91話「安らかに」
一瞬、気を失っていた。
周囲の光景は一変していた。木は円形に、外に向かってなぎ倒され、地面は陥没している。俺は少しの距離、吹き飛んでいた。
後になって気づいたのだが、『二重分身』は敵の前後から高速の挟み撃ちを繰り出す技である。しかし、『玄武パンチ』の威力が強すぎたために自分の攻撃を自分でくらう形になったのだ。
「ははは……」
乾いた笑いがこぼれる。体はボロボロだった。気を抜けばすぐにでも失神してしまいそうだ。全身、どこもかしこも動かない。ぴくりとも。まるで自分の体が人形になってしまったかのように感じる。傷みすら感じないのだ。死ぬ寸前というのは、こういうことなのだろう。両腕は、肩から先がなくなっていた。『玄武パンチ』を一度に二回打ち出すためには左右両腕を使う必要がある。一発につき、腕を一本なくすのだ。『二重分身』と併用したため、両腕が一瞬にして消えていた。
ぼやける視界に、影が映る。それは俺のそばに近づいてきた。
「ありえねえよ」
「ええ、まったくね」
依姫だ。どてっぱらに風穴を開け、腸がはみ出している。肺は潰れて肋骨が飛びだしている。おびただしい出血によって、足元には大きな赤い水たまりができている。だが、その表情に苦痛の色はない。平然と歩いてきて、淡々と言葉を話す。
「想像以上だったわ。強化処理していない月人なら即死の可能性も十分ありえる。私でさえ、この有様なのだから。まあ、全治3時間といったところかしら」
おかしいよ。ここは強大な敵を前にして圧倒的な力の差を前にした主人公が、それでも諦めず立ち向かい、秘められた力を開放して見事撃破する流れだろう。両腕まで代償にして頑張った結果がこれか。泣くぞ。
依姫が、仰向けに倒れた俺の体を片足で踏みつける。それだけで、俺はもう逃げられなくなる。ジタバタと懸命に体を動かそうとするが、依姫の細い脚はびくともしなかった。
「ひっくりかえって動けなくなった亀みたいね」
そうか、腕がないから起き上がれないんだ。それはまさしく亀のごとき痴態だった。
依姫が手元に剣を出現させる。その刃が俺の頭に向けられた。断頭台に拘束された囚人のような気持ちになる。
「いやだ! 死にたくない!」
俺は必死にヘッドスプリングで体を起こそうとする。限界をとうに超えた体を酷使して、その背中が地面からわずかに浮き上がった。
「おとなしくしなさい」
「がはっ!」
だが、依姫が容赦なく俺の腹を踏みつける。もうどれだけ脚をばたつかせようが、この場から脱することなどできそうになかった。さながら、死にぞこないのゴキブリ。
「これでわかった? 月人に刃向かうことの無意味さが」
「うるせえ……こんなことがあってたまるか……俺はまだ死ねない! あいつに……永琳に会うまではっ!」
「……永琳ですって?」
依姫は永琳の名を聞いて驚いている。やはり、永琳はここにいる。すぐ近くにいる。月の都市まではもうすぐそこなのだ。あと少しで永琳に会える。
「どこでその名を聞いたのか知らないけれど、その方はもうここにはいないわ」
「嘘をつくな! 全部わかってるんだ。あいつはここにいる!」
諦めるな。俺はまだ生きている。生きている限りあらがえる。泣きごとを言っている暇はない。そんなことは死んでからいくらでもやればいいじゃないか。この状況を切り抜ける方法を考えるんだ。
永琳がここにいないだと? そんな見え見えの嘘に騙されるか。依姫は永琳の名前を聞いて反応した。永琳を知っているということだ。しかし、なぜそんな嘘をつく必要があるのか。
「……」
見上げた依姫の顔はなんとも言えない表情だった。動揺はない。ただ、困った様子というか、聞き分けのない子どもに呆れるような顔。
依姫が嘘をつく必要性はあるのか。永琳の所在を隠すことに何の意味がある。もし、隠したい理由があるのだとしても「ここにはいない」という言い方などせず、何も言わなければいいだけの話ではないのか。
最悪の想像が頭に浮かぶ。
「『ここにはいない』って、“ここ”ってどこだよ。永琳は月にいるんだろ? 月の都市にいるんだろ? なあ!?」
「あなた確か、復讐のためにこの戦争に来たって言ってなかった? その仇が八意永琳のことなのだとしたら、教えておいてあげるわ」
やめろ。言うな。
不安が、心の中で、風船のように膨らむ。体中を虫が這いまわるような焦燥、切迫感。心臓の鼓動が速くなる。大きくなる。膨らむ。ぶくぶくと醜く化膿する。
「あの人は、もう」
たった一つの希望なんだ。ひどく悪辣で、どうしようもない理由だけれど、俺にとってはこの復讐だけが。
「ここにはいない」
破裂した。
「うあああああああああああああ!!」
殺法『隠れ玄武・円舞』を使用。頭と脚を甲羅の中に入れて回転する。依姫の拘束が少し弱まった。その隙をついて脱出する。
「えいりん!」
いないって、どういうことだ。月に行けば永琳に会えると思っていた。でも永琳は、月にはいない。また探せばいいとか、そういう問題じゃない。今日まで必死に我慢してきたんだ。気が狂うような殺意を飲みこんできた。何度も死にたくなった。一日が長いんだ。それが一年になり、百年になり、拷問のような時間を積み重ねた。
それは言うなれば、長い追いかけっこのようだった。体力はとうに底をつき、脚は壊れ、前に踏み出すだけでも精いっぱい。最初から走られる状態ではない。だが、リタイアすることは許されない。なぜなら俺の後ろには狂気という名の化け物がいて、じわりじわりと迫ってくるからだ。足を止めれば食われてしまう。だから進んだ。死に物狂いでここまで来た。それができたのは、ゴールがあると信じていたから。そこまで走ればすべてが終わると思っていた。永琳のいる月に行くこと。それがこれまでの自分が目指した“ゴール”だった。そして、俺はたどりついたのだ。だというのに。
また振り出しにもどるのか。まだ悪夢の中をさまよわなければならないのか。嫌だ。終わらせてくれ。もう、たくさんだ。今日で終わりにしてくれ!
「止まりなさい!」
『黒兎空跳』を用いて森を駆ける俺の前に依姫が飛び出してくる。俺の体のすぐ下から剣の刃が一本生えて、足の甲を貫いた。左足が地面に縫い付けられる。こんなものに構ってはいられない。俺は永琳に会うんだ。依姫は嘘をついている。永琳は月にいるはずだ!
刺さった刃を無理やり引き抜く。左足が真ん中から二つに裂けた。それでも走る。走れ。
「無駄よ」
次の瞬間、天地がひっくりかえっていた。拳だったか蹴りだったか、何をされたのかもわからないまま、地面に引きずり倒されている。それでも進む。這ってでも進む。腕はないが、シャクトリムシかヘビのように身動ぎすれば……
だが、続いて走った衝撃で、俺の前進は完全に停止した。喉奥から血が込み上げてくる。剣を刺されたのだ。甲羅を貫通して、胴体を刺し貫いていた。振り向けば、剣を振りかぶる依姫の姿がある。硬質な金属音が五回響く。衝撃も五回。五本の剣が虫ピンのように俺の体を串刺しにして地面に縫い止めていた。
「ちくしょう……ちくしょおおおおおお!!」
動けない。血を吐く。
失敗した。許さない。ひきょう者、ひきょう者、ひきょう者!
永琳はいない。また逃げられた。あの女、俺から逃げやがったんだ。
よくも。
妖力を巡らせる。狂気に堕ちてもいい。知ったことか。もう一度、力を。
「はあ、ようやく止まった……ここまで強い穢れは生まれて初めて見るわ。伊豆能売よ!」
急にまぶしい光が輝いた。依姫が神降ろしをしたのか。光の中に何かがいた。巫女の姿をした神だ。一目で神聖な存在だとわかるが、それが俺にとって最悪の相手であることを直感的に理解した。
「伊豆能売。穢れを祓う神。この力であなたの穢れを浄化するわ。恨みも憎しみも忘れ、安らかに眠りなさい」
光が俺の体内に入ってくる。ぶつりぶつりと集中が途切れていく。自意識がほつれていく。
生きることは汚い。その生への執着、生への欲望が穢れだ。俺にとっての穢れとは、復讐の原動力たる憎しみ。その汚れが、真っ白に洗浄されていく。
「や、やめ……!」
かき集める。バラバラに散らばりそうになる意識を手繰り寄せる。俺の精神はもう壊れているのだ。俺の能力で何とか形を保っていたにすぎない。
その思考さえも白に塗りつぶされる。俺から憎悪の感情を取り除いたら、何が残ると言うのだ。
調和なき混沌。乱れる妖力。崩壊する精神。憎悪によって形作られていた心が、その枠を失うこと、それこそが狂気なのだ。
「あ……! いぎ……!」
声が出せない。何ということをしてくれる。依姫は俺のことを見ていた。そこに罪悪感などかけらもない。こいつは良かれと思ってやっている。俺の存在そのものを否定するような行為を、さも当然の使命であるかのごとく、そして造作もなく平気でやってのける。怒りも恐ろしさも通り越して、阿呆のように身を震わせて手の代わりに舌を伸ばしていた。
サラサラと自我がこぼれる。ただ茫漠とした無気力と倦怠に襲われて、意識がかすんでいく。ギョロギョロと目玉だけが忙しなく動き、けれども視界はぼんやりと曇っていった。こんな死に方はごめんだ。いっそのこと斬り殺してくれ。永琳に会いたい。この気持ちを消さないでくれ。否定しないでくれ。
……ああ、もう、何も見えない。