192話「狂気の終焉」
生きていれば、絶対に失敗することのできない時というものが訪れる。負ければ今までに築いてきた自分が終わる、そんな瞬間が必ずある。挽回のチャンスなどない、一度きりの大勝負が。
その全ての挑戦者が報われた結果を勝ち取れるわけはない。絶体絶命の窮地を前に、良いアイデアは浮かばないし、隠されていた能力が覚醒して苦難を吹き飛ばすなんてことはない。
だが、今夜の俺は特別だった。そんな物語の主人公みたいな奇跡を起こせた。成し遂げられる気がした。神にだって祈る。ここでしくじるわけにはいかない。
期待するさ、うまくいくって。だってこれはただのソフトのダウンロードにすぎない。まだ奴に攻撃を当てる前段階でしかない。失敗するにしたって、せめて一矢報いてから果てるもんだ。自我が消滅するリスクがあるとか言ったけど、そういうのってなんだかんだで乗り越えるのがお約束じゃないか。能力覚醒できずに死にました、で終わって納得できるものか。
そのはずだろ。
津波みたいな情報の濁流に呑み込まれる。そんな俺の想像とは裏腹に、ダウンロードは静かに進行した。例えるなら、水を張った桶の中に墨を垂らして汚すようなものだ。
いや、逆か。俺は希釈された。俺のちっぽけな頭では到底受け止めきれない。記憶に情報が注がれていく。俺のメモリが上書きされる。それは俺が生きてきた歴史の否定だ。
迂木と俺の兄弟たちのこと、モニカやロバートのこと、風見幽香、命蓮寺の連中、幻想郷の妖怪たち、ルーミア、リグル、ミスティア、チルノ。
みんなのことを忘れていく。過去の記憶を消さなければ新たな情報は入れられない。また一度ダウンロードを始めてしまえば、これを止める手段はなかった。一切の操作を封じられてしまっている。罠だったのだろう。だからセキュリティが手薄だったのだ。
俺は必死に記憶を捨てた。メモリに空きを作らなければ、すぐにでも容量を圧迫して破裂する。底に大穴の開いた船も同然だった。一刻も早く積み荷を捨てなければ沈んでしまう。
だが、どうしても捨てられない荷物があった。それは最も大きく、重く、なにものにも替えがたい価値があった。他の全ての記憶を失おうと構わない。これだけは手放してはならなかった。
いっそ、その重荷を抱えたまま沈んでしまえればよかったのに。俺には、それすら許されない。怒ろうが、泣き叫ぼうが、無駄だった。
永琳の記憶が消えていく。
いや、記憶に大した意味はなかった。あいつと俺との関係なんて、紙上におこせば原稿用紙一枚も要らずに書き表せる。そんなものはゴミのような情報だ。
本当に失ってはならないものとは、“思い”だった。言い表しようのない意思だった。あえてそれを言葉にすれば、たった一言で片づいてしまうであろう陳腐な感情だった。そのくだらない思い一つが、俺の頭の中の容量のほぼ全てなのだと、初めて知った。
言葉にできないからこそ大きいのだ。それを記号に置き換えたとき、俺の中から全部が消える。曖昧さの中心にある、思いの核が見えたとき、俺の復讐は終わってしまう。
俺があいつのことをどう思っているのかなんて考えたことはなかったのだ。今まで、上辺だけの感情をぶつけていたにすぎない。勝手に自分の心の内を複雑なものだと思いこんで、単純な答えを出すことから逃げていた。本当の気持ちを知ってしまえば、それがどんな結果であったとしても、ゆるぎない決意たりえない。わかろうとしなかったからこそ、変わらなかったのだ。折れずにいられたのだ。目をそらさなければ、生きられなかった。
ああ、見えた。見てしまった。
それは『憎しみ』。ただの憎しみ。驚くべきことに、たったのそれだけ。全てが上辺でしかなかった。飾りだった。俺が命を削って守り抜いてきた箱の中には、最初から何も入っていなかったのだ。
心の底から失望した。何がしたかったのだろう。何を期待していたのだろう。なにもわからなくなって、なにもかもなくなった。