179話「アナザー・サイド・紫」
ここは紅魔館。霧の湖の小島に建つ、吸血鬼の住む館である。
「まずいことになったわ」
その一室には重苦しい空気が流れていた。テーブルに座る二人の影。一人はこの館の主、吸血鬼レミリア・スカーレット。もう一人はその友人の魔法使い、パチュリー・ノーレッジである。そしてそのそばに控えるように、メイドの十六夜咲夜が立っていた。
「明らかに異変が起きている。このヘドロみたいな歪んだ妖気。誰の仕業だか知らないけれど、まったく厄介なことをしてくれたわ」
「魔法で作った障壁で館に入ってくる妖気は防いでいるけど、完全に遮断することはできなかった。空気のように隙間から侵入してくる。いずれはここにも充満してくるでしょうね」
「なんとしてでも地下牢に妖気が入り込まないようにしないと。フランが異常な反応を示している。今は美鈴を向かわせているけど、」
そのとき、館を揺るがす衝撃が走る。局地的な地震が起きるとともに、ミシミシと嫌な音を立てて館が軋んだ。原因はわかっている。地下に閉じ込められた怪物が暴れているのだ。眠れる狂気が目覚めつつある。
「案の定、この調子じゃ、もたないわね。早いところこの異変の首謀者を捕えないと取り返しのつかないことになる。確か、パチュリーは犯人を見つけたと言ってなかった?」
「ええ、霧の湖にいた犯人らしき者たちを魔法で検知したわ。最初はここまで大それたことをする輩だとは思わなかったから小悪魔に軽く見回りに向かわせたのだけれど……」
「こあ~! こあ~!」
「もどってきたらこのありさまよ。犯人グループは逃げ出したようね。消息は不明よ」
その報告を聞き、レミリアはため息をついた。しかし、すぐに表情を引き締め、椅子から立ち上がる。幼い姿でありながら、そこには城主としての威厳がただよっていた。
「咲夜、事情は把握したわね? ことは一刻を争うわ。すぐにこの異変を解決しなさい」
「かしこまりました」
しとやかに一礼したメイドの少女は次の瞬間、その場から姿を消していた。部屋のドアが開いた気配もなかったが、おそらく既に外へと出て行ったのだろう。
「私はこれからフランを抑えに行く。パチェは障壁の強化をお願い」
「わかったわ。図書館を壊されたくはないし」
各々が自分の役割を果たすべく動き始めたようだ。
紅魔館は、この異変の影響により一番か二番に大きな被害を受けそうな場所ではあったが、この分なら特に監視に力を入れる必要はなさそうである。レミリアならフランドール・スカーレットの暴走を抑えきれるだろう。紅魔館に多少の損壊は発生する可能性があるが、私が気にするほどのことではない。
私は紅魔館に送り込んでいた式を回収して新しいスキマに飛び込む。次はどこへ行くべきか。
葉裏に顔を見せるのはやめておこう。あの様子では私が何を言ったところで聞く耳を持たない。永遠亭に行くのも面白いが、それは後のおたのしみに取っておこうか。白玉楼からは魂魄妖夢が出張ってくるようだ。それはいいとして。
やはり、私の大切な博霊の巫女に一言くらい忠告しておくべきだろう。私は博霊神社にスキマをつないだ。まずはスキマの中から様子をうかがう。境内はいつものように静かなものだった。
霊夢は無言でたたずんでいた。虫の声と、木々の葉が揺れる音。参道の中ほどに立ち、社殿の方を一心に見つめている。
そして、おもむろに動き出す。始めはゆらりとした遅い歩みであったが、すぐにスピードに乗り、速さを増していく。全力の走りだった。取れやすそうな袖が飛んでいかないか不安になるくらい勢いのいい腕の振り。
そこに来て、私は気づいた。参道の真ん中に何かが置いてある。それは陰陽玉だった。霊夢は速度を落とさず陰陽玉の前まで走り寄り、脚を高く振り上げた。
「シュウウウウウウウッ!」
ドムッという鈍い衝撃音とともに陰陽玉が飛んでいった。霊夢が蹴ったのだ。ボールはまっすぐ前方に飛ぶ。霊力の乗ったその一撃はたやすく賽銭箱を破壊し、社殿の戸をぶち破って建物の奥へと消えて行った。
敵がいたのかと探ってみるも、それらしき気配は感じない。霊夢は達成感に満ちた顔をしていた。
「何やってんだよ、霊夢!?」
その目に余る奇行に私がスキマから出て一声かけに行こうとしていると、ちょうどいいタイミングで来訪者が現れた。人間の魔法使い、霧雨魔理沙がホウキに乗って空から降りてくる。
「異変が起きたのか妖精が騒ぎ始めたみたいだから、情報収集がてら神社に立ちよってみれば……頭でもおかしくなったのか?」
「失礼ね、ちょっと気晴らしに玉蹴りしてただけじゃない。これが意外に爽快なのよ。魔理沙もやってみる?」
そう言って霊夢は懐から新しい陰陽玉を取り出す。
「なんていうか、これ蹴ると昔を思い出すのよね。まだ私が普通の巫女服を着ていた頃のことを」
「おいやめろ」
このまま放っておいても話が先に進みそうにない。私はこっそり霊夢の背後にスキマを開いて降り立つ。閉じた扇子で霊夢の後頭部を叩いた。乱れた精神を少し“調整”してやる。
「あうっ!」
軽く小突いた程度の一撃だったが、霊夢は二三歩よろめいた。私がいることに気づいて睨みつけてくる。
「紫! いきなり何すんのよ!」
「眼は覚めたかしら? 周りを良く見てごらんなさい」
「えっ、あれ、私……ああああっ! お賽銭箱が、神社がーっ!」
ようやく自分のしでかした惨事に気づいたようだ。がっくりと肩を落としてうなだれている。
「正気にもどったみたいだな。安心したぜ」
「どうしちゃったのかしら、私。なんであんなことしようと思ったのか、全然わからない」
「それは瘴気の影響よ。そこらじゅうに甘い匂いが漂っているでしょう?」
「……確かに。でも、良い匂いではないわね」
「なんとも言い表しにくいけど、暗い森の奥から漂ってきそうな饐えた臭いだぜ」
「今、幻想郷のほぼ全域にこの瘴気が拡散しているの。正確には“穢れ”と言った方がいいのかもしれない」
穢れとは永遠を蝕む不浄である。本来ならば生存競争を原因に発生し、寿命などの存在限界を作りだすもの。世界には確かに穢れが満ちてはいるが、この知覚できるまでに濃密な穢れの瘴気は文句なしに異常である。しかもそれがたった一匹の妖怪によってなされているというのだから驚きだ。
当人でない私には推測でしか現状を説明できない。生と死、再生と破壊の繰り返しこそが穢れの根本原理だ。今の彼女はその極致にあるのだろう。尤も彼女自身が穢れの性質を望んでいる。永遠不変を打破する変化を求めた結果とも言える。
普通の妖怪なら、そんな理由でこの異変は起こせない。だが、あの子の場合は渇望の質が違う。積み重ねあげた歴史が違う。少なくとも、やらかしても不思議ではないと思わせる程度には。
「まあ、あまり気にしすぎる必要はないわ。吸い込んでも少し頭がおかしくなるだけだから。あと、人間の場合は一日二日くらい寿命が縮む可能性があるわね。それだけよ」
「それだけの一言で片づけるには大事すぎないか?」
「さっきの私の異常行動は瘴気のせいだったってことか。それなら魔理沙も瘴気の影響を受けているんじゃないの?」
「私は大丈夫だぜ。狂ってるのには慣れてるぜ!」
「さっき、あんたが空から降りてくるときにチラッと見えたんだけど……今、パンツはいてる?」
「ああ、それか。ここに来る前、家から出発しようとしていたとき、なぜか無性にパンツを脱ぎたくなってさ。まあ、今日はたまたまそういう気分の日だったんだろう。それがどうかしたか?」
「魔理沙も頭がおかしくなっているということはわかったわ……まったく、つい二日前に永夜異変があったばかりだってのに立て続けに異変が起こるなんてどういうことよ! それにしても紫、あんた随分と今回の異変について詳しい事情を知っているみたいだけど、もしかして、またあんたが手引きしたとか言い出すんじゃないでしょうね?」
「あながち間違いとは言えないから困るわね」
「……自白するとは良い度胸だぜ」
「誤解がないように言っておくと、私が起こした事件ではないわよ? 犯人を幻想郷に招いたのは私だけど、ここまで事態が深刻化するとは思っていなかったのよ。まあ、私が何もしなくても遅かれ早かれこの異変は起きたでしょう」
「犯人はどんな妖怪なんだ?」
「それは私の口からは言えないわ。今回の異変について、私は不干渉の立場を取っているから」
本音を言うと、説明するのが面倒くさいだけだが。
だが、不干渉というのは本当だ。あの子には義理もあることだし、協力はしないがよっぽどのことがない限り邪魔もしないつもりである。
「それにこの異変は無理に止めようとすると返って被害が大きくなりそうな気がするわ。放っておけば、長くとも今夜一晩で終わるはず。手出しすることを勧めはしないわ。あなたたちではまず勝てないレベルの、私より年上の大妖怪よ」
「紫が釘をさすなんて珍しい。かなりヤバい奴みたいだぜ」
「私より年上なのよ」
「はいはい」
「それでも私は行くぜ! 異変は祭だぜ。相手が強いとなれば、ますますやる気が出てくるってもんだぜ!」
「私も行かないわけにはいかないわ。異変中に博霊の巫女が休んでいたなんて知られたら、ただでさえ少ない参拝客とお賽銭が減るかもしれないもの。それに、このはた迷惑な異変のせいでうちの神社が壊れたのだから、犯人にはきっちりと修繕費を払ってもらわなくちゃね!」
彼女たちは異変解決に乗り出すようだ。行きたいと言うのなら止めはしない。こういう異変も起こりうるということを知る勉強にもなるだろう。
「忠告しておくわ。敵はものの道理もわからない狂人よ。まともな弾幕勝負ができるだなんて思わないことね。相手のペースに乗せられないようにしなさい。すぐに狂気に引きずり込まれる。今夜の幻想郷はいつもより少し狂っているわよ?」
私の忠告を聞いてくれたのかどうか。生返事を残して二人は空高く舞い上がって行った。
生ぬるい風に乗って甘ったるい妖気が流れてくる。それを払うように扇子を開いて口元を隠した。雲もなく晴れ渡った秋の夜空に、ほぼ丸い月が輝いている。
「ふふ……あの子はどんな方法で月人に」
唐突に式とのラインがつながる。藍から妖力回線を通した念話による緊急連絡が入った。
『紫様、大変です!』
「落ち着きなさい。何があったの?」
いつになく感情的な藍の様子に、わずかな緊張が走る。
『ちぇ、橙が、私のシッポをしゃぶしゃぶ、しゃぶしゃぶ、うっ……ふぅ……』
ブツッ
私は妖力回線を切った。
生ぬるい風に乗って甘ったるい妖気が流れてくる。それを払うように扇子を開いて口元を隠した。雲もなく晴れ渡った秋の夜空に、ほぼ丸い月が輝いている。
「ふふ……あの子はどんな方法で月人に対抗して見せるのかしら」
今夜もまた、長くなりそうだ。