心なし子
七瀬藍
……誰だって一度は自分を特別な人間だと思うものだ。
『自分』は世界でたった一人しかいないのだし、必然的に七〇億分の一の一人として生まれた、そこに意味があるのだと考える。
画期的な発明をして人類史に名を残すとか、偉大な名作を世に発して一大ムーヴメントを起こすとか、マザー・テレサのような偉大な人物として尊敬されるとか、何でもいい。
自分がそういう人間になれるのだと思ったことは、誰にだってある筈だ。けれど、いつしか己が凡百の衆愚の一人に過ぎないと悟り、個性を失い周囲に埋没してゆく。世の仕組みは何とも無情で、夢のないものだ。
ある人は「人は生まれながらに平等です」と言い、またある人は「この国では富が平等です」と言って、ある人は「どの命にも貴賤はなく、どれもが等しく一なのです」と言う。
でも、本当にそう思ってる人なんていないでしょ?
私は、自分が特別な人間だと信じていた。父は身一つで立ち上げた会社を上場企業へと押し上げた傑物で、母はそれを影から支えた良妻賢母の鑑のような美しい女性だった。両親の優れた部位ばかりを受け継いで産まれた私は、傍から見てもよくできた娘だったと思う。
勉強を難しいと感じたことはないし、容姿も周囲の女の子と比べて際立っていた。運動は苦手だったけれど、父譲りの明晰な頭脳と母譲りの美貌を持って産まれたことは、誰にも言わない小さな自慢。
友達を招けば皆が驚嘆して羨む豪邸と窮迫とは一生無縁な裕福な暮らし。テレビに出ている偉い人と話したことだって何度もある。そんな環境にいる私は、自分が特別な存在なのだと信じて疑わなかった。
今も、特別だとは思っているけど、昔ほど勘違いしてはいない。
今は、本当に違う世界にいる人を知ったから。
●
私の名前は七瀬藍という。父が男の子なら「唯斗」、女の子なら「藍」が良いなんて短慮な理由でつけられた名前だけれど、存外気に入っている。響きが可愛いし、何より、兄さんと一文字違いという偶然が嬉しいから。
母譲りの亜麻色の髪を丹念に梳かし、化粧台の鏡で身嗜みを整えて部屋を出る。いつもならオープンキッチンで兄が朝食の支度している姿があるのだが、今日は姿が見られなかった。
「おかしいな……」
呟き、首を捻る。記憶にある限りでは、私と兄が進学を機にマンションで二人暮らしを始めてからこんなことはなかった。
「兄さん?」
兄の部屋のドアをノックすると、緩慢にドアノブが動く。僅かに開いたドアの隙間から兄が顔を覗かせた。その白く美しい頬は、今は青白く、私が「こうありたい」と願う美貌が陰って見えた。
「藍? 悪い。今日は学校を休むよ。体調が悪いんだ」
「だ、大丈夫ですか? たいへん……私も休んで看病します!」
「いいよ。藍は学校行きな、皆勤なんだろ?」
「でも……」
「僕はいいから。――ゴメンな、藍。ご飯作れなくて」
消え入りそうな声だった。私は無理をしてでも兄の看病をしようと思ったけれど、兄はそれを望まないと考え直し、いつも通り登校した。
……兄も皆勤だったのに、と。気づいたのは、一人で家を出る時だった。
●
「今日はアイツ休み? へー、珍しいこともあるもんだ」
学校に着くと、兄の親友の藤宮くんがどこか物寂しそうに笑った。県最難関の進学校で、あり、おとなしい子の多いウチで数少ない不真面目な生徒。軽薄そうな見た目をしているのに成績は良くて、人当たりも良いひょうきんでクラスの人気者な彼だけど、増えるのは知り合いばかりで友達と呼べる間柄は兄しかいない。それを知るのは私と兄だけで、兄にとっても友達と呼べるのは藤宮くんしかいなかった。お互いの事情は、少し違うけれど。
「本当は、私も休もうと思ったんですが」
「アイツくそ真面目だからなー。どうせ藍ちゃんを休ませるわけにはいかない、とか考えたんだろ。いつも気を張って怖い顔してるんだから、たまには甘えて可愛い顔見せてくれてもいいのにな」
冗談で場を和ませようとしたのか、藤宮くんは意地悪い顔で笑った。気を遣ってくれているのだろう。藤宮くんには見せないだけで、家での兄は優しい顔を見せてくれるのだが、誰も知らない私だけの秘密だから教えない。
「そうですね。でも、兄さんが素直に笑っても、それはそれで不気味ですけど」
「裏がありそうだよな」
藤宮くんが歯を見せて笑う。飾り気のない子どもっぽい笑顔は、女子に人気があるのも頷ける愛嬌があった。
兄――七瀬唯と私は、同い年の兄妹だ。尤も双子というわけではなく、兄は養子として迎えられた、赤の他人だった。
男のくせに女よりも綺麗な顔をした、時を同じくして引き取られた姉にべったりの情けない子……それが、私が兄に懐いた第一印象。女神みたいな姉に連れられて、妖精みたいな弟が七瀬家にやってきたのは、不況やテロに病んでいた国に追い討ちをかけるようにして襲った震災からしばらくして。
幼かった私は詳しい事情を知らないけれど、二人は震災孤児で、記憶も家族も戸籍もなくした、絵に描いたように悲劇的な子どもだったらしい。私の父は、地域貢献や慈善事業で名誉と感謝を得ることで虚栄心を満たすのが道楽な、成金らしい後ろ暗さのある人だったので、偽善からこの可哀想な美人姉弟を引き取ったのだと、今は思う。
私は、この姉弟が嫌いだった。だって、普通はそうでしょう? 自分だけに注がれていた親の愛情を奪い、私の縄張りに侵入してきた不届き者。幼い私には彼らの事情を理解できなかったし、ただ不快な、憎たらしい敵としてしか映っていなかった。
時が経ち、十も歳の離れた姉の結花さんとは仲良くなれたけど……同い年の兄は、結局、結花さんが亡くなるまで好きになれなかった。
男のくせに女の私より可愛い顔をして、男のくせに女の私より綺麗な髪をして、男のくせに女の私より女々しくて……私がこの半生で最も尊敬した、結花さんの愛を一身に受けていたから。
何より昔の兄は、おかしなところが多々見られた。
――たとえばこんなことがあった。
小学校に上がったばかりの頃、風邪をひいて病院に行くと、兄も一緒だった。兄は以前から通院していて、なのに普段は至って健康そのもの。疑問に思いながらも待たされた末に私が呼ばれたのは内科で、兄は脳神経外科だった。
ただの風邪だったので早くに診察が終わり、母に引かれて兄の診察に付き添い、帰る間際に兄の担当医が漏らした呟きが、今も耳にこびりついて離れない。
『あのコ、人が見えないのよ』
――こんなこともあった。
私たちが同居を始めた頃、兄はいつも泣いていた。一人でいる時や私たちといる時は伏し目がちに涙を湛えて、一言も発さず、結花さんがいる時だけ顔を綻ばせて強がりを言っていた。
その態度が媚びを売っているようで気に食わなかったし、兄は七瀬家の人間を一切信用せず、姉以外に心を許していないのがありありと見て取れた。当時は両親も兄をどうすればよいか頭を悩ませていたように思える。
兄は結花さんと一緒でないと眠れず、毎日一緒のベッドで寝ていたのだが、夜中に寝室の前を通りがかった時、奇妙な会話が聞こえた。
『ねえ、お姉ちゃん。僕って本当に男なのかな』
『どうしてそんなことを思うの?』
『みんな僕のこと、女みたいだって言うんだ。名前も女みたいだし……僕も、変だって思うんだ』
『唯、あなたは男の子よ。世界で一番きれいで、誰よりも素敵な男の子……私が世界で一番愛してる、世界で一人だけの弟よ。だから自信を持っていいの。他の誰でもない、私の弟なんだから』
『お姉ちゃんの……?』
『そうよ。でも、いつか、周りとの違いに辛くなる時が来るかもしれない。その時は、いつでも私の言葉を思い出して。そして、いつでも私に甘えていいの。私はあなたのお姉ちゃんなんだから』
『……』
『だから、自分を変えないで。無骨で粗雑な男みたいになろうとしちゃダメ。髪も丁寧に扱わなくちゃダメよ。あなたの体は、神様が授けた宝物なんだからね』
『うん。わかったよ、お姉ちゃん』
『いいコ……いいコね、唯。好きよ、愛してるわ』
『あ、お姉ちゃん……』
立ち聞きしていた私は、その後、怖くなってその場を離れた。幼い私が懐いた違和感の正体に気づけたのは、もう少し大人になってからだった。
私の理想の女性像そのものであった結花さんは、兄を男だと認めさせながら、女らしく育つように言いつけていたのだ。
私が特に腑に落ちなかったのは、結花さんに依存しきっていた兄が、その死に悲しむ素振りさえ見せなかったこと。
兄は自分と結花さんの誕生日に結花さんが急死して以来、涙を見せていない。
訃報を聞いた時も、遺体と向き合った時も、葬儀でも、ただの一度も。
悲しい時には泣くものだと思っていた私は、実姉の死に相対しても表情ひとつ変えない兄が、まったく別の生き物としか思えなくなった。
「そういえば、今日は菊理さんも来てねえな」
「みたいですね、珍しい」
授業開始の予鈴が鳴る前になってクラスに視線を巡らせて、藤宮くんがつまらなそうに呟いた。
菊理さんは、学校で一人だけ外国人の血を継いでいる、美麗な銀髪とヴァイオレットの瞳を持つ美少女だ。たしかハーフかクオーターだった筈だが、色濃くコーカソイドの面影を残す彼女は全校を通して浮いていた。
長く優美な肢体と名画から抜け出してきたような容貌は壮麗で、彼女の周りだけ清涼な空気が漂っているかのような感覚に陥ることさえある。兄と私と彼女が、学校の三大美少女だ、とか藤宮くんが茶化していた。
ただ、知名度と対照的に交友関係は皆無で、親しい友人はおろか、誰かと話しているのすら見た憶えがない。ずっと自席に座り、黙然と読書に耽る姿が定着していて、当初は容姿に惹かれて近づいた連中も一瞥されただけで無視されることに堪え、今では話しかける人さえいなくなった。
人目を引く玲瓏である為、いないのは意図せずとも気づいてしまうのだが。
「あーあ、残念。今日は藍ちゃんで目の保養するしかないな」
「またそんなこと言って。本当は男色家だって言いふらしますよ」
「マジやめて。本当に誤解されてるから、お願いだから」
口が達者な藤宮くんを凹ませて溜飲を下げ、ふと様子のおかしかった兄を思い起こす。過去に立ち返って、ひとつの事柄に気づき、胸がざわついた。
私たちが出会って十二年が経つ。だが、兄があんなに悲愴な表情を見せたのは、もう十年以上も思い当たる節がない。
●
胸騒ぎがした。女の勘はよく当たるというが、私の勘は他者のそれより一際冴えている。
十年前。私は学校で言い様のない不安に襲われ、授業中に泣き出してしまったことがあった。先生に問い詰められても原因が分からなくて、胸に蟠った不安が、いつまで経ってもこびりついて離れず、途方に暮れて泣いていたら、職員室に兄とともに呼び出され――そこで、結花さんの訃報を聞いた。
本当に、吉報も凶報もひっきりなしに当たるのだ。
今日も、それに近い感覚が、私を震わせた。心当たりはひとつしかない。
兄さん――今朝から、様子のおかしかった兄。窶れた、平素の凛然とした兄とは乖離した顔。
何かあったんだ。私はいてもたってもいられなくなり、HRが始まる前にカバンを手に取り、帰路についていた。
あの様子は尋常ではない。兄は外見の儚げな印象とは真逆で、風邪にかかったことすらない健康児だ。
その兄が休むなんて、何か重大な病、もしくはその症状に襲われ、でも私に心配をかけまいと強がっているに違いない。
嫌だ。兄さんを喪うなんて嫌。絶対に嫌。
あの綺麗な黒髪が好き。女より可憐な顔も、美しいボーイソプラノの声も、華奢な肩も好き。
湖のような不思議な眼も好き。兄さんの瞳の中に自分が映って、鏡みたいな虹彩を独占しているのが好き。
十年もかかった。世界で一番嫌いな他人から、世界で一番好きな人になるまでに、それだけの年月を兄さんと過ごして、やっと二人きりで過ごせるようになれたのに。
兄さんがいなくなってしまう。結花さんと同じように。
遮二無二、通学路を走って、自宅マンションに入る。普段は壮観なエントランスのだだっ広い空間も今は無用の長物しか思えない。
のろまなエレベーターに苛立ちながら、息せき切って自宅に辿り着く。普段からもう少し運動をしておけばよかった。
カードキーを差し込み、ドアを開く。
「兄さん!」
靴を放り投げてリビングに入る。
「……は?」
我が目を疑った。父に用意してもらった私と兄さんの新居。億ションの瀟洒なリビングに、兄さんと知らない少女、そして、同級生の全身を縄で縛られた菊理さんがいた。
……兄さんはいなくなった。だって、私の知る兄は、藤宮くん以外の他人なんて家にあげることはなかったから。