ある愛を考えてみる
愛について、私がなんの思錐に拠ることもなく、上っ面の表面だけで思うところはまず、「恋愛」のことじゃなかろうかということ、それがひとつめで、もうひとつめはその恋愛における「セックス」のことじゃないかと思うことはある。
しかし、その二つのことについて、なにを私は述べたらいいのか、見当もつかぬ。私は現在、妻がおり、子供はいないが、私ほどその「二つ」の愛について、考えて生きてこなかった人間は、よっぽどいなかったはずである。だから、今の家内と一緒になった経緯というのも、たぶん未熟なやり取りであったはずであるし、なによりもまず私にはその二つの愛よりも、考えないと、どうしても居ても立っても居られなかったことが自分の中で存在していた。
それはもちろん、「正義」の問題であるだろうとも言い切れるだろうし、「文学」の問題であるとも言えるであろう。私はこの「2つ」のことについては脳がパンクするぐらい考えてきた。これはなんの自慢にもならないけれども、1つ目の「正義」について言うならば、自分にはこれ以外にはないと言い切れるほど、なんにもなかった(※何の才能もなかった)のである。結論を言えば、自分は「恋愛」や「セックス」については無知で、「正義」や「文学」については人生でたっぷりと考える時間があったということだ。(ちなみに、私の場合、「考える時間数」というものが思考の深さを決めるのである)。
人によれば、「恋愛」や「セックス」の方が大事だろうと主張する人も確かにおられるだろうし、それは私にも考えれば分かることである。しかし、私は少しネクラだったのかも知れない。その事柄についてはなるべく敬遠するかのようにして生きてきた。それは私個人としては納得している、という内情であったのである。
ところが、愛について、「恋愛」や「セックス」を抜きにして、感じる事柄があり、私にはそれが今回で言いたいことなのだ。それは私には表面の思錐ではなく、それはたとえば「先輩には敬語を使い、思いやる」というのはやはり大切なことである。これは社会で生きていく為の術とかそういうのではなく、私が言いたいのは、これが「愛」であるということだ。この「愛」は不利であるし、メリットもないものである。しかし、これだけはしなければいけない。しなければ世の中はどうなるのか。そこでこの「愛」は必要になるのである。決して「恋愛」や「セックス」の「愛」が不要だと言いたいわけではない。しかし、こういう何気ない「愛」がどうしても世の中に必要性があるのも事実だと私は言いたいのだ。
そして、「友人」も大切にしなきゃいけない。これは「友情」であるが、「愛」でもあるのだ。「友人」を愛すること、それは「友情」でもあるし、「愛」でもあるのだ。友人関係は片方がダメになったら、もう片方ががんばるしかない。つまり、自分ががんばるしかないのだ。危機に陥ったならば、そうする以外にはない。しかし、それは実にロマンティシスムに溢れている。つまり、「愛」は太宰のいうとおり「奉仕の美」であるのだ。
そして、「愛」は向こうから授かるものではなく、こちらから「与え」るものでなければならない。それはこの世知辛い世の中で、人に対して「助け」ることをしなくてはならないのだ。それを、なくてはならぬ「愛」だと私は主張しているのだ。
「なぜ、その『愛』とやらが必要なのか?」ということだが、とにかく「愛」は為さねばならない。「愛」だけは為さねばならぬ。そうである、人間は「愛」だけをしておけばいいのだ。それぐらい「愛」は重要なものなのである。お分かり頂けたでしょうか。それでは失礼させて頂きます。また、次回に会いましょう。とりあえず、さようなら。