189話「略式『天文密葬法』」
ある一定の域を超えた妖術は特有の概念を備える。たとえば、『程度の能力』。この中でも特に上位の能力は論理によって力を得て、論理によって力を縛られる。俺の『注目を集める程度の能力』は、他の大妖怪たちが持つような優れた性能の能力ではないが、それでも多大な恩恵がある。それは自然を覆すほど強力な法則であるが、その法則に逆らう力の行使はできない。自然の道理を越え、外れた道理、これを外法と呼ぶ。
上位の妖術を破るということは、すなわちその道理を突き崩すことに等しい。単純な力押しではどうにもならない。
今、俺の眼の前に張られている無限結界もそうだ。全ての運動を無意味にして物体移動の始終を狂わせるこの術は、外法の最上位に近い奥義なのだろう。これを破るには、術を構成する道理の矛盾を突くか、その道理を塗り替える強力な外法を使う必要がある。
そのどちらも容易ではない。できるのならとっくにやっている。
だが、勝算はある。
そのために限界まで敵の攻撃をくらい、窮地を装った。いや、違う。装うくらいでは不十分。現に倒れる寸前まで自分を追い込んだ。へたに負けたフリをしようものなら永琳は見抜いてくる。そしてこちらの行動を不審に思うだろう。慎重になられてはまずいのだ。この作戦を成功させるためには、永琳に攻撃してもらわなければならない。
以前、竹林で迷い、この場所に来たとき、俺はこの結界の効果を体験している。今まで何も考えてこなかったわけではない。ほぼ、机上の空論のような話になるが、対策は講じてある。ここにおいて大事なのは“道理”だ。どんなねじ曲がった非現実的な理屈だろうと、信じて疑わなければそれが俺の道理となる。
永琳の指が矢を放す。攻撃が来る。
俺は屈しかけていた体を全力で叩き起こす。狂気がほとばしる。奮い立った。この機を逃せば次はない。この一度で成功させる。状況を一変させる。
結界を破る。
この結界は運動を否定する。だが、その法則は完全ではない。俺はある場所から別の場所に移動することができなくなっているが、その場で身動きをとること自体は可能なのだ。何の行動も取れないわけではない。だからこそ、永琳は俺を拘束する固定弾を使ってきた。
この結界は外側から内側へは行けない。しかし、内側から外側へは行ける。だから、こちらの攻撃は届かないのに向こうの攻撃はこちらに届く。
これが矛盾だ。完全を求めるのなら、俺は指の一本も動かせないはずであり、そして敵の攻撃もまた結界を越えたこちらには届かない。この矛盾を解消する論理はあるのだろう。ゆえに術が成り立っている。だが、完全でない以上、この矛盾は弱点だ。防壁の薄い部分。
敵の攻撃が結界の膜を通る瞬間こそ、この術の脆弱性が最もあらわとなる。その瞬間を狙って待ち続けた。ロボット兵器からの攻撃は絶えず受けているが、これでは心もとない。能力による察知ができず視界も悪いこの状況では、とてもではないがタイミングを計れない。また、一発一発の威力が軽すぎる。強力な攻撃であればあるほどいいのだ。その方が結界に開く穴も大きくなる。勝負は一回限り。こちらの意図を永琳に知られれば、次のチャンスはないだろう。
永琳が警戒して攻撃をしてこない可能性もあった。そのときはロボット兵器の攻撃に合わせて結界を破る必要があった。部の悪い賭けだ。だが、その賭けに俺は勝つ。
その矢は俺を射殺すに十分以上の威力を秘めていることがここからでもありありと見てとれた。そして、それは永琳自らの手によって、その意思によって為される攻撃だ。であれば、俺の目に見えぬはずがない。たとえ視界を閉ざされようと、刹那の間に迫る速度であろうと、全てを捉える。その矢先が結界の膜に触れる瞬間を正確に予測する。
もし俺がいつもの俺であったなら、たとえ予測できたとしてもその凶矢に反応が追い付かず、頭を木端微塵に吹き飛ばされていただろう。
しかし、今夜は違う。この身に溢れるどす黒い狂気は、常にしてこれまでの最高を上回る。狂気を練り上げる必要はない。すでに迎撃の準備は整った。
拳を突き出す。固定弾から伸びる糸の拘束を紙のように引きちぎり、邪魔な結晶体をガラスのように砕き、流星の如く光の尾を引いて迫る矢と宙空で交わった。
黒兎核狩。
狂気によって自我を破壊し、漏れ出た心を拳に乗せる技だ。妖怪にとって心とは精神であり、肉体であり、世界だ。これは自分という世界を敵に叩きこむための技なのだ。ありえないはずのリーチを生み出す。それは極小の、取るに足りない差かもしれないが、その差においては何者にも優り“先んじる”。たとえ運動を否定しようと、この拳は先を行く。
それが俺の道理だ。俺の外法だ。この論理の正しさを、俺の研鑽が、百万、千万、一億、それ以上の数、愚直に突き出してきたこの拳が、崩れる自我が、糞ったれな狂気が、証明する。
ぶつかりあった衝撃は、俺の腕を吹き飛ばした。腕一本を代償に、俺は道理を塗り替えた。結界が消える。狂った世界が狂った世界に戻ってくる。俺は確かに踏み出した。
「えええええぐあああああいいいいいいいいいい!!」
永琳の名を叫ぶ。毒でやられた喉はもともな声を発せない。よだれを垂らしながら咆哮をあげた。走る。燃えたぎる本能が突き動かすままに、がむしゃらに駆ける。この疾走において、今まで生きてきた中で一番に自分が妖怪であると自覚する。
もう俺の道を阻むものは何もない。固定弾による足止めを使われたとしても二度は通用しない。バックパックから取り出した代わりの腕を装着した。
何も考えられない。考えてはいけない。すべての雑念を捨てる。素面ではあいつを倒せない。麻痺する。真っ白になった頭のまま、突進する。
一歩で暗瞬兎跳、
二歩で空蝉躯投、
そして三歩目。
『二重分身』が発動する。
永琳を打ち倒す、そのためだけにこの技を作った。害意を伴う攻撃ができないのなら、自分自身害意を認識できない速さで殴ればいい。そんな馬鹿げた妄想が始まりだった。
目にも止まらぬ、すれ違いざまの必殺の二連撃。これ以上ないくらい完璧に技が決まった。
肉を抉り、骨を砕く感覚がした。ドサリと、背後で永琳の倒れる音がする。
呆けた。まさか俺は永琳に勝利したのかと、ふざけた考えが頭に浮かぶ。
そんなわけはない。では、永琳はわざと攻撃を受けたのか。俺を侮ったのか、それとも復讐心を満たしてやるために情けをかけたのか。
違う。これはそんな次元の話じゃない。もっと絶望的な何かがそこにある。
いる。
俺は息を抑え、振り返った。
「おまえ……だれだ……?」