171話「諦め穴埋め」
今も昔も俺は壊れている。その原因は言うまでもないもないが、一応言っておこう。
八意永琳。
俺を壊した人。彼女が常に俺の気がかり。寝ても覚めても彼女のことを考えない日はない。俺の生はその人に集約されていた。
永琳に対する俺の思いは一言では表せない。きっと俺ではどれだけ多くの言葉を重ねたとしても言い表すことはできないだろう。それくらい複雑だった。単に復讐したいと思うだけの相手ではなくなっていた。
しかしただ一つ、この長い年月の中でわかったことがある。
俺は永琳に勝つことができない。
それを思い知らされた。どうあがいても無理なのだ。むしろ努力すれば勝てると本気で考えていた以前の自分に驚愕する。その当たり前の事実を認識した瞬間、俺の復讐はゴミ以下の価値になりさがった。それはつまり俺の生きる目的がゴミ以下の価値であることを意味していた。
表面上は何の問題もないように活動している。むしろ以前より勤勉に働き、人付き合いもよくなった。健康であるかのように見える。
だが、心は死にかけだった。炉の火が落ちかけて、ぷすぷすと不純物の多い煙を大量に出すかのように。最近、心臓が弱っている。拍動が弱まり、一拍ごとにかかる時間が延びていた。病気なのだ。治す手立てなどない。だんだんと体が冷たくなっていた。亀の妖怪らしく冷血動物に近づいてみたいで滑稽だ。あるいは植物に近づいているのか。
緩慢に忍びよってくる死。それを半ば受け入れ始めていた。俺はもう十分すぎる時間を生きた。たとえ妖怪であったとしても永遠に生き続けるわけではない。他の生物より圧倒的に生きる時間が長いというだけだ。その妖怪の中でも俺は特に長生きだった。来るべき時が来たのだ。
だが、そうは言っても病気は辛い。なにより死を認めるということは、全てを諦めるということだ。それとも全てを諦めようとしているから俺は死にかけているのか。どちらにせよ苦痛であることに変わりはなかった。
そこで俺は、気晴らしに宗教を始めた。
昔の俺なら信じられないことだっただろう。人間に限らず、妖怪も心が弱ると何か超越的な存在にすがりたくなるのだろうか。
しかも入信したのがクトゥルフ教という胡散臭すぎる新興宗教だった。街中で配られていたビラを見てその宗教団体を知り、冷やかし気分で首を突っ込んだのだ。ただの興味本位だった。一冊5000円もする魔導書なるものを買う。妖怪の俺であれば少し調べればわかることだったが、案の定ただの金稼ぎを目的とした詐欺師集団だった。
しかし、宗教に騙される人の心理が少しわかる気もしたのは事実だ。究極的に言えば、その神様が本当にいるかどうかなんてどうでもよかった。いや、信仰している以上はその神の存在を信じているわけではあるのだが、そこが焦点ではないのだ。要は救いがあるかどうか、それが核心だった。結果的に俺は救われた。だから今もクトゥルフ教を信仰している。
初めに説明しておくと、クトゥルフ神話とはラブクラフトの小説を原型にして作家たちにより作りだされた架空の神話体系である。詳しくはググれ。クトゥルフ教はこれをパクって教義を作っただけのようだった。
きっかけはクトゥルフ神話と永琳のことを連想してみたことだ。
クトゥルフ神話には多くの神やその眷属、異次元の生命体が登場する。その中に「古のもの」という奴らがいる。それは高度な科学力を持つ生命体で、地球に生命が発生するより遥か昔に、多くの星に文明を築いてきた。地球もその一つだった。奴らは食料や奴隷を得るために、地球に最初の生命を創造した。
俺はこの記述を見て思った。月人は古のものだったのではないかと。何億年も前の太古の地球にあれだけの文明を持っていた人類が存在するなどおかしいことだ。あれは人類ではなかった。宇宙からやってきた高次の生命体であると言われた方が納得できる。むしろ、奴らが人間を創造したのだ。もしかしたら、妖怪を創造したのも奴らかもしれない。なにせ古のものは自らの奴隷種族として化物を創りだしていたそうだ。俺たちはその実験のなれの果てに生み出されたクリーチャーではないのか。
記述によれば、地球上にいた古のものは衰退して姿を消している。理由は長い年月のうちに技術力を落とし、奴隷種族の反乱や寒波などの環境の変化に耐えきれなかったかららしい。この反乱は人妖大戦を示しているのではないか。月人の手から離れた奴隷種族が独自の進化を遂げて主人に牙をむくようになった。地上の“穢れ”から逃れようとしていた点は、地球の環境の変化に耐えられなかったことを意味しているのではないか。
正直に言って、この説を裏付ける根拠は何一つない。俺の想像で勝手に補われている部分や捏造された設定もある。文献と矛盾する箇所もあった。古のものは技術力の低下により宇宙に帰るすべを失っていたという。姿形も人間とは似ても似つかぬものらしい。
だが、一度信じてしまったら、その考えを改めることができなかった。信じることに理屈は必要なかった。自分自身がそれを許せるかどうかだ。たとえば何でもいいのだけれど、ある宗教の熱心な信者の前で、無神論者が神など科学的に考えて存在するわけがないと訴えたところでそれが何になるというのだ。
月人は古のものであり、永琳たちはその中でも技術力を温存していた数少ない派閥だった。衰退する他派閥をよそに宇宙への脱出に成功する。そして月に新たな拠点を築き、ひそかに文明を守ることに成功したのだ。
俺だって、なにも最初からこんな仮説を信じていたわけではない。はじめはただの思いつき、妄想にすぎないと自分でも思っていた。それがここまで盲信するようになり、あげくクトゥルフ教に傾倒するまでに至ったのには理由があった。
クトゥルフ神話の世界では神と人間との力の差が色濃く描かれている。差というより隔絶と言った方がいい。とにかく理不尽なのだ。神々のちょっとした余波で容易く人が死に、発狂する。到底理解の及ばない存在たちの、ただそこにあるだけという影響で世界が終わる。それが繰り返される。
古のものについてもそうだ。奴らは地球のあらゆる生物の祖、創造主である。いくら衰退したといっても、人間が武装して束になってかかったところで勝ち目はない。反乱を起こした奴隷たちも結局は負けている。
俺は神に復讐しようとしていたのだと気づいた。力の差は覆せないのだと気づいた。それが真理なのだとクトゥルフ教が教えてくれた。もうこれは抗いようのない理不尽であり、報復しようとすること自体がお門違いなのだ。
もうお前は苦しむ必要はない、諦めたところで恥ずべきことは何もない。そう言われた気分だった。それが俺にとっての救いだったのだ。
また、もうひとつ得るものがあった。実はこの「古のもの」という奴らはクトゥルフ神話において大した強さを持つ種族ではない。所詮、物質的存在でしかなかった。本物の神は違う。旧支配者やアウターゴッドと呼ばれる存在たちは次元を超越している。それと比べれば古のものなんて虫けら同然である。
俺はそんな“本物の”神々を信仰した。とてつもなく大きな存在への帰属意識を求めた。別にクトゥルフ神話に登場する神でなくてもよかった。俺に必要だったのは、そういう“形式”だった。冗談半分だった祈りは、本格的な儀式に変わっていく。神がいる気がする。それがどんな神なのかわからないけど、いる気がした。
きっと俺の祈りは神に届かない。大きな神にとって俺は虫けら以下のゴミ、埃粒みたいな存在でしかないからだ。それでも祈り続けた。いつしか祈ることが壊れかけた心をつなぎとめるツギハギになっていた。




