98話「残り火」
「おら、どうした。俺を殺すんじゃなかったのか? いつまで寝転がってんだ。そんなんだから輝夜ちゃんに泣かされるんだよ」
「ぐ、うおおお! 殺してやる!」
安い挑発を受けて、妖怪少女は鬼のような形相となる。立ち上がろうとした少女に頭突きをする。それだけで少女の軽い体はステンと転んで起き上がれない。こちらは狂気を使っていないが、こんな小物相手ならもともとの怪力だけで何の問題もなく対処できる。
「お前に、私の苦しみがわかるわけがない! 人間でありながら、何百年も変わらない姿のままで生き続けなければならないこの苦しみが!」
「千年も生きたことのない小娘のくせに、なま言ってんじゃねえっつの」
不幸対決がしたいのなら相手が悪かったな。俺はお前の一億倍は不幸だぜ。お前はただ生きていけるだけ幸せさ。俺は死ぬことができないわけじゃないが、それを選ぶことはできないんだ。一秒でも気を抜けば狂い死んでしまうというのに。
しかし、そんなことをここで言ったところで無意味だ。俺の運命も、こいつの運命も、自分自身が背負う物であってその苦労は誰にもわからない。説教を垂れたところで、それは価値観の押しつけでしかない。
だからこの闘いにも意味はない。売られた喧嘩を勝ってやっただけのこと。ただの理不尽だ。
「お前ら妖怪と一緒にするな! 私は人間だ!」
「腰から上下に真っ二つにされて生きている人間がいるもんか」
飛来する炎弾を避けもせず、正面から堂々と接近する。腕がないのは不便だ。しかし、こいつに後れをとるほど俺も落ちぶれていない。頭突きをして転がす。起き上がろうとしたところをまた転がす。妖怪は泥と落ち葉だらけになりながら、必死に体勢を立て直そうとする。
「わっ、私は強くなるんだ! お前みたいなザコ妖怪に負けるか!」
「強くなってどうすんだよ。輝夜に復讐するのか?」
「そうだ!」
「月人は月にいる。どうやってそこまで行く気だ?」
「どうにかしてやる! たとえ後何百年生きようと忘れるものか! 必ずかぐや姫を倒す!」
「はは……あっはっはっは、はあっ!」
笑いながら妖怪を蹴り上げる。空中に浮かんだところを、ジャンプしてかかと落としだ。そのまま下に叩きつけ、勢いはそれでも止まらずに妖怪の肩を引き裂いた。血が飛ぶ。
「どうにかするだって? どうにかするでなんでもできたら、そりゃあ大したもんだなあ、おい! こんな笑える冗談は久しぶりだぜ!」
妖怪は痛みに耐えつつ、無事な方の手で妖術符を使おうとする。俺は能力で、その符への注目を操る。その途端、術は発動の兆しを失い、不発に終わる。妖術符は繊細な妖力の操作が必要になる技術だ。慣れていなければ、少し集中を乱しただけでも発動に失敗する。
「俺は、月人よりも圧倒的に弱い」
妖怪の腕はすぐに再生してしまった。回復能力が異常に高い。
だったら、精神攻撃に切り替えよう。俺は調子の悪い妖力エンジンをふかす。妖力の活性化によって呪いの瘴気を出す殺法、『呪魂瘴』だ。案の定、出力が安定せず、黒い霧が体の周囲で盛んに噴出したかと思えば消えそうなほど小さくなったりを繰り返している。エンスト寸前の頼りない様子だが、効果がないわけではあるまい。
呪いの霧を体にまとい、妖怪の手に噛みついた。怪力をもって骨まで食い込むほどに強く噛む。本気を出せば容易に食いちぎることもできるが、そこまではせずにがっちりと食らいついてスッポンのように放さない。その間にも、『呪魂瘴』は発動し続けている。それは蛇の牙からあふれる毒液のように、噛み傷から妖怪の内部に侵入していく。
「いたっ!? は、はなせ!」
俺は噛みついたまま、首を甲羅の中へ引っ込めた。妖怪の手も一緒に引きずり込む。
「いやっ! 手がっ、手がおかしい! いやだ! 気持ち悪い! やめろ! あっ、ああああああ!? 助けてっ、誰か助けて!」
じたばたと暴れる獲物が弱るのを待つ。毒は確実に妖怪の精神を冒していた。狂ったように甲羅を叩いてくる音がするが、俺は鉄壁の甲羅の中だ。
「う、あ、あああああああ!!」
しかし、急に手ごたえがなくなった。しきりにもがいていた手が動かない。甲羅から頭を出してみると、咥えていた腕は切り離されていた。妖怪の方を見ると、片方の腕の肘から先がなくなっている。その傷口からは炎があがっていた。
妖術符で焼き切ったのか。瘴気による攻撃は自傷をいとわなくさせるほどに妖怪を追い詰めたのだろう。
「俺のようなザコ妖怪にも勝てないお前に何ができる」
「はあっ、はあっ……!」
妖怪の腕はあっという間に回復した。だが、うずくまった体は起き上がらない。ぶるぶると震えながら体を丸くしている。肉体の傷は治せても、精神を冒す呪いには対抗できないか。
「地上の存在では、月人に勝つことはできない。絶対にな」
ここで痛い目を味あわせておけば馬鹿な考えなど起こさないだろう。どんなに驚異的な回復力をもっていても、この妖怪はまだ完全に人間としての考えを捨て切れていない。お粗末な妖術符しか使えず、少し痛めつけただけで戦うこともできない。そんな半端な覚悟で月人を殺すとのたまうか。
その程度の脆弱な志など、簡単に打ち砕ける。俺が今ここで、踏みつぶしてやる。
「……それでも……それでも私はッ!」
足を振り上げ、亀のようにうずくまった妖怪の体を踏みつぶしにかかる。
妖怪は俺を見上げていた。その情けない泣きっ面を見て、わずかに足が止まる。
その目には、憎悪の炎が燃えていた。敵に敗れ、地に伏し、それでも俺には憎しむことしかできなかった。その姿が、今目の前にある。この妖怪は、まさに俺自身の鏡だった。どんなに打ちのめされても憎しみを忘れられない俺だった。
では、その俺を見下しているこの“俺”は何だ。
足が、振り下ろせない。
「はああああああっ!」
その隙を妖怪は見逃さなかった。盛大に燃えあがる妖術の炎が俺を取り囲む。妖怪は捨て身だった。その覚悟が力を与えたのか、炎は赤々とまばゆい輝きみせて立ち上がり、俺たち二人を熱で焼いていった。