序章
序章
僕は神様を信じていなかったから、青く甘美な運命を信じる彼女を見捨てた。
僕は運命を信じていなかったから、確固とした自分を信じる彼女にすがった。
僕は自分を信じていなかったから、気まぐれな神様を信じずに彼女を愛した。
あの夏、何も知らない子どもだった僕たちが当事者となった、凄惨な事件。
あの夏、僕たちを取り巻き、一夜のうちに一変した日常の中で起こった出来事は、端的に言い表せば、その程度の事柄でしかなかったのだろう。
平坦な日々を取り戻してみて、如何にあの日々が奇天烈で平素な日常から乖離していたか実感する。僕たちは代わり映えのない安穏とした日々のありがたさ、異物のない退屈の希少さを忘れていた。それが常に傍にあるものと生まれた時から享受していたから、感覚も危機感も思考も麻痺しきっていることに気づいていなかったのだ。
日常を崩すことの容易さを――それこそ、一人の子どもが家にある包丁を持ち出して学校で暴れる程度のことで、憩いの学び舎が惨憺たる殺害現場になってしまうようなものなのに。理性による抑制を感情が超えただけで、人は社会に多大な波紋を起こせる環境にあることを、僕たちは気づけずにいる。
あの事件は、それを形にした数奇な出来事だった。
●
朝起きると、街のどこかの路地裏だった。
振り返ってみてもワケが判らないのだから、突然その状況におかれた僕の当惑ぶりは筆舌にし難い。払暁を迎えようとしている薄明かりの空。寝巻きのジーンズにTシャツ、加えて素足で街を出歩いている僕の現状は、見るからに不自然だった。
「なん、だ……? 頭が、痛い……」
こめかみに走った激痛に眉をひそめる。ふと、この状況を説明できる病名に思い当たり、寝起きの朦朧とした頭で思慮する。
夢遊病だ。
夢遊病を罹患した者は、就寝後、意識がないにも関わらず意思の疎通をこなし、買い物して帰ってくることもあるという。そして起きた時、何も憶えていない。正に今の僕がおかれている状況に当てはまる。
「だからって……こんな所で目を醒まさなくてもいいのに……!」
頭痛に苛まれながら愚痴を零す。剥き出しの足に小石が刺さって、その痛みに頭が冴えてきた。
両隣のビルの高さ、路地裏の先の点景からして、此処は繁華街を外れた路地裏の一角だろう。滅多に人は通りかからないし、表通りからは薄暗くて路地裏の様子は窺いにくい。いったい何で僕はこんな所にいるのだろう。
こんな所で僕は何を――
「う……」
「ッ!?」
人の、女の呻き声に振り向くと、女性が壁に背をもたれて蹲っていた。
「だ、大丈夫ですか?」
声をかけるが、反応がない。長い黒髪を風が弄び、怪しげに靡く。髪の隙間から覗く肌に血の筋が伝っていた。
……怪我をしている。それも、僕のすぐ傍で。血が乾いていないところから鑑みるに、僕が意識を取り戻して間もない頃にできた怪我だ。
「嘘だ……」
浮かんだ真実を信じたくなくて、否定の言葉が口を衝いた。周囲を見渡しても人気はない。疑念が確信に変わる。僕が、よりにもよって無意識に人を傷つけたなんて――
鬱屈とした黒い蟠ったものが胸に詰まり、吐き気が込み上げる。震えが止まらない。これから、どうすればいい?
保身を考え、人生を転落する失意に苛まれていたその時――風が垂れ下がった女性の前髪をふわりと舞い上げた。
「あ……」
見なければよかった。震えはますます強くなり、顔は表情を作れているのかわからないほど引きつった。
「な、なんで……」
処女雪の如き純白の肌を血が走り、女性の白い面貌を彩っていた。無防備に眠る女性の美しさは、流血しても陰りがない。僕はその顔に見覚えがあった。
忘れようと思っても、忘れたことなんて一度もなかった。強い既視感に眩暈さえした。それは、もう僕が幾ら望んでも見ることの叶わないものだったから。
「姉さん……」
その女性は、あろうことか、僕の死んだ姉の生き写しだった。
その日、僕は初めて犯罪を侵した。
意識のない少女を背負い、自宅まで連れ込んだ。まだ夜が更けて間もない時間帯なのが幸いした。罪悪感や理性の抑止は一切なかった。とにかくこの少女を連れて、一刻も早く人目のつかない場所に行かなければという意思が、夢中に体を動かした。
しかし、安堵し、時間が経過するにつれて不安が鬱積してくる。僕のベッドで安らかに眠る少女の微かな寝息がそれを加速させた。
「なにやってるんだ、僕は……」
少女の怪我は、頭部からの裂傷以外に見受けられなかった。治療を施し、ベッドに寝かせると、トイレに篭って吐いた。この言いようのない、得体の知れない不安はどこから来る?
この少女だ。僕が、この世のものとは思えない美しい少女を傷つけ、挙句に攫ったからだ。無意識のうちにそれを行った自分が、そしてそれから刻まれる経歴の瑕疵が恐ろしかった。
家に連れ込み、治療したのは――単純に、姉に似た少女が傷ついているのを見るのが堪えられなかったから。そんな卑屈な理由からだ。だが、疚しい理由がなかろうと犯罪には変わらない。
少女が起きたらどうしようか……そうだ、事情を話し、出頭しよう。状況証拠から彼女に怪我を負わせたのは僕しかいないし、その方が精神的にも楽になれる。
同居する妹に迷惑はかけられない。両親には……後で謝れば、いい……のだろうか。よくわからないが。
決意を固めた僕は、起きた妹に「今日は体調が悪いから学校を休む」と伝え、彼女が目を醒ますのを待った。
時間にして五時間ほど経過した頃だろうか。少女が目を開いた。
目を醒ますと同時に勢いよく起き上がり、僕を睨めつける少女の瞳と目が合う。
――血が、少女の瞳から流れているのかと錯覚した。紅い瞳。不可思議な色合いの虹彩が揺れ、瞳孔を獣のように開いて僕を睥睨していた。自然ではアルビノ以外にありえない非現実的で、鮮やかな発色だった。
僕がその色彩に魅入られている隙に少女は――
「――え?」
――少女は僕を押し倒し、眉間に銃口を押し付けた。認識してからは、声を発する間もなかった。
少女は瞬時に引き金を引き、銃声の乱反射が耳朶を痛いほどに叩いた。
……理解が追いつかなかったし、自分がわからなくなった。殺されたっていうのに、僕は、その瞳に魅入られて――懐かしさに涙が零れた。
嬉しかった――まるで、死んだ姉が甦ったみたいで……たとえこれから死ぬとしても、ただ嬉しかった。
喩えようもなく、嬉しかったんだ。