173話「リリ」
手の中の鼓動。自分の生の心臓を自分で手にとって見るなんて機会ないだろう。あったとしたらそいつは死ぬ直前である。
つまり、俺は死ぬ直前ということか。当然ながら、体内に血が流れる感覚はなくなっていた。そもそも口から心臓を吐き出すなんて尋常でない。次の瞬間には死んでしまうのではなかろうか。
だが、予想に反して身体はまだ動いている。頭も働いている。血が止まったというのに、むしろ熱かった。感覚が狂っているのか、炎の中に飛び込んでいるかのように熱い。
とにかく、このままではいけないということはわかった。妖怪だからこの異常下でも生きていられるのだろう。心臓の拍動はだんだんと弱まっている。早く元に戻さなければ手遅れになるかもしれない。口に入れて飲み込めば何とかならないか。コメディアニメじゃあるまいし、そんな簡単にことが解決するだろうか。
俺が躊躇していたそのとき、部屋の中に光が灯った。
緑色の発光。それは俺の甲羅から発せられていた。魔法陣が描かれたタペストリーの上で、甲羅は淡いグリーンの光を放っている。それは太陽の光を浴びて輝く新緑の若葉のごとく生命力にあふれた光であった。さざ波のように強弱のある光が明滅している。
立て続けに起こる怪現象に、俺の思考は追いつかなかった。これまで生きてきて心臓を吐いたこともなければ、自分の甲羅が光り出したこともないのだ。ただ、茫然と甲羅の光を見ていた。
どのくらい時間が経ったのだろうか。やがて発光はおさまった。甲羅を見ると、変形しているように感じた。なにしろ部屋が暗くて確認できない。俺はすぐに電灯のスイッチを入れた。蛍光灯の無機質な青白い光が部屋を照らす。
甲羅は溶けていた。どんな金属をもしのぐ自慢の甲羅が、飴のようにぐにゃりと歪んでいた。今までは甲羅を脱いだ状態でも妖力のラインがつながっていた。身体の一部のような感覚があった。それが消えている。何が起こっているのか全くわからない。
液体化は無情にも進んでいく。とうとう元の形は見る影もない、緑色の粘着質の液体になってしまった。凝縮されていた妖力もすっかり弱まっている。いよいよ、死が近づいているのかもしれない。これはその兆候なのだろうか。変わり果てた姿となった甲羅に触れる。
すると、驚くべきことが起きた。触れた部分が水面のように波打つ。微々たるものだが、確実にそれは動いていた。この物体は活動しているのだ。
動きはだんだんと激しくなっていく。ぐにゃぐにゃと絶えず変形していた。まるでゲームに出てくるモンスターのスライムのようだ。
そこで俺は、はたと気づいた。
「こいつ……こんなやつが、クトゥルフ神話に登場してた気がする……!」
急いで魔導書を開いた。乱暴にページをめくる。何枚か紙を引きちぎってしまったが構っていられない。眼を皿のようにして該当する記述を探す。
そして見つけた。その名はショゴス。
高い可塑性と延性をもった黒いアメーバ状の生命体であり、列車一両ほどの大きさがある。その性質から姿形を自由に変えられるという。
大きさや色など相違点はあるが、特徴は似ている。
「おい! お前はショゴスなのか!?」
いてもたってもいられず問いかけた。返事はない。ぐにょりとうごめくだけだ。
『……て……』
と、思いきや、反応があった。念話が送られてきたのだ。聞きとりにくいが、確かに何か言っている。
『……てけりり』
何のことだろうか。意味のわからない単語だ。念話というのは言葉を使わないコミュニケーションであるため、言語の違いによる解釈の齟齬は発生しない。わからない単語となると、それは俺の知らない名詞であることになる。
だが、どこかで聞いたことがあるフレーズのような気はした。何か情報はないかと魔導書に書かれたショゴスに関する記事を読んでいく。ほどなく謎は解けた。『テケリ・リ』とはショゴス特有の鳴き声であったのだ。
「おおお……!」
俺は歓喜にうち震えた。成し遂げたのだ。神の秘跡に触れ、ショゴスの召喚に成功した。
ショゴスはそれほど高位の生命体というわけではない。肉体労働をさせるための奴隷種族として創られた。創ったのは「古のもの」である。
だが、そんなことは問題ではないのだ。召喚に成功したという事実が重要である。すなわち俺の信じる神はおり、その神が俺にこのショゴスを授けてくれたのだ。
これまでの祈りは無駄ではなかった。神は俺を見ていてくれた。そして死を間際を迎えた俺に最後の希望を与えてくださった。俺はショゴスの記事を読み進めて確信に至る。
ショゴスは古のものに創られた下僕であったが、高い知能を有するようになり、主人への反乱を企てたのだ。反乱は失敗に終わったが、古のものを衰退させる大きな一因となった。ショゴスにより殺害された古のものがいたという記述もある。
これは神の思し召しだ。俺は永琳を古のものの一族だと考えていた。そこに遣わされたのがショゴス。つまり、今こそ反旗を翻すときだと神は言っているのだ。ショゴスがいれば勝てるかもしれない。
そうだ、いつまでもショゴスと種族名で呼ぶのはかわいそうだ。名前をつけよう。なんとつければいいのか、興奮でたぎった頭はうまいアイデアが出せない。いや、あまりひねった名前なんて考えなくてもいいだろう。こういうのはその場のインスピレーションが大切なのだ。
「よし、決めたぞ! お前の名前は『乙羅リリ』だ!」
乙羅リリ。それが俺の希望。感動のあまり、未形成のどろっとした粘液の塊を抱きしめる。
素晴らしい!素晴らしい!素晴らしい!すばらしい!
何でもできるような気分だった。永琳だって倒せる気がした。みなぎる全能感。生まれて初めて感じる軽快さ。何も恐れなくていい。俺自身の妖力総量は、甲羅を失ったことにより以前と比べれば絶望的なほど減少しているのだろう。だが、弱くなどなっていない。俺のポテンシャルはこれまでの何倍も高まっている。
あらゆるしがらみから解放されたのだ。永琳と戦っても勝てないと思いこんでいたついさっきまでの自分がバカバカしい。どうしてこんな簡単なことに今まで気づかなかったのだろう。なぜやる前から諦めようとしていた。永琳から逃げる必要はなかった。もう悩む必要は何もなかった。リリが、神がそれを気づかせてくれた。
そういえば忘れていたが、俺の心臓はどうなったのだろう。
すっかり舞い上がってしまっていた。リリの登場が衝撃的すぎて心臓のことを失念していた。魔導書を読むのに夢中で手放してしまったらしい。探すため歩き出した俺は、足元に柔らかい感触があることに気づいた。
どうやら、ずっと踏みつけていたらしい。足をあげると、道端に捨てられたガムのようにぬちゃりと液が糸を引いた。つぶれた心臓は動かない。もうそれは死んでいた。
「ひ」
乾いた笑いが一つこぼれた。なぜか俺は笑っているようだ。
まあ、そんなことはどうでもいい。俺は足元の汚い血袋を蹴り飛ばした。壁にあたってはじけ散る。
「いあ! いあ! くとぅるふ! ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるふ るるいえ うがふなぐる ふたぐん!」
祝福に酔いしれる。偉大なクトゥルフに感謝するのだ。吠えるように祈りの言葉を唱え続ける。
だが、それを邪魔するようにドンドンと壁を叩く音がした。
『うっせえ黙れ! 殺すぞ!』
くもぐった声が聞こえる。隣の部屋からだ。しきりに壁をドンドンと叩いている。
どうやら、隣の部屋の住人は俺を殺そうと考えているらしい。いかんな。
押し入れの奥にしまっていたショットガンを取り出して、弾を一発ずつ丁寧に装填する。銃口を壁に向けて構えた。
神を讃えよ。