191話「ダウンロード」
その玉兎は俺の夢の中の幻なのか、それとも現実に居合わせたのか。確かなことは、そいつが俺にとって最後の“道”だということだ。
俺と玉兎との意識の一部が共有されている感覚がある。そして、もっと大きな容器に収まっていく感覚も。俺はこの一連の体験の原理をすぐに理解した。始めから知っていたかのように知識が流れ込んでくる。
これは玉兎の耳を通して作られた実体のない世界だ。端的に言うならネットワーク。原理はインターネットと同じようなものだが、その構造は電子的ではなく全て妖術によって形成されている。どうやら俺の耳が端末として機能し、このネットワークにアクセスできたということらしい。本物の玉兎がこの場にいたことによって偶然にも発生した現象。死に際に俺の願いを神が聞き遂げ、奇跡を起こしてくれたわけじゃない。
いや、ある意味で奇跡だったのだろうか。俺以外の玉兎が近辺にいなければ、肉体の変質の末に得た能力の覚醒がなければ、ウサギ耳の情報端末としての機能が作動しなければ、この状況は起こり得なかった。
無線のように微弱な妖気の波を利用して作られたネットはあまりにも高度な術式でくみ上げられており、俺の旧式端末では対応できず情報処理に著しい制限がかかる。しかし、発見した玉兎の端末は俺と比べるべくもないほどにスペックが高かった。
互換性の違いを無理やり修正していく。ある可能性が見えてきた。これはネットワークなのだ。玉兎たちの端末同士を結び、そして大量の情報がそこに共有され蓄積されている。その網は、月の都の中枢にさえつながっていた。
ここからでも、空の果てにある月へと無線がつながっていた。俺の端末では不可能でも、この玉兎の端末を介せば月へ至れる。
俺の意識は空を昇っていた。これまでに何度となく月を目指して黒い巨木の幹を登った。自分を失うほどの時間をかけても遅々として進まず、一度としてたどり着くことはなく、ここへ来るたびに地上から這い上がる作業を繰り返した。それがどうだ。今、俺は透明な形のない波となって空中を走り抜け、星の影の中にいた。
俺の行く手を阻むものはなかった。障壁らしきものはいくつかあったが、何の抵抗もなく素通りできた。通る方法が自ずとわかった。これはハッキングなのだろうが、その自覚は薄かった。俺はコンピュータの技術に詳しくなんてないし、またこれほど高度な妖術に触れたことすらない。しかし、見たかった。その深奥に隠された情報をこの目で視なければならない。その一心が能力と俺自身と、端末の機能を一つにまとめ上げた。覗くことこそ真髄であれば、俺はこのとき俺の能力においてハッカーであった。こんな障壁で俺の渇望が止められるはずはない。
だから拍子抜けするくらいあっさりと答えは出た。答えだけは出た。
月の結界の式、それは例えるなら一枚の布のように見えた。長大な一つの式が一本の繊維であり、それらが数え切れないほど集まって一本の糸を紡ぎ出し、その糸を惜しげもなく遣って一枚の織物を形取る。数十万の理論が並列し、圧縮され、融合したその術式は、暗号化されておらずとも解読することなど不可能だった。”視た”ところでどうにもならない。
思えば、あの八雲紫ですらこの結界を一度しか突破できなかったのだ。妖術理論の数学的応用に関して天賦の才を持つ八雲藍でも解析できなかった。今ならわかる。月面戦争時、この一分の隙もない結界に穴を開けた紫の力がどれだけ異常だったのか。
俺にあのときの紫と同じことができる道理はない。
方法があるとすれば。
検索する。
一つだけ、あった。
直接、情報をダウンロードする。俺自身に情報を書き込む。
妖怪にはそれぞれ生まれ持った力がある。逆にそれ以外の力を得ることは困難だ。たとえば「程度の能力」がある。どれだけ努力しようと他人の能力と同じ力は得られない。なぜならその能力の真理を理解できないからだ。
では、能力者本人はその真理を知っているのかというと、そうでもない。知らないが、なぜだか使えるのだ。理そのものが体の一部であり、生得的に持っている。より強力な能力ほど頭では理解できない。その不明すら内包して自己であり、種族であるとしか言いようがない。
理解できるかできないかではなく、持っているかいないかの違いなのだ。この月を隠す結界の道理もすなわち、俺の外にある。これを理解するということは、全く新しい能力をこの場で習得することに等しい。
だが、その不可能を覆す可能性が残されていた。ウサギの耳だ。俺の一生のうち最大の皮肉だろう。この耳が現状を打破する鍵となりうる。
そもそも、こうして月人のネットワークに侵入できていること自体が俺の妖怪としての分を越えている。まさにこの耳が、俺という内の世界と月人の技術という外の世界をつなぐインターフェースだった。これを使えば外から情報を持ち込むことができる。術の道理を理解をする過程をとばして、生得的に習得するという矛盾を実現できる。
ただ、外から情報を書き込むからには相応のリスクもある。自己の存在意義を書き換えることになるのだ。俺の自我が耐えられるかわからない。俺の存在が消滅してしまう危険さえあった。
しかし、もう俺は決心を固めていた。退く理由がない。この方法しかないのだ。何の犠牲もなく先に進めるなんて最初から思っていない。たとえ命を失うことになろうと進み続ける。
迷いはなかった。
――ダウンロード開始――