」
「う、ん。そうだね。トランプでもする?」
できることなら断りたいけど、一昨日仲直りできたのにここでそうするのは不自然か。
「うん!私もね、いろんなルール入れて大富豪してみたい。」
「じゃあ橘先輩も誘おう。」
二人きりは避けたい。亜音ちゃんが昨日の愛音の記憶を持っているというのなら、俺から提案したっていいはずだ。
「三津先輩も!」
「いや、三津先輩は…。まず橘先輩のところに行こう。」
まさかそんな提案をされるなんて。どう気を逸らさせればいいのか、自分では分からないから橘先輩に助けを求める。亜音ちゃんはもう既に不思議そうな顔をしているけれど、これが俺にできる最善の行動だ。
亜音ちゃんも橘先輩と遊ぶのが好きらしく、笑顔で声をかけている。
「橘先輩ー、大富豪しましょう!」
「またか?」
昨日愛音としたことを指しているのだろう。橘先輩にとっては、どちらの人格も「坂下」に過ぎないから。亜音ちゃんは時折それが不満だと言っているけれど、俺にどうにかできる問題ではない。
「私もしたいから。いっぱいルール入れて、ね。先に談話室行ってて?三津先輩のとこ、行ってくるから!」
そう言って亜音ちゃんは駆け足で去って行く。
それを確認して、俺は橘先輩に向き直り問いかけるが、心配そうな様子は見られない。たまたま不在だったと言えばいい、と有効的な助言は得られなかった。俺にはそんなもので誤魔化せるとは思えない。
「三津先輩いなかった…」
亜音ちゃんの言ったとおり談話室で待っていると、気落ちした様子の彼女が戻ってきた。橘先輩はそんな彼女を慰めてあげている。俺には何も言えそうにないけれど。
「そういうこともあるだろう。また今度でいいじゃないか。」
「うん。そろそろ一緒に遊べるようになりたいから。」
また今度、と探されると非常に困るのに、どうしてそんなことを言ってしまうのだろう。困るのは俺だけなのか。今はまだ、亜音ちゃんには怪しまれていないけれど、それだって時間の問題だ。何度訪ねてもどこを探してもいなければ、愛音だって亜音ちゃんだって不審に思うだろう。
俺がそんなことを考えていると、亜音ちゃんに名前が呼ばれた。
「羽良もそれでいい?」
「え、何が?」
「聞いてなかったの?大富豪に入れるルールね、一回目は「八切」と「革命」で、二回目から一つずつ増やしていくのでいい?」
「うん、いいよ。」
その後、何回かすると、亜音ちゃんはまた三津先輩を誘いに行った。少しの時間だけ、橘先輩からのお小言を聞くことになる。おおよそ、今の態度のままではいけないとか、しっかり話せとか、そんな内容が繰り返されるだけ。
そんな大した意味のないやり取りをしているだけで、亜音ちゃんが戻ってきてしまった。
「こんな天気の日にどこ行っちゃったんだろうね。調理室にも行ってみたんだけどね、いなかったんだよ。何か知らない?」
「さあな。すれ違ったんじゃないか。」
「そうかなあ。羽良は?」
亜音ちゃんはあまり納得していなさそうだ。俺たちを怪しんでいる様子もないから、橘先輩の真似をして知らないふりをしよう。
「いや、俺も分からない。」
「そっかあ。まさか花壇には行ってないだろうし、本当にどうしたんだろう。まあいいか。続きしよう?」
亜音ちゃんの求めに応じて、何度もトランプをする。他のボードゲームなどにも変えるなどしていて、俺の態度がよくないことには気付いていたけれど、改善することはできなかった。
とうとう、彼女から直接問いただされてしまった。
「羽良、どうして今日も私を見てくれないの?話もあんまり聞いてくれてないし、他のことばっかり考えてる。四人で楽しく遊びたいなって思ったのに。三津先輩もなぜかいないし。」
亜音ちゃんは不審な目で見てくる。もう何を言っても納得してくれないだろう。それなら俺にできるのはこの場を去ることだけだ。
「ごめん、亜音ちゃん。俺、今日の宿題やらなきゃいけないから。」
「あっ、待ってよ。羽良!」
亜音ちゃんの呼びかける声を背に、俺は振り向くことなく談話室から自室へと逃げ帰った。