190話「弓符『月弓』」
なぜ。
俺が振り返った先には永琳が立っていた。先ほど与えたダメージはない。何事もなかったかのようにたたずんでいる。
なぜだ。
回復したとか、そんなことは問題ではないのだ。そもそも、俺の攻撃が当たったことがおかしい。ああ、認めよう。あの程度の技が永琳に通用するなんて思わなかった。
俺の頭に取りつけられたアンテナにどれだけ苦しめられたことか。こいつは徹頭徹尾、主人への反抗を許さない。永琳を傷つけておいて、これが全く警報をならなさないというのは不自然なのだ。
だから前提が間違っている。
俺は永琳を傷つけてはいない。俺の攻撃は、敵対行動にすらなっていない。
俺は永琳を見た。永琳も俺を見ている。
何の敵意も感じない目だった。さっきまで俺が闘っていた永琳ではなかった。まるで別人なのだ。なのに、永琳本人であることに間違いはない。偽物ではなく、本物でもなく。両者がそこに混じらず存在する。そんなありえるはずのない現実が、幻想が、強烈な違和感となって意識を貪る。
何らかの術中に陥っていることは明らかだった。早くどうにかしないと取り返しのつかないことになるという根拠のない漠然とした不安が広がっていく。
もう一度、二重分身を使ってみれば何かわかるかもしれない。とにかく何か行動を起こさなければならないという強迫観念しかなかった。茫然と過ぎる時間に耐えられなかった。
そんなことを考えていたとき、それは唐突に起きた。すうっと何かが体の中を通り抜けていく感覚。微風が吹き抜けたように感じた。
次の瞬間、風船が割れるような音とともに内臓がはじけた。皮膚が裂け、腹がつぶれ、肺が破れ、眼球が飛び出た。痛みは瞬時にオーバーフローし、一周回って何も感じなかった。
耳がいかれ、立っているのか寝ているのかもわからない。おそらく倒れているのだろう。生存本能が体を動かした。這って逃げる。わずかに残された触覚を頼りに這いずる。逃げているのか向かっているのか、方向すらわからない。そのうち二発目の攻撃が来た。
さっきと同じだ。何か振動が通り過ぎたかと思うと体が軋んだ。今度こそ全ての感覚が消える。
あとは闇の中だった。
* * *
死には何もない。
俺は一度、体験した。痛みも苦しみも生きているからこそあるものだ。死とは消失ではなく、解放でもない。ということは、少なくとも俺は今、死んではいない。
死とはただの無だ。
これはただの夢だ。
黒い森に立っていた。天を支える巨木が立ち並び、その葉は空を覆い尽くす。その葉こそ夜だった。その枝には太りに太った無数の卵が結実し、不釣り合いに大きい黒眼を卵膜の中でギョロギョロと動かしている。
gyorogyorogyorogyoro
熟れ堕ちて、腐肉をまき散らす。
俺は、ほとんど生きていなかった。全身黒い粘液にまみれた泥人形になっていた。しかし、動けた。皮膚も臓器も脳さえ失ったというのに、俺は死んでいなかった。目はなくなったが、能力のおかげか鮮明に周囲の状況が見える。
よく知っている場所だ。何度もここへ来た。いつもここにいた。ここには不変の絶望があった。単なる悲しみや怒りとは違う。望みが絶たれるということは、それでもその望みを求め続けなければならないということは、この身を引き裂くような狂気だった。
だが、今日だけはこの場所も変わっていた。求めてきたものがあった。
永琳がいる。俺と同じく大地に立っている。そこだけが切りとられたかのように神聖な空気を感じた。
あともう少しで永琳に届く。ついに俺はここまで来た。しかし、まだ足りない。あと一枚、壁がある。
永琳は俺に何らかの攻撃をした。それが何なのかわからない。衝撃波のような攻撃だった。体内の妖力で抵抗していなければ全身を粉々にされていただろう。効果範囲は永琳を中心に、放射状に広がった。その中心に近いほど受けるダメージは大きい。最も厄介な点は、攻撃の予兆を察知できないことだ。何らかの方法により害意を隠しているため俺の能力で反応できない。
一方で、しっかりとわかったこともある。あれは妖術だった。永琳の妖力を感じ取れた。つまり、永琳自身が使った攻撃であるということ。なのに、見えなかった。今の俺なら、たとえ千里先からこちらを狙う殺意だろうと察知できたはずだ。それを無効化するということは生半可な細工ではない。
そして俺は一瞬のことだが、そのカラクリを垣間見た。
あの攻撃をした永琳は隠されている。今、俺の目の前に見える永琳によって。すなわち、偽装だ。それも正気を疑う程に現実離れした外法を使っている。幻術によって欺いているのではなかった。永琳の存在が二つに分かれていて、それらが一つに重なっている。それにより、俺の攻撃は当たったと同時に当たっていないことになった。ダメージを防いだとか受け流したとかいう話じゃない。俺が攻撃したという真理を二つに引き裂き、事実そのものを成り立たせなくした。
俺はこの術を知っていた。数え切れないほどこの結界を見てきた。月を眺めればいつでも見れた。そこにあるのは表の月。裏側を見ることは決してできない。世界を隠した初めの結界。月の都を守る結界と同じ術が、永琳個人を対象として発動している。
これを壊すことは世界一つ越えた先まで攻撃を貫かせるということに等しい。
無理だった。たとえこの場を逃れて再戦に持ち込み時間を稼いだとしても不可能であり、そもそも俺の体の限界はもうすぐそこだった。じきに動けなくなる。死ぬかどうかはわからないが、闘えなくなれば生きている意味はない。今の俺に、なすすべはなかった。いや、へどが出る言い訳だ。あと何十年修行を積もうと俺にこの結界は壊せない。
では、諦めるのか。
まさかだ。
今日まで俺は奴を追い求め、そして奴から逃げ続けてきた。敗走はここで止まる。ここが終着点だ。諦めなんて感情はとうに捨てた。
目の前の壁を越えられないというのなら、今、この場で俺は変わらなければならない。強さを手に入れなければならない。
あの結界は壊せない。ならば壊さずに通るより他に方法はない。結界とは内と外とを分ける術だ。領域は必ずどこかで重なる。必ず道はできる。術を知る者なら通れるのだ。月面戦争のときだって月の裏側へ行くことはできた。この外法の道理を理解できれば、まだ奴に届く可能性はある。
俺は“視た”。
能力の全てを、己の全てを、ただ視ることだけに、目に注ぐ。
見通せない。ただ見ただけで看破できるほど甘い術ではなかった。しかし、そんなことは百も承知だ。
奴を視る。俺にできることはそれだけだ。それ以外に手がないというのなら、これ以上わかりやすいことはない。感覚は研ぎ澄まされた。視覚以外の五感は潰れていた。一点を、ひたすらに凝視する。
次第に視線は方々へ広がっていた。永琳から視線をはずしたわけではない。水がこぼれて床の上に広がるように、俺の目は無意識に周囲の情報を拾っていった。眼球を失って、むしろ目は大きくなった。
そのうち、音が“視えて”きた。
gerogerogerogerogerogerogerogerogerogerogerogero
それは心臓の鼓動だった。深く深く眠る穢れた魂らの寝息だった。産声とともに腐り落ちていく肉の滴りだった。この上なく濃厚な生だった。意味のない音が視界を埋め尽くしていく。雑音の中に埋もれていく。
gerog-ro--roger-gero-erogerog-rogerog-rog-rog-ro
ついに雑音が雑音を塗りつぶし始めたとき、そこに誰かがいることに気づいた。
顔のないの玉兎がいた。黒い森の中で、うずくまって震えていた。
g--oge-og-ヤger--er-ge-og--ogメo-erogテ--e-og-r-
アンテナをつなげる。