94話「拠り所」
藍の手を借りて、布団から起き上がった。体の傷は治っている。ただ、両腕だけは見事になくなっていた。やはり、再生しなかったか。藍に言わせれば、腹を串刺しにされたのに一日で完治した俺の回復力は異常だという。概念から生まれた紫のような妖怪は全身をバラバラに斬り裂かれても死にはしないが、妖獣は妖怪といっても獣であることに変わりない。肉体的な損傷は命にかかわる大事である。俺もさすがにバラバラに解体されれば死んでしまうだろうが、割と致命傷っぽいダメージを受けても回復可能なことは萃香との一戦で検証済みである。その回復力をもってしても、腕丸々二本の再生はできなかったようだ。
ただ、なんとなくだが、時間が経てば腕は元に戻るような気がしていた。肩口の断面がわさわさとむず痒いのだ。何か、体の中から生えてくるような感覚。もっと言えば、土をかき分けて顔を出す小さな緑が芽吹いているような気がする。何も確信はないのだが、漠然とそう感じた。
屋敷の倉に、俺の甲羅が置かれていた。装着する。綺麗な緑色の光沢は、表面に刻まれた無数のかすり傷によって見るも無残な有様だった。胸部はばっさりと切れ込みが入り、剣によって串刺しにされた五つの穴はそのまま残っている。
「これが傍に落ちていたようです。葉裏様のものですか?」
藍から短剣を渡される。鞘から抜くと、刃が折れてさらに短くなかった短剣が出てきた。もう、武器としての用はなさないだろう。その折れた刀身は、今の俺自身を暗示しているかのように見えた。
「葉裏様はこれからどうされるのですか?」
「さあ。適当に」
白玉楼の門を出る。この長い階段を下って行けば、いずれ冥界から出て地上へ戻れるという。
「世話になった。最後に、紫に伝えてほしいことがある」
「何でしょうか」
「八意永琳という人物を探してくれないか、と」
「それは誰です?」
「月人だ。地上にいるかもしれない。可能性の話にすぎないが」
藍がわずかに息を飲む。もし、地上に月人がいるのだとしたら、紫が見過ごすはずがない。こう言っておけば、率先して探してくれるだろう。紫は空間の狭間に位置する境界であるスキマの中に大量の式を飼っている。スキマの中に入ったときに、数え切れないほどの“目”があった。その式とスキマの能力を使って、誰にも気づかれることなく障害物も無視して超広範囲に渡り、あらゆる情報を集められるのだ。
逆に言えば、それほどの能力を持つ紫が見つけられないものを、俺がどれだけ探そうと見つけられるはずもない。なによりも、俺は疲れていた。永琳を探しに諸国漫遊の旅をしろというのか。それならば、どんなところにでも一瞬で移動できる紫に頼んだ方が遥かに効率的だ。
そして、そうは考えておきながら、俺は紫が永琳を見つけ出せると思っていなかった。月人という規格外のさらに上を行く相手には、紫の能力もかすんで見える。
それは結果的に、俺自身が永琳を見つけ出すことを半ば諦めかけているということではないだろうか……
「わかりました。伝えておきます」
「頼んだ」
甲羅の中から取り出した帽子を藍にかぶせてもらう。最低限の言葉をかわして、俺は階段を降りて行った。
* * *
それから俺は歩き続けた。アホみたいに何も考えていなかった。道なりにただ進み、どこへ行くとも決めず歩いた。太陽と月が何度空を昇ったのかも覚えていない。本当に空っぽだった。何をするにも億劫だが、足だけはどこかに向かって進んでいた。
そのうち、俺は自分がどこを目指しているのかようやく理解し始めた。諦めが広がる心の中に、ぽつりぽつりと温かい思い出が浮き上がる。それは、命蓮寺で過ごした日々だった。ナズーリン、一輪、雲山、寅丸と馬鹿をやって過ごした記憶。そして、白蓮のこと。あのやさしい笑顔ばかり思いだす。寺に行けば、白蓮はまた俺のことを迎え入れてくれるだろうか。
情けない。復讐を誓って、苦しみに耐えて、血のにじむような思いをして修行した。俺の覚悟はこんなものだったのだろうか。くだらないと思っていたあの生ぬるい仲良しゴッコを今になって求めるのか。
悔しかった。恥もあった。だが、俺の心は折れていた。
「命蓮寺にもどったら、また漬物を作ろう。ナズーリンと遊んで、一輪に怒られて、雲山を殴って、寅丸で遊んで……白蓮と笑う。それでいいじゃないか」
ほら、俺にだって居場所はあるんだ。だから、もう復讐のことばかり考えなくてもいいさ。もちろん、永琳を許す気はない。でも、休憩しないと。もう、俺は限界だろう。少しくらい休んでもいいはずだ。
「……ばかやろう」
歯を強くくいしばる。
『虚眼遁術』で身を隠して街道を歩いて行くと、大きな町の近くまできた。ここは都か。かぐや姫の噂が立っていた頃が懐かしい。いや、確か大分前に遷都したんだった。都ではなくなったが、それでも街が無くなるわけではない。往来にはたくさんの人の姿があった。
そういえば、この近くに幽香がいた森があったはずだ。急に懐かしい気持ちになる。俺の足は自然と森の方へ向いていた。