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第二章 兄の記憶

鏡に映る、この少女がわたし?じゃあ、わたしは一体だれ?

混乱するマリオンの前に兄が現われる。優しいはずの兄は冷酷なほど落ち着いており、奇妙なことを話すのだった。

第2章 兄の記憶


 「デューカ、助けて、変なのっ、すべてがおかしいの」

 マリオンはじゅうたんの上に尻を着いたまま、いざってデューカの足元に縋った。

 湯上り姿で、眉一筋変えずに、兄は妹の混乱を眺めている。

 ふとマリオンは見上げた。

 冷たい、黒い、二つの相貌が輝いている。

 涙に汚れたマリオンの顔をつくづくと眺め、やがてデューカはぽつりと言った。

 「あと、一日だったのに」

 え、と、マリオンは聞き返した。

 ゆっくりと視線を動かし、マリオンの目を覗き込むと、もう一度、デューカは言った。

 「あと一日だったんだ。それで君はマリオンになれたのに」

 (何を)

 「でも、アクシデントが起きた」

 (言ってるの、お兄ちゃん)

 優雅な動作で屈むと、兄はマリオンのあごに指をかけ、くいっと上向ける。すぐ側に思慮深い闇色の瞳が、形の良い鼻筋があった。前髪の隙間からマリオンの表情を探り、感情をこめない微笑を浮かべた。

 「台無しだ」

 とんっ…、と、ごく軽い力で肩を押され、マリオンはくたくたと後ろに倒れた。花模様のじゅうたんの上に頬を置きながら、大きく目を見開いて立ち上がる兄を見上げる。兄の目は。

 「記憶をね、入れ替える実験だったんだよ」

 ものを見る目だった。

 「それで君の脳にマリオンの記憶を焼きこんだんだ。もう少しのところまできていたのに、それなのに」

 お兄ちゃんっ、とマリオンは絶叫する。

 新種の虫でも見るようなまなざしと表情で、兄は身をよじるマリオンを眺め、小さく溜息をついて腕を組んだ。

 「だけどね、君の中には、既にマリオンの一部が入り込んでいるんだ。さて」

 あごを上向け、思案するように視線をさまよわせる。

 「君を、どうしたものか…」

 つぶやくように言いながら、デューカは部屋を出た。

 ぱたりとしまった扉が、ガチャリと鈍い音を立てる。

 マリオンははっとして、ドアノブにしがみついた。外からカギがかけられたようだ。

 (悪夢だ)

 両手で頭を抱えながら振り向くと、カバーをじゅうたんの上に落としたドレッサーが、平凡な容姿の女の子を映していた。

 

 ホワイト家の両親は忙しい人たちで、幼いころから留守がちだった。

 だからマリオンは、年の離れた兄のデューカに守られて育った。

 漆黒の髪と瞳を持つ兄は、少年時代からもてていたと思う。

 よく、ガールフレンドたちが家に遊びにきたものだが、兄は必ずマリオンも同席させるのだった。

 お人形のようなマリオンは、ちょこんと兄の隣に座っているだけだったが、その愛らしさは、たいていの女の子の出鼻をくじいた。アクアマリンの瞳であどけなく見つめ、首をちょっとかしげて「お兄ちゃん、この人だあれ」と聞く。するとデューカは必ずこう言った。

 「クラスメイトの子だよ。お友達だ。そうだね、ねえ――」

 ただの、クラスメイトの子。そして、大事な美しい妹。

 「僕にはマリオンだけなんだ。マリオンがいれば、それでいいんだ」

 ………。


 「勝ち目なんかないわ」

 ある日、うちにきた女の子の一人が、付き添ってついてきたらしいもう一人の子に泣きじゃくりながら言うのを聞いた。手洗い場の中で、ひそひそと。

 マリオンはおしっこがしたかったのだけど、どうしようかと迷った。

 (早く、出て行ってくれないかな、お姉ちゃんたち)

 「デューカは妹にぞっこんよ、マリオンしか見ていないのよ。なによ、妹なんか…」

 しいっ、と、マリオンが立っているのに気づいたらしく、言葉を制する音を立てる。

 敵意に満ちた視線が幼い女の子に向けられた。

 「なにも分からない子供よ」

 と、胸元をつかんでマリオンの顔を覗き込み、ぎゅうっとにらみつけてくる。

 吊り上がった目と、赤く塗った口紅、そこからのぞく汚れた前歯。

 怖くなってマリオンが泣き出すと、デューカが飛び込んできて、ガールフレンドの手をつかんでマリオンから離した。マリオンは兄の腰に抱き着き、後ろに回って隠れた。

 「帰ってくれない、悪いけど」

 丁寧に、しかし毅然と兄は言った。

 「気持ちは嬉しいけれど、僕にはマリオンが一番なんだよ、同じようにマリオンを大切にしてくれる子じゃないと、恋人とは思えないんだ」


 細い手足と透き通るような肌を持つマリオンは、やがて男の子たちに興味を持たれるようになった。

 だけどあまりにも相手にされないため、マリオンは常に学年の高嶺の花、誰も触れることができない存在だった。

 「デューカ、ねえ、次の休みだけど」

 「デューカ、お兄ちゃん、宿題教えて」

 「デューカ、ねえ、デューカったら…」

 呼べばいつも優しい笑顔で振り向く兄。

 背丈が高いので、まるでぶら下がるようにして、それでも腕を組んで街を歩く。

 学業で忙しくても、仕事を始めても、デューカはマリオンのもの。

 マリオンのもの。


 ………。

 息苦しい眠りが途切れた。

 目を開くと部屋は西日で染まっている。

 じゅうたんの上に倒れたまま気を失い、夢を見ていたのか。

 ズキズキする頭に顔をしかめつつ、身を起こす。

 振り向くと、やはりドレッサーに映るのは地味な風貌の黒髪そばかすの女の子だった。

 マリオンは――いまやマリオンとは呼べないが、仮にそう呼ぶとして――大きく息を吐き、目を閉じた。

 相変わらず頭は傷んだが、眠ったせいか、少し気持ちが収まっていた。

 (デューカ、確かに一緒に育った)

 (抱きしめてくれた腕とか、添い寝の腕枕とか、おやすみのキスとか)

 (ちょっと深入りしそうになったガールフレンドを連れてきて、結局わたしを優先したあの日とか)

 鮮やかに思い出せる。

 何月何日の朝食が失敗してくずれた目玉焼きだったとか。

 その時のベーコンがよい匂いを立てていて、コーヒーも新しいのを開けて美味しかったとか。

 そしてデューカの細い指先の中指の爪が少し欠けていたこととか。

 ………。


 (変だわ)

 ゆっくりと息を止めながら、マリオンは記憶の海を探る。

 寄せては返す、記憶の波。

 星の光を受けて宝石のように輝く、兄との思い出の数々。

 ひとつの傷もない、美しくて完璧な。

 もう一度、マリオンは目を閉じ、押し寄せてくる記憶の渦に向かう。

 (…ああ、そうか)

 まるで、データをフォルダから取り出すように。

 細部まで正確に、精巧に注意深く作られた(作られた?)それらの記憶はまるで。

 (まるで、物語のよう)

 「おかしいわ。こんなの普通じゃない」

 上半身を起こし、薄暗くなった部屋を見回す。

 アラベスク模様が彫刻されたベッド、枕元におかれたいくつかのぬいぐるみ、壁に貼られた映画のポスター、勉強机に飾られた家族の写真。

 そっと立ち上がると、その写真を手に取ってみる。

 美しい兄と妹が、肩を寄せ合って笑っている。

 (この写真は、今から2年前、避暑地に旅行にいった時に、現地の店の人に頼んで撮ってもらったものよ)

 マリオンは、また記憶のフォルダを一つ探し当てる。

 カタカタと頭の中で機械音がするような錯覚に陥った。

 (そして午後1時2分、その店に入り、簡単な食事をしたのよ。パンケーキとアップルジュースの食事で、運ばれてきたのは1時21分32秒。まあまあ早かった。味は美味しかったから、デューカと、いいねって言い合ったのよ)

 ウェイトレスが水のおかわりを持ってきてくれて、その人がとても感じの良い中年女性だったから、思い切って写真をお願いしたのよ。快諾してくれたわ。そして、デューカがチップを渡したっけ。

 カタカタ、カタ…。

 午後1時46分、店の前の木をバックに、わたしたちは並んで立ち、ウェイトレスがカメラのシャッターを切る。

 ぱちり。

 ………。

 

 できすぎている。

 それに、あまりにも精巧すぎる。

 ことん、と写真を机に戻すと、マリオンはベッドに腰掛ける。

 目の前のドレッサーに映る己の姿をまじまじと見つめる。

 (写真のマリオンとは別人)

 じゃあ、わたしは一体。

 「わたしは、誰」


 ふいに、身体のどこかがえぐられる様に痛んだ。

 苦痛が過ぎて、自分のどこが痛むのか、とっさに分からなかったくらいだ。

 (頭が痛い)

 それは、針金をつっこまれて無造作にかきまぜられるような痛みだった。両手で頭を抱え、思わずベッドにつっぷした。

 強く強く、そして弱く、波のようにうねる痛みと戦っているうちに、ある、全く見知らぬ風景が脳裏に浮かび、マリオンはぎょっとした。

 焦げた建物の残骸が目の前に広がっている。汚れた顔と手足。冷たい地面に座り込む。やがて雨が降り始めたけど、わたしはどこにも行くところがない。冷たい冷たい痛い痛い、どこか傷ついている、悲しい、とても悲しい。

 『助けてあげようか』

 静かな声が聞こえて振り返るとそこには、背の高い痩身の人が立っている。傘もささずに肩を濡らしながら。

 『僕と一緒に来るといい。いくところがないんだろう』

 その人の顔を、まざまざと思い出して、マリオンは息を止めた。

 憂うような漆黒の瞳と濡れた黒髪、人形のように冷たいほど整った顔立ちと、穏やかで優しい声。

 それは、デューカだった。

 

 混乱していた。

 いつの間にか頭の痛みは治まっていたが、今しがた浮かんだ風景は、夢と言うにはあまりにも生々しかった。

 硝煙臭さや理不尽さ、明日を生きることなど想像できないほどの深い悲しみと苦しみは、偽物ではなかった。

 (これは、いつか体験した、本当にあった出来事)

 細く細く、呼吸を続けながらマリオンはこぶしを握る。指の関節が白く浮き上がるほど強く。

 (じゃあ、ここは?このマンションは、この部屋は、お兄ちゃんの思い出は?)

 親指を立て、ぎゅっとつめを噛みしめたその時だった。

 

 …とん、とん、ととん。

 窓ガラスが叩かれている。

 ここは四階だ。人が立って窓を叩けるような場所ではない。

 体をこわばらせて窓を見ると、レースのカーテンの奥に、人の顔がぼんやり映っていた。

 きゃっと叫ぶのと、鋭い音を立てて窓ガラスが破られたのはほぼ同時だった。

 ガラスの破片が飛び、マリオンは腕で顔をかばった。

 その腕をぐっとつかむ者がいる。見上げると、あのエレベーターの男だった。

 「手間どらすなよ、お嬢さん」

 ラフなセーターの上に皮のジャンパーを着て、手は黒い皮手袋で守られている。腰にはワイヤーがついており、窓ガラスの外に続いている。

 ふぁあっと、風が部屋に入り込みカーテンが巻き上がった。

 「来るんだよ、ここから逃げるんだ。あんた、殺される」

 マリオンは男に引きずられるように立ち上がった。

 (誰、この人は誰なの、知っている人なの)

 「疑うような目で見るな。あんたが今何を考えても無駄なのは自分でもわかるだろ」

 ぶっきらぼうに男は言い、ちょっと気の毒そうに口をゆがめてマリオンを眺める。

 「…まあ、気の毒な状態であることは、認めるがな。今は何も言わずに逃げるんだ」

 「あなたは誰、そしてどうしてこんな」

 マリオンの問いに男が答えるより早く、部屋の扉が開いた。

 冷たい光を帯びた目のデューカが飛び込んでくる。マリオンは腕をつかまれたまま振り向き、兄が銃口をこちらに向けているのを見た。

 「おにい、ちゃ」


 銃声が耳をつんざき、身体が羽が生えたように軽やかに宙を舞い、空に飛び立つ。

 そう感じた。

 マリオンは目を閉じ、そしてそのまま意識を失った。

 (デューカ、お兄ちゃん、助けて)

よく、アニメとかゲームとかで、さらわれたり人質になったりする役があるじゃないですか。しょうこりもなく何回も連れ去られる状況にいらいらしつつ、ちょっとうらやましかったりしたものよ(遠い目)。

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