神田川心理調査活動録(仮)~school side story~
「おっ。珍しい人がいるではないか」
重たい身体を引きずって校門近くまで行くと、同じクラスの吉本春彦がめざとく貴一を発見した。珍獣でも見たような目つきになってるのはご愛敬だ。貴一は極端に身体が弱く、そのため登校日数も大幅に少ない。ペーパーテストの点数で辛うじてカバーしているが、そうでなかったら間違いなく留年しているほどだ。
その隣には、幼なじみとやらでいつも一緒にいる若葉まこと。彼女は保健委員で、いつも貴一を保健室に連れていってくれる。身長168センチと少し大きめの身体は、時に貴一をおぶっていくこともあるほどだ。彼女いわく「あんたはめちゃくちゃ軽いから」とのことでおぶるのは苦ではないらしい。実際恐らく彼女の体重よりも自分のそれの方が軽いだろうことは悲しい事に明白だった。彼女が特にふくよかな訳ではない。貴一の痩せかたが尋常じゃないだけだ。
「今日は身体の調子いいの?」
「まぁ、そういうことにしといて」
「具合悪くなったらいつでも言ってね!」
彼女は非常に自分の職務に熱心だ。というか、将来看護師になりたいみたいで自然とこういうことに燃えるタチらしい。
「でもなんだかずいぶん息が上がっとるぞ。すでに具合悪そうだ。顔色も悪いし」
「うーん。たしかにね。あたしもなんだか気になってたけど」
校門に手をかけて、少し休んでいた所なのだ。そう思われても仕方がない。
「や、息が上がってるっていうか、歩いてちょっと疲れただけ」
「相変わらず14歳の人間とは思えない言動であるな……」
「おぶってあげよーか?」
「……それは最終手段にしといて」
家から学校まで徒歩20分(普通の人が歩いたら10分ほどで着くらしいが……)。弱ってる心臓が、負担をかけられて怒り狂ってるかのように拍動している。ついでにめまいも起こしているので校門の所に手をついていないと倒れそうでおっかない。
めまいと軽い吐き気を覚えながら、これからどうやって校内に入ろうかと思案していると、まことが腕を絡ませてきた。あやうく心臓が止まる所だった。幸いにも心臓は止まらなかったが、盛大に咳き込んだ。
「あら? 喘息の発作?」
「うーむ。むせただけだと思うぞ。タイミング的に」
春彦が的を射た発言をしてくれた。男は大変だよな、分かるぞその気持ち、と同情すらしてくれた。
「とりあえず、もう少しで鐘鳴るから行こ? 体重あたしに預けちゃって大丈夫だから」
と歩き出した。春彦が後ろから殺意をこちらに向けている。分かりやすい男だ。自分でなければ殺されてた所だな、と内心で思いつつ、足を動かした。彼女は将来はきっといい看護師になれるだろう。
貴一の事は学校中の噂になっているので、歩いてる間中周りの人は、視線を集中させたら爆発する爆弾でもあるかのようになるべく見ないようにしているのが分かる。実際爆弾を抱えているようなものなので仕方ないのだが、決して居心地は良くない。でもこの二人は違う。温かくて、でも自然な気持ちで接してくれてるのがよく分かる。五感を超えた感覚で、それが伝わってくる。
五感を超えた感覚。
第六感ともいえる感覚で、生まれた時からすでに貴一に備わっている力だ。その力で貴一の中には周囲の人の考えている事などが意図せずに飛び込んできたりする。制御できないテレパシーのようなものだ。今でこそ聞こえてきた声をそのまま口に出したりはしないが、幼い頃は無邪気にその内容を本人、時には他人にまで伝えてしまい、周りの人間から気味悪がられていた。その結果、両親は離婚してしまい、母親は今では精神を病んでしまっている。時には貴一に乱暴を働く事もある母親を、しかし彼は「仕方のないことだから」と受け入れている。幼い子供のやった事とはいえ、許容できる範囲を軽く超えてしまっているという事をよく分かっているからだ。父親も母親も目の色は黒で髪の毛も黒なのに、貴一は緑の瞳をしていて色素の少ない茶色い髪の毛をしている事も、異端視されている理由の一つとなっている。
途中で、心臓も通常運転に切り替わったので腕を外してもらった。
教室に入ると、今度は逆に視線の一斉放射を受ける。辺りがざわめく。
そしてみんな、具合いいの? などとすでにお決まりの文句になってる質問をしてきた。それに適当に答えながら、しかし貴一の緑の瞳はとある生徒の姿だけを捕らえていた。
クラス中の生徒が、自分の久々の登校に軽く沸き立っているのに対し、その生徒は何事も起こっていないかのよう黙している。身じろぎせずに椅子に座り、両腕は机の上に出して右手と左手の指先を絡ませるようにして握っている。顔は斜め下を向いているが、背中の中程まで伸ばした髪の毛に横顔が隠された状態になっているのでどんな表情をしているのかは分からない。彼女の周囲何センチかは見えない箱で覆われて外界とは切り離されているように思える。たとえば貴一が10日ぶりで登校してきた事に対してもまったく反応せず、岩のように動かない。
貴一の机は、すぐに教室を出られるように配慮されているので後ろのドアに一番近い席だ。そしてその生徒――村山伊吹はそのすぐ隣の席だった。
椅子に座りつつ、めいっぱいのの笑顔で彼女に声をかけた。
「おはよ」
伊吹の首がぴくりと痙攣したかのような動きで顔をこちらに向けてきた。そして、辛うじて聞こえるようなごく小さな声で、おはよう、と言った。顔を動かすと、さらりと黒髪が流れる。目を合わせると悪い事が起きるかのように、すぐに視線を下に落とした。
「はー。やっと座れた」
「何言っておるんだ。ずっとずっとずーーっとまことの腕に寄り添っていやがったクセに」
「ずっとじゃねーし」
その後は、目の前で幼なじみの二人が漫才のような会話を交わしていた。貴一は表情だけを参加させながら、やはりずっと伊吹の方を気にしていた。さっきの一瞬だけ揺れた髪の毛は、今は再びうつむいた顔を覆い隠している。そんな時間がチャイムが鳴るまで続いた。チャイムの音が鳴り終わるタイミングで二人は席に戻った。
朝のHRは短く、貴一に「お、よく来たな。でもなんだかずいぶん顔色悪いぞ。大丈夫か? 具合が悪くなったら、倒れる前に若葉に言うんだぞ」と言って教室を出て行った。
先生がいなくなるとともにどこからともなくざわめきが発生する。一時間目は近いので、ドアに封じ込められているかのようにざわめきは教室から決して出る事はない。声だけでなく教科書を出す物音や椅子や机が動く音、色々な音がシェイクされている中、やはり伊吹は微動だにしない。彼女の周りだけ、すべての物がぴたりと静止している感じがする。空気の流れまでもが止まっているのではないかと思えるくらいだ。
貴一は、彼女が自発的に話しているのを見た事がない。先ほどのようにおはようと声をかければ消え入りそうな声で返してくれるし、授業で当てられれば蚊の鳴くような声で答えるからしゃべれない訳ではないようだ。ただ、誰とも会話をしてるのを見た事がないし、実際皆勤賞をとってる春彦やまことからさりげなく聞き取った所によると、ずっとその調子のようだ。
まことが言っていたことがある。
「登校拒否とかじゃないのよね。学校には毎日来てるから。でもいつ来なくなってもおかしくないような感じかな」
交友範囲は広く誰とでも話をするまことは、しかし彼女には苦手意識を持ってるらしい。私語をまったくしない14歳女子の生態が理解不能らしく、伊吹に対する評価を「何を話していいのか分からないし、話してもあの子笑うだけだから会話がまったく続かないんだもん。どうすりゃいいのか分からない」という言葉に収束させて意思疎通を図る事は諦めたようだった。
「ね、村山さん」
弾かれたように身体を震わせ、ゆっくりとこちらに視線を向ける。どこを見ていいのか分からないようで、顔はこっちを向いているが視線があちこち落ちつきなく揺れている。
「一時間目数学だよね。今どこやってるの?」
「……ここ」
教室中に満ちている音から、彼女の微かな声を選別して聞き取る。しゃべるということをあまりしないせいか、声が掠れている。
「宿題とかはないみたいだね。あいつらなんも言ってなかったから。まぁ宿題なんてあっても俺にはかんけーないけどさ」
と、笑ってみせると伊吹も笑った。普段の彼女は表情に乏しいが、笑うとはにかむような笑顔になる。その笑顔が、貴一は好きだった。
彼女と会話をするコツは、あまりしゃべらないことだと貴一は考えている。色々としゃべると、どうやら彼女は困ってしまうらしい。なんて言葉を返したらいいのか分からない、というようなことをはじめとして、困惑してパニックを起こしている思考が伝わってくるのだ。表情が変わらないのは、きっと凍り付いてるだけなのだろうと思う。だからあまりしゃべらないようにする。でもそれだとコミュニケーションが図れないので、そのための手段として彼女に答えやすい簡単な質問を投げかけるというのを定石にしていた。質問攻めにしてもいけない。適度に無言を挟めて、思いついたように「あれ? そういえばさ」とできるだけゆっくりと、しかもあまり大きくない声で切り出すのがベストだ。ダテに10歳でストレス性の胃潰瘍になって吐血したわけではないとこっそり思って溜息がでる。こういうことに役立つなら、もう過去のことだし吐血くらいなんともなかった、と冗談交じりで思う。本気の部分は、「もう過去のことだし」というフレーズだけだが。
今日は、いつもつけてる亀のキーホルダーが鞄についていなかったのでそのことを聞いてみた。
「これは……おととい、……気づいたら……なくなっちゃってて。……どこにいったのか、……分からないの」
周囲の雑音のパワーに負けそうだったが、近距離という武器を持ってなんとか抗いつつ彼女の言葉に耳を傾ける。
言い終わると、深い悲しみを持って、キーホルダーのぶら下がっていた場所を見つめた。伊吹はいつも、どこかとても遠くを見ているような目をしている少女だが、この時は目の前にある鞄をしっかりと見つめて、消えてしまったキーホルダーに想いを馳せているようだった。
「そっか。……それは、残念だね」
鞄から目を離さないまま、彼女は首を縦に振った。今までになく強く自己主張するかのように、しっかりと。
☆ ☆
偏頭痛がひどくなってきたと思ったら、案の定二時間目の終わりくらいに雨が降ってきた。頭痛薬を飲んで、三時間目の英語まではなんとか持ちこたえていたが、四時間目の音楽の授業を目前として体力・気力ともに限界を超えた。頭痛薬を飲むのが遅かったのが原因のようで、痛みがひかないどころかひどくなる一方。頭の中で心臓がどっくんどっくんと大きく脈動してるような痛みでとうとう動けなくなった。音楽室まで行くのはまず無理だと判断し、その後の身の振り方について考えていた。というか、痛みと吐き気で思考回路が完全に冒されていて考えられない。
「吐き気はないの?」
「ある」
机に突っ伏した状態で簡単に答えた。喋ったり動いたりすると痛みがひどくなる。もうクラスのみんなは音楽室に行っているようで教室には誰もいない。
「ビニール袋持ってくるね。吐いたら困るから」
「というか、さっさと保健室に連行した方がいいのではないのか?」
「そうなんだけどさ。まずいきなり吐かれたら大変でしょ」
「うーむ。納得いくような、いかないような」
「…………悪い、もっと小さな声で…。頭に響く」
湧き出る生唾を飲み込みながら、なんとか言葉を紡ぐ。
「そりゃ失礼」
できれば動きたくないが、このまま二人をここに引き留めておく訳にはいかない。ゆっくりと顔を上げて、ゆっくりと立ち上がる。
「保健室行ってくる。音楽室行ってていいよ」
「あたし、おぶってってあげようか?」
喋るのがかなりしんどいので、手を左右に振って遠慮の意思表示をした。
「いやでもほっとけないしさ。顔色真っ白だし。せめて一緒に」
「ありがと、でもほんとに大丈夫だから」
行ってて、と最後の方はささやき声のようになった。もう一分ほどでチャイムが鳴るのだ。この体調では保健室までノンストップで歩けないだろうし、そうなったら二人が授業に遅刻してしまう。
「……分かった。行こう、春彦」
「おお。達者でな、敦実。また生きて会おう」
うざい春彦の口舌に、軽く手を振って答える。早く行ってくれ、との願いもさりげなく込めてみた。
二人がぱたぱたと音楽室に向かうと、貴一は再度椅子に腰を下ろして突っ伏した。今にも吐きそうな感じまではないが、陸に揚がった魚のように胃がしきりに痙攣し、あとからあとから湧き出てくる生唾をひたすらに飲み込む。とにかく頭は痛いし気持ち悪い。
少し落ち着いてから動こうか、と思ったが、落ち着く方向に向かうかどうかは分からない上に、もっとひどくなる可能性もあり、そうなったらまことが危惧していたようにこの場で嘔吐してしまう。それだけは避けなければならなかったため、保健室に行くべく身体を椅子から引き離す。重力が何十倍にもなったみたいに感じられる。
平衡感覚がほとんどなくなっているためよろめきながらも転ばないように慎重に歩いて廊下に出た。
と、歩いてる途中で正面に生徒の人影が見えた。伊吹だった。足下をきょろきょろと見回しながら貴一と逆方面に向かって歩いている。
(つーか音楽室と逆方向だぞ)
あまり誰かと話したりはしたくなかったが、つい声をかけると、「あ」と豆鉄砲喰らったような顔をしてこちらを見た。彼女の表情筋がマトモに機能してるのを初めて見た。
「次、音楽でしょ? 逆だよ。教室」
「音楽……。そっか。次、音楽……」
どうやら忘れていたらしい。なぜか途方に暮れた顔をしている。どうしたのか気になったが、こちらは一刻も早く保健室のベッドで横になりたかったので「それじゃ」と言って去ろうとして口を開いた瞬間、わずかに早く、彼女が声を滑り込ませた。
「でも、探さないと」
「……なにを?」
「カメコ」
「カメ……。ああ、キーホルダー?」
首を縦に動かした。
「手伝ってあげたいのはヤマヤマなんだけど、ちょっとこれから保健室に用だから」
「具合悪いの?」
「まぁちょっとね。いつものことなんだけど」
見るからにがっかりしていた。こんなに表情豊かな顔もできるのかと頭痛を忘れてしばし感心してしまった。一億年に一度の出来事に遭遇するようなものかもしれない。彼女をそんな風にしてしまう存在。カメコ。ネーミングはともかくとして、鞄にくっついてるしか脳がないわけではないらしい。思わず、共に探す事を体調不良と天秤にかけてしまったくらいの衝撃だった。
結論。
「学校で落としたの? 他に探してないところは?」
「えっ。えっと、……わかんない」
「うーん。それじゃ探しようがないなぁ」
壁に身体を預けて少し考える。この様子だと、きっと一昨日なくしたと気づいた時から探し続けてるのだろう。始業のチャイムが鳴った。しゃがみこみたいくらいの衝撃が頭を打つ。音がうるさい。目を硬く閉じてこらえると、カメコの形を思い浮かべる。得意の五感を超えた能力が何か閃いてくれないかと念じたが、何も感じない。邪魔な時にだけ、しかもいらない情報ばかりを色々と伝えてくるわりには、本当に肝心な時に役に立たない。イラっとするが、そんな場合ではない。できれば早く見つけて頭から布団をかぶりたい。
「なくしたのって一昨日だっけ?」
「一昨日気づいたの。なくなってることに」
「んじゃあいつ落ちたかはほんとに分からないって訳だ」
「でも、一昨日のその前の日の昼はついてたの」
一昨日のその前の日の昼とはいつの事を指すのかを、ストライキ中の思考回路を叱咤して考える。
「昼はついてたんだ。じゃあ……昼から、その次の日の…」
「朝」
「朝までか」
無理矢理動かした思考回路が、嘔吐中枢に八つ当たりしたようだった。胃がひっくり返ってあやうく吐くところだった。というか今にも吐きそう。幸いにしてトイレがすぐ近くにあることを思い出した。
「悪い、ちょっとトイレいってくる」
返事を聞く間も惜しんでできうる限り最大の速度でトイレに入ってあっという間に二回ほど吐いた。スピード解決もいいところだ。
(いや、解決じゃないか)
相変わらず頭は割れそうに痛いし目の前はチカチカするし気分はサイアクに悪い。しかしそんなことよりも優先すべき事が今はあった。
軽く口をゆすいでいるうちに、思いつく事があった。伊吹のところに戻ると、その内容について伝えた。
「あのさ、昼に存在確認して、次の日の朝に紛失を確認したとゆーことはだ」
「うん」
「学校の外で落とした可能性もかなり高い確率であるってことじゃない?」
そして言いながら、窓から外を見た。四角く切り取られた景色はどす黒い灰色の雲で覆われていて、そこから落ちる雨の雫が水たまりに波紋を生み続けている。多少小降りにはなっているが、止む気配はない。
「カメコ……」
いつものような遠い目をして、窓の外を見やっていた。今にも泣きそうに見えて、胸に痛みを覚える。
「とりあえず、帰り道を辿ってみっか」
二度目の決心をしてそう告げると、困惑の眼差しを向けてきた。今この瞬間も授業を放棄するという大罪を犯しているというのに、更に、外に行くという罪を重ねる事に抵抗があるのだろうということは容易に想像できる。
「大丈夫。だけどその前に、教室から鞄を持ってきて、それからちょっと付き合って」
苦労して笑顔を作る。あとのことは神に祈るしかない、と内心で十字を切った。
☆ ☆
保健室に一緒に着いてきてもらい、伊吹には廊下で待っててもらって貴一は一人で中に入って、きっちりとドアを閉めてから言った。
「すんません。ちょー具合悪くて帰りたいんですけど」
もうすっかりなじみになってしまっている白衣の女性がこちらを振り向いた。ちょうど髪の毛を結び直してる途中だったらしく、いつもは一本に結んでる髪がさらりと首元で踊った。唇が妙に艶やかな色で見るたびに動悸がするが、それは心臓の病を抱えているからだと自分に言い聞かせている。
「敦実くんじゃない。具合悪そうなのは顔見たら分かるけど、雨よ? 今帰ったら風邪ひくわよ? ちょっと休んでって止んでから帰ったほうがいいんじゃない?」
「やー、一刻も早く帰りたいんです。病院行きたいし」
「今にも倒れそうな顔色してて何を言ってるの。あぶないから駄目よ。ほら、いつものインターンのお兄さんに迎えにきてもらったら?」
「今日は特別にクラスメートの子が送ってくれるんで大丈夫です」
「クラスメート? まだ授業終わってないでしょ」
「彼女もちょっと頭痛がしてるみたいなんです」
「頭痛?」
「お願いします!」
これ以上話が長引くと本当に倒れてしまいそうな危機を切実に感じたので、情に訴える作戦に切り替えた。耳鳴りが頭の中を浸食している。
と、くるっと椅子の向きを変えて背を向けた。
「分かったわよ。くれぐれも道ばたで倒れるんじゃないわよ? そんなことになったらこっちの管理責任が問われてめんどくさいんだから。特別ね。担任には言っとくから行きなさい」
「死ぬまで感謝します」
何かを察したらしい白衣の天使は、ひらひら、と手を上げてそれに応じた。
ドアを開けて去ろうとすると、天使の声が背中から追いかけてきた。
「誰と帰るんですって?」
「村山伊吹さん」
「りょーかい」
今度こそドアを閉めて、行こう、と伊吹を促した。
「大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。ちょー具合の悪い俺に付き添って、少し頭痛がして同じく早退したい村山さんが一緒に帰ってくれる設定だから」
「あ……。そういえば、具合悪いってさっき……。大丈夫?」
「そっちは……まぁなんとかなるさ」
なんとかなるとはまったく信じられなかったが、言ったからにはなんとかしないと男が廃る。こうなったら、自分を極限まで追い詰めることによって奇跡の底力が生みだされるに違いないと思いこむしかない。再度神に祈った。
玄関に向かって歩きだすと、トコトコと伊吹の靴音が横に並んだ。貴一の歩調はかなりゆっくりのはずだが、ごく自然な感じで伊吹が真横を歩いている。
「悪いね。歩くの遅くて」
「私も歩くの遅いから」
言って、大きな花が咲いたように笑った。
(……可愛い)
自分は今日という日のために生まれてきたんじゃないかと思う。帰ったら今日の日付をどこにメモっておこうかと真剣に悩んだ。
靴箱は男子と女子で別の場所にあるのでいったん別れた。そして上靴を脱いで、外靴に手をかけた瞬間、
ドクン
と大きく胸が高鳴った。左右上下の感覚がめちゃくちゃになった。とっさに靴箱に両手でしがみついてなければ問答無用で失神するところだった。意識を保ってられたのが不思議なくらいだ。いや、逆だ。意識を保っていたから両手に力が入ったのだ。
(っぶねぇ)
身体中から血の気が引いて、変な汗が噴き出している。心臓のあたりにそっと手を当てる。動悸がひどい。荒くなる呼吸を、懸命に落ち着かせる。大きくゆっくりと吸って、吐いて、を繰り返して動悸を鎮めるべく最大級の努力をした。鞄が重たいので音を立てないように足下に置いて、外靴を持ってゆっくりと座る。パッと見には普通に座って外靴を履いてるように見えるはずだった。もう少し動悸が治まってくれないとあぶなくて動けない。
靴を履き替えたらしき伊吹の姿が視界の端にうつった。スニーカーの紐に手を添えて縛りなおしてるフリをしたが、指先が他人の手のように感じてうまく動かせない。ひたすら全身で動悸を感じる。首元に手をあてると、汗ばんでるのが分かった。これ以上時間がかかると不自然だ。でも少し時間を稼がないといけない。からからに渇いてる喉の奥から、声を出す。
「そういえばさ、雨、まだ降ってるよね。傘持ってないから、保健室で借りてきてくれないかな? 二本」
返事はなかったが、視界から伊吹が消えた。再び靴を履き替えてパタパタと廊下を歩く足音が遠ざかっていくのを確認してから、膝に頭をうずめた。
なんとか動悸は鎮まってきたが、頭痛も吐き気も一向におさまらない。苦しくて泣けてくる。そしてこういう時にいつも思い出してしまう。こんな風に、ちょっと積極的に行動したくらいのことが原因であの世の住人となっても、あの薄暗い部屋の中で誰かが気づいたら冷たくなってても、それは何年も前から、それこそ生まれた時から想定されていた範囲内のことなのだという事を。そしてそれを誰もが驚かず、当然のこととして受け止めるだろう。決してそれは誇張ではない事を、小さな頃から散々聞かされている。死に神の鎌が、常に首筋に当たっているようなものだ。あまりにもそれが当たり前になっていて、もう慣れてると思い込んでいても、思い出したように恐怖の塊が襲いかかってくる。
パタパタ、という足音が再び大きくなるのが聞こえてきたので、外靴をしっかりと履いた。そして改めて思う。他の誰もが受け入れても、自分だけは抗いたいと。太一郎や春彦やまことや、そして――
「傘、借りてきたよ」
一億年に一度の奇跡と一緒に生きていけるなら。そのためならどんな努力でもしようと思う。
「さんきゅ」
黒い傘を受け取る瞬間、互いの手がそっと触れあった。
☆ ☆
雨は思ったよりも激しくなかったが、相変わらず空は一面灰色だ。太陽はちらりとも顔を見せず、これからの先行きを暗示しているようだった。
「帰り道はいつも同じなんだよね?」
「うん」
伊吹には歩道の左側を中心に探してもらって、貴一は右側に慎重に目を這わせる。ほとんど歩道と道路の真ん中を歩くようにして、道路に落ちてないかもチェックする。針も見落とさないくらいの集中力を傾けつつ、そっと左側を見やる。伊吹はちょこちょこっと路地に入ったりしたりもするような念の入れようだ。傘は大きかったが、空気自体が湿ってるので濡れないという訳にはいかないようだ。彼女の服と自分の服を交互に見た。そして彼女が重そうに赤い傘を抱えてるのを見て頬が緩むのを感じた。
しかし――
「よっぽど大事なキーホルダーなんだね」
「うん」
先ほどより遙かに早い返答が何よりもその事実を物語っていた。
「どのよーな経緯があるのか聞いてもいい?」
視線は道路から外さないままに質問してみた。プライベートな事なので拒否られても仕方ないとも思っていたが意外と普通に語ってくれた。そしてその内容も、ごく普通のものだった。
「初恋の人からもらったの」
(あれ?)
意外だったのは、その言葉を聞いて少し暗い気持ちになった自分の心だった。内心で首を傾げつつ、そっか、それは見つけなきゃね、と勝手に口が答えてた。
それからはしばらく無言が続いた。
道路には結構ゴミが落ちてるものだと思ったら、割と綺麗だった。たまにタバコの吸い殻などはあるが、缶なども見当たらない。ただ自転車が至る所に駐輪されていて、地面に落ちてる小さなものなどを捜すのには不便だった。
「あ」
腰をほとんど90度に曲げて歩いていた伊吹が短く声をあげ、何かを拾い上げた。見つかったのかと思って手元を見たら、コンタクトレンズだった。
「これ、なくした人探してるだろうなぁ。交番に届けたほうがいいかな」
「やー、これは見つけても使えないだろう」
「あ、そ…か」
あからさまに気落ちしたその顔が、なんだかおかしくて笑えてしまった。声を上げて笑ったら、顔を真っ赤にして俯いた。ごめんごめん、とちょっとむせて咳き込みながら言うと、いつものはにかむような笑顔を向けてきた。花が咲いたような笑顔も良かったけど、やっぱりこの顔が一番だな、と思う。
一番…? なんだろう。
ふと沸いた疑問だったが、すぐに他の事を思いついて立ち止まった。
「どうしたの?」
「ん、ごめん、ちょっと」
肩と顎で傘を挟んで鞄の中をあさる。傘がずり落ちそうになってるのを見かねたのか、伊吹が傘を持って腕を伸ばして雨が当たらないようにしてくれた。お礼を言いながら、薬を取り出す。みるみるうちに心配そうな表情になったので慌ててフォローした。
「ただの頭痛薬。ちと頭痛くてさ」
2錠口に入れて再度お礼を言って傘を受け取った。これで今日は3錠目だ。2錠までと言われていたので過量服用になってしまうが、たかが1錠増えたところで命に関わるものではないだろう。それよりも、せめて頭の中で無節操に鳴り響いてる鐘が治まってくれないと集中力が持続しない。
噛み砕いて飲み込んでる間も、不安げな眼差しをこちらに向けている。
「何? ほんとにへーきだって。頭痛くらい誰でもあるじゃん。大したことじゃないよ」
ほがらかに、努めて軽いノリで言う。
「水とか、……なくていいの?」
「うん。水なしでも飲めるんだよ。便利でしょ」
「そういうのもあるんだ」
「医学の発達はすごいものだよな。行こ」
なんてこともないようにさらりと嘘を混ぜた事に、息苦しさを感じた。過量投与でもなんでもいい。とりあえず今をしのげれば。
歩き出すと、すぐ横に伊吹が並んだ。また彼女は腰を折り曲げて歩道を歩く。それを微笑ましく確認してから先ほどと同じように歩道と道路の真ん中を進んだ。雨降りなのは難点だが、車が少ないからまだ良かった。
またしばらく歩いてから、ふと、初恋の人とはどういう人なのか疑問に思った。他意はない。この、今日までほとんど人と会話を交わしてるのを見たことがない少女が、どういう人を好ましく思うのかを知りたかっただけだ。問いかけると、やはり少し恥ずかしそうにして躊躇ったようだったが簡潔に告げた。
「優しい人」
あまり参考にならなかった。もっとも、そのような言葉に集約される初恋の人というのも充分にあり得る話だ。
その後の空白が長かったのでてっきりもうその会話は終わったのかと思っていたら、ぽつりと言葉を続けた。
「敦実くんも優しいよね」
盛大にむせた。
「大丈夫!?」
心臓もどっくんどっくんいっている。
「いやいや。びっくりしただけ。まさかそう続くとは思わなかったから」
けほり、ともう一つ咳をする。
「だって、優しいよ」
「そう?」
「……話しかけてくれるから」
決して軽くない衝撃を受けた。この少女は、他人のそのような行動に優しさを感じているのかと。そしていつもの凍り付いているかのような態度を思い起こす。まことを始めとして、ほとんどみんなが、その態度は周囲を拒んでいるように見えていることだろう。たまたま自分は、はにかんだ笑顔を見たくて話しかけてるだけにすぎず、それはほんの気まぐれみたいなものだ。けれどもしかするとそれは大きな誤解で、彼女にとってはそれは実に一億年に一度の喜ばしい奇跡だったのかもしれない。それこそを、この少女は望んでいたのだろうか。それならそれは、とても悲しい奇跡だ。話をすることなんて、他の誰にとってもごく当たり前に訪れる日常なのだから。
そしてふと、その気持ちに自分との相似形が見えた。形が似ている。誰もが当たり前に持ってる健康な肉体を持ってない自分と、会話に不自由な彼女。もしかして、だから彼女が気になっていたのだろうか、と思うのはいかにもなご都合主義だろうか。それとも不要なはずの能力が導いてくれたのだろうか。背筋が粟立った。傘に落ちる雨の音が少し、強くなった。
もう少し着込んでくるべきだっただろうか、と思い、寒さに震えていないだろうかと伊吹の方に目を向けると、どこか一点を凝視していた。今度こそ見つけたのだろうかとその先を見たが、特に何もなく、水たまりが雨を受けていた。
「どうしたの?」
「こっちじゃなかったかも」
「え?」
凝視していたのはどうやらかつての自分の行動だったようだ。記憶のページを順繰りにめくってるらしき彼女の髪の毛に視線を移すと、先っぽが濡れていた。傘をきちんと差すのも忘れて考えていたようなので、傘の柄の傾きをそっと変える。風邪など引かれては大変だ。
思い立ったように、くるりと方向転換して進みだしたので何も言わずに後に従った。その時、微かな違和感が生まれたがあまり考えないようにした。とにかく、今進むべき道の道しるべは目の前の小さな頭の中にしか存在しないということだ。
「あの日は、……、そうだ。猫がいて、猫が……、」
自分の記憶を確かめるように呟きながら、先ほどの路地の一つを横に折れた。少しだけ早足になっていた。
「猫がこっちにきたから、……私もこっちに……」
猫が好き、と頭の中にメモをする。
道を更に折れて突き進む彼女に、少し遅れて付き従う。ここら辺はあまり歩かないから見失ったら道が分からない。数回咳をしてるうちに、さらに伊吹は道を折れた。喉に違和感を覚えたが気にしてる場合ではない。
「あった!!」
道の向こうから、聞いた事もない大きな声が響いてきた。にわかには彼女の声だとは信じられなかったくらいだが、傘を握るのも忘れて道路に座り込んでいる姿を目にするに至って、この悲しい少女の数日の悩みが解消されたことを知った。
「よかった……。カメコ」
さっきよりも長めに咳き込んでから、落としてしまった赤い傘を持って彼女にさしかけた。腕が震えてるのは、筋力がないせいだけではないだろう。
「良かったね」
「うん」
雨でカメコはすっかり汚れてしまっていたが、それでも大事そうに伊吹はそれを抱きしめていた。
「お揃いなの」
「初恋の人と?」
彼女は何度も何度も首を振った。徐々に、瞼の裏で滅茶苦茶に明滅している光の範囲が広がってきている。伊吹が、光の中に浮かび上がっているように見えるのを目を凝らして見る。
喉の奥に引っかかるものを感じて咳き込んだら、ゼイ、と気管支が鳴った。息を飲んでこちらを振り向く彼女の姿が見え、それが、視界が正常に機能する最後だった。
「さっきも咳してたけど……。ひどくなってるよ?」
ぜい、と音を立てて息を継いでから答える。
「ん。雨だからなんか喘息っぽいだけ」
そして再び咳き込んだ。痰が切れない。完全に喘息の発作を起こしていた。身体の芯から寒くて、ガチガチと歯が鳴る。傘は上手に差し掛けてあげられてるだろうかと思う。彼女は濡れてないといいけれど。
傘に雨がぶつかる音と貴一の喘鳴だけが聞こえている中、それを切り裂くように電子音が鳴った。
「電話だ」
伊吹が鞄から取り出しているようだった。もう視界はでたらめにフラッシュしては消える光で浸食されていて、周りがどうなっているのかはまるで分からない。平衡感覚もないので、仕方ないからその場に膝を立てて座る。あんまり体勢が低くなると、赤い傘が伊吹にぶつかってしまう。
何事か話してるのが聞こえ、分かった、と答える彼女の声がどんどん遠ざかり、耳鳴り大きくなっていく。せっかく少し治まってた頭痛が再発していた。電話を切ったらしい伊吹が、貴一に言ってきた。
「今の、このカメコの人から。……家に、来て欲しいって。今日、その人の誕生日なの。誕生日パーティしようって」
(ああ、そうか)
初恋の人というのは過去の人ではなかったようだった。
「行きなよ。無事にカメコも見つかったことだし」
うまく息ができないので、苦労して喉から声を絞りだす。心臓が猛スピードで鼓動を刻んでいた。
「でも、敦実くんが……。どうしよう」
「俺のことは、構わないでいいよ」
あくまで軽い感じで言ってみたが、その後でシャレにならない咳き込み方をしてしまった。
「でも……」
「俺の知り合いに医者がいて、インターンなんだけど」
息を吐ききってしまったのでいったん言葉を止めて、ぜえ、と音を立てて息を継ぐ。
「そいつに車持ってきてもらうから。俺はちょっとここにいる」
それでも彼女はまだ迷っているようだった。
「いいよ。大事な相手なんでしょ? 行きなよ。ほんとに俺は平気だからさ」
視界には光しかうつってないので、彼女の声がする方向に顔を向ける。慣れてるから、と言った言葉は咳でかき消されてしまった。
「はい、これ。傘。ちゃんと差していきなよ」
傘の柄を伊吹の方に突き出す。見当違いの方向に腕を上げていないか不安になる。真っ直ぐ腕をキープしようと努力したが、どうしても震えが止まらない。寒くて仕方がない。
傘の柄に、彼女が手を掴んだ。また互いの手が触れあった。少し冷たくなってる手は、雨で濡れていた。慌てて手を引っ込めた。
「じゃあね」
「……明日、また学校来る?」
不安げに声が細く揺れている。
「分からないな。調子が良かったらまた行くよ」
「そう……」
気管支がヒリヒリする。咳をするのを我慢して喋ったら、またひどく咳き込んだ。
「待ってるから」
「分かった。またね」
「……また」
伊吹の足音が遠ざかっていくのが聞こえた。今度は止める必要がなかったので、思う存分咳をする。冷え切った身体を両手で抱きしめて、頭と心臓が爆発するのではないかと思うほど激しく脈打つのを感じていた。
☆ ☆
どのような方法で帰ってきたのかはまったく覚えていなかった。
薄暗い部屋の中、壁に身体を預けて冷たい床に直に座ってひたすらに咳き込む。酸素がまったく足りてない。身体を起こしてるのは辛かったが、喘息の発作を起こしているときは苦しくて横になれないので仕方ないから壁に寄りかかって座っているのだ。薄い布団を身体に巻き付けたが、身体の震えは止まらない。発熱してるだろうと思ったが、熱を測る気にもなれない。
太一郎は今は仕事中だから呼び出す訳にもいかない。もうこのまま死ぬのではないかと思う。
でも、それでもいいかと思った。
下駄箱で、絶対に死に神に打ち勝ってやると思っていた時のことを他人事のように感じる。
カメコは無事に見つかり、伊吹は初恋の人と仲良くやっているようだ。彼女が優しいという人ならきっと優しいいい人なのだろう。
『敦実くんも、優しいよ』
その言葉だけで充分だった。自分には、彼女を本当に笑顔にさせることはできないだろう。心配に揺れる瞳を思い出す。あんな顔はさせたくはなかったのに。
「さむ……」
そのうち何かを考えるのも億劫になっていった。いや、同じ事を考え続けているのかもしれない。伊吹の姿だけが頭に浮かぶ。喜んでいる顔、悲しそうな顔、心配そうな顔、無表情な……。
息苦しさも寒さもすべてが吹っ飛んで、ボーッとなった意識がどこかに向かって浮遊しているのを感じた瞬間、
「あっちゃん!!」
ドアが開かれた音と声が同時に聞こえた。頬を叩かれたので、重たい瞼を薄く開いた。太一郎だ。
「なんで電話寄越さなかったの! なんかあったら電話しろっていったでしょ! 病院行くよ。ってその前に濡れた服着替えないとかな」
着替えさせられるままになりながら、貴一は答えた。一時は感じなくなっていた息苦しさなどすべての感覚がまた戻ってきた。瞼だけじゃない。身体のすべてが鉛のように重たい。
「だって……、仕事中」
「馬鹿か! ああ、そうだよ。仕事中だよ。オレの仕事忘れた? オレは医者だよ。医師免許だって持ってるよ。医者の仕事は病人の治療をすることだよ。病人が医者の都合を気にしてどうすんの! あのエロい保健医が電話してきたから良かったものの」
手早く着替えを終了させると貴一を背負って外にでた。いつの間にか雨は止んでいた。少し空が明るくなっていた。眩しさが目から頭に突き抜けて痛みになったので目を閉じる。
車の助手席に押し込めてから、太一郎は大急ぎで運転席に乗り込んで車を発進させた。Gを感じない運転は、すぐに車酔いをしてしまう貴一によって自然に磨かれた太一郎の得意技だ。
「……失敗した」
「え? なにが?」
「途中までは上手にやれてたのにな」
いくら咳をしても痰が切れない。呼吸のたびに気管支が盛大な音を立てる。半ばうわごとのように口から言葉がでてくる。
「あれじゃあ、駄目だ」
途中までは誤魔化せてたつもりだったけど、最後があれではどうにもフォローしきれない。普通の人のように一緒に捜し物をしたかっただけだったのに。別れ際にきっと不安な思いをさせた。あんな姿は見せたくなかった。必死でなんともないフリをしたけど、でも絶対に無理があった。
「よく分からないけど、分かったから黙ってなさい。あとでいくらでも話は聞いてあげるから」
何か、あたたかいものが頬を伝っていくのを感じて、意識が落ちた。
☆ ☆
病院についた時点で、貴一の体温は40度に達していたらしい話をあとで聞いた。肺炎を起こしているという診断もいただいた。他にも色々と大変だったらしい事を太一郎が言っていたが、よく分からなかった。雨の中を歩き回ったのが心臓にもよくなかったらしい。
(まぁそりゃそうだよな)
肺炎だけは起こしてくれるなと言われていたのに、起こしてしまっただけでも大変だっただろうことは伺える。熱は一週間下がらず、その間ずっと点滴に繋がれていた。食事はお粥だったが、何も食べる気にはなれなかった。
やっと何かを胃に入れる事ができたのは、入院して九日目だった(食事を下げる係の人が言っていた)。その頃には熱も37度くらいには下がっていた。もっとも、貴一の平熱は35度程度なのでこれでも充分発熱の部類に入るが、それでもここ一週間から比べるとずっと身体はラクだった。
「太一郎」
青く広がった窓の外を見ていた太一郎がこちらを振り返った。
「何も聞こえなかった」
「うん?」
「心の声が聞こえなかった」
唐突に告げた言葉の意味が理解できなかったらしく、白衣姿のインターンは次に貴一が続ける言葉を無言で待っていた。
伊吹が記憶のページを捲っていた時、普段だったら聞きたくなくても聞こえてくるはずだった。見えてくるはずだった。伊吹の記憶の数ページが。それくらいの集中力で彼女は過去を思っていた。なのになぜだろう。まったく何も伝わってこなかった。それから後も、ずっと。彼女がカメコを見つけた時でさえ、何もヴィジョンが伝わってこなかった。カメコを見て、初恋の人とやらを少女は強く想っただろう。それなのに……。
「聞きたかったのに。……そうすれば、捜し物だってきっともっと早く見つかったんだ」
「捜し物をしてたわけね。んで、何かに失敗したんだ。それが泣くほどショックだったんだ?」
「……泣くほど?」
いつ泣いたというのか?
「呼吸困難を起こすんじゃないかと心配になるほど泣いてた。車の中で。喘息起こしながら泣くってほんとに見てて壮絶なのな。事故らないように運転するのが大変だった」
「…………」
赤面して絶句している貴一を、にやり、と見やって意地悪く後を続ける。
「村山さん?だっけ? 心配しないで、とか、平気だから、とか譫言のようにつぶや…」
「言わなくていい!」
投げた枕はあっさりと受け止められてしまった。
「好きなんだ。村山さんとやらが」
再び赤面した。熱が上がったのではないだろうか。心臓もバクバクいってるが、これは何か治療を必要とするんじゃないだろうか。
太一郎がくつくつと笑った。
「やー、あっちゃんが人をちゃんと好きになれるなんて知らなかった」
「馬鹿にしてる?」
「そうじゃない。感心してるんだよ。環境が劣悪だから、精神に異常をきたしてそういう感情なんか未来永劫生まれないんじゃないかと心配してたんだ。実は。普通にちゃんと恋愛できてよかっ……」
お茶のコップを投げた。さすがに受け止められなかったらしいが、避けられた。
「そういうものを投げるんじゃない。危ないで……」
言葉は途中で途切れた。貴一の頬に幾筋もの涙が伝っているのを見て目を丸くしていた。
「見たかったんだ。村山さんの心。どういう色をしてるのかとか村山さんの世界を見たかったのに。一番みたいものが見れなくて、見たくないものばかり見えて。母さんの心壊して」
拳で涙を拭き取るが、それでもあとからあとから流れてくる。
貴一の能力の一番の犠牲になってしまった母親は、今はひどい情緒不安定で優しくなったと思ったら次の瞬間にはヒステリーを起こして貴一に暴力を働いたり、笑ってると思ったら泣いたりと忙しい。
「そんな力、いらない。……いらないのに。いくらいらないって言ってもなくせないなら、せめて村山さんの世界が見たかったのに」
枕を手でもてあそんでから、貴一の方に放る。受け止めた枕に、顔を埋めた。
「本来なら見ちゃいけないものなんだから、好きな人のプライバシーを守れて良かったんじゃないかと思うけどね」
溜息まじりの言葉は実に的を射た物であり、正論であり、絶対的に正しいものだった。けれど、日常的に他人の心の声や世界を感じ取っていた貴一にとっては、何か、拒絶されたような不安を感じるのだ。子供っぽい好奇心だということも心のどこかで分かっている。でも知りたいと思ってしまい、それはその時に限って叶わなかった。誰かの心の内をこんなに知りたいと願ったのは初めてだったのに。
「まぁ泣きなさい。泣け泣け。涙にはストレス物質が含まれてるらしいからね」
ぽんぽん、と背中が叩かれた。
「思えばあっちゃんが泣いたのって初めて見たなぁ。具合の悪い子供は泣いてそれを訴えるらしいけど、あっちゃんは倒れるまで我慢するタイプだったし、何より、両親の離婚問題で10歳で胃潰瘍で血を吐くほどストレスためてた時も問題の渦中にあった本人は結局涙ひとつ流さずに、文句の一つも言わなかったし。吐血して倒れたあっちゃん見て、オレの親父様はこれは何かの大病か、と思って慌てて検査したらどうやら胃潰瘍らしいってほんとに仰天したらしいし。何しろ穴があく直前だったらしいね。10歳やそこらの子供がなる病気かよってな」
「だからなんだよ」
「今回も、ちゃんと泣かないと今度こそ胃に穴あけるかもしれないってことだよ。だから泣きなさい」
「もういいよ。穴でもなんでも開けばいいんだ。もう知らない」
「痛いよ?」
「知ってるよ。ショック死するほど痛けりゃいいんだ」
「そんな簡単にはかなくなってしまったら困る」
「なんで太一郎が困るのさ」
ふわりと、温かい感情が全身を包み込むのを感じて枕から顔を上げた。
「人生生きてればいいこともきっとたくさんある。死ぬのはそれを感じてからにしてもらいたいから。あっちゃんって見てて痛々しいんだよ。親御さんから化物扱いされて、具合悪くしても放っておかれる時もあって、そんなこんなに慣れきってるような目をしてたと思ったら胃潰瘍で倒れたりしてさ。もう精神の平衡が崩れ去ってるんじゃないかと思って。自分よりも10歳も年下の子供がさ、そんな風に耐えてるのっていうのはほんとに痛々しいったらありゃしない」
意外な台詞を聞いて、涙が止まった。この青年はそんな事を考えて自分を見ていたのかと。実はこんなに近くにいる人の心の内も知らなかったのだと二重のショックを受けた。
「……感じてからにしてもらいたいから、って俺はいつ死んでもおかしくないんだろ? あっさり明日には心臓止まってるかもしれないじゃん」
「今の所はそうならない事を天に祈るくらいしかできないけど」
カタリ、と床に落ちてた湯飲みを拾って元あった場所に戻す。
「さっきは医師免許を持ってるからとか偉そうなこと言ったけど、まだオレは所詮インターンだし。確かに何もできないけど。でも……」
一呼吸おいて、宣言するように言った。
「数年したらすごく腕のいい医者になってやるから。だからそれまで持ちこたえて待ってなさい。優秀な医者になったら、あっちゃんが倒れそうになるたびに治療してあげる」
「キリがないよ」
「お前の天命がほんとに尽きるまで、付き合ってやるから」
「天命ってなんだよ。そんなの誰にも分からないじゃん」
「分かるときまで治療し続ける」
「なんだよそれ。意味分からん」
太一郎は柔らかく笑った。
「たまに泣いたりして、立ち止まって、でもその後に前を向いて進んでいけるようにしてあげるから」
「前ってどこだよ」
「光の見える先?」
「くさっ。カッコつけてんの? ついてないよ」
「……結構いい台詞だと思ったんだけどな。でもさ、あっちゃんになら見えるよ。光。きっとそのための能力なんだ」
「馬鹿馬鹿しい」
布団を頭からかぶって潜り込んだ。
「信じる者は救われる。信じなさい。主にオレの腕を」
「インターンを?」
「今はね」
そう言うと、しばらくどちらも何も言わなかった。
じゃ、病院に戻るから、と言って太一郎は病室を出て行った。今は大学病院にいるのだ。ちなみにここは太一郎の父親が経営してる病院である。
ドアが閉まる音を聞いて、一分ほど経過してから起き上がって窓の外を見た。カメコを探していた時は灰色だった空が、今は一面青だ。視線を下に移動させると、太一郎の車が華麗な動きで駐車場を出るのが見えた。
(光は太一郎だ)
どんな時も決して貴一を化物と罵る事はなく、それどころか、痛々しいとさえ思ってくれていたのだ。それが光でなくてなんなのだ。太一郎という光が、前に進めと自分を導いてくれている。その先に、更なる光があると信じてさえもいる。
太一郎の言った通り、光が目の前に見えた。それが彼自身であることは、照れくさいので言わないでおこうと決めた。
☆ ☆
数日後、インターン生の車に乗ったまま貴一は下校する生徒を眺めていた。
(いた)
少し俯いて歩く少女の姿が近寄づいてきたので声をかけた。
「やっほー」
あ、と伊吹は口を丸くあけた。一億年に一度の奇跡のはずが、二度目の到来か?と思うほどの驚きぶりだった。それとも実は何度でも見られるのか。
「あれから全然学校来ないからどうしたのかと思ってた。大丈夫だった?」
直球で答えづらい事を聞かれた。というか、当たり前の疑問だろう。まさかあれが原因で肺炎起こして入院してたとは絶対に言えない。言えないので、スルーしてみた。
「その後、カメコの人と仲良くやってる?」
「うーんと、えっと……実は……」
言いづらそうにしながら、チラリと車の後ろの方を見た。上半身を窓から乗り出して、視線を追いかけた。
同じく髪の長い少女がいた。他校の生徒だろう。制服は違う。髪の色が若干茶色いが、長さは伊吹と同じくらい。それよりなにより一番貴一の目を引いたのは……。
その少女の鞄にもカメコがいた。
「ごめんなさい。ちょっと今急いでるから」
硬直した貴一に頭を下げると、カメコを揺らして足早に茶色い髪の毛の少女に近寄った。茶色の髪の少女がなにやら話して、伊吹がはにかんだように笑うのが見えた。
念のためよく見てみたが、制服は男子のものではなく、まごう事なき女子のプリーツのスカートだったしそこから伸びてる足も思春期の女子特有のものだった。
「たいっちゃん。車出して」
「あいあいさー」
頭の中で、様々な疑問詞が飛び交っていた。
(初恋の人?)
「ぷっ」
太一郎が吹き出した。見ていたらしい。
「なるほど。あっちゃんの初恋の人は、可愛い百合さんだったわけだ」
「何も言うな。速やかに病院に行くぞ」
今日は診察の日だった。そしてついでになぜか気が向いて下校する伊吹を捜そうと思った。
(その結果がこれか?)
なぜか。気が向いて。
まさかいらない能力の気まぐれの産物なのだろうか。だとしたら――
(ほんっとにマジいらねぇ)
太一郎は我慢しきれなくなったらしく、本格的に笑い出した。