八月十五日 天川視点
「あー、七時か。」
俺、天川羽良は、いつもおおよそ七時に調理室へ降りる。けれど昨日、彼女と喧嘩したから、愛音や亜音ちゃんとは会いたくない。このぐらいの時間には愛音がいるから、少し朝食の時間をずらそうかとも思うが、今度はそうすれば亜音ちゃんと鉢合わせてしまうかもしれない。学校で授業に出る時は制服だけれど、寮では私服で構わない。だから亜音ちゃんは服選びに時間がかかって、愛音より調理室に来るのが遅いのだ。
結局、空腹を感じて、愛音と遭遇する危険を冒して二階の自室から一階の調理室へと降りることにした。
誰もいませんように。少なくとも愛音はいませんように。そんな願いも空しく、扉を開けた先にはいつもいる二人の先輩だけでなく、愛音もいた。今この島にいる生徒は俺を含めた四人。他は先生が二人いるだけだ。
「あ、羽良。おはよう!」
上機嫌に挨拶をしてくれた友人の愛音は男の子で、恋人の亜音ちゃんとは違って、昨日の記憶など持っていない。そう頭では分かっていても、同じ姿かたちの人間だから、どうしても何事もなかったかのような態度はできない。動きを止めて、愛音を凝視してしまった。
「しばらく放っておいたらいいよ。そのうち元に戻るから。」
悲しそうな顔の愛音を連れ出したのは三津恵人先輩。彼は愛音と亜音ちゃんを完全に別人として扱い、そうできない俺のフォローをしてくれる時もある。今回も、愛音をこれ以上傷つけることのないようにという配慮だろう。
「色々思うところはあるだろうけど、ひとまず朝ご飯を食べてから考えたらどうだ?」
そう慰めてくれたのが橘祐樹先輩。愛音と亜音ちゃんを坂下と名字で呼んで同一人物として扱うが、よく相談にのってくれる。
「そうします。」
今追いかけても何も言えないし、何もできないだろうから。
今日も話を聞いてくれるつもりなのか、俺が食べ終わるのを待ってくれていた。
「坂下と何があったんだ。」
「亜音ちゃんから聞いてるんじゃないですか。」
いつも愛音も亜音ちゃんも橘先輩には何でも話しているから。
「取り乱した坂下からだと状況がよく分からないことも多いからな。」
「…」
答えないわけにはいかないだろうとは分かりつつ、それでも口は重くなる。
「天川、宿題は進んでるか。」
「は、い?」
突然、話が変わった。今の橘先輩にはそれほど聞き出す気がないのか。
「昨日は坂下に科学を教えてたんだけどな。」
「じゃあ、英語を教えてもらえますか。」
突然、話が変わった。今の橘先輩にはそれほど聞き出す気がないのか。俺にとっては苦手な科目を教えてもらえるのならとても助かる。記憶によると橘先輩は英語が得意だったはずだ。なぜこんな提案をしてきたのかは分からないけれど。
「天川の部屋でいいか?」
「はい、お願いします。」
そうして勉強していたけれど、恐れるいたような昨日の喧嘩に関する追及はなかった。ただ予想外の事件は起きた。愛音がやってきたのだ。
「羽良、聞きたいことがあるんだけど…」
扉越しに聞こえてきた声に、来ると思っていなかった俺は反応できなかった。
「天川、返事くらいしてやれ。」
「分かってますよ。」
愛音には関係ないのだから、普段通りに振舞わなければならないことなど、俺にだって分かっている。けれど口を開けば、本人だけど本人ではない愛音に何を言ってしまうか分からないから、なるべく接触は避けたい。
少しだけ扉を開け、言葉少なに対応する。余計なことを言ってしまわないように。
「…何?」
少し怯んだ様子の愛音。俺の態度は悪かっただろうか。けど、「あのん」が変なことを言ったせいだから。
「えっと、昨日、さ。喧嘩したって聞いて、でも俺、何も覚えてないから、話してくれないかな。」
「俺は話したくない。」
喧嘩の原因を話そうと思えば、その前の出来事も話さなくてはならなくなる。あんな恥ずかしいこと、言えるわけがない。これ以上追及されると困るため、返事も聞かずに扉を閉める。これが余計に愛音を傷つけてしまうかもしれないということには気付かないふりをして。
俺と愛音が話している間、橘先輩は黙って様子を見てくれていたが、机へと俺が戻ると話しかけてきた。
「天川、なんで坂下を避けるんだ。」
ただし、意外にもその声色は呆れを含んだものではなく、優しい問いかけだった。
「愛音のせいで、亜音ちゃんと喧嘩したみたいなものだからです。」
愛音に対する罪悪感を隠すように言い捨てる。橘先輩には関係ないにもかかわらず。これではただの八つ当たりだ。
「それは本当に坂下のせいなのか。」
そんなことはない。本当は俺が悪いと分かっている。
「…違います。愛音は、関係ないんです。亜音ちゃんと喧嘩しただけだから。俺が愛音の前で、普段通りに振舞えたらいいだけなんです。でも、」
俺にはできない。彼らは姿かたちが同じで、性格も似ているから。そんな言い訳も橘先輩には見抜かれてしまいそうで、目を見ることもできずに俯いてしまう。
「天川にとってそれは難しいんだよな。」
「…はい。だから、亜音ちゃんとの問題なのに愛音にも何か言ってしまいそうで。」
「でも、さっきの態度だと坂下は不安だろうな。何も分からないまま、あんなことをされて。」
そんなこと、俺にだって分かっている。だからといって、すぐに態度を変えられるわけではない。
「天川、昨日、坂下と何があったんだ。」
橘先輩は愛音と亜音ちゃんを一人の人間だと思っている。そんな人に、体の性別が男の亜音ちゃんとの話なんてしにくい。それとも「坂下愛音」という一人の人間にとってよければそれでいいのだろうか。だとするのなら、話してみてもいいのかもしれない。
「亜音ちゃんにキスしたいって言われて。でも俺は愛音と会ってる時にそのことを思い出してしまったら困るからって断ったんです。」
「そうしたら喧嘩になったと。」
「はい…。羽良なんて大っ嫌い、って。」
そう言われたことを理由に愛音を避けたところで問題の先送りに過ぎない。
「今日の坂下は昨日のことを覚えていない。それでも避けるのか。」
橘先輩は決して俺を責めてはいない。けれど、俺自身に後ろめたい思いがあるからか、その言葉は胸に刺さる。
「分かってはいるんです。亜音ちゃんの時の記憶が愛音にはないって。でも同じ体だから別人だと思っていても、顔を見ると思い出してしまって。」
頭で理解するのと実際に行動するのとではわけが違う。
「さっきの坂下も寂しそうだったな。友人から突然なぜか分からないまま避けられたんだ。不安になって当然だろう。」
けれど俺は愛音に寂しい思いをさせたいわけでも、不安にさせたいわけでもない。
「話してみたらいいだろう?坂下はきっと、天川と仲直りしたいだけなんだよ。」
「そう、ですね。」
さっきの俺の態度は悪かったから。けど、会ったとしても解決できるとは思えない。
「坂下は寂しがっているだけなんだ。お前が、避けるせいで。」
「でも、」
会って、余計なことを言ってしまうほうが愛音を傷つけることにならないだろうか。
「坂下が大切なんだろう?」
「それはそうですけど。」
珍しく橘先輩が言い募ってくる。大切なら会って話すべきだということだろう。けれど、今は愛音に対する言葉なんて持っていない。
「だったら、なんでほったらかしにしてるんだろうな。」
ただ、俺に勇気が足りないだけなんだ。愛音と会って話す勇気が。そんなこと、橘先輩には言えないけれど。
「昨日の坂下も、今日の坂下も。会いに来てくれているのに寂しい思いをさせて。」
「先輩は言うだけだから簡単ですよね。」
上手い反論の言葉が見つけられず、視線だけを橘先輩へと向ける。
「だったらお昼にでも話し合うか?一緒に食べて、その後少し話して仲直り。できるだろう?時間もちょうどいいしな。」
俺の返事も聞かずに橘先輩は部屋を出ていく。これはきっと、ついてこい、ということなのだろう。愛音に会うまでに何を言うか考えておかなければ。
着いた場所は愛音の部屋。橘先輩が扉を叩く。まだ言うことを考えられていないのに。心の中で待ってと言っても、誰も待ってはくれない。
すぐに三津先輩が出てきて、部屋の奥には愛音の姿も見えた。もう猶予は少ししかない。
「どうしたの、祐樹。」
「一緒に昼食でも、と思ってな。坂下も天川と話し合いたいだろう?」
「うん!」
愛音には話したいことがあっても、俺には話せることなんてない。けれど、あれほど嬉しそうに返事をした愛音に話したくないとも言えない。だから俺にはいつも通りを意識して、対応することしかできない。
「じゃあ、勉強はいったんここまでにして、ご飯にしようか。」
三津先輩の言葉で愛音は机の上を片付けだしたが、先輩たちは先に行ってしまった。話す機会を用意してくれたつもりだろうか。ただ、先程冷たく追い返した以上、今自分からは話しかけにくい。
そう話しかけることを躊躇っている間に愛音は片づけを終えていた。
「お待たせ。さっきまで三津先輩に宿題教えてもらってたんだ。羽良は?」
「俺は、橘先輩に、まあ、色々相談に乗ってもらったり、してた、かな。」
相談の内容は聞かれても答えられない。愛音の話だから。
「そっかー。橘先輩、色々聞いてくれるもんな。」
愛音の様子は特に不自然ではないから、俺は自然に返せていたのだろうか。
食事中も特に昨日のことを聞かれることなく、無事に終わった。だけど、そのまま何も聞かれないなんてことはなかった。話し始めた時は、先輩たちは見守ってくれるつもりらしく、黙っていてくれていた。
「羽良、昨日の俺ってどんなだった?」
これは答えられない。
「じゃあ、何をしてた?」
これも教えられない。徐々に愛音の顔から笑顔が消えていく。
「なあ、なんで何も言ってくれないんだよ。」
「言いたくないから。」
俺の返事に愛音が不満そうな顔をする。けれど、これ以上の説明なんてできない。
「羽良。俺、何かした?」
「愛音は何もしてないよ。」
したのは亜音ちゃんだ。愛音ではない。
「でも、さっき部屋に行った時、俺と話したくないって。」
「昨日の喧嘩について話したくないだけ。」
誤解させてしまったようだけれど、決して愛音と話したくないわけではない。
「じゃあ、いつもより冷たい気がするんだけど、それはなんで?」
「気のせいだろ。」
「橘先輩、どうしよう?」
先程までの返答では誤魔化せていなかったようで、俺が答えないことを認識した愛音は橘先輩に頼りだした。俺が直接答えるのが望ましいのだろうけれど、言えるわけがない。そんな俺の様子を察してか、ここまで黙っていた橘先輩が間に入ってくれた。
「坂下は、昨日天川と喧嘩したことだけ分かってるんだよな。」
「うん。」
橘先輩から聞いたのだろう。
「それが原因で、天川がお前に今みたいな態度をとっていると思っている。」
「うん。」
それはそうだから、何の弁解もできない。
「で、その喧嘩の時に、自分が天川に何かしてしまったんじゃないかと心配している。」
「うん。だって、俺が何もしてないのにそんな態度をとるなんて、羽良はしてこなかったから。俺が何かしてしまっていたのなら、した本人が何も覚えていないのは悪いなと思って。」
愛音にそんなことを言わせたいわけでも、思わせたいわけでもないのに。
「坂下はこう言っているわけだが、天川から言いたいことはあるか。」
ここで何も言わないのは許されないだろう。
「愛音に非はないのに、そんなことを思わせてしまうのは悪いと思ってる。俺が愛音と亜音ちゃんをきちんと分けられていたら、愛音にそう思わせてしまうことだってないはずだから。」
これは間違いなく俺の本心だ。俺も三津先輩のように二つの人格を分けて認識できていたら良かったのに。愛音は少し期待したようにこちらを見てくる。けれど、それを裏切るようなことを言わなければならない。
「けど、昨日のことに関しては言えない。なあ、もういいだろ。今度亜音ちゃんと話すから。」
予想通り愛音はがっかりした顔をした。そんな顔は見たくないと会話を切り上げようとする。亜音ちゃんと話し合って解決できたら、愛音との話し合いも必要ないから。
「坂下はそれでいいか?」
俺はよくても愛音にとってよくなければ、橘先輩は何らかの対策をとるつもりなのか。愛音は全然よくないというような顔をしているけれど。
「俺は謝ってほしいわけじゃない。ただ、昨日の俺について教えてほしいんだ。俺は覚えてないから。」
それを知っているから、俺は愛音に知らないままでいてほしい。
「昨日、愛音くんはいなかったよ。」
突然、三津先輩が口を挟んできた。
「いなかったんだから、覚えていないんじゃなくて知らないんだよ。羽良くんのはただ八つ当たり。愛音くんはそれに怒ってもいいくらい。女の子の亜音がしたことで愛音くんが悪いと思う必要なんてどこにもないんだよ。」
三津先輩の言葉が心に刺さる。
「だいたい羽良くんは、」
「三津。」
俺たち二人に話させようとしている橘先輩は三津先輩の言葉を遮る。これ以上何を言われるのかと戦々恐々としていた俺は、三津先輩が肩を竦めて発言を止めたことに安堵する。けれど、何でもいいから何か三津先輩に反論しておかなくてはという気にもさせられる。
「だからそれは悪いと思って、」
「今みたいな態度になってもいい。ただ、少しくらい説明してほしい。だって、何も言ってくれなかったら、俺は何も分からないままだから。」
言いたくない、教えたくないでは納得してもらえないのなら、こう答えるしかないだろう。
「…できる限りは、そうする。」
これ以上追及されては困ると、俺は言い逃げるように自室へと戻る。こんなの時間稼ぎにしかならないと、自分でも分かっているけれど。