154話「覇王降臨」
空気が変わった。
ざわ…ざわ…
生ぬるい風が葉ずれの音を掻き鳴らし、それが無性に耳に残る。ヒマワリを引っこ抜いた瞬間、強烈な視線が発生するのを感じた。見られている。おかしなことに、その視線がどこから向けられているのかわからない。その感覚を“視線”と表現するのは妥当でないかもしれない。俺たちは、ヒマワリ畑という巨大な“目”の上に立っている。
(なに固まってんだ、すぐ逃げるぞ!)
事前に説明していた作戦のことも忘れて立ちすくんでいた弟子たちに注意する。時が止まったように硬直していた皆が動き始めた。だが、すぐに時はまた止まる。
退却しようと踵を返して振り向いたそこに、日傘を差した少女が立っていた。まるで最初からそこにいたかのような自然さで、風見幽香が立っていた。
「何をしているの?」
どんな答え方をしようともヤられる。そんな殺気をぶつけられ、沈黙が続く。
しかし、同時にゆうかりんは、わずかに動揺しているようなそぶりがあった。理由はわからないが、なぜか俺の方を気にしているように思える。その隙が緊張の縛りを解いたのか、真っ先にリグルが動いた。
「いや〜、どうもはじめまして。僕たちは普段、山の方に住んでいる妖怪なんですが、この場所に美しい花畑があると聞きまして」
リグルは、ほがらかな笑顔でゆっくりとゆうかりんに近づいていく。油断させて不意をつく魂胆か。卑怯な騙し討ちだが、格上相手との戦闘とあっては手段を選んではいられない。
「今は枯れていますが、夏の頃はさぞや立派なヒマワリが咲いていたのでしょうね。そう思うと、せっかくなので種でも持って帰りたいと思ってしまって」
「……」
「隙ありゃあ!」
ついにリグルが攻撃に転じた。至近距離から「黒兎核狩」を打ち込む。普通の妖怪なら、まず対処できないスピードと威力。しかし、次の瞬間、体勢を崩していたのはリグルの方だった。
リグルの体が宙を舞う。足と頭の天地が逆転した。
「は?」
呆けたような声を出すリグル。本人でさえ何をされたのかわかっていないようだが、俺の目は一部始終を捉えていた。リグルが拳を放ったそのとき、ゆうかりんがその拳の下に手を高速で滑り込ませた。そのままリグルの手首を掴み、ひねったのだ。その回転により、リグルの体は紙のように軽々と空中を回った。
そして、ゆうかりんは受け身も取れずに倒れたリグルの頭に手を置く。その手は、リグルの触角を……
ブチッ!
「イッギャアアアアアアアア!!」
むごい。リグルは目を血走らせ、泡を吹きながら土上のミミズのようにのたうちまわる。絶叫が壮絶な痛みを物語っている。
ブチッ!
「ア゛ッ……」
だが、ゆうかりんは意に介さなかった。まるで雑草を処理するかの如く、躊躇なく淡々ともう一本の触角を引き抜いた。リグルは電池の切れた玩具のように、ぴくりとも動かなくなる。
リグル・脱落。
洒落にならない。ゆうかりんの殺気は本物だ。まさに妖怪のあるべき姿と言えよう。弟子たちには時期尚早の相手であった。ここは俺が応戦し、他の皆は撤退させるべきか。
そう考えた俺の前を遮るようにルーミアが手を伸ばす。
「ここは私に任せるのかー」
なんと、ルーミアが自分から名乗りを上げた。いつもは何を考えているのかよくわからない、あのルーミアが真剣な表情をしていた。圧倒的な強者を前にして成長を見せたというのか、その目に曇りはない。ならば、師である俺は弟子の心意気に応えよう。この場はルーミアに任せる。
「フゥー……フゥー……」
ルーミアは前に歩み出ると、呼吸を整え構えを取る。その様はどことなく中国拳法を思わせる。なるほど、ルーミアはよく美鈴から武術の手解きを受けていた。その技と俺から学んだ暗殺拳を融合させれば、ゆうかりんに対抗できるやもしれない。
ゆうかりんは黙してたたずむ。迎え撃つつもりのようだ。ルーミアが仕掛けてくるのを待っている。
「睡拳『狸寝入りの術』!」
ルーミアはおもむろに地面に横になると、寝息を立て始めた。
「ぐー、ぐー」
いったいルーミアは美鈴から何を学んだのだろうか。さっきの自信に満ち溢れた顔は何だったのか。ここに来て命をはった渾身のボケをかます意味はあるのか。疑問は尽きない。
ゆうかりんは、つかつかとルーミアに歩み寄る。ルーミアの前にしゃがみこんで、ガン見している。驚くほどの無表情で。
「ぐ、ぐー、ぐー……」
ルーミアは冷や汗をダラダラ流しているが、それでも寝たふりを続けた。熊を前にして死んだふりをする人と同じ心境なのかもしれない。
しばらくその様子を観察していたゆうかりんは、それ以上何もせずに立ち上がった。いかにアルティメットサディスティククリーチャーといえども、無防備な寝顔を見せる美少女に攻撃はできなかったか。ほんの少しだが、緊張がほぐれる。
そして、ゆうかりんは日傘をたたんだ。傘の先端に急激な妖力の収束が起こる。まずいと思ったときには手遅れだった。
「ルーミア逃げっ」
凄まじい爆音と爆風と閃光。まともに立っていられないほどの余波がこちらまで押し寄せ、波動がバリバリと空気を震わせた。ゆうかりんは傘の先からビーム型妖力弾を放ったように見えた。しかし、その破壊力は常軌を逸している。ようやく力の放出が収まり、強烈な光にやられた目が視力を回復すると、周囲の状況は一変していた。
目の前に巨大なクレーターができている。たった一発の妖力弾が作ったとはとても思えない光景だった。ヒマワリは能力で操ったのか、攻撃に巻き込まれないように移動させられている。そしてクレーターの中央には、サイバイマンに敗れたヤムチャのように倒れるルーミアの姿があった。
ルーミア・脱落。
直後、ゆうかりんの傘に再び妖力が集まる。光の柱がみすちーを貫いた。お手製レーションを撒き散らしながらみすちーが吹き飛んでいく。
ミスティア・脱落。
ビーム弾幕はそれだけにとどまらず、チルノまで一緒に薙ぎ払う。チルノは瞬時にピチュった。跡形もなく掻き消される。
チルノ・脱落。
あまりにもあっけなく、俺以外の道場勢は全滅した。やはり強い。想像以上の強さだ。弟子ら程度の実力では前座にもならないか。ゆうかりんは無類の戦闘狂だと噂に聞く。相手にとって不足なし。
「やはり面白い。面白いぞ、風見幽香ぁ!」
狂気がたぎる。妖力活性化率を一気に引き上げた。ドバドバと黒い妖気がにじみ出る。いいぜ、この胸くそ悪い吐き気が最高に良い。
「ウォォオオオォ! おら、ぶちまけようぜ! てめえと俺の拳をよおお!」
「……」
ん? なんだ?
急に、ゆうかりんから殺気を感じなくなった。まさかさっきの弾幕でバテたということはあるまい。どういうつもりだ。
ゆうかりんは先ほどと打って変わって、明るい笑みを浮かべているではないか。何か様子が変だ。
「葉裏、久しぶりね。元気そうで何よりだわ」
「ああ、元気なら売るほど有り余ってるぜ! だから勝負の続きを」
「別にあなたと闘う理由はないわ。落ち着きなさい」
「え、いや、でもほら、ヒマワリ勝手に取ったりしたし……」
「ヒマワリの種が欲しかったの? それなら事前に言ってくれれば分けてあげたのに」
何か、おかしい。ゆうかりんは怒っていないのか。いや、それなら弟子たちをボコボコにした理由がわからない。しかし、どう見ても怒っているようには見えないのも事実。この違和感は何だ。
「ねえ、葉裏。前に会ったのは、あなたが幻想郷に来たとき以来になるかしら」
「ああ、そうだが、それがどうした?」
「なんであれからずっと会いに来てくれなかったの?」
「いや、俺も色々と忙しくてだな」
ゆうかりんはこんなキャラだったか?
だんだんと俺の中の狂気が冷めていく。その代わりに、ガラスのひびが大きな亀裂に広がっていくように、ぞわぞわとした気持ちの悪い痒さが沸き起こってくる。このゆうかりんの態度は、遠回しにすごく怒っているということなのだろうか。
「とにかく、今日は私の家に来なさい。ちょうどお茶を淹れるところだったから、ご馳走するわ」
「いや、いいよ。もうすぐ日も暮れるし……」
「遠慮しなくてもいいのよ? 前に会ったときはあまり話もできなかったでしょう? ゆっくりしていきなさい」
ゆうかりんが俺の手を取ろうとしてくる。俺はとっさにその手を避けて、一歩後ろに下がってしまった。
カタカタと音が鳴る。大して寒いわけでもないのに、ゆうかりんは歯を鳴らしていた。それまで自然だった笑顔がいびつに歪んでいく。
「葉裏さん、もしかして私のこと、嫌いになりましたか? ごめんなさい、許してください。この前、葉裏さんがおいしかったって言ってくれたお茶、用意してるんです。毎日毎日用意して待ってたんですよ? ね? 一緒に行きましょう? 来てくれますよね、葉裏さん……葉裏さんンンンンンンンン!」
「うわあああ!? わ、わかったから! 行くから! 引っ張らないで! ヒィ!」
* * *
実を言うと、それから先の記憶が曖昧で、はっきりと覚えていない。
手を引かれてゆうかりんハウスに招かれた俺は、窓以外に明かりのない薄暗い部屋の椅子に座らせられた。そこからの記憶が断片的だ。時計の針の音と薬臭いハーブティーの味は覚えている。テーブルの対面に座るゆうかりんの姿は、どうしてか顔の部分だけが思い出せない。ただ、窓の外の沈みかけの真っ赤な夕焼けと、枯れたヒマワリ畑に無数の影が伸びる光景だけは鮮明に印象に残っている。
ゆうかりんとは何か話をした気がするが、内容はほとんど覚えていない。
『葉裏さんがいなくなって、ずっと寂しかったんですからね』
『また、あの頃みたいに一緒に暮らしましょう』
『もう逃がしません』
『お茶、たくさん飲んでくださいね。おかわりありますから』
『やっぱり体内に直接注射した方がよく効きますね』
いっそ、リグルたちのように俺もゆうかりんからボコボコにされて済まされた方が遥かにマシだったと思う。気がつくと、俺は霧の湖に帰ってきていた。リグルとみすちーとルーミアを引きずって道場の前に来ていた。
おかしな話だが、俺は自分が無事に帰って来れたことに一番恐怖した。そして、もう二度と太陽の畑には行かないと誓ったのであった。