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白後家蜘蛛の会 「ミルフィーユはどこか」

作者: 森 祐希

「貴方、今週の土曜日は空いてる?」

 仕事を終えて帰る支度をしていたら、いきなり上司からそう告げられる。

「あ、はい、空いてます」

 油断していたこともあり、つい正直に答えてしまう。

 そしてすぐに後悔。

 きっとなにか仕事の件で頼まれるに違いない。どうしてもっと機転が利かないのだろうか。学生時代からいつもこうだ、よく損な役回りを押しつけられる。

「よかった……ちょっと私の代わりに行って貰いたいところがあるの」

 ほら、案の上。

 しかし一回発してしまった言葉は取り消すことはできない。デスクの見えにくいところにそう書いた紙を貼っている。

 私の信条の一つ。

 わざわざ嘘をつくのも面倒だ、それにもう手遅れだろう。引き受けるしかない。

「……勘違いしてるようだけど、仕事の関係じゃないわよ」

 予想外の言葉。

「仕事じゃない? プライベートの関係ですか?」

 単純な集合論の問題。

 しかしなんで私に頼むのだろうか、あまり彼女と深い付き合いはしていないのに。

「なぜ私が? って顔ね」

 また当てられた、もしかすると彼女は心を読むことができるのだろうか……そんなわけはない。

 きっとこんなことはちょっと考えれば、誰にでもわかること。

「まぁ、そんなに悲観的にならなくてもいいわ。これは貴方にとっても悪い話じゃないと思うの」

 勝手に決めないで欲しい。

「いったい頼み事とはなんですか?」

「そんなつれない言い方をしなくてもいいでしょうに……そうね会議とでも言ったらいいかしら」

 首を少し傾け、微笑む。きっと会社で身につけた笑顔。

 会議。

 私の嫌いな言葉。

 自分が正しい、相手は間違っている。

 そんな意見の押し付け合い。

 無意味な時間。

 結論なんてほぼ出ないと言ってもいい。

 ……でも、さっきはプライベートだと言っていた。仕事以外の会議とはどういうものなのだろう、少し気になった。

「どちらにしろ受けてくれる、ってことでいいわね」

 どちらにしろ受けるしかないようだ。

 要は微笑むところや考えるところを見せていれば良いのだろう。それなら代わりに観葉植物でも置けば良いのに。

 はじめはあまり乗り気ではなかった。しかしこの考えは後に変わることになる。



 土曜日の午前十時、その五分前。

 私は自分のマンションの前にいた。

 ここにいれば良いと指示されたからだ。

 きっとあの上司が迎えに来るということだろうか、いや代わりに行って欲しいと言っていた、なら別の人間を寄こすということか。

 もうひとつ指示を受けた。それは恥ずかしくない格好をしろ、ということ。恥ずかしくなるような服なんて持っていないけれど。 

 迷ったけれど、結局はスーツにした、これなら何処だって大丈夫だろう。 

 そうこうしていると九時五十九分、一分前。

 まだ誰も来ない、もしかして十一時だったろうかと不安になった。

 上司に一度連絡してみようか、そう思い携帯を取り出そうとすると、滑り込むようにタクシー、いやハイヤーだろうか。

 どっちにしろ車が来て、私の前で停まる。

 運転手が降りて来た。

 すぐにはわからなかったけれど運転手は女性。

 そして私に深々と一礼。

「お迎えにあがりました」

 お迎えにあがられましたか。彼女が開けた扉から、私は車へと乗り込む。不思議と不安や恐れなどは感じなかった。運転手が女性だったためだろうか。

 そのときなんともなしに腕時計を見た。針はちょうど十時を指していた。


 彼女がゆっくりとドアを閉めて、自分も乗り込む。行き先もなにも言わずに発進。

 その一日はこうやって始まった。

 

 車内。

 静かな空間。

 照明は暗く、落ち着いた空間。

 運転手もいちいち話しかけてはこないし、ラジオも掛かってはいない。頼めば掛けてくれるのかもしれないが、わざわざ頼みはしない。落ち着いていまの状態を考えていたかった。

 窓を見たが、内側からは見えない仕組みになっているようだ。光も遮られている。

 外から見えたのだろうか、あまり覚えていない。おそらく行く場所を秘密にするためか、秘密ならどうしようもない。

「あの……」

 恐る恐る声を掛ける、なにを恐れていたのだろうか。

「はい、なんでしょう?」

 運転手はまっすぐ前を向いたまま返事をする、ミラーに少し顔が映っていた。髪はショート、無理をすれば少年のようにも見えないことはないが、特に無理をしなければならない状況ではない。

「寝てもいいでしょうか?」

「……ええ、どうぞ」

 なぜ、そんなことを訊いたのかはわからない。持ち主に許可を得たほうがいいと思ったからか、彼女がこの車の持ち主ではないだろうに。

 それになぜ寝ようと思ったのか。

 この状況が夢だと思っていたのかもしれない。

 それにしてもなぜ目を覚ますために、何故寝るのだろうか。

 それらは真逆の行為なのに。

 ただそのときの私はそう思っていた、そう信じていた。

 座席に深く腰掛けて目をつぶる、眠りに入るのはいつも早い、それが良いことなのかはわからないけれど。

 私はあっと言う間に落ちていった。


「着きました」

 その一言で目が覚める。眠りに落ちるのも早いが、覚めるのもまた早い。

 社会人としては役に立つ能力だ。社会もジャングルもそこは同じ。

 扉が開かれ、手を差し出されて外へと出る。

 光が目に入り、少し痛む、上手く目が見えなかった。それを見越してか、その手は慣れるまで動かず、待ってくれていた。 

 一分ほど経ってようやく見えるようになった。

 手を差し出した人を見ると、さっきの運転手ではなかった。

 その人は紺色の着流しを着ていた。

 男性かと思ったが、顔つきはどこか中性的、むしろ女性寄りだろうか。手の感触からも女性のように思えたが、声は男性のようにも聞こえる。

 背はすらりと高く、髪は黒く長いが、これらは判断対象にはならないだろう。

 結局どちらかはわからなかった。あえて問うこともしていない。隠しているのだろう、隠していることをわざわざ尋ねる趣味はない。

 便宜的に彼と呼ぶことにするが、彼はふっと手を話し無表情で「こちらです」とだけ伝え、私を見ずにすたすたと歩いて行く。

 私もそれに従って付いて行く。

 歩きながら周りを見渡す。そこには厭味なほど青い空の下に、よく手入れされている庭が広がっていた。

 途中には平屋や石燈籠、池などがあった。池の中にぼんやりとだが赤やら黄色が動いている、鯉だろうか。遠くには寺のような建物も見える。

 日本庭園かのように見えた。実際にそうなのだろう、しかしこれが現実だとは感じられなかった。

 調和された場。

 視点を変えても、それは一向に変わらない。

 きっとあとなにか一つ足りなければ物足りなさがあり、なにか一つ足していたなら、途端に雑多な感じがすることだろう。

 かろうじてバランスが保たれている空間。

 偶然出来たのか、意図的に作ったのか。どちらも結局は同じことかもしれない。


 いったいこれからどうなるのだろう。まったくわからない。私にはただ付いて行くことしかできない。

 もし此処へ逃げ込んだらどうなるのだろう。

 空間というものに飲み込まれ、その一部となるのかもしれない。

 ほんの少し、それでもいいか、とも思えた。

 だがしなかった。いやできなかった。 

 その一歩を踏み出す勇気が、そのときの私にはなかった。

 ただ付いて行く。

 

 やがて座敷の前で彼は立ち止まった。

 此処が目的地のようだ。

 歴史の教科書に書院造や数奇屋造りの例として載っていそうな座敷だ。古いというより歴史を感じさせる建物。

 障子はすべて閉めきられていた。

 彼は無言で私に入るように手で示す。彼は入らないようだ、もしかしたら入れないのかもしれない。

 座敷の外廊下、とでもいうのだろうか、そこに靴を脱いで上がる。

 廊下には靴箱が備え付けられていて、そこにはすでに三足の靴が入っていた。赤いハイヒールに下駄、そして着せ替え人形が履くような靴。

 そこへ新たに革靴が入った。

 いったい障子の中の世界にはどんな人がいるのだろうか、ここに入るとなると少し怖い。

 そんな私の様子を、彼はなにも言わずにただ見ていた。逃げ出すとでも思われているのだろうか、それが少し癪だった。

 そう思い、勢い込んで「失礼します」と自らの気を締めるようにして言い、部屋へと入る。

 いま思い返すと彼の役割はそこにあったのかもしれない。


 部屋へと入り、障子を閉める。

 静寂。

 灯りがない薄暗闇の部屋。障子から入った日光でなんとか周りを見ることができた。ただ其処にはだれひとりいなかった。

 意気込んで入ったのにも関わらず無人とは、思わず拍子抜けしてしまう。

 すると向かいにある障子から、くすくすという笑い声とそれを窘める声がした。

 まだ此処は控室といった場所なのかもしれない、向かいの障子には流れるような字体で「此方へどうぞ」と墨で書かれた紙が貼ってあった。 

 一度乗り越えれば、二度目はとても楽だ。

 今度は落ち着いて「失礼します」と言い、その部屋に入った。



 こちらの部屋は完全な暗闇であった。

 此処にも灯りはない、また光も入らないためか、なにも見ることができない、そんな闇が広がっていた。

 さっきの部屋は控え室というだけではなく、光を遮るため機能もあったのかもしれない。

 明から暗ヘと入りまた明へ、かと思えばまた暗か。今日は目が疲れる一日になりそうだ。

 私はその部屋へと入り、すぐに障子を閉めた。これも理由は特にはない、ただなんとなくそうしなければいけないように思えたためだ。そもそも人の行動に明確な理由などないのかもしれない。

 どうすればいいかわからず、ただ立っている。

「貴方の前に座布団があります。お座り下さいな」と正面の闇からそう声を掛けられた。

 その声に従うべきか、恐る恐る身を屈めて手を動かして探してみると、すぐになにかが手に触れた。なにか、と言っても座布団なのだろうけど。思わず手を引っ込めてしまう。

 暗闇、ただ無しかないという空間は人の恐怖心を増長させるようだ。

 すると左から圧し殺すような笑い声、きっとの控え室で聞こえたものと同じだろう。なにかを言おうにも相手が見えないからどうしようもない。

 なんとか座ることはできた。ただ、これだけでもひどく疲れてしまった。

 その後三十秒か一分、もしかしたら五分いや十分かもしれないが、無言が続いた。闇は時間の感覚をも失わせるようだ。


 じっと座って待っていると、いきなり部屋の中央に蝋燭が灯された。頼りない灯りではあるけれど、ほんの少し部屋が見えてくるようになった。

 部屋を見渡す。どうやら長方形の形のように見える。入り口がある面とその対面が長く、それ以外の二面がやや短い長方形。入り口以外の面は壁のようだ。

 どうやらこの部屋には私を除いて、三人の人がいるようだ。いや、もしかしたら、角のあたりに人が隠れているかもしれない、見えるのは三人。

 右手側、正面、左手側に一人づつ配置されている。靴からも判断できるように、全員が女性のようだ。

 まず右手側にいるのは、黄色の着物を着た女性。二十代前半あたりか。

 そちらを見たら彼女は座ったまま無言で深く頭を下げた、髪が長いことがわかった。私も同じように頭を下げる。

 もしかすると私以外の三人は、長い間此処にいるのかもしれない。既に目が暗闇に対して慣れているようだ。

 次に正面の、座布団を勧めてくれた女性。首元にフリルの付いた赤いドレスを着ている。きっと蝋燭に火を着けたのも彼女だろう、此処のリーダー的な存在かもしれない。年は三十ちょっと、といったところだと思う。

 彼女は右手を胸の前にかざした。なんの意味かは不明だが、私も同じポーズをとる。

 そして私を笑った、左側の女を見る……、あまり関係を持ちたくないタイプ。

 彼女は黒を基調とした服を着ている。その服はまるでバンギャル……いや、いまはゴスロリと言ったほうが良いのか。とにかくそんな格好をしていた。この部屋に犯行しているかのような姿。

 メイクも派手で素顔は見えないが、年齢は十代後半か二十ぐらいか。

 彼女は私を見て頭の横に右手を上げ、「チャオ」と言って指をひらひらと動かした。電波を送っているのかもしれない。

 これだけは真似したくなかった、代わりに会釈しておく。左手にはテディベアがあった。

「貴方が代理の方?」

 ドレスの女性が言った。

「あのメガネの代理ね」

 これはゴスロリ。メガネとは上司のことか。

「駄目ですよ、そんなことを言っては」

 そして着物の女性。

 この一連の流れで、だいたいの役割というものがわかった。

 進行役がドレスの女性、茶々を入れるのがゴスロリ、それを嗜める着物の女性といったところだろう。


 そうだ、ぼんやりとしていた。まず自己紹介をしなくては。そう思い「私は、」と言ったところで、ドレスの女性に制された。

「私は貴方がどんな名前を持ってるか、なんてことには興味ありません」

 いきなりこの展開は予想していなかった。なにか粗相でもしたのだろうか思い、戸惑っていると。

「あの、勘違いしないで下さいね。名前自体には興味がないということで、貴方自身に興味がないわけじゃないですからね。あと先入観を持たせない、というのもあるようですけど」

 と、着物の女性が付け足した。

 ……なんとなく、その考えはわからないでもない。貰った名刺の数(顔を思い出せない人数)を自慢している同僚に馬鹿らしさを感じたこともある。きっとこれもその延長なのかもしれない。

 あとで聞いたところによると、三人もまたお互いの名前や年齢そして住所を知らないとのことだった

 

 これからの記述は主に衣装のみで表現することにする。性別は全員が女性なのだから、わざわざ入れる必要もあるまい。


 先入観をなくすとはどういうことだろう、あまりぴんとは来なかった。

ただ、もしかすると暗闇というのもその為にしているのかもしれない。服装でプラマイゼロな気もするけれど。

 あとさっきの特徴にドレスは「高慢」、着物は「サポート役」というのを付加しておこう。


「ねぇ、早く始めないの?」とゴスロリ。

「……そうね、そろそろ始めましょうか」とドレスが言って、二回手を叩く。「準備はできていて?」

「はい、いますぐに」部屋の向こうから、さっきの彼の声がした。

 正面の壁の下部が開いた、隠し戸なのだろうか。そこから盆に載せられたなにかが入り、またそれは閉められた。

 ドレスがそのなにかを配る、見ればお茶とお茶菓子であった。

 向こうの部屋は茶室なのかもしれない。彼が点てたのだろうか。

 ドレスと彼の関係はなんなのだろうか、知ることが増えるたびに不思議なことも出てくる。

 茶碗は文様から見るに織部焼き? いや唐津焼かもしれない。あまりその方面の知識はないため。はっきりしたことはわからない。

 茶碗は茶碗だ。

 次にお茶菓子の皿を手元に引き寄せる。

 思わず目を瞠ってしまう。

 そこにあったのは透明な立方体。

 異様なもの。

 その中心には、赤いなにか。

 きっと水槽の中の金魚のイメージだろう。

 静止した金魚。止まっていても生きているように見える。 

 たしか青楓、という名前だったか。

 いや、名前なんてどうでもいい。今、見えるものがすべて。

 皿の色も、闇とは違う黒。そのためか、まるで「それ」は浮いているようにも見えた。

 普段の状況でなら清涼さ、とでもいったものを感じたことだろう。

 ただ此処は違う、

 此処は暗闇のなか。

 皆が無言、

 音を失った世界。

 

 その空間で見る、「それ」は恐怖であった。

 しかしまた「それ」は美でもあった。

 思わず息を飲む、思わず躰が強張る。

 視線を感じた。

「どうぞ、お召し上がり下さい」闇の中から声がする。

 食べなくては、

 食べる?

「それ」を?

 食べられるとは到底思えなかった。

 手が自然と、皿に備え付けられた黒文字を持っていた。

 ゆっくりと「それ」へと押し当てる。

 ほんの少し弾力があるようだ、歪んだ形になる。

 恐怖と美とが極まった瞬間。

 駄目、

 いけない、

 壊してはいけない。怒られてしまう。

 ……いったい誰に?

 嫌な記憶。

 ……本当にあったことなのだろうか。作ってはいないだろうか。

 不安になる。

 すべてに。


 ぬっ、と黒文字が「それ」へと入っていく。

 思考が停止する。ただ見るだけ、人事のように。

 ……「それ」に対して、なにも感じなくなった。

 それはただの物になった。

 すっ、と力が抜けていく。

 落ち着け、ただお茶菓子を食べるだけだ。

 口へと入れる。

 噛み砕く。

 ほんの少し甘みが広がる。

 もう恐怖はない、おそらくは。

 次はお茶を飲む。

 それでいい、焦らなくていい。

 しかし、お茶を戴くなんて高校のとき以来だ。作法はどうだったか、右手で持つべきか、左手で持つべきか、それすら覚えていない。

 見ると私以外の三人は自然とできているようだ、ゴスロリでさえできている。その姿でお茶を飲む姿はどこかおかしく思えたけれど。

 横目で着物を見る。すると彼女も一瞬私を見た。その後の動作は気付くか気付かないかほどではあるけれど、ゆっくりになったような気がする。

 彼女も案外、侮れないのかもしれない。


「お茶とお菓子も来たことですし、始めましょうか」ドレスが言う。

 なにを始めるのだろうか……会議じゃないか、此処に来た目的すらも忘れていた。

「あ、見ていればだいたいのことはわかりますから、心配しなくても大丈夫ですよ」と着物。やはり侮れはできないようだ。

 ドレスが宣言するかのように告げる

「では、会議を始めましょう」

 


 彼女たちはいったいなにを話しているのだろうか、よくわからない。

 それは内容が高校生の会話のように非論理的でわけがわからない、ということではない。むしろ逆、非常に論理的だと思う。

 ではなにがわからないのか。

 それは会話の主題がどんどん飛躍していくことだ。語弊があるかもしれないので付け加えるが出鱈目な飛躍というわけではない。飛躍の理由は必ずあるはず、ただ私に理解できるかは別問題だ。

 最初は政治の話から入り(この時点で私は面を食らってしまい、会話には加わっていない)次にはクラシックを通り絵画(特にダダイズム及びシュルレアリズムが表現しようとした世界について)、そして文芸論(ドレスの息子が小説家らしい)その次になぜか神社にある狛犬の話をして(このとき、着物がドレスになにかを頼んでいたがよく覚えていない)、また政治の話へと戻っていった。


 ただ、その話題の飛躍よりも恐ろしかったのは、彼女らがどの話題に対しても、語る際にはちゃんと自分なりの意見を持っていたことである。ゴスロリでさえ持っていた。

 得意ではない分野もあるのだと思う。そこではあまり口出しはしないことで苦手な分野だとわかる、ただそれでも私の知識を上回っていたと思えた。

 私にはただ、思うことしかできなかった。わからないことしかわからない。

 そこで交わされた議論は、テレビで行われているようなショウ的なものとは違う、生きている議論とも言えるものである。

 その話について詳しく描写するのは控えるが、政治の場合ならどちらの手で茶碗を持つのが正しいのか、そんな話。

 語源や発生起源まで遡り、それから現代日本の状況について語られていた。

 

 自分の意見であろうと誤りだとわかれば、すぐさま撤回して相手の意見に賛同もするが、一度矛盾が生じればそこをとことん追求していく。

 年功序列というものもそこにはない。全員が対等な立場にあるようだ。

 また議論の仕方も大声で怒鳴り散らし、威圧するのではない。静かに落ち着いて、論理性を最重視しながら議論は交わされていた。

 まるで人生の答えを見つけ出そうかとするかのように見えた。


 描写すれば以上のようになるのだが、私に理解力と文才が足りないせいだろう、実際にはこんなものでは納まりはしない。

 きっと体験することがなければ、この目で見なければ理解することはできない。……いや見ても完全には理解することもできないのかもしれない。ただそう言うことしかできなかった。

 彼女たちはいったい何者なのだろう。同じ人間だとは到底思えない。

 

 いまは議論を一時中断している。顔にこそ出さないが、疲れているのは間違いないと思う。聞いているだけの私でも疲れたのだから。


 するとゴスロリがぽつりと呟くように、ある話を始めた。

 この会に招かれたことを、私の第一の転回点とするなら、それは第二の転回点ともいえる。そんな話。



「そうだ、ちょっと聞いてほしい話があるんだけど」

 聞いてほしくない話なんて……同僚に一人いる。

「……なに?」

 疲れているのかドレスが素っ気ない返事をする。

「……まぁいいわ、この前ね。出勤前、東京駅のホームで電車を待ってたときのことなんだけど」

 ゴスロリを雇ってくれる会社なんてあるのだろうか。

 するとゴスロリがいきなり私を見て「人がなに考えてるかなんて、見ればわかるからね」と憤る。

 もしかすると彼女ならば本当に心を読めるのでないかとさえ思う。

「ええと、それでちょっと待つ時間があって、本でも読んだりなんかして待ってたら、白人の、たぶん観光客かしらね、あ、あと男ね。そいつが路線図を見ながら、片言の日本語で、近くの人になにか尋ねてたの」

 ゴスロリはもしかしたら、男が嫌いなのかもしれない。

「別にそうじゃないけど。で、その内容なんだけど、ああ立ち聞きしたわけじゃないからね、自然に聞こえただけ。……それが『ミルフィーユはどこか』ってことだったの」

「ミルフィーユ?」

 着物が尋ねる。

「うんミルフィーユ、あの何層にもなってるケーキね、その『ミルフィーユはどこか』ってフレーズが気になったから最後まで聞こうかと思ったの。だけどちょうどクライアントから電話があって、しぶしぶ電話を取るために静かなところへ移ったの。で、急いで終えて戻ったんだけど、もうそこにはいなかった。 そう言って両手を顔の近くで外側に曲げ、上と掲げるポーズをとる。天井の木目にでも手相を見て欲しいのだろうか。あまり若者がしないような……。ひょっとするとゴスロリと私は同年代なのかもしれない。

「あらあら」

 とまたもや着物。あらあらって、あらあら。

 ドレスはただ静かに聞いていた。

「それで結局わからずじまい、そしたらもう駄目。『ミルフィーユはどこか』ってフレーズが頭に残っちゃって、気になってしょうがないの。ね、貴方達これわかる?」


「そんな深く考えなくても、喫茶店とかじゃないの? 」

 ドレスが呟く。

「喫茶店なら、珈琲か紅茶じゃない? わざわざミルフィーユなんて表現しないと思う」

 ゴスロリが反論。

「じゃあケーキ屋」

「喫茶店でもケーキ屋でもなんでもいいけどさ、場所も考えてよ? 駅のホームで路線図を見て、わざわざ訊くことだとは思わない」

 うう、とドレスが唸る。

 

「あっ、はい」

 着物が挙手。もしかすると大学生なのだろうか?

「はいどうぞ」

 非常勤講師のゴスロリがように指名。

「スカイツリーじゃないかしら?」

「スカイツリー? 東京の? なんでまた」

「ほら、ミルフィーユってさっきも言っていたけど何層にも重なっているじゃない? それを、工事を繰り返して少しずつ伸びて行ったスカイツリーに例えてるんじゃないかと思ったんだけれど、違うかしら」

「うーん、論理はわからなくもないけれど、それはちょっと穿ち過ぎじゃない?」

「私もちょっとそれは深読みし過ぎかと思うわ。あ、それだとミルクレープでも、あとバウムクーヘンでもいいわよね」

 ドレスもゴスロリへと同意を示した。

 ただバウムクーヘンに関しては少し疑問があった。それはむしろ地球のようではないだろうか。


 三人はじっと悩んでいた、出題者のゴスロリもなぜか頭をかかえている。私はそれをただ見ていた。

 するとまた、ゴスロリと視線があった。

「ずっと黙りっぱなしだけど、貴方はなにか浮かばないの?」

 おっと私の番か。

「うーん、すみません。スカイツリーのように上手いのは思いつかないですね」 

「あのね、上手いかどうかなんて訊いてないの。……なにかわかったような言い方ね」

 と言って、苦笑い。

「まぁ、答えはたぶん出てるんですけど、もっと上手いのがありそうで」

「……え?」

 ゴスロリが乗り出すようにして私を見る。

「え?」

 それに驚いて声がうわずってしまう。

「いや、答え……わかったの?」

 ゴスロリが大きく目を見開き、そう言った。 

 そういえばよく見えてきた。やっと暗闇に目が慣れてきたようだ。

 部屋を見渡すと他の二人も私を見ていた。たしかにこの二人には洋菓子についての知識はあまりなさそうに思えた。

「一応訊きますけれど、貴方はわかってますよね?」

 恐る恐るゴスロリに尋ねる。

「わかってたら訊くわけないじゃない!」

 もしかして、ひょっとしてこの中で私だけしかわかっていないのだろうか。

 こんなにも単純なことなのに。


「じゃあ、早く答えを……いや待って、なんか悔しい。ヒント、ヒント頂戴、考えさせて」

 だんだんとゴスロリの本性が見えてくる。

「私のも絶対に正しいかはわからないですけど、ヒントですか……ちょっと考え方を変えればすぐですね」

 そう言うや否や、ゴスロリがこっちを睨むように見てきた。からかうのはやめておこう。 

 大人しくヒントを考えていると、さっきの議論を思い出した。

「さっきの議論でもちょっと出てましたが、語源ですね」

 ゴスロリが小さく呟く「語源、ミルフィー……」

 そこで、はっと顔を上げる、ようやく気付いたらしい。

「ああもう畜生! ホントに単純なことじゃない、なんですぐにわからないのよ!」

 ぶんぶんとテディベアを振り回す。あまり愛情はないようだ。

「ミルフィーユの語源? 貴方ご存知?」

「いえ、存じ上げません」

 ドレスと着物はやはり知らないようだ。説明しようかと思ったが、ゴスロリのほうが早かった。どこか投げやりになってはいたけれど。

「ミルフィーユ、ミルとフイユ、もともとはフランス語。ミルは千、フイユは葉の意味。……もうわかるでしょ」

 そこまで聞けば二人も合点が行ったようだ。

 考えないのも駄目だが、難しく考えすぎるのもいけないようだ。

 ゴスロリがちらりと私を見た、これで三度目。最後は自分で決めろということか。

 ほぼ答えは出ているようなものだが、話に決着はきちんと付けなくてはいけない。

「そう、彼はきっと千葉に行きたかったのです」



 この一件で、三人との溝は縮まったような気がする。ただ溝が縮まったからといって議論に参加できるというわけではない。

 私はまた聞くことに徹した。それだけでも十分楽しめたけれど。

 午後三時、外から鐘の音が鳴り響く。

「では、お開きといたしましょうか」

 鐘の音が終わりの合図らしい。

 一人ずつ退出していく、ゴスロリ、着物、次に私。

 きっと来る時もまた一人ずつだったのだろう。

 退出の前に、私はもう一度部屋を見渡した。

 私は代理に過ぎない、おそらく此処には二度と来ることはないだろうから。

 それを見て

 「また、いらっしゃいな」

 とドレスが声を掛けた。きっとお世辞だろう。

 「はい、そのときはまたよろしくお願いします」

 と私もお決まりの返事をした。


 彼女はわざわざ外廊下まで見送りに来てくれた。

 私は深く頭を下げて、お礼をする。

 ただ頭を下げる前の、そのほんの一瞬なのだけど、彼女がにやりと笑ったように見えた。


 帰りは文字通りに行きの逆。

 彼に連れられてタクシーが停まっているところまで行き、タクシーへと乗り込む。

 運転手は行きと同じ人。

 彼らはあまり喋らないようだ。自分を人形だと思っているのかもしれない。

 その車内でまた眠りについた。

 そしてマンションに着き、降りる。

 日常の世界。

 日常から非日常へ慣れるのには時間が掛かるけれど、非日常から日常へはあっという間に飲み込まれてしまう。

 もとの生活に戻っただけなのに、どこか虚しさがあった。

 その後はずっとソファに腰掛けていて、いつのまにやらまた眠りに落ち、一日を終えた。


 休み明けの月曜日。

 またもあのメガネ……もとい上司に声を掛けられた。良くない予感。

「え。転勤、ですか?」

「そう。またあとでみんなには言うけどね。先週、急に辞令が来たの、上の都合かしら……誕生日に、今よりもっと良い部屋に引っ越す機会をを与えてくれるなんて、本当に嬉しい」

 微笑みを浮かべるが、眼鏡の向こうの目は笑ってはない。思わず竦んでしまう。

「……なんでまた私に言うのか、って顔ね。そうそう土曜の会議はありがとうね」

 やはり、その関係か。

「言い忘れていたけれど、あの会議、白後家蜘蛛の会っていう名前なの。昔のミステリ小説から取ったらしんだけどね、黒に対して白、安着なネーミングでしょ、誰が付けたのかしら」

 本屋で目にしたことがある。作者の名前からSF かと思って、手にはしなかったけれど。一度読んでみようか。

 

「今思えば、私たちには縁起でもない名前ね。あと、そこにはちょっとした規則があるの」

 さっきの予感は正解か。むしろ予想したからそうなったのかもしれない。

「規則?」

「そう規則。一つ目が会員の個人情報を知ろうとしないこと。二つ目が自分にとって、恥ずかしくない服を着ていくこと」

 するとゴスロリは規則違反ではないだろうか、いや恥ずかしさを感じていないからこそ着れるのか。

「そして」

「……そして?」

「脱会のときには代わりの人を用意すること。尚、本人の同意も必要」

「……。」

「もう同意は貰った、と連絡があったわ。そうそう貴方のデスクにも貼ってあったわね、『一度発した言葉はもとには戻らない』」

 観念するしかないようだ。

「……ここまで見越して、ですか?」

「さぁ、どうでしょう?」

 両肘をデスクに置き、両手は顔にあて、微笑んだ。

 ただ今度は彼女の本当の笑顔で。


 最初は騙されたという感じがしたが、嫌だという感じはしなかった。

 むしろなぜか嬉しさ、なのだろうかそんなものがこみ上げてきた。

 また彼女たちと会えることができる。

 またあの非日常の世界に行くことができる。

 それが言いようもなく嬉しかった。



「ところで、どこへ転勤ですか?」

 そう訊くと彼女はデスクに置かれていた紙箱を持って、

「そうそう、お礼に買ってきたんだけどミルフィーユ食べる?」


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