選べなかった男-1
10数時間前、槙原涼はライフルを持って通学中の高校にやってきた。
既に授業は始まっている。仮病を使って学校に来る時間を遅らせたので、正門前に他の生徒の姿は見当たらない。
「やってやる、やってやるんだ……」
レミントンM700を収めた革製のライフルケースが妙に重たく感じる。負い紐が肩に食い込む度にその存在を嫌というほど強調していた。
銃自体の重さは約4キログラム。現在の育ての親――祖父のガンロッカーから持ち出した銃自体と撃つのに必要な弾薬を含めても5キロには届くまい。
たかが5キロ、されど5キロなのか。それとも背負っている道具の存在理由、これから行おうとしている事の重大さが見えない重しとなっているのか、涼には分からない。
正門は文字通り目の前である。あと1歩踏み出せばそこから先は学校の敷地だ。涼にとって学校とは今や地獄であり監獄だった――つまりはそういう日々を送っているという事だ。
学校には殺したい奴がいる。だから祖父が畑仕事に出た隙を見計らって猟銃を持ち出してきたのだ。
事態に気付いた祖父が連絡を取ろうとするのは目に見えていたから携帯は家に置いてきた。
それに気づいたら次は妹に連絡を取って涼の所在を探ろうとするだろう。学校の教師にも連絡が行くかもしれない。邪魔が入る前に目的を達成しなければならない。
頭では分かっている。
体がいう事を聞いてくれなかった。校舎が見えてきた辺りから急に足取りが重くなり、胸の鼓動も激しさを増し、やがて正門前まで辿り着く頃には足が1歩も踏み出せなくなってしまったのだ。
顔中と言わず全身にびっしりと冷たい汗がにじむ。視界がグルグルと回り始めて、今にもこの場で胃の中身を吐き出したい気分だ。体中のわななきも止まらない。
「クソッ、早くしろよ、動けよ僕っ……!」
目的地は目の前だ。なのにグズグズと時間を無駄にしてしまっている。
辛く苦しい日々に終止符を撃つ為にここまで来たのに、どうして動けない。どうして行動できない。
歩け、動け、行動しろ、終わらせろ、もう後戻りはできない。
選択しろ。今度こそ選択しろ。
「ううう。うああぁぁぁぁぁぁぁあああああ……!」
死にかけた獣の断末魔じみた苦しい唸り声が勝手に飛び出していた。
そして。
そして――――
「…………………………」
涼は呆然とバスの座席に揺られていた。
一刻も早く学校から遠ざかりたかったが、だからといって猟銃を盗み出した以上は家に戻るわけにも行かず、他に行く当てなどもなかった涼は衝動的に自宅とは反対方面へ向かうバスへと飛び乗っていた。
ここまでの事をしてしまってはもうどこにも戻れまい。
涼を乗せたバスは木々に囲まれグネグネと曲がりくねった細い道路を走る。
最も細いところでは大型のバスが1台通るのがやっとな幅しかない道を鬱蒼とした森林と山肌が挟んでいる。木々に実った青々しい枝葉の隙間から差し込む陽光が爽やかにバスの車体を照らしだす。
爽やかな自然とは正反対に、涼の心は荒れ狂う雷雨を内包した黒雲のようにどす黒く澱んでいた。
山方面へ向かう路線バスは休日や行楽シーズンともなればキャンプや登山を堪能しに訪れる観光客が多数乗り込んでくるが、対照的に平日の利用客はとても少なく、そのせいか涼以外の乗客は1人もいなかった。
山道での運転に集中しているドライバー以外に誰も乗っていないのは涼にとって幸運だった。最後尾の席に座る涼の顔色があまりに悪いものだから、他に乗客がいれば十中八九声をかけられて無用な騒動を招いたに違いない。
それでも細長いバッグを背負った学生服姿の少年が1人、山奥へ向かうバスに乗り込んでいるというのは明らかに異質だ。
バスの運転手からバックミラー越しに見張られている気がした。このバスに乗った事を涼は心底後悔していたがかといって飛び降りるわけにはいかない。
だから唐突に停車のアナウンスが流れてきた時、涼にはそのアナウンスがまるで天からの啓示のように感じられた。
『次は○○峠、○○峠~、終点です』
終点なのだから結局は必ず停車すると分かっていたのだが、それでも停車ボタンを連打してしまう。電子的なチャイム音が車内に鳴り響いた。
バスが最終目的地に到着するまでの数分がとてつもなく長く感じられた。
やがて終点に到着したバスがゆっくりと停車して昇降用のドアが開かれると、涼は即座にバスから逃げ出した。逃げ出すといってもバス代を払うのは忘れない。小銭入れの中身をぶちまけるようにして運賃箱へ放り込む。
「ちょっときみ!?」
運転手の声を無視して車内から飛び出す。登山を終えて帰りのバスを待っていたハイカーが数人、入れ違いにバスから飛び出してきた学生服姿の涼へ怪訝な視線を向けた。
バスを降りるとすぐ目の前に山奥へ続く登山道の入り口が存在した。
標高1000メートルクラスの山々が続く山岳地帯がこの先に待ち受けている。もっと低い山なら登った事があるが、ここから先に進むのは初めてだった。
以前学校の教師からこの山脈について注意された記憶がある。ここの山々は地形が複雑で標高差も激しいせいで遭難者も多い危険な山だから絶対に大人の随伴なしに山に入るな、そう教えられていた。
(でも僕にはもう他に行く場所なんてないんだ)
声や視線から逃げるように、涼は足早に山の奥へと入っていった――――
山に入ってからすぐに人の手が入った正規の登山道を外れた。
人目を避けて誰も入ってこなさそうなルートを選んだつもりだったのだが――正確には選んだというよりも衝動に身を任せた結果だった――涼はその事をすぐに後悔した。
登山客が使わないようなルートというのはつまりまともに歩くには向いていない危険な道だという事だ。
多数の登山客によって踏み固められず、崩れやすく足を取られやすい地面。無造作にぼうぼうと生い茂った草薮が足に絡みつき、体重を掛け損なうと途端に滑って転びそうになる。
生い茂る草の中にこぶし大の岩石が潜んでいる事もある。草や岩だけでなく木の根にもしょっちゅう足を引っ掛けてしまう。
かれこれ何度足を滑らせて手を突き、膝をしたたかにぶつけたか分からない。早くも体の節々が痛み始めている。何度も足元を取られるせいで特に足首が悲鳴を上げていた。
引き返そうにもどんなルートを歩んできたのかはとっくに分からなくなっている。人の目から逃げて当てもなく彷徨ったせいなのだから自業自得だった。
何故背中のライフルケースを放り出さないのか、理由は涼自身にもよく分からなかった。猟銃の重みによって負い革が肩に食い込んで辛い上に、転びそうになるたびケースの頭側が後頭部を叩いてくる。
それでも涼は銃を捨てようとしなかった。
捨てる、という選択を選ぶ事ができなかったのだ。
「ハァッ、ハアッ、ハァッ……!」
日が沈み森が闇に包まれようとしている。
地面が闇に覆い隠れてしまったせいで足元のおぼつかなさが一層悪化した。どうしたら良いのか迷っている間にもどんどん暗さが増し、視界が狭くなっていくのが分かる。
やがて何も見通せなくなった。闇に目が慣れるといっても限度がある。
一面の闇。自分が前に進んでいるのか、それとも右に曲がっているのか左に曲がっているのか。斜面を登っているのか降っているのか、そもそも地面に立っているのかどうかすら分からなくなりそうだった。足の裏に伝わってくる山肌の感触だけが唯一の頼りだった。
明かりになりそうな類は持っていない。携帯電話は自宅に置いてきたから、衣服以外の涼の持ち物といえば財布とライフルケースぐらいである。
だから『ここから先、私有地につき許可のない立ち入りは禁止』と書かれた看板も当然のように見逃してしまった。
このまま倒れこんで辛い現世から意識を投げ捨てたい気分だ。最早誰も見てやしないのだから構いはしない。
でもこのまま転がったら岩や木の根でごつごつして痛いだろうな、いやもう限界なのだから倒れてしまえばいい――半ばやけっぱち気味にそう思った時だった。
にわかに木々の隙間から光が差し込んだ。そういえば今日は満月だ。ネオンや街灯溢れる街中から見上げた時と比べると信じられないぐらい明るく透明な月光が、森の中を照らした。
森の中が照らされた事で涼の視界は『それ』を認識できるようになった。
前方の斜面に、ほぼ垂直にそそり立つ岩壁が見えた。岩壁には割れ目があり、人が中に入れるだけの大きさがあった。このまま手探りで進んでいたらまず見落としていただろう。
涼の足は自然と岩壁を目指していた。少しでも地面が凸凹していない場所に移りたかった。月光が隠れてしまわないうちにどうにか岩壁まで辿り着く事に成功する。
割れ目の中は岩壁内部の更に奥まで続いており、岩壁の割れ目ではなく洞窟の入り口と形容した方が正しかったようだ。
洞窟の奥から漂ってくる空気は思ったよりも湿気ておらず、野生動物のねぐらのような獣臭もしない。
ここから先は夜の森以上に濃密な闇が広がっているが、涼の胸中には不思議と恐怖心は湧いてこなかった。
「………………」
山中に突入した時とは間逆の疲れきった緩慢な足取りで、涼は洞窟の奥へと足を進めた。