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126話「アナザー・サイド・椛」

 

 私の名前は犬走椛。妖怪の山に住む白狼天狗である。犬っぽい耳と尻尾があるが、天狗の一種だ。犬呼ばわりされる筋合いはない。断じてない。

 天狗とは妖怪の中でも抜群の速度を誇る上級種族。私もその一員であり、並の妖怪には劣らぬ実力を持つ。

 しかし、天狗には階級があった。高い社会性を有する天狗のコミュニティは、その内部に厳密な階級制がある。私は今のところその中でも最底辺に位置する木端天狗だ。任務は主に妖怪の山周辺の哨戒である。だというのに……

 

 「射命丸文のやつめ、また私に雑用を押しつけるとは……!」

 

 いけすかないあの鴉天狗がまたしても面倒事を持ってきた。一応、文の階級は私よりも上なので、無下に断るわけにもいかない。

 だが、いつまでも私はこのような立場に甘んじるつもりはない。そのために毎日、剣の訓練は欠かさず行っている。いつか大天狗の地位に就き、文をあごでこきつかう日を夢見ながら、今日も訓練に励む。

 

 * * *

 

 さて、今回の頼まれ事は霧の湖の偵察である。

 先日、ついに計画が実行に移された幻想郷未曾有の大変革、『博麗大結界』。この結界の成立により、幻想郷は外界から完全に隔離された。それに伴い、様々な規則が打ち立てられた。この地に住まう妖怪たちは混乱の渦中にある。

 天狗社会の内部でもこの件に関して意見が飛び交っていた。霧の湖偵察任務もその影響の一つである。

 妖怪の山は多くの妖怪たちが住み処としている場所だが、その中で最も大きな勢力が天狗である。昔は鬼が頂点に立っていた。しかし、今はすべて地底に移住したため、地上に鬼は残っていない。つまり、この山は天狗の支配下にあると言っても過言ではない。

 博麗大結界が起動した現在、幻想郷には今まで以上に多くの妖怪が流入してくることが予想される。そうなる前に、天狗の幻想郷における権力を磐石なものにするためにも版図拡大は急務である。

 そのような理由で白羽の矢が立った場所が『霧の湖』というわけだ。ここは山の麓に位置しており、源流も山にある。それに一番の理由はこの湖をナワバリにしている妖怪の大群や大妖怪がいるという噂を聞かない点だ。

 ただ、立ち込める霧により視界は悪く湿度は高く、なぜか湖の中には水棲の妖怪はおろか魚もろくに棲んでおらず、湖上には大量の妖精が年中たむろっているそうで、水場としての利用価値しかない。本当ならもっといい場所を取りたいが、ナワバリ拡大は非常にデリケートな問題なのだ。下手に他勢力との闘争を悪化させてしまうと“博麗の巫女”からの調停もありうる。時期が時期なだけに事を荒立てたくない。

 

 「偵察と言っても、あまりやることはなさそうですね」

 

 言い渡された任務は、湖の周辺を見て回り、目立った妖怪がいないか確かめることである。いなければそれでよし。いた場合、小妖怪程度なら「天狗の勢力が湖に進出する可能性があること」を通告する。もし手におえないクラスの実力者がいたときは、黙って一時徹底せよとの命令だ。

 湖の上空を飛んでざっと見回ったが、特に目についた妖怪はいなかった。霧の中に影のようなものが現れたと思っても、よく見れば知能のない低級妖怪ばかりだ。あとは妖精しかいない。さっさと終わらせて山に帰るとしよう。

 

 「ん? あれは……」

 

 湖の畔に人影らしきものを捉えた。目をこらすと近くに粗末な小屋も建っている。こんなところに居を構える命知らずな人間などいない。ということは妖怪の類いか。警戒を怠らず、慎重に近づいていく。

 

 「あぁ〜、頭かいぃ〜」

 

 人影は三つあった。一人は緑色の髪をした少女……いや少年? 中性的な容姿の妖怪である。マントのようなものを着て、頭の上に触覚がある。

 妖怪はおもむろに、その触覚に手を伸ばした。手にはムカデとクモが握られている。その虫たちのシャカシャカ蠢く脚を触覚に擦り付けていた。

 

 「えへ……えへへへへ……」

 

 すごく気持ちよさそうだ。ヤバい薬でも投与されたかのような恍惚の笑顔である。話しかけづらい。

 もう一つの人影は、妖精のようだった。しかし、その体格は人間の子どもほどもあり、妖精の中でも高位の存在だとわかる。背中には氷でできた羽があり、頭には水色のリボン、同じ色のワンピースを着ていた。

 

 「古より甦りし神々の祭典。万物の運命は宇宙創世以前に定められている。しかしそのアカシックレコードも完全ではなかった。無量大数を超越した情報処理の果てに生み出された小さなカオスたち……運命からはずれた者たちが現れた。かくいうアタイもその一人。神話時代にその名を馳せた“マスターズ・トリプルシックス”の執行者、チルザナドゥの魂を受け継ぎし転生者なの。でもこれは秘密。アタイは世界のカオスを修正するために創造された神の奴隷、天涯孤独のヒロイン……はっ、この反応は……またカオスが現れたのね! レコードブレイカーソード、セット! ジャキィィン! シュラァァァ! ガキンガキン! くっ、このカオス……いつもと違う!」

 

 何かものすごく自分の世界に入り込んでいる。

架空敵とでも戦う訓練なのか、何もいない宙に向かってやたらめったら氷の剣を振り回していた。やはり話しかけづらい。

 最後の一人はというと、

 

 「せいっ! せいっ!」

 

 金髪で赤い目をした黒い服の少女。木製の等身大人形に向かって何かしている。

 格闘技の練習かと思いきや人形の前でかがみ、勢いよく立ち上がっては座る動作を繰り返していた。目をこらすと、手にパンツを持っている。パンツを人形に穿かせては脱がすという常人には理解しがたい所業を何度も反復している。額に汗をかきながら。

 ……どんな反応をすればいいのだろう。頭痛がしてきた。

 

 「あっ、そんなところでどうかしましたか?」

 

 しまった、気づかれた。目の前の妖怪たちは低級ばかりであり、天狗である私にとって敵ではない。だが、そういうこと以前に、人として関わり合いになってはいけない雰囲気を感じていた。知能のない妖獣に襲われた方がまだマシだと思えてくるのは何故だろう。

 できれば気づかれない内に立ち去りたかったが、私にも任務がある。ぱぱっと済ませて早く帰ろう。

 

 「こほん! 私は妖怪の山の天狗です。今日ここに来た理由は…」

 

 「おーい、帰ったぞーいっと!」

 

 「あ、師匠」

 

 説明しようとした矢先に誰かがやって来た。背後から聞こえてきた声に、振り向いて言葉をなくす。

 そこにいたのは全裸の少女だった。いや、正確には小汚いベレー帽のみを着用していた。むしろ帽子より先に服を着ろと言いたい。師匠と呼ばれているようだが、この妖怪がすべての元凶か。

 タオルを体にぺしぺし叩きつけながら歩いてきた。思わず一歩後ずさる。

 

 「あー、真っ昼間に入る風呂は気持ちいいねぇ。あれ、その人は?」

 

 「わ、私は白狼天狗の犬走……」

 

 「って、イヌミミだあああ! 犬耳美少女キタコレ! シッポまであるし! モフモフだし!」

 

 「きゃ!? へ、変なところ触らないでください!」

 

 突然興奮し出した全裸少女は私の尻尾を触ってきた。敵意はなさそうだが、何をしたいのかわからない。

 

 「どーしたのだー」

 

 「どうしたもこうしたもない。イヌミミとかレアじゃん! とりあえず揉むじゃん! あっそうだ、この犬、ペットにしようぜ!」

 

 いくら私が温厚な気性をしていると言っても、物には限度がある。あろうことか小妖怪ごときが天狗を飼うだと? しかも私のことを犬と言った。

 

 「許せない……! 天狗に喧嘩を売るとは、いい度胸ですね。もう謝っても遅いですよ!」

 

 私は剣を抜いて殺気を放つ。剣を突きつけられた少女は動きを止めた。ふっ、私の妖力に恐れをなしたか……

 

 「んなわけあるかーい!」

 

 「にぃっ!?」

 

 だが、鬼か山彦のような大声が返された。聴覚が敏感な私はびっくりして身がすくんでしまう。

 

 「お前のような犬耳生やした天狗がいるか。わんころのくせに我ら、乙羅暗殺拳道場に楯突くとは身の程知らずな。皆の者、こやつをひっ捕らえろ!」

 

 「イェッサァ!」

 

 「言われるまでもないわ。このカオス、アタイが修正してみせる……!」

 

 「そーなのかー」

 

 身の程知らずはどちらと言うのか。適当に懲らしめて容赦するつもりだったが、そちらがやる気だというのならそれに応えるまでだ。天狗に刃向かったことを後悔するがいい。

 二人の妖怪が私を挟み込むように迫ってくる。遅すぎる動きだ。対応することは雑作もない。先に近づいてきた緑髪の触覚少女を斬り伏せるべく、間合いを計る。

 

 「殺法『黒兎核狩』!」

 

 だが、敵の妖怪は不自然な距離から攻撃の動作を取った。私は剣を持っていて、相手は無手。明らかにリーチの有利は私にある。だというのに、私の剣の間合いの外から拳を突き出してきた。

 妖術でも使う気か。私は油断なく剣を引いて防御の姿勢を取る。恐らく妖力弾を撃つのだろう。その程度の攻撃、妖怪刀匠が鍛えた私の剣で簡単に受け流せ…

 

 「ぐあっ! な、何が起こって……!」

 

 被弾した。いや、攻撃は妖力弾ではない。物理的に殴られた。腕が伸びる限界の距離を越えて拳が私に当たったのだ。信じられないがそうとしか説明できない。しかもその攻撃は私の動体視力を遥かに上回る速度だった。さらに剣身で防いだはずなのに、衝撃が防御を貫通している。

 これは人間の武術に伝わる秘技、“当て身”というものではなかろうか。いずれにせよ、ゆっくり考察している暇はない。私は妖力弾をばらまいて撹乱しつつ、高速で空中を移動する。天狗のスピードは全妖怪中でもトップクラス。動き続けてさえいれば、捕捉される心配はない。

 

 「殺法『黒白閃兎』」

 

 今度は金髪の赤眼妖怪がうって出てきた。妖力弾をパラパラと撃ってくる。弾幕と呼ぶにはあまりにもお粗末な数の少なさだ。

 しかし、こういうタイプの妖力弾は、油断させておいて時間差で複数に分裂する場合が多い。タネがわかっていればかわすことは容易だ。妖力弾から十分に離れるようにして回避していく。

 だが忽然と、爆発が起きた。分裂なんて生易しいものではない。爆風のごとき妖力の荒波が襲いかかる。

 とても回避など間に合わなかった。次々に連鎖して発生する爆発に飲み込まれる。ようやく攻撃がおさまった頃には雷雲の中でも飛行したかのようなダメージを負っていた。

 

 「はぁ……はぁ……ありえない、小妖怪に撃てる妖力弾の威力じゃない……」

 

 「休んでいる暇はないわよ。殺法『黒兎空跳』!」

 

 息をつかせぬ連携がくる。水色髪の妖精が飛行して接近してきた。

 体力を消耗したが、それでも私は天狗だ。空中戦なら分がある。私の剣術はむしろ空中で扱うことを主体としたものだ。今度こそ反撃を…

 

 「なっ! 何て速度……天狗である私が追いつけないだと!」

 

 妖精が飛ぶ様子はまるで瞬間移動だった。私が知る中で最も速い天狗、射命丸文でもここまでのスピードを出せるかどうか。その速度をただの妖精ごときが叩き出しているという事実に目眩がした。

 呆気に取られているうちに接近を許してしまう。気づいたときには腕を掴まれていた。

 

 「いいぞチルノ! そのままこっちに投げろ!」

 

 肩を強く、ぐんと押されたかと思うと、あの瞬間移動のような勢いをそのままに地上へ向かって突き飛ばされた。体勢を立て直すこともままならず、上も下もわからないような状態で投げ出される。

 

 「よし! わんちゃんゲットだ! 殺法『蛇鬼暴鉄鞭』」

 

 地面に落ちる私を狙って、全裸少女が待ち構えていた。どこからか持ってきた鎖を投げ縄のように操り、私の体を捕縛しようとしてくる。蛇のごとく絡みつく鎖に、不覚にも捕らえられてしまった。

 すぐに抜け出そうと試みるが、この鎖びくともしない。そこで、はたと気づく。これは鬼の鎖だ。その耐久力は鬼の怪力で扱うことを前提としているほど頑強である。自力での脱出は難しい。この状態でも妖力弾は撃てるが、それは相手にも言えることだ。拘束された今、あの強力な爆発弾を集中砲火されれば、いくらなんでも無事ではすまない。万事休すか。

 

 「くっ、こんなことをしてただで済むと思っているのか! 早く鎖を解きなさい!」

 

 しかし、私は誇り高き天狗。これしきのことで屈してなるものか。天狗の持つ一番の脅威は、その結束だ。私を攻撃するということは、天狗という組織を敵に回すことと同義である。おいそれと手は出せないはず。

 

 「まだ吠える威勢があるようだな。クックック……だが、その強がりがいつまでもつことやら。やれ! ルーミア!」

 

 「いくのだー」

 

 この考えなしの阿呆どもに理性的な対処を期待した私が馬鹿だった。しかし、私にも天狗としての意地がある。例えどんな拷問を受けようとも無様な姿を晒す気はない!

 

 「くるならこい! 私はどんな責め苦にも決して折られることなく耐えきってみせ、ちょちょちょちょ! どこに頭つっこんでんのぉ!?」

 

 「ぺろぺろなのだー」

 

 「いやあああああ!? すみませんすみませんマジそれだけは勘弁してくださいお願いしますマジお願いします!」

 

 2秒で陥落。死にたい。というか、こいつら気が狂っとる。

 もはや私に抵抗する気力は残されていない。されるがまま、妖怪少女たちに連行された。行き先は目と鼻の先に建っている小さなあばら家だ。その小屋の入口には「乙羅暗殺拳道場」とヘタクソな字で書かれた看板があった。

 

 * * *

 

 「そういえばお前、名前は何て言うんだ?」

 

 ガタガタの引戸を開けて小屋に入ると、案の定のひどい造りだった。一応、土間と囲炉裏のある奥に分かれているが、板は斑模様に変色し、どこもかしこも隙間穴だらけである。

 土間には炊事場があり、調理をしている妖怪がいた。背中に翼が生えた少女姿の妖怪である。割烹着を身につけていた。

 私はというと、鎖を首輪のように巻かれて土間に繋がれていた。

 

 「……名乗るつもりはありません」

 

 「ルーミア、あいつ(性的に)食っていいぞ」

 

 「いただきますなのだー」

 

 「やめてー! 言います! 言いますから! 私は白狼天狗の犬走椛です!」

 

 今さらだが、私は取り返しのつかない状況に陥っているのではないだろうか。もう、たかが小妖怪の集まりだと侮ることはできない。霧の湖にこんな色んな意味でヤバい連中がいるとは思わなかった。

 

 「ペットだから、まずは名前をつけないといけないだろ」

 

 「あの、犬走椛です」

 

 さっき名乗ったのだが、聞いていなかったのか。念のためもう一度自己紹介する。

 

 「よし決めた! お前の名前は“もみ太郎”だ!」

 

 「犬走椛だっつってんだろ!」

 

 人の話、聞いてないな。あえて“もみ”というフレーズを入れてくるあたり、人をおちょくっているのか。

 

 「もみ太郎ですって……それはもしかして『マスターズ・トリプルシックス』の一人、あなたもアタイたちと同じ転生者だというの!?」

 

 「師匠、この道場の門下生は四人しかいないんですよ? ペットとしてではなく、普通に入門してもらったらどうですか?」

 

 「いいよ面倒くさい。お前らだけで手に余ってるのに、これ以上頭おかしいヤツ増えたら収集つかんだろ」

 

 ここは何かを教える道場のようだ。「乙羅暗殺拳道場」と看板にあった。さっきの戦いで妖怪たちが使っていた奇妙な術のことだろうか。

 

 「なんつーかさ、心の癒し?みたいな。ペットだって立派な家族の一員さ。お前らも、もみ太郎と戯れようぜ!」

 

 「がるるる……!」

 

 「めっちゃ威嚇されてますよ」

 

 「なぁに大丈夫だ。俺がわんちゃんとのスキンシップの取り方を教えてやろう。いいか、よく見とけ。

 わんわんお!(U^ω^)」

 

 全裸少女は四つん這いになり、意味不明の奇声をあげ始めた。

 

 「師匠、何やってんスか」

 

 「これが正しい犬との接し方だ。この姿勢は『犬奴隷と化したエロいスキマBBAのポーズ』、そして「わんわんお」という言葉には『んほぉおお! ゆかりんわんわんしちゃうのぉぉ!』という意味がこめられている」

 

 「マジすか! 師匠、カッケェ! 絶対後でしばかれるのに、そういうこと言っちゃうとこカッケェ! じゃあ僕もやります。

 わんわんお(U^ω^)」

 

 「なるほど、もみ太郎の封印された力を解放するための儀式というわけね。アタイも協力するわ!

 わんわんお!(U^ω^)」

 

 「私もやるのだー。

 わんわんほぉ!(U^q^)」

 

 四つん這いでわんわん言っている少女たちに取り囲まれる。私にどうしろというのだ。この理解不能さ加減、なぜか天魔様に呼び出されたとき以上のプレッシャーを感じていた。

 だが、その不安は少しだけ取り除かれた。唐突に謎のスキマが床に開き、その中に全裸少女と触角少女が落ちたのだ。

 

 「あーっ! ゆかりんのばかぁん!」

 「ですよね」

 

 いきなりのことで驚く暇もなかったが、二人の妖怪がこの場から消えてなくなったことはわかった。

 

 「師匠、リグル! そんな、あの二人がやられるなんて! ……いや、待って! 聞こえる、二人の声が。まだ生きてる!」

 

 「はーい、みなさん、ごはんができましたよー!」

 

 「わぁい! ごはんなのだー」

 

 「まずはエネルギー補給が先決ね。アタイったらサイキョーね」

 

 ああ、いまだかつてここまで妖怪の山を恋しく思ったことがあっただろうか。ここは普通の感性を持った者が踏み入ってはならない深淵のような気がしてきた。

 

 「はい、もみ太郎さんの分もありますよ。遠慮せずにいっぱい食べてくださいね」

 

 先ほど炊事場にいた割烹着の妖怪が、私にも飯を作って持ってきた。この人だけは他の妖怪よりもまともそうな雰囲気がして、少し安心する。

 

 「敵からのほどこしなど……」

 

 そして、見た料理。深皿に盛られていたのは、味噌汁と一緒にぐちゃぐちゃにかき混ぜられただけの白飯だった。箸すら用意されてなかった。

 

 「屈辱……なんという屈辱……!」

 

 思わず床に拳を打ちつけた。

 

 「もみ太郎、ごはん食べないわ」

 

 「元気ないのかー」

 

 何が悲しいかって、この妖怪たち、見下すとか馬鹿にするとかではなく純粋に悪意なく私のことを犬扱いしてくることだ。

 

 「お手しなさい、お手! おかわり!」

 

 「頭なでるな!」

 

 「チンチンするのだー」

 

 「誰がするか!」

 

 そのとき、わずかな妖気が走ったことに気づいた。カチャーンと食器が落ちる音。何事かと振り向くと、食卓で配膳をしていた割烹着の妖怪が虚ろな目をして震えている。

 

 「ち、ちん……ちん……?」

 

 「ヤバッ! ルーミア、あんた禁断のスペルを口にしてしまったわね!?」

 

 「やっちまったのだー」

 

 「みすちーの発作が起きる前に止めるのよ!」

 

 みすちーと呼ばれた少女にルーミア、チルノが飛びつく。だが、妖気は収まるどころか急激に膨れ上がった。

 

 「TNTN!」

 

  みすちーの叫び声と同時に、抑えにかかった二人が吹き飛んだ。さっきまでのほがらかな雰囲気はなく、狂気に我をなくした妖怪がたたずんでいる。

 その少女はこちらに向かって猛スピードで走ってきた。

 

 「な、なんなんですかこれ!?」

 

 むんずと傍に置かれていた猫まんまを素手で掴み取り、私の口元に押しつけてくる。

 

 「TNTN! TNTN!」

 

 「や、やめっ、やめてくださいむぐっ!」

 

 恐ろしい形相で湯気の立つ猫まんまを塗りたくってくる。怖い。普通に怖いよ。もうダメだ。我慢の限界である。

 

 「もうやだっ! 助けて、文様……あやさまぁぁぁ!」

 

 「もみじーっ!」

 

 あ、この声は! 射命丸文様! よかった、助けにきてくれたのだ!

 

 「TNTN……」

 

 強風が小屋を揺らす。次の瞬間、入口の戸がはじけ飛んだ。そこに立つ文のシルエットを見て、涙ぐんでしまう。

 

 「はい、チーズ」

 

 パシャ!

 

 なぜか出会い頭に撮影された。妖怪たちもピースなんかしてノリノリである。

 

 「話は聞かせてもらいました。私の部下をいじめるのは、それくらいにしておいてもらいましょうか」

 

 「話聞いてたのかよ!? いつからだよ!? そのときにすぐ助けろよ!?」

 

 くそ、涙まで流して喜んだのにその結果がこれかよ。期待して損した。写真まで取られたし。

 

 「また新手のカオスが出現したようね。アタイたちと敵対するというのなら、容赦しないわ」

 

 「あややや、そんなつもりはありませんよ。まさか霧の湖にこんな勢力があったとは知らなかったものでして。うちの部下がご迷惑をおかけしました。この子はすぐに回収しますんで」

 

 文に鎖をはずされて、やっと解放された。だが、この心のもやもやは何だろうか。素直に喜べない。

 

 「待って、もみ太郎を連れて行く気?」

 

 「はい、そうですが」

 

 「もみ太郎、あなたの気持ちを聞かせて。アタイたちとここに残るか、それともそのカオスと共に旅立つか」

 

 「え、文様と山に帰りますよ」

 

 「……そう。もう決心しているのね。なら、アタイは何も言わない。自分が決めた道を進みなさい」

 

 もともと、お前に何か言われる筋合いはない。

 

 「もう行っちゃうのかー」

 

 「ルーミア、これは必要な別れなの。もみ太郎はきっと強くなってここへ戻ってくるわ。必ずね」

 

 そして、二度とこんな場所を訪れる気はない。

 

 「それじゃあ、今日はこの辺でお暇させてもらいます。あ、瓦版をご入り用の際は是非うちをご贔屓ください。では」

 

 こうして私の悪夢のような任務がようやく終了したのであった。

 

 * * *

 

 「いやー、さっきの椛の顔は傑作だったわ」

 

 「ひどいですよ! 私がどんな気持ちでいたかも知らずに……」

 

 私と文は霧の湖を離れて、妖怪の山へと飛んでいた。特に体を動かしたわけではないはずなのに、どっと疲れたように感じる。気が緩んだせいもあるのだろう。

 

 「そういえば、文様さっき撮った写真のネガ、消してください!」

 

 文は南蛮渡来の写真機、しかも河童に改造してもらった特別製のカメラを持っている。その最新鋭高画質写真のおかげで何度恥をかかされたことか。

 

 「やだね。椛の泣き顔、ばっちり写ってるし」

 

 「また勝手に瓦版に載せる気でしょう!? 返してください〜!」

 

 「あははは、悔しかったら私より速く飛んで奪い返してみなさい……ところでさ、椛」

 

 そこで文は急に神妙な顔になった。こころなしか冷や汗をかいているように見える。あのいつも飄々としている文には珍しい表情だ。いったいどうしたというのか。

 

 「私たちの後ろから追いかけてくるアレ、何?」

 

 言われて後ろに振り返る。

 そこには天狗に負けないほどの速度で飛行しながら迫ってくる影。そいつの手には、ぐちゃぐちゃの猫まんまが……

 

 「TNTN!」

 

 「ぎゃあああああああああああ!!」

 



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