103話「高度マイナス1000メートル飛行」
「待っててください、今助けます!」
寅丸が俺の体に巻き付いた触手をはずそうとする。しかし、はずす以前に触れることさえできなかった。つかもうとしてもすり抜けてしまうのだ。
「外の坊主たちを止めれば、何とかならないか?」
「……いいえ、この術は一度発動すれば、術者を妨害しようと効果が消えることはないのです」
万事休すだ。命蓮寺の床板は、かなり壊されているので足を滑らせそうになる。その床下に地面はなかった。どこまで続いているのかわからないほどに深い暗闇が広がっている。これが地底への入り口か。
寅丸は床がなくなった部分を歩いているのに、下に落ちる様子がない。本当に術が効かないようだ。
「俺の力では、この術式を破ることはできないと思う。どうも助からないらしいな」
「そんな……聖も、みんなもいなくなるなんて、こんなのってないです!」
この結果はそう苦労せずに回避できたはずだ。聖が本心をみんなに話していたなら。人間の動向に注意していれば。少しでも人間を疑う心を持っていれば、こうはならなかったかもしれない。
だが、白蓮はどのような結果であっても傷つくことに変わりない。たとえ封印から逃れることができたとしても、白蓮はそれで納得しただろうか。少なくとも、今までの平穏な日々には戻れない。それがこのような形で実現してしまったということだ。
「ま、なるようになる!」
断言した俺を、寅丸はポカンとした表情で見ている。
「葉裏は、地底へ行くのが怖くないのですか?」
「そうねえ」
詰まる所、俺は地底に行くことをためらってはいないのである。どうせ、行く当てのない旅をするつもりだった。流されるまま、地底に送られるのも悪くない。月を目指していた俺が逆に地下深くに潜ることになるなんて、倒錯的で愉快じゃないか。
「地底は人に忌み嫌われる者たちが封じられてきた場所です。恐ろしい妖怪たちの巣窟なのですよ?」
「上等だ。退屈しなくてすみそうだね」
屋根がきしみをあげる。天井が剥がれて見えた梁の上には、屋根にめり込んだ船底があった。触手の多くが天井を貫いて伸びていたのは、聖輦船を捕えるためだったのか。船ごと地底に引きずり込む気である。下からは触手が暴れ、上からは船が押しつぶす。命蓮寺は崩壊寸前だった。
「さあ、もうお前は逃げろ。いくら術が効かなくても、船底で潰されるぞ」
「でも、私は……!」
寅丸は戸惑っていた。気持ちはわかるが、そんなことをしてもどうにもならない。
「白蓮を助けるんだろ。お前にはお前にしかできないことがあるはずだ」
また信仰を集めて神力をためなければ宝塔は使えない。それは寅丸とナズーリンにしかできないことだ。
しかし、聖輦船が地底に落ちるとなると、白蓮復活までの道のりは難航しそうである。はたして何百年先のことになるか。
「わかりました。必ず、白蓮もみなさんも助けてみせます」
「そう気負うなよ。まあ、案外なんかの拍子にひょっこり帰ってきたりするかもしれないし」
床が崩れる。天井が割れる。思い出したかのように重力がはたらく。いよいよ落下が始まった。
「葉裏っ!」
触手に引っ張られるまま、俺たちは穴の底へと落ちていった。
* * *
聖輦船、ただいま急速落下中。
船底を滑るように登って行き、甲板の上に出た。強風にあおられて、凧のように宙に投げ出される。なんとか船の上に乗りたいところだが、風が強すぎて降りられない。『黒兎空跳』も調子が悪くて使えない。
「おおーい!」
そのとき、風音の中に声が聞こえた。辺りにはほとんど光のない暗闇が広がっているが、船体がわずかに発行しているので甲板に人影が見える。
「『道連れアンカー』!」
何やら船のイカリのようなものが飛んできた。鎖が体に巻き付き、甲板へと引き寄せられる。一輪と雲山はすでに助けられたようだ。
俺たちを助けた人物は、村紗水蜜だった。白蓮から聖輦船を与えられ、船長に任命された船幽霊である。
「よかった、意識がある! この状況、説明してほしいんだけど」
村紗は本日未明、白蓮から命蓮寺に至急来るようにとの連絡を受けた。何事かと船をかっ飛ばして来てみたところ、なぜか唐突に白蓮vs命蓮寺組という戦闘に突入。わけもわからないままボコボコに叩きのめされて、気がつけばこの状況である。記憶に残っているのは、ヤられる瞬間に見た白蓮の凍るような笑顔だけだという。
「この光るウネウネなんなの!? 取れないんですけど!」
「それは触手。とりあえず、身をくねらせながら『らめえ』とでも言っておけ」
「あと、この人だれ!?」
甲板には気絶したままの一輪と雲山と、もう一人いた。寺の入り口で倒れていた変な妖怪、封獣むえである。巻き込まれたか。
「それは、むえちゃん」
「え、えびふりゃー! ……むにゃむにゃ」
「というか私、実はあんたのこともよく知らないんだけど」
「俺? 俺は……まあ、どうでもいいさ。まじめに説明すると、この船は地底に向かっている」
「は?」
フリーズする村紗。起き抜けにそんなことを言われれば、硬直したくもなるというものだろう。まさに、黄泉への渡航。さあ、旗を上げろヨーソロー。
「とにかくこのままじゃ地面に叩きつけられる! 聖輦船、全速浮上!」
聖輦船は飛倉から作られた船だ。飛行機能を持っている。村紗のかけ声がかかると、突き上げるような衝撃がきた。落下速度が緩やかになる。しかし、浮上はしない。船体に取りついた触手が引きずり込む力の方が強いようだ。
船にめり込むほどきつく巻き付いた触手と、浮かびあがろうとする力がせめぎあってミシミシと嫌な音が各部から響いている。
「この船、大丈夫か?」
「た、たぶん」
頼りない船長だ。村紗は船べりから望遠鏡で下の様子を探る。
「まずい! もうすぐ着地する! 衝撃に備えて!」
眼下にうっすらと明かりが見えてきた。地底にも光はあるらしい。ただ、それは熱気を伴うようなおどろおどろしい赤色だった。
「総員退避ぃ!」
逃げ場などない。村紗と俺は気絶している奴らの体を押さえる。
落下の瞬間は、笑ってしまうほど豪快だった。まるで木の床がトランポリンになったかのように体が跳ね上がる。五度目のバウンドが終わったところで横転しつつ地面を滑り、船底をすり減らしながら停止した。盛大に宙を飛ぶ木片をまき散らしたが、ぎりぎり中破というに収まる程度の被害ですんだところはさすがだと言っておこう。
甲板の様子はと言うと、村紗はマストのロープに絡まって宙吊り、一輪は転がってきたコンテナをかぶり、雲山は船室へ続くドアに頭から突き刺さっているという有様だ。俺は船尾まではじき飛ばされて落っこちるところだった。
「ここが地底か」
さて、何から始めよう。まずは、みんなを起こそうか。