87話「月人」
「葉裏様、本当にこれでいいのですか?」
妖忌が困惑気味に尋ねてくる。なぜかというと、俺は自分の体を鎖で拘束しているからだ。甲羅は脱いで、体に巻きつけている。甲羅に体を縛りつけると言った方がいいか。手の自由がきかないような縛り方だ。これは別に俺が極限の精神状態で異常な性癖が目覚めたというわけではない。つまり作戦なのだ。
「俺は見ての通り玉兎。だったら、月人に味方だと思わせることもできるかもしれない。こうやって拘束された捕虜のふりをして、敵を動揺させるのだ!」
念には念を入れて、俺はさっき出会った敵の玉兎のブレザーみたいな服を奪って着ている。これで変装は完璧だ。そして、後は妖忌に鎖の端を持ってもらえば、地上の妖怪の捕虜となった不憫な月のウサギの完成である。玉兎に人質としての価値があるのか疑問だが、少なくとも敵の油断を誘うことはできるはず。
俺と妖忌は森の中を走る。森の木はすべて桃だった。品種改良などの技術がまだない地上ではお目にかかれないような、まるまると肥えた汁気たっぷりの大きな桃がいくつも実っている。桃源郷とはこのことか。
空は黒いが明るい。地上の夜が月の夜というわけではないのだ。空には日の光が見えるが、はたしてあれは本物の太陽なのだろうか。だが、そこに青空はなく、夜のように黒い昼間の空が広がっている。
俺の足は無意識に速まっていた。感情が抑えられなくなりつつある。静かに燃えていた炎が揺らめきだした。もうすぐだ。もうすぐそこに永琳がいる。どれだけこのときを待ち望んだことか。想像を絶する時間だ。自分でも信じられないくらいに俺は耐えた。この狂気という病気に耐えてきた。だが、その苦しみももうじき終わる。
「葉裏様! 私より速く進まれてはとても捕虜のように見えませんよ!?」
俺は知らぬ間に妖忌を追い越していた。振り落とされないように必死に鎖を握って走る妖忌の姿は、まるで散歩中の飼い犬に振り回される主人のようだ。
「悪いが、俺は止まれねえ! 引き離されないようにしっかりついてき……あん?」
言葉とは裏腹に急停止。妖忌はたたらを踏んで立ち止まる。
このいつ戦闘が始まるかわからない敵地の真っ只中で、俺は常時『百見心眼』を使用していた。視界の悪い森の中、精度と範囲はそれほどでもないが、目視でするよりは上等の索敵が行える。単なる妖力探知よりも多くの情報が集められるので、臨機応変に対応できる点が強みだ。
その『百見心眼』が何かを捉えた。森の中に何かいる。
「今度は急に立ち止まって、どうされたのですか? ……っ!? これは、また」
妖忌も気づいたようだ。圧倒的な妖力反応が二つ。明らかに玉兎ではない。こちらに接近している。俺たちの位置が特定されているとわかる。交戦は避けられない。
「もとより避ける理由はないがな」
妖忌が刀を抜く。俺も拳を構えようとしたが、そういえば今は捕虜のふりをしているのだった。ここは少し様子を見るか。相手の力量を見てから不意打ちをしかけるとしよう。
二つの影は、何のためらいもなく姿を現す。隠れて奇襲をしかける様子もない。まあ、そのつもりがあったのなら、これだけわかりやすい膨大な妖力を隠すこともなく接近したりはしないだろう。つまり、最初から隠れる気などないということだ。というか、強烈な殺気がこちらに向けて放たれている。妖力がこもった殺気は、それだけで小妖怪程度なら戦意喪失させるくらいのプレッシャーになる。
現れたのは、二人の少女だった。こういう一見弱そうな見た目の少女が実は滅茶苦茶強いというのは何かのテンプレなのか。
「あら、逃げも隠れもしなかったことは褒めてあげようかしら」
長い金髪に金色の瞳の少女が言う。その服装は例によって独特のセンスがあるが、武装らしきものは見当たらなかった。白い長袖シャツに青いサロペットスカートのようなものを着て、帽子をかぶっている。ウサ耳はついていないので玉兎ではないとわかる。
「その月の兎はどうした? 捕虜のつもりか?」
一方、薄紫色の髪のポニーテール少女は、すさまじい殺気を放ってくる。どうやら、挨拶代わりに送られてきた殺気はこいつのものらしい。服装は、もう一人の少女とあまりデザインは変わらないが、赤い色違いの服を着ている。赤と青。俺の嫌いなカラーリングだ。
手には抜き身の剣を一振り持っていた。意外にも、それ以外の武装はない。もっと光線銃とか特殊外骨格武装とかでガチガチに固めた歴戦の英雄のような奴が登場するのかと思っていたが、妖力がでかいことを除けば何のことはない普通の少女たちである。
「た、助けてください!」
とりあえず、不憫な玉兎の演技をしておく。妖忌はどこか不本意そうだが、俺の首に刀を突きつけるふりをしてくれた。こいつは小細工とかなしに正々堂々と勝負したい性分みたいだからな。まあ、相手は月人かもしれないのだ。策は用意しておくに越したことはない。