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163話「ポイントオブノーリターン」

 

 はい、ドーン! 地面に激突。

 

 「あぐえぶろほぶふえっ!」

 

 憎きロリウサギの巧妙な罠にかかり、吹っ飛ばされた俺は顔面から着地した。首の骨がボキッていったけど、無事だった。妖怪でなければ死んでいた。ふぅ、危ない。

 ひとまず、状況確認が先決だ。目に張り付いた接着剤を何とか除去して周囲を見渡すと、竹の群れがどこまでも広がっている。あのまま竹林の外まで飛ばされていれば楽だったのに、これでは迷子確定である。方向感覚なんてめちゃくちゃにされるような飛ばされ方をしたので、どの辺りにいるのか見当もつかない。えげつないことをしやがる。

 

 「おっ、なんかウサギがいっぱいいる」

 

 ここまで飛ばされたのは俺だけのようだ。近くに道場生がいる様子はない。代わりと言っては何だが、兎がいた。わっちゃわっちゃいる。たぶん、十匹以上はいると思う。

 妙なことに全て白い兎だ。

 日本人は白ウサギになじみがある。小学校の飼育小屋の定番である。そう言うとありがたみがないが、あれは人為的に手が加えられて作られた品種としての白ウサギである。この時代の飼い兎としては一般的ではない。古くから兎のアルビノ個体は神聖視され、ところによっては神の使いとあがめられている。

 まあ、どんな動物にせよ、野生のアルビノ種なんてめったにお目にかかれるものではない。これだけの数が一か所に集まっているというのは不思議な光景だ。

 

 「それにしても逃げないな」

 

 人臭さがないので、飼われているわけではなさそうだ。だが、俺が近くにいるのに逃げようとしない。試しに撫でてみたが、おとなしいものだ。抱きかかえて持ちあげてみたが、それでも逃げない。俺を仲間だとでも勘違いしているのだろうか。

 ところで、こんな話がある。なぜ月には兎がいるのか。ある飢えた老人が、猿・狐・兎の三匹の動物に施しを求めた。猿は木の実を取ってきてやり、狐は魚を取ってきてやった。しかし、兎は何も用意できなかったので、自分の肉を食ってくれと我が身を差し出した。実はその老人は偉い神様で、兎の献身に感動して月に住まわせたという。

 

 「よし、この調子じゃ流しそうめんもできないし、今日の昼飯は焼き肉に変更だな」

 

 俺がそう呟いた瞬間、蜘蛛の子を散らすようにウサギたちが走り去っていく。俺の腕の中にいたウサギもめっちゃくちゃに身じろぎして脱出、まさに脱兎。わき目も振らず逃げて行く。

 ちっ、焼き肉としか言ってないのに逃げるとは。いや、お前らを食う気まんまんですけどね。飢えた者には我が身を差し出すのが兎の矜持ではないのか、なげかわしい。それとも神様限定のご奉仕品だとでもいうのか。

 

 「待たれよ、俺の晩飯ぃ!」

 

 だが、俺もむざむざと獲物を逃がすほどお人よしではない。ウサミミはついていても、心までウサギに堕ちたわけではないのだ! 亀というと草食っぽい感じがあるが、肉食の種類だっている。俺は肉食系女子系亀である。ウサギとカメの競争を始めようか。

 濃い霧で視界は悪いが、俺の能力なら環境に関係なくターゲットの探索はしやすい。逃げたウサギの後を追う。俺の足があれば簡単に捕まえられるだろう。

 と、思っていた。

 

 「あ、あれ……?」

 

 異常に気づく。いや、気づくなんてものじゃない。異常が突きつけられる。

 俺はウサギに追いつけなかった。ウサギの逃げ足が俺より速かったわけではない。俺が走るのに不利な障害物や地形があったわけではない。俺はウサギより速く、何の妨害も受けず走ることができた。なのに追いつけない。

 言葉にするなら、こういうことだ。

 俺がウサギを追いかけるとき、両者の間には距離があった。仮に10メートルとしよう。あってないような差である。俺は1秒とかからず走破できる。1秒後にはウサギを捕まえられるだろう。普通ならそうなる。

 

 だが、俺の頭の中ではそうならなかった。もっと具体的に言えば、こういうことだ。

 俺が10メートルを走破するのにかかる時間を1秒とする。1秒後、俺とウサギの距離はゼロになる。しかし、正確にはそうではない。ウサギも走っているのだから、少しは前に進んでいる。10センチくらいは進むとしよう。よって、10センチの距離があることになる。

 このとき、俺はまだウサギに追いついていない。

 

 その10センチを走破するのに必要な時間は0.01秒だ。競争の始まりから1.01秒後、俺とウサギの距離はゼロになるだろうか。ならない。なぜなら俺が0.01秒の時間を走る間に、ウサギは0.1センチ前に進むからだ。よって、0.1センチの距離があることになる。

 このとき、俺はまだウサギに追いついていない。

 

 0.1センチを走破するのに0.0001秒かかる。その間にウサギは0.001センチ進む。この繰り返しだ。無限に続く。俺はまだウサギに追いつけない。

 いや、それどころではなかった。事態はさらに悪化した。俺とウサギの距離が開き始める。

 

 「……あああ、あアあああアアア……」

 

 引き離されているのだ。必死になって詰めようとしていた距離が増え始める。

 そうか、よく考えたら俺は10メートルすら走破することが不可能なのだ。10メートルの半分は5メートル。5メートルの半分は2.5メートル。それを繰り返して、どれだけ半分にしてもゼロにはならない。すなわち、俺が走り終えることはない。俺が10メートルに手こずっているうちに、なんとウサギは俺を置いて先に進んでしまう。

 

 俺より足が遅いはずのウサギが、俺より速く走っている。論理的に成り立たないことが、論理的に成り立っている。体感時間が引き延ばされたとか、そういうことではない。どれだけ無限に走っても永遠にたどりつけないのだ。

 世界がバグる。視界が歪む。たった10メートルの追いかけっこが摂理を根本から破壊した。俺はもう、何を追いかけているのかわからなくなっていた。ここがどこなのかもわからない。自分が誰なのかもわからない。ただ、目の前にある白い物体を捕まえるため延々と走る。

 

 そして不可思議な迷走は唐突に終わった。

 ウサギはいつの間にかいなくなり、代わりに現れたのは白い壁だった。手で触れてみる。きれいに漆喰で整えられた塀だ。

 竹林の中に突如として現れた建造物。頭がおかしくなりそうな追いかけっこは終わったが、俺の乱れた心中は静まらなかった。むしろ逆だ。ここは永遠にたどりついてはいけない場所だった。到達不可能なゴールへ来てしまった。紙を32回折ろうとしてやってみたら実際にできてしまった感じ。絶対に不可能だとわかっているのに、それを達成してしまった。月まで届いてしまった。理不尽のただなかに放り込まれ、身の毛もよだつ激流に飲まれ、翻弄される。

 

 すぐにここから離れるべきだと思った。この現実はあまりにも異常すぎた。おそらく、この塀から少し遠退けば、さっきまでの日常が戻ってくる。対照的に、塀の向こう側へ行けば決定的に何かが壊れる。根拠はないし、何でそう思うのかわからないが、なぜか確信できた。薄氷の上を歩くような危うさ。どちらに転ぶかわからない、境界線の上に立っている。

 その一方で、俺はこの塀を越えてみるべきだとも思った。確実によくないことが起きるはずなのに、その渦中へ飛び込もうとしている。頭ではわかっているのに、感情が抑えきれなかった。

 心が揺さぶられる。懐かしくてたまらない。強烈な既視感。初めて来た場所なのに、俺はここをよく知っている気がした。ここが俺の帰ってくる場所であるような気がした。悲しみも苦悩も何もかも、ここで癒されるような気がした。俺の擦り切れた精神に、じんわりと温かさが染み込んでくる。

 

 ふらふらと塀伝いに歩いていた。ここから離れるともなし、敷地の中に入るでもなし。どっちつかずのまま進んでいく。しばらくすると門が見えた。少しだけ、隙間が開いていた。通れる。門の前で、足が止まった。向こう側に誰かいる気配がした。

 

 『アッ、帰ッテキタノ、テヰ! アンタハマタ、イタズラバッカリシテ! オ師匠様ニ怒ラレルノハ、イツモ私ナノヨ。ゴ飯ニスルカラ手ヲ洗ッテキナサイ』

 

 拒絶されなかった。快く俺を迎え入れてくれる言葉がかけられる。それに促されるように門に手をかけた。かすかに軋む音を響かせ、少しずつ入口が開いていく。

 タダイマ。

 タダイマ。

 タダイマ。

 タダイマ。

 呟きながら門をくぐろうとした、俺の背後から。ざくりと土を踏む音が聞こえた。そちらに振り向く。

 

 「うひゃっ!? なんでお前がここにいるウサ!?」

 

 そこにいたのは、さっき竹林で出会った妖怪兎の因幡てゐだった。

 ガチリと頭のスイッチが切り替わる。世界を見る色眼鏡が入れ替わった。

 

 「俺は……」

 

 後ずさる。改めて門を見てみる。ただの門だ。その向こうには庭らしき敷地が見えた。特に変わったところはない。

 さっきまでの異常な感覚は、きれいさっぱり消え失せていた。何の変哲もない日常が戻ってくる。

 

 「そんな怖い顔して、さっきのこと……怒ってるのかウサ? ごめんウサ! お詫びに飯でもごちそうするウサ。食ってけ?」

 

 「いや、いい。俺は帰る」

 

 ちょっとした気の迷いだったのだろう。疲れているのかもしれない。てゐの誘いを断って、この場所を後にする。歩いているうちに、さっきの体験が夢だったかのように思えてきた。いや、きっと悪い夢だったのだ。抜け落ちるように頭の中から記憶が抹消されていく。夢というのは、たいていが目覚めと同時に忘れ去ってしまうものだ。現に、今の俺はさっきのことを曖昧にしか覚えていない。

 だからこの話はおしまい。明日になれば全部忘れて、話題にもしなくなるだろう。

 帰る途中、あの建物があった方向から歌い声が聞こえてきた。てゐの声だ。距離が遠くてよく聞こえなかったが、そのメロディーを俺は知っていた。つられるように俺もその歌を口ずさみながら、霧深い竹林の中を走っていった。

 

 

 かごめかごめ

 籠の中の鳥は

 いついつ出やる

 夜明けの晩に

 鶴と亀が滑った

 後ろの正面だあれ

 

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