110話「本気の正気」
三歩の踏み出しとそれに続く連撃があるはずだった。しかし、俺の推測はそもそも根本的にはずれていた。勇儀は最後の三歩目を後ろに引いたのだ。それが意味することはつまり、
「カウンター……返し……!」
勇儀の頭を捉えるはずだった俺の腕が空を切る。
俺がカウンターを狙うことを読まれていた。攻撃を外した俺の体はガラ空きだ。もう防御は間に合わない。たとえ防御したとしても無駄だ。この体勢からではどうすることも。
最後の一撃が俺の腹をえぐった。下からの強烈な突き上げが俺を空に押し上げた。紙風船でもはたいたような軽い音がして、ぐんぐん地面から離れていく。そこまできて、俺は思い出したかのように気を失った。
* * *
俺のやっていることは、何か意味があるのだろうか。漫画の世界でもあるまいし、命を削るような死闘の末に秘められた力が開花するなんて、そんな都合のいい話があるものか。それならもっと実のある訓練をコツコツと重ねていった方がまだ効果がある。
そして、俺は現にこの数百年かのうちにそれを行った。結果が出たかといえば、答えは否だ。それどころか、俺は昔よりも弱くなっている。何が原因かといえば、それもおおよそ予想がついた。
意思が弱い。心が弱い。
修行を積めば自ずと精神も鍛えられると思ったが、そうはならなかった。何か根本的な部分で俺はズレていた。その歪みは、もう自分の力だけで治せるものではないと思ったのだ。調子の悪い電化製品のように、誰かから叩いてもらわないと直せない。結局、俺が求めていたものはものすごい必殺技の習得とかではなく、俺が過去に忘れてしまった何かであり、もっと簡単な何かだった。
言葉にするとすれば、それは俺の正気だ。
なんだ、やっぱりその程度のことじゃないか。俺は死ぬほどの目を受けないと、それしきのことにも気づかない大馬鹿者だったらしい。
* * *
気絶していたのは一秒にも満たない間のことだった。周囲の建物の屋根を超すほどの高さまで打ち上げられた俺は、まだ空中にとどまっている。すぐに落下が始まった。体勢を立て直し、足から地面に着地する。
普段ならなんでもない衝撃だっただろう。だが、今の俺には致命的だった。着地と同時に大量の吐血をする。血の中には明らかに固形物が混じっていた。今日の夕飯とかそういう生易しいレベルじゃない。鮮やかな赤色の肉片だ。
膝は今にも折れそうなほど震えている。視野は自覚できるほどに狭くなり、ほとんど目の前のものしか見えなくなっている。だが、倒れてなるものか。倒れなければダウンではない。勝負はまだ続いている。
自分の体の現状に反して、俺は全く倒れる気がしなかった。
「勇儀」
勇儀は俺に背を向けて立ち去ろうとしていた。俺の声は蚊の鳴くような呟きだった。だが周りにいた鬼たちが、俺がまだ立っていることに気づいて騒ぎだす。
「こっちをみろ」
一歩踏み出す。ふらつき、足がもつれそうになる。それでも前に進んだ。それがこの闘いの意味だ。俺がここにいる理由だ。
「俺を、見ろ!」
勇儀が振り返る。その表情は驚きに染まっていた。そこに向かって走り出す。
ずっと狂気に頼った闘い方をしていた。狂うことで自分を鼓舞した。痛みも忘れて狂い踊る、それではまるで道化ではないか。使う側が使われている。俺は踊らされる人形じゃない。
怒りや憎しみが増すほどに狂気はその力を強くするものだと思っていた。恨みを大きくするほどに俺は強くなると思っていた。だが、それは違う。その感情に頼らなければ、俺は狂気に負けてしまうから。狂気に押しつぶされないように、一時の感情を焚きつけたのだ。憎しみの炎が燃えている限り、心になだれ込む暗闇の中で俺はその明かりを見失わずにいられる。その明かりが強い分だけ、暗闇の恐怖に耐えられる。だから、その炎を燃やすことでしか、狂気の強さを引きだすことができなかった。
その程度。俺の強さは、その程度。夜中に明かりがなくては便所にも行けないガキのレベル。その程度!
「勇儀、お前は俺に全力を見せろと言ったな……」
冷静に。とにかく冷静に。憎しみなど俺の感情の一部でしかない。そんな次元でものを考えるな。感情は感情であり、現実は現実だ。
俺そのものを強く持て。それが正気ではないのか。正気なき狂気など、ただの無秩序でしかない。そこに俺はいない。俺が俺としてこの拳を振るわなければ、その時点で物言わぬ死体と何の変わりがある。それこそが俺の心の死だ。
そうとわかった上で。
ならば、狂気を認めよう。狂い踊らされる人形になろう。弱い俺は、それに頼る以外に強くなるすべを知らない。だが、それはただの方法だ。肝心なのはそこではない。今までずっと恐れていた。狂気が怖かったんじゃない。自分が怖かったんだ。俺が一番手を抜いてきた弱さの証左だ。
それを今、打ち破る。行動に乗せて打ち破る。狂気も妖術も符術も使わなくったって見せてやる。これが俺の本気の正気だ。
「これが、俺の、全力だ」
地を蹴る。右腕を力の限り叩きつける。それが勇儀の頭を捉えた。額に生えた角とぶつかり、俺の腕が粉々になる。その勢いのまま体からぶつかっていき、
勇儀はよろけて後ろに転んだ。