181話「Stage2 人間の止まる道 (サイド・咲夜)」
お屋敷を出た私は妖気の出所を探し奔走していた。なるべく吸い込まないように口元にハンカチを当てたりしてみたが、あまり効果はなさそうだ。能力で時間を止めても息をしなくてよくなるわけではないので意味がない。
里に続く小道付近を捜索していた私は不審な妖怪の集団を発見する。暗くてよく見えないが、尋常でない速さでこちらに向かってきていることだけはわかった。天狗かと思ったが、どうやら違うようだ。これは怪しい。
「止まれ、そこの妖怪たち。……この匂い、やはりお前たちが異変の元凶か」
「なんだこのメイドさんはぁ! レイヤー自重しろ! オムライス注文すっぞ!」
意味不明の言葉を発した妖怪たちは、私を無視して道を進もうとする。当然、追いかけるべく動き出した私の前に、一つの影が飛び出してきた。
「乙羅殺法……」
「どきなさい、邪魔をするというのならば容赦はしない」
道を遮るように立ちふさがったのは氷の妖精チルノだった。湖の周りによく出没する妖精だ。イタズラ目的で館に侵入しようとしてきたことが何度もあるので、追い払ったことが数回ある。実力は知れていた。この程度の相手に後れを取る私ではない。
まずはチルノを素早く無力化することに決める。敵は団体なのだ。可能であれば各個撃破が望ましい。私の能力があれば逃げた妖怪たちを追いかけることは、そう苦でもない。
「四式奥義・痛寒洒落殺法」
しかし、ナイフを取り出し、戦闘準備に入った私は違和感を覚えた。
(敵の雰囲気が……変わった?)
具体的にどこがおかしいと明言はできない。チルノは特に構えるでもなく、自然体で立っている。何か術をしかけてきた気配はない。強いて言えば、空気が鋭くなった気がした。冷気を操る能力の影響だろうか。
チルノには、いつもの元気さがないように感じられた。彼女にしては冷静を保っている。まるで別人のようだった。そして唐突に話を切り出してくる。
「ねえ、弾幕ごっこの代わりに面白い遊びをしましょう」
「なに? 手短に終わる勝負なら構わないけど」
「もちろん。ルールは簡単よ。アタイが今からあなたを笑わせるわ。それができれば、アタイの勝ち。できなければ、あなたの勝ちよ。ここを通してあげる」
なるほど、それなら楽に早く決着がつきそうではある。この異変の一大事にへらへらしてられるほど私も呑気ではない。笑わずにいられる自信はある。
だが、相手はイタズラ好きの妖精だ。その言葉は信用のおけるものかと言われれば疑念がぬぐえない。あとでグダグダと勝負に文句をつけてくる可能性もなくはないのだ。それならいっそ弾幕勝負で適当にノして転がしてしまった方が早い。
ここはひとまずチルノの提案する勝負に乗ることにした。弾幕ごっこの代わりとまで言ったのだから確かな言質だ。勝負の結果にケチをつけてきそうになったら、力づくで従わせればいいだろう。
「わかった。それでいいわ」
「そう……なら、見せてあげる」
その瞬間、私は感じた。チルノの小さな体から放たれる圧倒的なプレッシャー。目を見張る。それは刺すような冷たさをもって私に襲いかかってくる。思わずナイフを構えた。
だが、違う。その波動は攻撃ではなかった。チルノは依然として自然体。何の殺気も感じない。冷えたように思える空気も、実際に温度が下がったわけではなかった。それは感覚でわかる。体感温度は変化していない。
であれば、この寒気は何なのだ。どこからきている。私は今、何をされている……?
「これはアタイのとっておきのギャグよ」
相手がやろうとしているのは、ただのギャグ。ギャグと言うのだから、おそらく一発ネタだろう。私の要望通り、時間も取らずにすぐ終わるはずだ。私は笑わず、勝負に勝つ。
そう、笑わない。笑う要素が今のところ一つも見当たらない。チルノはお通夜にでも来ているのかと言いたくなるくらいの無表情だ。シュール系のギャグなのか。いや、それにしてもこの雰囲気はひどすぎる。芸風とか、それ以前の問題だった。こちらを笑わせようという気持ちが全く感じられない。
(はっ……! ま、まさかこの冷気は)
私の脳裏にある仮説が浮かんだ。
お笑いにおいて重要なことは何か。芸の完成度、小道具・舞台の出来、芸人の人間性、とっさの対応力、総合的センス、様々あることだろう。だが、その前提として常に横たわる問題、それが客の反応だ。どんなに磨かれた芸をしたところで、それが笑いとして実る下地ができていなければ評価は格段に落ちる。いわば、『笑いやすい空気』というものが存在する。
物を動かすとき、最も力のかかる時点は始めのひと押しだ。場を整える前座があるから真打が映える。時として空気を読み外した芸は高名な芸人すらスベらせ、逆に大して面白くもない芸が空気に助けられてウケるということは往々にしてある。お笑いを心がける上でこの空気を軽んじることはできない。『笑える空気』を作ること、それは一種の、技術を越えた魅力と言えよう。
だが、この氷精は違った。そのお笑いの常道を真っ向から否定している。チルノが作りだそうとしている空気、これではまるで、
「今からするアタイのギャグは、めちゃくちゃ死ぬほど最強面白いわ」
ハードルをッ、さらに上げた、だと……!
吹きすさぶ冷気が私の精神をいてつかせていく。間違いない、チルノはこちらを笑わせる気など最初からなかったのだ。場を温める気は、さらさらない。『冷めきった空気』が周囲を支配していく。
驚くべきはその効果だ。たかがスベりそうなギャグ、では済まされない。まるでその冷気が具現化しているかのようである。“笑い”とは逆方向、マイナスの感情へとどんどん沈んでいく。これも異変の影響なのか。
現実的な冷たさではなかった。それは精神に作用する。能力を使って時を止めても、この冷気から逃れることはできない。そもそも今の崩れた精神状態では能力を使用することすら困難だった。
とにかく、行動する必要があった。まだ今なら間に合う。チルノのギャグを止めなければ。
「めちゃくちゃ、面白いのよ……最強に……」
「ぐはッ!?」
お、同じことを二回も! なぜ念を押した!?
気づけば片膝をついていた。鳥肌でうぶげが総毛立ち、震えが止まらなくなった。ついに身体的な被害が現れ始めてきている。まずいとは思いつつも、体が動かない。
手玉に、とられているというのか。こうしている間にも心は冷え切っていく。このままギャグを聞かされてしまえば、負ける。
そんな醜態はさらせない。お嬢様に任せられたのだ。私は紅魔館のメイド長。この異変を解決する義務が、
「わん、わんわん」
ナンカハジマッタ!?
チルノは影絵で犬の形を作るように手を組み合わせている。相変わらずの無表情。そして犬の鳴き声らしきかけ声に合わせ、手を動かしている。いったい何をするつもりなんだ。
私が固唾をのんで見つめていると、チルノがチラチラとこちらを見てくる。
「わんわん(チラッ)、わん(チラチラッ)」
ええええ!? もしかしてこれで終りですかああああ!?
もはや殺意を覚えるレベルの稚拙さ。たとえるなら真冬の北極の海に突き落とされて洗われた後、ブリザード吹雪く氷山の上に野ざらしにされたかのような寒さ。
その反応を見たチルノは、スッと手を解いてたたずまいを正した。
「これは……ノーカウントよ」
ひどい、もういろいろとひどすぎて、つっこむ気にもなれない……
体を支える力さえも失い、私は地に倒れ伏した。ただ寒いギャグを披露されているだけだというのに満身創痍だった。視界がかすみがかってくる。今度こそ耐えられない。次でとどめをさされる。どんな攻撃が繰り出されようと、すでに結果は見えていた。
「さあ、存分に笑うがいい。これがアタイの最強ギャグ……
フフ……
フハハ……
フーハッハッハッハッハ! 我こそは神話時代の覇者! マスターズ・トリプルシックスが一員チルザナドゥの転生者! 現代によみがえった最強の妖精戦士チルノ! 今宵はアタイの知られざるサーガを心行くまで堪能していきなさい!」
スベッた。それはもう、雪崩のように。崩壊の準備を整えた厚い雪層は轟音をあげて斜面を滑っていった。そのすさまじい奔流を前に、ちっぽけな私の精神はあっけなく飲み込まれた。
チルノはこれまでと一転したハイテンションでギャグとは名ばかりのマシンガントークを展開していた。それが耳に入ってくるにつれ、どんどん心の温度が氷点下を越えて下がっていく。さっきまでのギャグとも言えないお粗末なギャグでも、まだ「面白くない」という意味でのウケ所はかろうじてあった。だが、もうこれは滑り芸ですらない。怒りすら通り越し湧き起こる無気力感。気がつけば白目をむいて突っ伏していた。いつまでこの拷問は続くのだろうか。少しでも早く終わってくれることを祈ることしかできない。
とうとう幻覚が見え始めたのか、お嬢様の姿が白んだ視界に浮かんでくる。乾いた笑いがこぼれた。いつか見た、そのかわいらしいお顔の面影を胸の奥にしまい、私は重くなるまぶたを閉じていった。
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第2回戦 チルノVS咲夜 勝者チルノ(咲夜は放心状態)