小さな背中の未来
「ママー!見てみて!貝さんだよ!」
今年で4歳になる、娘の香奈が、小さな貝殻を見せびらかした。
「わぁ、本当だねぇ」
母親である梨子は、その無邪気な笑顔に応えるように、ニッコリと笑った。
「えへへ、これお家に持ってってもいい?」
「いいわよ?」
「わーい!」
香奈が、その場にピョンピョンと跳ねて喜んだ。
今年梨子は、初めて香奈を海に連れて来た。
夫は、せっかくの土曜日であるというのに、仕事が入ってしまったと、朝早くから家を出て行ってしまった。
どうせなら、もっと早く。それも、夫と一緒に来てあげたかった。
でも、香奈の「それ」が、梨子の気持ちを拒んでいた。
香奈を出産して間もなく、梨子と夫は、医師に呼び出された。
「香奈ちゃんのことなんですが、背中に、茶色いアザができているのは、ご存知ですよね?」
「え?ええ・・・」
確かに、香奈の背中に妙なアザができているのは知っていた。だがそれは、産まれた時にできた出来物みたいなもので、すぐに治るだろうと、特に気にしてはいなかった。
「実は・・・」
すると医師は、深刻な表情を浮かべて、梨子の知らない病名を告げた。
「・・・え?」
「これが、その病気の一例です」
医師がデスクの引き出しから、大きなファイルを取り出し、その病気の症状資料を出した。
「このように、年齢を重ねるごとに、腫瘍は増えていきます。場合によっては、骨にまで影響する可能性もあります」
「そんな・・・」
言葉が出なかった。
まさか、我が子の香奈が、そんな症状を患わなければならないだなんて。
「・・・それで、その病気は治るんですか?」
言葉が出せずにいた梨子に変わって、夫が医師に聞いた。
「残念ですが、現代の医療では、完治することはできません・・・。目立つ腫瘍を取り除いて、症状を緩和するぐらいしか、現在は・・・」
そんな・・・。
結婚4年目で、ようやく授かった子供だというのに。ようやく、子供と幸せな家庭を、築けると思ったのに。何故、なんの罪もない香奈が、そんな症状と付き合っていかなければならないのか。
ショックだった。
その後、医師から色々と説明があったはずなのだが、梨子は今後を想像したショックで、全く耳に入らなかった。
それからというものの、香奈の背中を目にする度、その子の将来を想像してしまう。
この子は、どんな子供になるのだろう?
このアザが原因で、いじめられたりはしないだろうか?
いじめが原因で、暗い性格になったりしないだろうか?
度々そんな未来を想像しては、辛い日々が続いた。
そして、先週。
夫に「相談がある」と言われて、梨子は深夜、リビングに呼び出された。
「なぁ、梨子。今年の夏こそは、香奈を海に連れて行ってやったらどうだ?」
「えっ?香奈を?」
「あの子だって、もう小さくない。それに、外の世界で認めてもらう努力をしていかないと、香奈はこれから、弱い子になってしまう」
「それは・・・そうだけど・・・」
「幼稚園のプールを休んで、香奈が泣いたんだろ?」
「・・・うん」
初めての幼稚園のプール。けれども梨子は、香奈のことを心配して、すべてのプールを見学にさせた。
だが、それに香奈が「なんで私は入っちゃだめなの?」と言い、梨子に抱きつき、泣きじゃくった。
「これは香奈のためでも、梨子のためでもあるんだ」
「私の・・・?」
「お前は、香奈を心配しすぎだ。もう少し、香奈を普通の子と同じように、育ててやったらどうだ?」
「普通の・・・」
梨子は、しばらく頭を悩ませた。
「・・・分かったわ。来週あたり、連れて行ってあげましょ」
悩んだ末、香奈を海に連れて行く決心がついた。
そうして今日、梨子は香奈を、初めて海へと連れてきたのだった。
「元気だなぁ、香奈は」
娘の、初めての水着姿。
水色の、可愛いヒラヒラが付いた水着だ。
無邪気に砂浜で遊ぶ香奈を、梨子は見ていた。
「ママー!」
また何かを見つけた様子の香奈が、こちらに向かって走ってくる。
「・・・あっ!」
思わず梨子は声をあげた。
だが、梨子がハッとした時には遅かった。
香奈が足を縺れて、その場に転んでしまった。
周囲の人たちの目線が、一斉に香奈に向けられる。
「オット、オジョーちゃん、ダイジョウブ?」
その時、香奈の前を通りかかった、Tシャツにジーパン姿で、いかにも海とは不釣合いな格好をした1人の男性が、香奈を軽々と持ち上げて、立ち直らせた。
「うん!香奈強いもん!」
香奈は男性に、ニカッと笑ってみせた。
「オウ、オジョーちゃん強いねぇ!」
「あ!ママママ!これ見て!」
すると香奈が、こっちに来るように、来いこいと手を振った。
「もう、仕方ないなぁ」
仕方なく梨子は立ち上がり、香奈の近くに寄った。
「すいません、ありがとうございます」
改めて、梨子は男性に礼を言った。
それに反応して、男性がこちらを振り向く。
それまでは後姿で分からなかったが、アメリカ系の容姿をした男性だった。
「オウ!ダイジョウブ!問題ありません!」
男性が、歯を見せて笑った。
「ママこれ!おっきな貝さんだよ!」
香奈が、両手に乗せて大きな貝殻を見せびらかす。
「ワオ!凄い大きな貝殻ですね!オジョーちゃんは天才かもです!」
「えへへ、ありがとう!おじさん!」
「オジョーちゃん、お名前は?」
「香奈!」
「カナちゃんですか!イッツ、キュート!」
いつの間にか、2人は意気投合したようで、ニコニコとしながら話している。
「よーし!次はあっち!」
香奈は、海辺に向かって、またも走っていってしまう。
「・・・オウ?」
梨子がしまった、と思ったときには遅かった。
香奈の背中を見た男性が、顔を歪ませた。
「・・・ママサン、カナちゃんの背中のあのアザは?」
アゴに手を寄せて、考えるように男性が聞いた。
「・・・香奈は、病気なんです。それも、一生治らない。今日は、勇気を出して、初めて海に連れてきたんです」
「ビョーキ、デスか・・・」
「あの子は、これから沢山の辛い事が待っているはずです。そのためにも、今日はその最初の一歩ということで、ここにやってきました」
「ナルホド・・・」
すると男性は、しばらく悩みこむように唸っていた。
「ママー!この砂、キラキラしてるよー!」
またまた香奈がこちらに走ってきては、両手に乗せたなんの変哲の無いただの砂を見せびらかす。
「うふふっ、そうね。キラキラしてるわね」
「オー!イッツ、ビューティフルです!」
男性が、しゃがんで香奈の頭を撫でた。
「ねぇねぇ、おじさんは、この海の向こうから来たの?」
香奈が、男性に聞いた。
「ソウデス!このおっきな海の向こうから、泳いでやってきました!」
笑いながら、男性が言った。
「そうなの?おじさんはすごいね!」
「オウ、アリガトウございマース!」
「ねぇママ!香奈、おじさんと少し遊んでいい?」
「え?」
香奈が、梨子に向かって聞いてきた。
「いや・・・えっと・・・」
「オー、私はイイですよ?ママサン。偶々、私は散歩をしていただけなのデ」
「え?いいんですか?」
「イエース!ノープロブレム!」
少しばかりどうするか考えた梨子だが、特に悪い人でもなさそうだったので、男性に香奈を任せることにした。
「ソレデハ、少しばかり、カナちゃんをお借りしますね?」
「すいません、それじゃあ香奈をお願いします」
梨子は、香奈とその手を握って歩いていく男性の背中を、静かに見送った。
「・・・マ!ママ!起きて!」
「ん・・・」
香奈に体を揺らされて、梨子は目を覚ました。
パラソル下のレジャーシートに横になって待っていたつもりが、いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
あれから、1時間くらいだろうか?
「ママサン、どうもアリガトウございマシタ!すごい楽しかったデース!」
「あ・・・いえ、こちらこそ、ありがとうございました」
梨子は、男性に頭を下げた。
「ソレデハ、私はそろそろ行きマース!また、どこかで会えたらイイですね!」
「おじさん、またね!」
「イエース!カナちゃんも、お元気で!シーユーアゲイン!」
「シーユー!」
いつの間にか覚えた英語を使って、香奈は男性に手を振り見送った。
「香奈、おじさんとどうだった?」
梨子は、いつまでもニコニコしている香奈に聞いた。
「香奈、すっごく楽しかった!」
「そう、よかったわね」
「えっとね、香奈おじさんに教わったの!」
教わった?
「何を?」
「えっとね、えっとね、香奈は、もっと、もーっと強くなりなさいって。それから、香奈はいつまでも元気で、ニコニコ笑ってねって、約束したの!」
「え?」
それを聞いた梨子は、改めて遠くに見える男性に目を向けた。
その時、男性が少しだけ、こちらを振り向いた気がした。
それも、笑顔で。
「・・・そうなんだ」
「それからね!エーゴ?っていうのを教えてくれたの!おっけー!とか、シーユー!とか!」
「そう、いっぱい教わったんだね」
「うん!それでね!香奈大きくなったら、あの海の向こうに、泳いでいくんだ!それで、おじさんに会いに行くの!」
「お、泳いで?」
それはさすがに笑い話だ。
「うん!だから、香奈もっと強くなるからね!」
香奈が、無邪気な笑顔で答えた。
―・・・この子は、こうやって、今後の運命に負けないように、必死に生きようとしている。
それなのに、親の私は、いつまでも覚悟を決められなくて・・・。バカだ、私。
「・・・うん!じゃあママも、香奈に負けないように、もっと強くなるからね!」
「ママも強くなるの?」
「ママだって、香奈に負けてられないもん」
「じゃあ香奈は、もーっと、もーっと、強くなる!」
香奈が、両手を大きく広げて、ジャンプした。
「うふふっ、そうね」
梨子は、香奈の体を、ギュッと抱きしめた。
この子は今後、色んな運命が差し掛かってくる。
親の私が、弱音を吐いてちゃダメだ。
私も、香奈のように強くならなきゃ。
「あ!そうだ!これ、1つママにあげるね!」
レジャーシートの上に置いてあった、先程の貝殻の1つを、香奈が手に取り、梨子に渡した。
「・・・うん、ありがとう」
その先が細長い貝殻は、先程の男性の顔に、そっくりな形をしていたのだった。