107話「萎えた赤鬼」
俺は旧都に向かって走っていた。
脇には甲羅を抱えている。この甲羅はもう長いこと装着していない。かつて月面戦争のときに傷ついた部分は修復されている。この甲羅も俺の体の一部であり、生きているのだ。だが、開けられた五つの穴だけはふさがりはしたものの、変色して痕が残っていた。
旧都には妖火の明かりが年中絶えない。繁華街と言われる通り街並みは賑やかで、そこかしこに飲食店が開かれていた。店の中からは、甲高い悲鳴と物を壊す音、そして鼓膜が痛くなるほどデカい鬼の笑い声が聞こえてくる。まさに無法地帯だ。
俺は能力を使って鬼たちの目をかいくぐりながら、街のとある一角を目指す。そこは一軒の居酒屋だ。俺は戸を開くなり、鬼たちに負けないほどの大声をあげる。
「たのもー!!」
店の中にいた鬼たちは、それまでの浮かれ騒いでいた雰囲気をなくしていく。場が白けたと言っていい。うんざりしたような表情でこちらを睨みつけてくる者もいる。
「葉裏……また来たのか? まさか勝負を挑みにきたわけじゃないよな?」
話しかけてきたのは女の鬼だ。星熊勇儀、鬼の四天王の一人である。俺が昔、萃香と闘ったときに会ったもう一人の鬼だ。額に生えた立派な一本角がチャームポイント。四天王と言うだけあって、鬼たちからの人望は厚い。さらに美人なので、姐さんと言われて慕われている。無論、その強さはそこらの鬼とは比べものにならない。あの萃香と肩を並べるほどの強者だ。
「もちろん、勝負しにきたんだ! さあやるぞ! すぐやるぞ!」
俺は準備体操をして勇儀が腰を上げるのを待つ。勇儀はため息をつきつつ、手に持った酒に口をつける。一升は入るのではないかと思うほどの漆塗りの大盃だ。それを一気に飲み干してから、もう一度ため息をついた。
「今日は昼にも勝負したじゃないか。あんたは顔をつき合わせれば二言目には勝負勝負って……鬼でも引くよ? たまにはそういうこと忘れて、ゆっくり酒でも飲まない?」
「はっ! 怖気づいたのかい、勇儀? 俺と闘うのが怖くなったのかーい?」
勇儀は鬼にしては話の分かる奴である。落ちついた物腰があり、そうそう怒ることはない。しかし、それでも鬼は鬼。元来は激しい気質を持つ種族だ。こうあからさまに挑発されて、黙っていられるわけがない。途端に憮然とした顔になる。
「あのね、アタシだって勝負は好きさ。萃香と互角にやりあったあんたと全力で闘えるのなら何も文句はないよ。でも、あんたはいつも本気を出さない。そんな勝負、面白くもなんともないね」
「だって、そういうルールだっただろ?」
俺と勇儀は長いこと勝負をし続けている。妖怪最強の種族である鬼と闘うことは、俺にとっていい訓練になると思ったからだ。
だが、この勝負はただの決闘とは違う。俺はそのとき、すでに自分の力の限界に気づいていた。これ以上、やみくもに基礎力や技能を鍛え続けたところで成長はない。たとえ鬼と闘おうと、それはただのじゃれあいにすぎないのだ。
だから、俺は精神を鍛えることにした。狂気を封じ、能力を封じ、限界まで俺の力を制限した状態で闘う。当然、それでは勝ち目はない。瞬殺されることは目に見えている。その死への恐怖に立ち向かうことで精神を強くする修行だ。
しかし、本当に死んでしまっては意味がないし、俺の勝算は一厘もない。そこでルールを設けた。闘い方は武装なし、空中戦なしのインファイト。制限時間もない。殴り合い、蹴り合いをして一回でも相手のダウンを取れば勝ちだ。ダウンの定義は、ここでは足の裏以外の体のどこかが地面に着くこととする。鬼たちはなぜそんなルールにするのか理解しがたいようだったので、パンチとキックありの相撲だと言っておいた。
始めは萃香に相手を頼んだのだが、断られた。このまどろっこしいルールは気に入らなかったらしい。その代わりに勇儀が引き受けてくれたのだ。鬼は圧倒的な強者であり、そのため戦いを好む。しかし、強者であるがゆえに、そもそも勝負にすらならないことが多い。だから、こういうルールに則った勝負をして相手の土俵に自分を合わせることを望む者もいる。そういう性格なので、人間の嘘に騙されて地上から逃げることになったのだが。
「勇儀も俺との闘いを楽しんでいたじゃないか」
「始めのうちはな! もう何千回闘ったと思ってるんだ。私は全勝で、お前は全敗だぞ。いい加減、諦めがつくってもんでしょ?」
そう、俺は勇儀に一勝もできていない。当然である。試合中、俺は『狂気』と『能力』の使用を封じている。ルールでは特に制限していないので多少は使って構わないのだが、俺の意地だ。武装は禁止しているので、甲羅も着用しないし、符術も使えない。妖術については、怪力だけを使用している。さすがにこれがないと見た目通りの幼女と同じ筋力になってしまうので、鬼相手になすすべがない。ただ、ほとんどの妖力は甲羅に移しているので、俺の体内の妖力量は中級妖怪程度である。無論、怪力の出力の最大値も中級妖怪レベルである。
対して勇儀も、己の怪力だけを使用した戦闘スタイルである。だが、そもそも鬼とはそういう闘い方をする種族だ。戦闘力は桁違いあり、そのため俺のように最小限まで自分の力を封じるような器用な真似はできない。勇儀には『怪力乱神を持つ程度の能力』がある。どんな能力なのか知らないが、それはハンデとして使わずにいてくれている。
いつも勝負になると決着は1分くらいでつく。勇儀が本気を出せば、俺など一撃で殴り殺せるのだ。勝ったことは一度もない。はじめから無謀だということはわかっている。
だが、今日はいつもと違う気がするのだ。
「それに、お前と約束した。この勝負に必ず勝ってみせるとな。俺は、もう地底を出るつもりなんだ。だから、今日お前に勝たないと俺は嘘をついたことになる。最初に勝負してくれと頼みに行ったとき、お前も俺に言っただろ。『面白そうじゃないか。アタシが付き合ってやるよ』って。だったら最後まで付き合ってくれ。それも“嘘”になっちまうぜ?」
ぱきりと割れる音がした。勇儀の持つ大盃が砕けている。勇儀はすっくと立ち上がると、割れた盃を俺に向けて投げてよこした。
「上等だ。表に出ろ」