八月十六日 天川視点
愛音や亜音ちゃんとの接触を避けるため、少し早めに起きていく。まだ誰もいないだろうと思って降りると、もう三津先輩はいた。花壇の世話などでいつも早起きなのは知っていたけれど、六時半前だからさすがにいないと思っていたのに。
三津先輩とは会ってもいいけれど、愛音や亜音ちゃんとは会いたくないため、朝食も素早く済ませて調理室を出る。
部屋に一人でいると、喧嘩している時は愛音も亜音ちゃんも話したいとやってくる。俺はもう少し間を置いて、心の準備をしてから話したい。橘先輩といても仲直りするような方向に話は進められてしまう。三津先輩ならどうだろう。もともと亜音ちゃんが気に入らないようだから、そんなことにはならないかもしれない。
亜音ちゃんを避けるために、三津先輩の部屋に行く。扉が開かれると、三津先輩は俺が来ることを予測していたかのような反応をした。
「三津先輩、今いいですか。」
今日は雨が降っているから、大丈夫だろう。晴れているなら花壇の水遣りがあるからいなかったかもしれない。
「どうしたの。」
「少し相談したいことがあって。」
「まあ入ってよ。廊下でできる話でもないんでしょ。」
亜音ちゃんとのことだから、あまり他の人には聞かれたくない。
部屋の中に入るとすぐに問いかけられた。
「で、何があったの。」
橘先輩は愛音から聞くだろうけど、三津先輩は喧嘩したこと以上に何か知っているのだろうか。
「特別なことがあったわけじゃないんですけど、また亜音ちゃんと喧嘩してしまって。」
今回はそれに、大嫌い、という言葉もついていたけれど。
「ああ、亜音の無茶ぶりね。」
「無茶ぶり、ですか。そうですね。優しく恋人らしくしてって言うのに、優しくすると愛音と重ねて見ているからじゃないかって疑ってくるんですから。」
「どっちなんだって話だね。」
優しくしても優しくしなくてもダメなんて、俺にどうしてほしいのだろう。いつもどうすればいいか考えるけれど、答えが出たためしはない。
「キスしてとも言ってくるし。」
「してあげないんだ?」
三津先輩はからかうように笑ってくる。絶対、俺の答えを分かって言っているんだ。男とキスする趣味なんてないのに、いつも亜音ちゃんにもできないことだと言っているのに、毎回お願いしてくるんだ。
「できませんよ、そんなこと。愛音と同じ体なのに。もうどうしたらいいですか。」
「どうにもできないんじゃない?羽良くんが二人を別人扱いできたらいいけど、それはできないんでしょ?だったらもうどうにもならないね。」
いい加減な答え方だ。しっかり相談したい雰囲気で話していたわけではなかったからだろうか。それにしても、できないと決めつけてくるなんて、馬鹿にしているように聞こえる。実際、できないのだけれど。こういう、たまに毒を吐いてくるのはやめてほしい。言い訳したいこともある。
「だって、たまに表情とか仕草がまったく同じなんです。言うこととかも。だから今日はどっちの「あのん」なのか分からなくなってしまって…。俺の態度が悪かったって謝ってそれで済むんだったらいいんですけど。でも、それって解決にはなっていませんよね。時々分からなくなることには変わらないから。」
似ているというレベルではない。それに戸惑った隙を彼女に突かれてしまう。そのことに自分で気付いて、謝ってその場を収めてもまた同じことが繰り返されるだけ。今日の「あのん」がどちらなのか意識するようにしても、分からなくなる瞬間は訪れる。それでも気を付け続けるしかないのだけれど。
「亜音は不満のまま、と。羽良くんはどうしたいの。亜音は面倒?仲直りしたい?」
確かに、時折面倒に感じることはある。だからといって仲直りしたくなわけではない。答えなんて決まっている。可愛らしい亜音ちゃんのことが俺は好きだから。恥ずかしいからなかなか素直には言えないけれど。
「そりゃあ…仲直りしたいですよ。亜音ちゃんとのことを愛音は覚えていないけど、同じ人間のうち片方とは仲良く友人やってるのに、片方とは気まずい距離を保ったままなんて嫌ですから。」
「へえ、それだけ?」
にんまりと三津先輩は笑っている。亜音ちゃんに対する想いを答えるまで追求する気なのか。恥ずかしいからあまり言いたくないけれど、仕方ない。
「いや、えっと。亜音ちゃんのこと好きだし…」
「ふーん。」
スッと表情を戻す三津先輩。自分から聞いたわりには薄い反応だ。
「でも、今は会いづらいなって。」
「それ、仲直りしたいって言うの?」
「え?」
どういうことだろう。どんな顔をして会えばいいから会いづらくて、会ったってどうにもできないと言っているだけなのに。
「会いたくないんでしょ。気まずい距離が嫌なんでしょ。それだったら別に、仲直りする必要はないんじゃない?」
そんなことない。そう言えばいいだけだ。反論の内容はその後考えればいい。だけど、口は思ったように開いてくれない。その間に、三津先輩は言葉を重ねる。
「もっと離れちゃえば良いんだから。」
まるで悪魔の囁きだ。現状をすべて解決してくれるような提案。けれどなぜかこの提案を受け入れてはいけない気がする。それに亜音ちゃんと距離をとるのは俺だけでできることではないし、亜音ちゃんから離れたいわけでもない。
「でも、亜音ちゃんはいつも俺のところに来てくれるし、」
「避ければいいじゃん。簡単でしょ、そんなの。今朝だって避けれてた。いつもより早く起きてきたのは会いたくなかったからじゃないの。」
毎回あからさまに避けるのは不自然すぎる。今朝に限って会いたくないと思っただけだから。誰かを困らせる気なんて、俺と亜音ちゃんとの問題に愛音や橘先輩を巻き込む気なんてない。
「それはそうですけど。でも、愛音は寂しいって言うし、橘先輩も協力してくれてるし、」
「亜音と愛音くんは違うし、祐樹は二人が仲直りしたがっていると思ってるから協力するだけ。無理に二人に話させようとしてるわけじゃない。そこは気にするようなことじゃないよ。」
「でも、」
それだと亜音ちゃんと話す理由もなくなってしまう。だからこの先の言葉なんて考えていないけれど、このまま聞いていてはいけないと口を開きかける。それも、三津先輩の言葉で遮られる。
「別に急いで今日話すこともないんじゃない?時間はたっぷりあるんだから。」
「そう、ですね。」
もう少し、亜音ちゃんを一人にしておいても許されるだろうか。それなら、ゆっくり考えよう。橘先輩もいるし、それほど心配はいらないかもしれないけれど。
「自分が話せそうだ、ってなってからで良い。無理して話そうとしても、ね。」
「そうします。何を言ってしまうか分かりませんもんね。」
「そうそう。」
「ありがとうございます。少し気持ちが軽くなりました。」
亜音ちゃんと会った時にも、こう言い訳すれば猶予をくれるだろう。一つ問題が解決した。
「どういたしまして。」
言葉に棘がある時もあるけれど、三津先輩は基本的に親切な人だ。今回も相談にのってくれた。
俺は少し軽くなった心と足取りで自室へと戻り、三津先輩の与えてくれた時間的猶予を有効活用しよう。
束の間の休息。いくらも経たないうちに彼女がやってきたのだ。平常心を保つよう努めつつ、扉を開ける。
「羽良、いる?」
「なに、亜音ちゃん。」
よかった、昨日みたいに不愛想な声にはならなかった。今日の亜音ちゃんは白いブラウスに水色のスカートという特に女の子らしい恰好をしているからだろうか。
そう俺が安堵している間に、亜音ちゃんは息を大きく吸いこんで気合を入れているようだ。
「えっと、ね。羽良なんて大嫌いって言ってごめんなさい!本当はそんなこと思ってないから。」
「俺は、その、亜音ちゃんのこと、好きだよ。確かに愛音とも友達で親しくしてるけど、それとは別に亜音ちゃんのことが好きなんだ。なあ、それは信じてくれる?」
信じてもらえなくても自業自得かもしれないけど、信じてほしい。そんな願いが通じたのか、亜音ちゃんは少しだけ笑顔を見せてくれる。けれど、次の瞬間には俯いて、悲しそうな顔をしていた。
「うん。私も、私と愛音は同じ体だから、時々だけなら私が愛音に見えてしまう瞬間があるのは仕方ないのかなって思ってるんだ。けど、それはやっぱり寂しいから…」
「ごめんな。なるべく、そうならないように気をつけるから。」
「うん。」
上手い言い訳なんてできないけど、優しい嘘なんて吐けないけど、これで少しでも安心してくれるだろうか。許してくれるだろうか。きっと亜音ちゃんの目にはそんな不安を隠せていない俺が映っているんだろう。
「じゃあ、さ。もう一回、好きって言って?」
「え?」
亜音ちゃんはよく言ってほしいことをお願いしてくる。それでも、今言ったばかりなのだから、何度も恥ずかしいことを言わせないでほしい。
「だからあ、もう一回。私ね、好きって言ってもらうの好き。」
「…」
「私は、羽良のこと、好き。」
「…好きだよ、亜音ちゃん。」
「えへへ、ありがとう。」
さすがに返さないにはいかない。亜音ちゃんが嬉しそうに笑ってくれるから言うけれど。あまり何度も言える気はしない。話すことさえ、心の準備ができていなかったのに。
「もういいだろ。…三津先輩に相談して、今日はゆっくり考えればいいってなったのに。」
「羽良?」
「なんでもないよ。」
「今、三津先輩って聞こえたような気がするけど。」
どうしてそこだけ聞こえているのだろう。聞かせたいことでもないのに。
「気のせいだろ。」
「羽良ってさ、三津先輩と仲良い?」
「なんで?」
「私もね、三津先輩と仲良くしたいなって。だから、羽良が三津先輩と仲良くできているのなら、私がどうしたらいいか教えてほしいと思って。」
唐突だ。相談してくれること自体は嬉しいけれど。それに亜音ちゃんと三津先輩は控えめに言ってもあまり仲が良くなかったと記憶している。三津先輩はいつも亜音ちゃんに悪口を言うし、亜音ちゃんもそれに口で反撃している。彼女の力になりたいとは思うけれど、三津先輩をどうにかしないと仲良くなるのは難しいだろう。彼女がどれだけ頑張ろうと無駄だ。ただ、これを言うと彼女はがっかりするだろうから、何か別のことを言わなければ。嘘は吐かないように気を付けつつ。
「俺が感じたことが役に立つかは分からないけど、まずは亜音ちゃんが思ったことを言ってみたらどうだろう。それでも伝わらないかもしれないけど。ごめん、あんまり力になれてないかな。」
「ううん、そんなことないよ。今までは三津先輩の言い方につられて、思っていても言えないこともあったから。試してみるね。」
明るい顔色の亜音ちゃんに、罪悪感から心が痛む。伝わらないだろうと本当は思っているのに、そして伝わらないことで彼女が傷つくと推測しているのに、あんなことを言ったから。
「役に立たなかったらごめん。」
「ダメだったら別の方法を試すだけだよ。その時はまた、相談に乗ってくれる?」
「もちろん。」
けれど、三津先輩と親しくなりたいという相談を継続的にされるのは少し微妙な気分だ。友好的な助言もしたいけれど、三津先輩と仲良くしようとして余計に傷つけられるようなことにはなってほしくないから。それを避けるためにであっても、前向きに笑ってその気になっている彼女に水を差すようなことも言いたくない。
いっそのこと、三津先輩なんていなければ良かった。そうすれば、これから彼女が傷つけられると分かっている場所に、彼女を送りだすことなんてしなくて済む。